第45話 漏れた水を塞いでも、行き先は消えません
第二共同井戸の横では、以前から地面へ水がにじみ出ていました。
管理者は石工を呼び、見えていた隙間を新しい石で塞ぎました。
表面の水漏れは止まりましたが、水そのものが消えたわけではありません。
行き場を失った便壺洗浄水は、地面の中で別の流れを作っていました。
王都南区の朝は、暗いうちから始まる。
荷車の車輪。
共同炊事場で薪を割る音。
水壺を抱えて配給所へ並ぶ住民。
そして、第二共同井戸の前に立つ水務局職員たち。
井戸は使用停止中だった。
蓋には赤い封印。
隣の便壺洗い場にも、使用禁止の縄が張られている。
「補修石は、この二枚です」
調査協力者のセラが、色の違う石を指した。
周囲の石は、長年の汚れで灰黒色。
その中に、比較的新しい薄茶色の石が二枚だけ埋め込まれている。
「去年、地面へ水が出た場所を塞いだそうです」
水務局書記官のフィルが記録を読む。
「工事をした石工は?」
「呼んであります」
地方監査官エルンが答えた。
しばらくして、腰の曲がった年配の石工が現れた。
名はベッザ。
手には、使い込まれた小槌と鉄のへら。
「私が直した」
ベッザは石を見るなり言った。
「井戸の水が、こちらへ漏れていると聞いた」
「誰からですか」
陶山直人が尋ねる。
「井戸管理人のクラウだ」
「便壺洗い場の水が、井戸側へ流れている可能性は考えましたか」
「井戸の水が外へ出ていると言われた」
「水の向きを確かめましたか」
「地面から出ていたのだぞ。井戸が一番近い」
「洗い場も、同じくらい近いです」
ベッザは不機嫌そうに直人を見た。
「私は石工だ。水務官ではない」
「責めているわけではありません」
「そう聞こえる」
「作業時の状態を知りたいんです」
セラが間へ入った。
「水の色は?」
「透明に近かった」
「臭いは?」
「少し嫌な臭いがした」
「便所のような?」
「南区の地面は、どこでも臭う」
「出る時間は決まっていましたか」
ベッザは少し考えた。
「朝が多かった」
「井戸利用が多い時間ですね」
フィルが言う。
「便壺を洗う時間でもあります」
直人が付け加えた。
どちらが原因だったのか。
当時の記録はない。
「石を外す前に、支えを作ります」
直人が言った。
「井戸の土台を崩すなよ」
井戸管理人クラウが、少し離れた場所から声を上げる。
「新しい石は、井戸本体を支えていますか」
ベッザが首を振った。
「隙間を塞いだだけだ。上の荷重は古い石が持っている」
「それでも一枚ずつ外します」
◇
作業場所の周囲へ木枠を組む。
もし土が崩れても、作業員の足元へ広がらないようにする。
汚水を受ける浅い桶。
採水瓶。
白い確認布。
土を分けて入れる容器。
「石を外した瞬間、水が出る可能性があります」
直人が全員へ説明した。
「顔を近づけない。素手で触れない。水が多い場合は、すぐ木板で仮閉鎖します」
「井戸へ入ったら?」
クラウが尋ねる。
「井戸側の水位と内壁を同時に確認します」
「井戸の中へ誰か下りるのか」
「下りません。鏡と採水器を使います」
直人は作業前の状態を記録した。
補修石周辺。
表面は乾燥。
井戸内水位。
昨日から大きな変化なし。
洗い場側の地面。
わずかに湿り。
「一枚目を外します」
ベッザが目地へ鉄へらを入れた。
少しずつ削る。
石を手前へ動かす。
隙間ができた瞬間。
黒い水が、細く流れ出した。
「受け桶!」
フィルが桶を差し込む。
水は一気に噴き出すほどではない。
だが、止まらない。
「色を記録」
セラが白布へ一滴取る。
薄い茶色。
縁に灰色。
「臭いは?」
「便壺洗浄場に近いです」
エルンが答える。
「井戸水ではない?」
「見た目だけでは決めません」
直人は採水瓶を三本用意した。
