第44話 便壺を洗った水を、飲み水のそばへ流さないでください
王都南区では、使用済みの便壺が飲用井戸のすぐ横で洗われていました。
洗浄場所を止めれば、住民は汚れた便壺を部屋へ持ち帰ることになります。
だからといって、井戸を汚す危険のある作業を続けることもできません。
直人たちは、停止と同時に代替手段を用意します。
夜が明ける前。
陶山直人たちは、第二共同井戸へ向かっていた。
南区の通りはまだ暗い。
建物の隙間から流れ込む風には、炊事の煙と排水溝の臭いが混じっている。
井戸へ近づくと、陶器がぶつかる音が聞こえた。
からん。
ざばっ。
ごしごし。
「もう洗っている人がいます」
水務局書記官のフィルが言った。
「便壺を朝一番で捨てる家庭が多いのでしょう」
セラが通りの先を見た。
井戸の横には、石で囲まれた低い洗い場がある。
大人が三人。
使用済みの便壺を並べていた。
井戸水を桶で汲む。
壺へ入れる。
細い木棒で内側をこする。
汚れた水を、その場の地面へ流す。
洗浄水は石の隙間を通り、井戸の土台へ近い溝へ消えていた。
「止めます」
エルンが水務局の青い札を出した。
「水務局です。便壺洗浄を中止してください」
三人が振り返る。
「今?」
一人の男性が言った。
「まだ洗い終わっていない」
「井戸汚染の疑いがあります」
「昨日まで洗っていたぞ」
「だから、今日から止めます」
「中に汚れが残っている」
年配の女性が壺を見せる。
「これを部屋へ戻せと言うの?」
「代わりの洗浄場所を用意します」
「どこに?」
直人はまだ答えられなかった。
仮洗浄場所の候補地は、昨日の夜に三つ挙げた。
しかし、所有者の許可と排水経路の確認は終わっていない。
「南区支所の裏庭へ、仮設場所を作る予定です」
フィルが言った。
「予定?」
男性が眉をひそめる。
「今はないのか」
「設置するまで、便壺をここで洗わず――」
「汚れたまま持ち帰れということだろう!」
声が大きくなる。
周辺の窓が開き始めた。
「洗浄場所を止めるなら、先に代わりを作れ!」
「おっしゃるとおりです」
直人が答えた。
フィルとエルンが直人を見る。
「停止命令自体は必要です」
直人は続けた。
「でも、代替場所が使えるまでの間、汚れた壺を安全に置く方法を用意します」
「どこへ置くの?」
「密閉蓋を付けた回収台を設置します」
「いつ?」
「今朝中に」
「それまで待てない」
女性は空になった便壺を抱えている。
外側にも汚れが付着していた。
「現在の三つは、水務局が一時預かります」
エルンが判断した。
「洗浄後、各家庭へ返却します」
「どの壺か、分からなくならない?」
セラがすぐに木札を取り出した。
「所有者番号を付けます」
部屋番号。
壺の形。
欠け。
蓋の模様。
預かり時刻。
「名前まで書くのか」
「公開しません。返却を間違えないためです」
「洗う費用は?」
三人が警戒した。
「今日の緊急停止分は、水務局の衛生調査費で負担します」
エルンが答えた。
「明日以降は?」
「仮洗浄場所の運用費を決めます」
「また金を取るのか」
直人は、すぐに無料とは言わなかった。
洗う人。
水。
回収槽。
運搬。
処理。
費用は必ず発生する。
「少なくとも、飲用井戸を汚すより安全で、便壺を川へ捨てなくて済む料金にする必要があります」
「高ければ、誰も使わないぞ」
「その点も含めて決めます」
◇
井戸横の洗い場には、赤い停止札が掛けられた。
便壺を洗わない。
汚水を流さない。
飲用水専用。
文字だけではなく、便壺と井戸の間に大きな斜線を描く。
洗い場の入口は縄で閉じた。
だが、井戸自体はまだ使用停止になっていない。
「飲み水は汲めるのですか」
住民が尋ねた。
「採水検査が終わるまで、飲用は継続という昨日の判断です」
エルンが答える。
「ただし、井戸周囲へ水をこぼさないでください」
「汚れているかもしれないのに?」
「代替水が届くまで、完全停止できない状況です」
直人は井戸を見る。
安全だと確認できていない。
だが、三百二十人が暮らす区域で、準備なしに水源を止めれば別の危険が生まれる。
「今日は、飲用を優先してください」
「洗濯は?」
「別の生活用水を手配します」
「手洗いは?」
「共同手洗い槽へ安全な水を運びます」
「結局、この井戸は何に使っていいの?」
「今朝から、飲用と料理だけです」
用途を絞ることで、使用量も減らせる。