最初の水。
少し流した後。
奥の土からにじむ水。
「石の裏を見てください」
ベッザが外した石を裏返す。
表側は薄茶色。
裏側は黒く変色していた。
目地材の一部も柔らかい。
「去年、取り付けた石ですよね」
「そうだ」
「一年で、ここまで染みた?」
「水が当たり続ければな」
石を塞いだ後も、その裏側には汚水が流れ続けていた。
◇
二枚目を外す。
その奥には、石積みではなく土が見えた。
土の一部は空洞になっている。
「ここが元の水の出口ですか」
フィルが尋ねる。
「そのようです」
直人は細い棒を水平に入れた。
洗い場方向へ進む。
指十本分。
さらに奥。
途中で下へ落ちる。
「空洞が続いています」
「穴を広げる?」
クラウが言う。
「一度に広げません」
「なぜだ」
「上の洗い場が沈む可能性があります」
セラが洗い場側へ回る。
「こちらの石床に、細い割れがあります」
便壺洗い場の端。
地面から水が出ていた場所の真上ではない。
少し離れた排水溝側。
石と石の間に、髪の毛ほどの亀裂。
「去年の補修後にできたのでしょうか」
「前からあったかもしれん」
ベッザが答える。
「補修前の写真や図は?」
フィルが首を振る。
「ありません」
「では、現在位置だけ正確に残します」
直人は測定線を引いた。
洗い場。
補修石。
井戸外壁。
割れ。
地面の傾斜。
「洗い場から試験水を流せますか」
エルンが尋ねる。
「飲用井戸へ近い場所です」
「無害な水だけでも?」
「現在の経路を変える可能性があります」
「では、どう確認する」
「洗い場の石を一部外し、下の湿りを直接見ます」
クラウが声を上げた。
「洗い場まで壊すのか!」
「使用停止中です」
「直せば、また使う場所だ」
「飲用井戸の横では再開しません」
直人は、はっきり答えた。
「ここを直しても、便壺洗浄場としては使えません」
「では、この設備は無駄になる?」
「井戸専用の水汲み場へ戻せます」
「洗い場へ金をかけたのは私だ」
「井戸を守る改修へ使える部分は残します」
「勝手に用途を変えるな」
エルンが前へ出た。
「井戸周辺の汚染防止は、水務局の管轄です」
「私は利用料を払い、管理している」
「だからこそ、安全な状態へ戻す責任があります」
◇
洗い場の端の石が、二枚だけ外された。
下の土は黒い。
棒を差すまでもなく、湿っている。
「洗浄水が、この割れから下へ入っていた」
フィルが言う。
「補修前は、どちらへ出ていましたか」
直人が土の層を見る。
上の湿った層。
中央に小石。
その下に、細い空洞。
「最初は補修石の位置から、地上へ出ていた可能性があります」
セラが言った。
「石で塞がれた後、水は下へ回った」
「井戸の外壁へ沿って?」
「はい」
井戸の石積み外側には、工事時に詰めた細かな砂利層がある。
地面の水を逃がすための層。
本来は、井戸の壁へ水圧がかからないようにするものだった。
「排水用の砂利が、汚水の通り道になった?」
フィルが尋ねる。
「可能性が高いです」
「安全のための構造が?」
「流れ込む水が清潔なら問題ありません」
「便壺洗浄水を近くへ流したことが問題?」
「はい」
洗浄場から漏れた汚水。
地上へにじむ。
見える水を石で塞ぐ。
行き場を失った水が下へ回る。
井戸外側の砂利層へ入る。
井戸壁の傷んだ目地から内部へ。
「塞いだ石そのものが、井戸を汚したのですか」
クラウが尋ねた。
「石だけが原因ではありません」
直人は答えた。
「元は洗浄水を井戸のそばへ流していたこと。漏れの向きを確認せず塞いだこと。井戸外壁の点検をしなかったこと。それらが重なっています」
「誰の責任になる」
クラウの質問に、直人はすぐ答えなかった。
「今日は、経路を確認しています」
「また責任は後か」
「見える水を止めただけで、安全になったと判断した管理上の問題はあります」
エルンが言った。
「井戸管理者、洗い場管理者、無届け補修を把握しなかった水務局。それぞれを調べます」
「石工は?」
ベッザが自分から尋ねた。
「依頼された隙間を塞ぎました」
セラが言う。
「ただし、臭いのある水を井戸水と決めつけた点は、今後の改善対象です」
「水工事の依頼は、水務局へ知らせろということか」
「飲用井戸の周囲なら、はい」
「仕事が遅くなる」
「地下へ汚水を回すよりは安全です」
ベッザは小さく唸った。
「次から報告する」
◇
井戸内壁の確認が始まった。
角度付き鏡。
灯り。
長い棒の先に付けた白布。
補修石と同じ高さ。
内壁へ布を当てる。
引き上げる。
「少し茶色いです」
フィルが言う。
「目地が柔らかくなっています」
「外側から水が入っている?」
「可能性があります」
さらに下。
変色なし。
上。
薄い膜。
「汚染は、上部からの流入が中心です」
直人が言った。
「井戸全体を埋めなくても直せますか」
クラウが尋ねる。
「外側の汚れた土を除去し、洗い場の排水を完全に切り離す。井戸外壁の目地を補修。井戸水を入れ替え、複数回検査」
「何日?」
「少なくとも七日以上」
「そんなに?」
「外側の土が乾く時間も必要です」
「乾くまで待つ?」
「湿ったまま新しい目地材を入れると、定着しにくい」
ベッザが答えた。
「今度は私がやる」
「届け出を出してください」
エルンが言う。
「分かっておる」
◇
補修石の奥から流れ出る水は、受け桶へ集められた。
一刻で、小桶一杯ほど。
「洗浄場を昨日止めたのに、まだ出ます」
フィルが驚く。
「土の中に残っていた水です」
「何日分?」
「地面の空洞の大きさ次第です」
直人は流量記録を始めた。
一刻目。
小桶一杯。
二刻目。
四分の三。
三刻目。
半分。
「減っています」
「洗浄停止の効果が出ている可能性があります」
「完全に止まれば、経路が確定?」
「強い根拠になります。ただし、雨水の影響もあります」
「今夜は雨の予報です」
エルンが空を見る。
「雨の前後で流量を比べます」
もし雨で増えれば、地表水も入っている。
洗浄水だけなら、時間とともに減る。
「雨が降るまで、穴を開けたまま?」
「保護箱を付けます」
流出部へ透明な板はない。
代わりに、目盛り付きの細い樋と蓋を付ける。
水は密閉桶へ流す。
周囲へ触れない。
「住民が外したら?」
「封印します」
「井戸の横に、また設備が増えた」
クラウが言う。
「一時調査用です」
「全部一時と言いながら、何日も残る」
「撤去条件を書きます」
流量が一定以下。
雨後の確認完了。
井戸外壁補修開始。
条件が明確なら、置きっぱなしになりにくい。
◇
一方。
セラとフィルは、王都南区の第四便所へ向かっていた。
第四便所は、七棟の共同住宅群から最も離れている。
古い倉庫と城壁の間。
周囲には、廃材置き場と家畜小屋。
昼でも人通りは少ない。
「ここですか」
フィルが立ち止まる。
便所と呼ばれている建物は、木板を継ぎ合わせた小屋だった。
入口は一つ。
男女別の表示なし。
扉の上半分が割れ、布で覆われている。
「料金箱がありません」
「第四便所は無料だと聞いています」
「だから遠くても使う人がいる?」
「払えない住民が来ます」
入口横には、十人ほどの列。
高齢者。
子ども。
仕事着の男性。
女性もいる。
「個室はいくつですか」
フィルが並んでいる住民へ尋ねた。
「一つだ」
「中に穴が三つある」
別の住民が答える。
「一室の中に三穴?」
「仕切りは?」
「ない」
セラの表情が変わる。
「男女が一緒に入るのですか」
「知らない者同士では入らない」
「では実質一組ずつ?」