「便壺洗浄へ使わない」
「床掃除へも使わない」
「革や布を洗わない」
井戸の横へ、用途札が追加された。
◇
仮洗浄場所の候補は、南区支所の裏庭だった。
支所には排水溝がある。
だが、その溝は雨水用。
便壺洗浄水を流せば、街路へ出てしまう。
「ここへ直接流せません」
直人が言った。
「では、なぜ候補にしたのですか」
ハイルが尋ねる。
「水道に近く、管理人を置けるからです」
「排水は?」
「流さず、回収します」
裏庭に、三つの区画を作る。
一つ目。
未洗浄便壺の受け取り台。
二つ目。
洗浄台。
三つ目。
洗浄済み便壺の返却棚。
「未洗浄と洗浄済みを、隣へ置くのですか」
フィルが尋ねる。
「動線を一方向にします」
入口。
受付。
洗浄。
すすぎ。
乾燥。
返却。
作業者が逆へ戻らないよう、縄と木柵で分ける。
「汚れた壺を持って来た住民が、洗浄済み棚へ触らない?」
「受付で預かります」
「自分で洗わせない?」
「最初は、訓練した担当者が行います」
「なぜです?」
「洗浄水を回収槽へ入れず、地面へ流す人が出る可能性があります」
「見張ればよい」
「全員へ毎回説明するより、作業者を固定した方が安全です」
◇
洗浄用の設備は、急いで集められた。
蓋付きの清水槽。
手押し栓。
便壺を置く木製台。
長柄の洗浄棒。
石けん草液。
外側洗浄用の布。
汚水受け桶。
大きな密閉回収槽。
「すすぎ水も回収しますか」
ハイルが尋ねた。
「はい」
「量が増える」
「最初の洗い水と、最後のすすぎ水を分けます」
「なぜ?」
「最初の汚水は汚れが濃い。すすぎ水は比較的薄い」
「処理を分ける?」
ボルグは町に残っている。
王都側の汲み取り組合から、処理責任者を呼ぶ必要がある。
「濃い洗浄水は便所槽の汲み取り系統へ」
「薄いすすぎ水は?」
「すぐ地面へ流さず、処理方法が決まるまで別槽に保管します」
「二つの回収槽が必要?」
「はい」
濃い汚水槽。
すすぎ水槽。
水が混ざれば、すべて濃い汚水として扱わなければならない。
「容器の色を変えます」
濃い汚水は赤帯。
すすぎ水は黄帯。
清水は青帯。
「便壺洗い場なのに、色が三つもある」
フィルが言った。
「文字を読めない作業者でも分かるようにします」
「赤へ清水を入れたら?」
「安全上は問題ありませんが、運搬量が増えます」
「黄へ濃い汚水を入れたら?」
「黄槽全体を濃い汚水として扱います」
「間違えた人を罰する?」
「原因を確認します」
フィルが笑った。
「もう、答えが分かるようになりました」
◇
作業担当者は、誰にするのか。
それが次の問題だった。
「第一便所の清掃人、パナさんへ頼めませんか」
ハイルが提案する。
「すでに一日二百回近い便所を清掃しています」
直人が答えた。
「追加業務を一人へ載せるのは無理です」
「汲み取り組合から人を出す?」
「便壺洗浄は、汲み取り作業と時間帯が重なります」
王都南区の汲み取り組合から、二人の作業員が来た。
年長のゴザ。
若い女性のイリナ。
「洗うだけなら、住民にやらせろ」
ゴザが言った。
「俺たちは槽を空にする仕事だ」
「洗浄水の回収と運搬が、汲み取り処理へ影響します」
直人が答える。
「槽へ持っていくなら、全部一緒だ」
「染料や薬剤は混ざっていませんか」
「住宅の便壺だろう」
「灰、布、油、薬草、食べ残しが入る可能性は?」
イリナが答えた。
「全部ある」
「便壺へ食べ物を捨てる人がいるのですか」
「料金を取られるから、便壺へまとめる家もある」
排泄物だけとは限らない。
ごみ箱の代わりにされている。
「壺の中身を捨てる時点で、異物を確認する必要があります」
「一つずつ開けるのか」
「詰まりや処理槽への影響を防ぐためです」
「仕事が増える」
「作業単価へ入れます」
ハイルが言った。
ゴザの表情が少し変わる。
「いくらだ」
「まず作業時間を測ります」
「先に金額を決めろ」
「実際の量が分からないので、初日は試験運用です」
「無料ではやらんぞ」
「日当と危険作業手当を支給します」
汚物への接触。
容器の洗浄。
異物選別。
通常清掃とは異なる。
「担当は二人必要です」
直人が言った。
「一人で壺を持ち上げない」
「空なら軽い」
イリナが答える。
「洗浄前は、中身が残っている可能性があります」
「受付時に確認する」
「蓋を開ける人と、記録する人も必要です」
最終的に。
ゴザ。