「家族か、男同士なら三人入ることもある」
穴は三つ。
だが、プライバシーがないため、利用能力は三倍ではない。
「扉の鍵は?」
「内側の縄」
「切れたことは?」
「何度もある」
「管理者は?」
住民たちが顔を見合わせる。
「いない」
「所有者は?」
「昔、倉庫主が作った」
「今は?」
「倉庫主は死んだ」
「土地所有者は?」
「分からない」
四つの共同便所のうち一つは、料金が無料。
その代わり、管理者も所有者も不明だった。
◇
セラは建物へ入らず、外側を一周した。
北壁。
板が腐食。
西側。
地面が盛り上がっている。
南側。
排泄物らしい汚れ。
東側。
溜め槽の汲み取り口と思われる蓋。
「蓋が開いています」
フィルが近づこうとする。
「止まってください」
セラが腕を出した。
蓋の周囲に、細かな足跡。
子どものもの。
家畜のもの。
落下防止の柵はない。
「誰でも近づけます」
「汲み取りは?」
住民の一人が答えた。
「満杯になると、誰かが組合を呼ぶ」
「料金は誰が払う?」
「皆で集める」
「払わない人は?」
「便所は使う」
「不足したら?」
「汲み取りが遅れる」
「最後に汲み取ったのは?」
「春の初め」
今は初夏。
「三か月近く?」
「もっとかもしれない」
「中身の高さを確認する必要があります」
フィルが言った。
「ナオトさんの合流まで、構造調査はしません」
セラは約束を守った。
「ただし、開いた蓋は今すぐ囲います」
「管理者の許可は?」
「落下防止の緊急措置です」
水務局の権限で、木柵と赤札が設置された。
◇
列に並ぶ女性へ、セラが尋ねた。
「この便所で怖いことはありますか」
「全部よ」
女性は即答した。
「扉に穴。仕切りなし。夜は灯りなし」
「それでも使う?」
「無料だから」
「第一便所は?」
「子どもと二人で二枚取られる」
「第二は?」
「男から見える」
「第三は?」
「酔っ払いが多い」
「第四しかない?」
「我慢できる時は、川向こうの公衆便所まで行く」
「夜は?」
「ここか、部屋の壺」
「便壺を洗う場所は?」
「第二共同井戸だった」
「昨日から止まりました」
「知っている。だから今朝、川で洗った」
フィルが顔を上げる。
「川のどこですか」
「洗濯場より下流」
「排泄物が残っていても?」
「部屋へ戻せないでしょう」
仮洗浄場所は、南区支所に一か所。
第四便所周辺の住民にとっては遠い。
「洗浄場まで、どのくらいかかりますか」
「歩いて四分の一刻以上」
「便壺を持って?」
「重いし、臭う」
設備を一か所作っても、距離が遠ければ使われない。
「支所の洗浄場を利用していますか」
「仕事へ行く道と反対だから、使わない」
「無料でも?」
「時間がない」
費用だけではない。
距離と時間も、利用を妨げる。
◇
セラは第四便所の聞き取りを続けた。
一日の利用者。
分からない。
清掃。
住民が時々水を撒く。
手洗い。
なし。
汲み取り。
満杯が見えてから。
利用停止札。
なし。
鍵の故障。
住民が縄を交換。
床修理。
壊れた板の上へ別の板を載せる。
「それは危険です」
フィルが思わず言った。
「ほかに誰が直すの」
住民が答える。
「水務局へ連絡は?」
「無料便所の修理までしてくれるの?」
フィルは答えられなかった。
現在の制度では、私有便所。
だが所有者不明。
公衆便所として正式登録もされていない。
「誰の便所でもないから、誰でも使える」
セラが言った。
「でも、誰も管理しない」
無料であることの裏側に、責任者不在があった。
◇
昼過ぎ。
直人とエルンが第四便所へ合流した。
「外周調査と聞き取りだけ行いました」
セラが報告する。
「内部へは?」
「入っていません」
「ありがとうございます」
「褒められるほどですか」
「床の状態が分かりません」
「それを聞いても、入らなかった私を褒めてください」
「正しい判断です」
「ナオトさんに言われると、少し変な感じですね」
直人は入口から内部を見る。
暗い。
床へ三つの穴。
仕切りなし。
一番奥の床板に、別の板が重ねられている。
革工房の事故と同じ応急対応。
「利用者を外へ出します」
「今、使っている人がいます」
扉を叩く。
返事。
利用終了を待つ。
全員が出た後、赤い調査札を掛ける。
「止めるのですか」
列から不安の声が上がる。
「床を確認する間だけです」
「代わりは?」
「まだ用意できていません」
「また、先に止めるの?」
直人は言葉に詰まった。
井戸洗い場の朝と同じ。
代替を作る前に止めれば、住民は路地や川へ向かう。
「外から確認し、危険が高い場合だけ全面停止にします」
「中へ入らず分かる?」
「長い棒を使います」
入口から床を叩く。
手前。
こん。
中央。
ぼす。
奥の重ね板。
鈍い音。
「奥側は危険です」
「三穴のうち、手前だけ使う?」
フィルが尋ねる。
「同じ床と梁かもしれません」
「便所全体を止める?」
列には、すでに十五人。
子どもが泣いている。
「仮設便所を手配します」
ハイルへ使者。
祝祭用備蓄は、使用可能な四台のうち一台を第一便所へ設置済み。
残り三台。
第二、第三便所も未調査。
「第四へ何台必要ですか」
エルンが尋ねる。
「少なくとも二台」
「残り一台で第二と第三を支える?」
「調査してからです」
「到着まで一刻以上」
住民が待てない。
「全面停止ではなく、入室一人。奥へ立ち入らない条件で暫定利用できませんか」
直人は床構造を見た。
入口近くの手前穴。
打音は比較的良い。
だが、奥の板を踏まずに利用できるか。
室内に仕切りがなく、足元も暗い。
「誘導員が必要です」
「誰がやる?」
住民たちは黙る。
水務局職員を一人付ける。
手前穴のみ。
一人ずつ。
入口灯り。
奥側へ木柵。
「一刻だけの限定運用です」
「料金は?」
「第四は無料です」
「管理者がいないのに、水務局が管理する?」
「緊急措置として」
完全停止か、無条件継続か。
その間に、限定運用を作る。
◇
仮設便所が二台届いた。
一台は通常型。
一台は低型。
保管前点検が行われていなかったため、使用前検査をする。
座面。
固定。
蓋。
交換壺。
手すり。
通常型の扉金具が緩んでいた。
「また修理ですか」
フィルが言う。
「備蓄管理の問題です」
「第一便所の一台でも、革帯が切れていました」
「残りも同じ可能性があります」
仮設設備の保管台帳に、最終点検日がない。
「王都本局へ、全六台の再点検を命じてもらいます」
エルンが記録した。
金具を締める。
荷重試験。
合格。
第四便所の横へ設置。
手洗い槽も一つ。
「二台で足りますか」
住民が尋ねる。
「既存便所は全面停止します」
「三穴から二台へ減る?」
「実際には一組ずつ使っていたと聞いています」
「列は長くなる」
「利用回数を記録し、必要なら追加します」
「追加する便所がないでしょう」
「木製座位枠と交換壺を、南区の大工組合へ依頼します」
「いつできる?」
「早ければ明日」
「今日の夜は?」
「仮設二台と、部屋の便壺。便壺洗浄は支所の仮洗浄場」
「遠い」
セラが直人を見る。
「第四地区側にも、預かり場所が必要です」
「洗浄場を二つ作る?」
「洗浄そのものではなく、回収拠点です」
住民が朝、近くの回収台へ便壺を預ける。
荷車で支所の洗浄場へ運ぶ。
洗浄後、夕方に戻す。
「誰が運ぶ?」
「専用荷車と担当者が必要です」
「費用は?」
また同じ問い。
「緊急衛生費の三日間措置へ追加申請します」
正式制度ではない。
だが、距離を無視した設備は使われない。