イリナ。
南区支所の臨時職員一人。
三人体制で開始することになった。
◇
仮洗浄場所が完成する前に、最初の便壺が十個以上集まった。
井戸横の洗い場を閉じたため、住民が支所へ持ってきたのだ。
「今すぐ洗って」
「部屋へ戻れない」
「仕事へ行かなければならない」
受付に列ができる。
「預かり札を配ります」
セラが言った。
「壺へ番号。持ち主へ同じ番号の札」
「壺の見分けが付かない」
同じ形。
同じ大きさ。
無地の陶器。
「返却間違いを防ぐため、仮の首輪札を付けます」
壺の首へ、麻紐と木札。
ただし、蓋の固定紐とは色を分ける。
「預かり札をなくしたら?」
「部屋番号と壺の特徴を照合します」
「他人が拾って持っていったら?」
「返却時に部屋札も確認します」
個人名は表へ出さない。
番号と部屋。
「洗浄後、いつ返る?」
住民が尋ねる。
「午前受付分は昼まで。午後分は夕方までを目標にします」
「目標?」
「汚れや破損によって時間が変わります」
「壺が割れたら?」
「受付時の状態を記録します」
すでに欠けている壺。
ひびのある壺。
蓋が合っていない壺。
持ち手のない壺。
「洗浄中に割れたか、最初から割れていたかで揉めます」
セラが一つずつ特徴を書いた。
衛生だけではない。
預かり物としての管理も必要になる。
◇
最初の試験洗浄が始まった。
一番。
小型便壺。
中身は廃棄済み。
底に汚れが残る。
「蓋を外します」
イリナが防水手袋を着ける。
「顔を近づけない」
直人が確認する。
「分かっている」
「外側へ割れは?」
「底に小さな欠け」
「記録済み」
洗浄台へ置く。
清水を少量。
石けん草液。
長柄棒で内側をこする。
汚水を赤帯槽へ。
二度目。
少量のすすぎ水。
黄帯槽へ。
「まだ臭いが残る」
ゴザが言う。
「水を増やす?」
「水だけでなく、接触時間を取ります」
石けん草液を薄く塗り、少し待つ。
再度すすぐ。
「最初から大量の水を入れるより少ない」
フィルが記録する。
「一壺あたりの使用水量を測ります」
一番。
小桶三杯。
二番。
小桶四杯。
三番。
小桶二杯半。
「汚れ方で違う」
「平均だけではなく、範囲を残します」
直人が言った。
「一日に何壺来るか分かれば、必要水量と回収回数を計算できます」
◇
四番目の壺を開けた時。
中から、大きな布の塊が出てきた。
「これは何ですか」
フィルが顔をしかめる。
「子どもの排泄物を包んだ布だ」
ゴザが答える。
「何度も使う布では?」
「捨てる家もある」
「便所槽へ流していましたか」
「便壺廃棄口へ入る」
「汲み取り時に詰まりませんか」
「詰まる」
「分けて処理しないのですか」
「拾えるものは拾う」
汚れた布。
革片。
木片。
骨。
灰。
便壺の中身には、さまざまな異物が混ざる。
「布専用の回収容器を置きます」
「洗って再利用?」
フィルが尋ねる。
「所有者が再利用を望む場合は、洗浄方法を別にします」
「誰が、汚れた布を返してほしいと言うのですか」
イリナが答えた。
「貧しい家では、布一枚も捨てられない」
廃棄物と決めつけてはいけない。
家にとっては必要な資材かもしれない。
「受付時に、便壺内の布を返却するか確認します」
「毎回?」
「最初は」
「本人も、中に何が入っているか分からないことがある」
「では、回収した布は番号付きで一日保管。申し出がなければ処理」
「保管場所が必要だ」
濡れた布を、便壺洗浄済み棚の近くへ置くわけにはいかない。
汚染物保管箱。
密閉蓋。
番号。
また設備が増えた。
◇
仮洗浄場所の運用が始まって一刻。
赤帯の濃い汚水槽は、すでに三分の一まで達していた。
「想定より早いです」
フィルが言った。
「壺の数が多い」
「一日何個来る?」
井戸横の洗い場では、記録がなかった。
聞き取りでは、三十から五十。
だが、停止初日の午前だけで二十七個。
「一日八十個を超える可能性があります」
「回収槽が足りない」
ハイルが言う。
「追加槽を用意します」
「費用が――」
「満杯になって地面へ捨てるより先です」
「汲み取り組合の運搬車は?」
ゴザが答える。
「夕方に一台空く」
「赤槽を処理場へ運べますか」
「中身を確認してからだ」
「布や薬剤は?」
「今のところ、家庭用便壺の範囲だ」
「灰が多い壺がありました」
「灰は沈む」
「処理場で分離できますか」
「槽へ入れる前に沈殿させる」
便壺