◇
夕方。
第二共同井戸の調査流量が報告された。
補修石を外した直後。
一刻に小桶一杯。
昼。
半杯。
夕方。
四分の一。
「減っています」
フィルが言った。
「便壺洗浄停止によって、土中の残留水が減っていると考えられます」
直人が答える。
「今夜の雨で増えれば?」
「地表雨水の流入もある」
「増えなければ?」
「洗浄水経路の可能性がさらに高まります」
「井戸の修理を始められますか」
「雨後確認の後です」
「クラウさんは早く再開したいでしょうね」
「井戸利用料が止まっています」
「だから急かされる?」
「可能性があります」
安全確認を急ぐ理由に、住民の水だけでなく、管理者の収入もある。
「調査記録を、住民代表にも共有します」
エルンが言った。
「水務局と井戸管理者だけで再開を決めません」
「住民にも決定権を?」
「検査結果の確認権です。最終許可は水務局」
「透明にする?」
「調査を疑われないためです」
◇
第四便所の閉鎖記録もまとめられた。
三穴。
仕切りなし。
実質一組ずつ利用。
管理者不在。
所有者死亡。
土地権利不明。
清掃不定期。
手洗いなし。
床板重ね補修。
汲み取り三か月以上未確認。
汲み取り口開放。
子どもの落下危険。
「第一便所より、設備は悪い」
フィルが言う。
「でも無料です」
セラが答えた。
「第一は有料で、最低限の管理者がいる」
「第四は無料で、誰も責任を持たない」
「どちらが良いですか」
直人は答えなかった。
料金があるから、必ず安全ではない。
無料だから、必ず住民に優しいわけでもない。
「必要なのは、費用と責任者です」
「誰が払うかと、誰が見るか?」
「はい」
「第四の所有者が不明なら?」
「町が緊急管理者になり、権利関係を調べる必要があります」
「町の公衆便所にする?」
「正式取得か、管理委託か、撤去して別の場所へ新設か」
「調査班が決めることではない」
セラが言った。
「選択肢を出すところまでです」
「覚えています」
直人は少し不満そうに答えた。
◇
その夜。
予報どおり雨が降った。
最初は弱く。
やがて、王都の屋根を叩くほど強くなる。
直人たちは、第二共同井戸へ戻った。
流量確認樋。
密閉桶。
封印は無事。
「水が増えています」
フィルが目盛りを見る。
夕方は一刻に四分の一杯。
雨が強くなってから、半杯へ増加。
「雨水も経路へ入っています」
「洗浄水だけではなかった?」
「両方です」
洗い場の石床に降った雨。
周辺通路から流れる雨水。
それらが割れから地下へ入る。
「井戸周囲の地面の傾斜も直す必要があります」
「便壺洗い場を止めるだけでは不足?」
「はい」
「屋根を付ければ?」
「雨水量は減りますが、地面の傾斜が井戸側のままです」
「石床を作り直す?」
「井戸から外へ流れる傾斜にします」
「今の洗い場を、井戸専用の水汲み場へ変える時に?」
「はい」
直人は雨の中で、流れを見た。
地面へ落ちた水。
通路の泥。
屋根からの雨垂れ。
井戸周辺へ集まっている。
「補修内容を追加します」
一。
便壺洗い場機能を撤去。
二。
井戸周囲の汚染土除去。
三。
井戸外壁目地補修。
四。
砂利層の汚染部分交換。
五。
石床を井戸外向きの傾斜へ変更。
六。
屋根雨水を別の雨水溝へ接続。
七。
井戸水入れ替え。
八。
複数回水質確認。
「石二枚を外しただけで、八項目になりました」
フィルが言う。
「石を外したから、見えたんです」
見える水だけを塞ぐ。
すると、問題は消えたように見える。
だが、水には必ず行き先がある。
地面の下。
壁の裏。
別の井戸。
見えなくなっただけで、流れは続く。
◇
雨宿りのため、三人は井戸脇の仮小屋へ入った。
セラが第四便所周辺の地図を広げる。
「回収拠点の候補は、ここです」
第四便所から十五歩。
使われていない廃材置き場の一角。
「土地所有者は?」
「倉庫所有者と同じ家系。ただし相続人が三人います」
「許可は?」
「一人は王都内。二人は地方」
「今夜から使えない?」
「緊急衛生措置として、木台を置くだけなら南区支所が仮使用命令を出せます」
「恒久設備は?」
「相続人全員との協議が必要」
「また複数所有者」
王都南区では、一つの土地にも複数の権利が重なっている。
「まず三日間の回収台だけ」
セラが言う。
「洗浄は支所。運搬は水務局契約の荷車」
「利用者負担は?」
「緊急期間中はなし」
「四日目以降は?」
「費用案へ追加」
「また表が増えます」
フィルが笑う。
「表だけで便所が直れば楽なんですが」
直人が答える。
◇
夜遅く。
南区支所へ戻ると、町からの使者が到着していた。
「銀月衛生商会からです」
封書には、リリアの署名。
仕立屋《金糸の針》。
陶器製案内筒への交換完了。
三十回作動試験。
正常。
第三号便器。
素焼き前乾燥中。
革工房地区。
青雫染房の仮槽運用継続。
職人宿舎の代替給水。
大きな異常なし。
「町は動いています」
直人が息を吐く。
封書の後半には、王都南区の料金制度についての簡易案も書かれていた。
便所利用料だけを無料化しないこと。
汲み取り、清掃、便壺廃棄、洗浄を一体の衛生費として計算すること。
最低利用分は住宅所有者と町が負担。
追加利用や商業利用は個別料金。
料金徴収者へは、実績記録に基づき支払うこと。
利用者へ直接補助金を渡すのではなく、設備運営費へ入れること。
「リリアさんらしい」
セラが言った。
「無料にするだけでは、運営が止まる」
「でも、払えない人は追い返さない」
「正式制度には、さらに数字が必要です」
直人は第四便所の記録を横へ置いた。
有料でも危険。
無料でも危険。
問題は金額だけではない。
徴収した金を何へ使うのか。
不足分を誰が負担するのか。
設備を誰が点検するのか。
故障時に誰が止めるのか。
「明日は、第三便所を夕方から調べます」
直人が言った。
「酒場客が多い場所ですね」
フィルが答える。
「昼の状態と、夜の状態が違う」
「便所の利用料は?」
「昼は一回払い。酒場利用者は酒代へ含まれるそうです」
「住民と客で条件が違う?」
「はい」
「また料金と利用者の区分です」
セラが封書を閉じる。
「その前に、第二共同井戸の雨後流量確認」
「第四便所の回収台」
「仮洗浄場の七十三個以上の便壺」
「全部、明日?」
フィルが尋ねる。
「班を分けます」
直人が答えた。
「またですか」
「全部を一人で追うと、どれも中途半端になります」
少し前までなら、直人自身が全部の現場へ行こうとしていた。
今は、任せる範囲を決められる。
漏れた水を石で塞いでも、行き先は消えない。
仕事も同じだ。
一人が抱え込んで見えなくしても、必要な作業は消えない。
誰かへ渡し。
記録し。
戻ってくる場所を決める。
そうしなければ、見えなくなった仕事は、別の場所で事故になる。
第二共同井戸横の補修石を外すと、便壺洗浄水を含む黒い水が流れ出しました。
以前は地上へにじんでいた水を石で塞いだため、汚水は井戸外側の砂利層へ回り、傷んだ目地から井戸へ入った可能性があります。
さらに雨によって流量が増えたため、便壺洗浄水だけでなく、周囲の雨水も井戸側へ集まる構造だと判明しました。
一方、無料の第四便所では、管理者不在、床板の重ね補修、手洗いなし、汲み取り口の開放が確認され、既存便所を停止して仮設二台へ切り替えます。
次回は、酒場客が集中する第三便所を昼と夜に分けて調査し、酔った利用者による事故と、住民が便所を使えない時間帯の問題を確認します。




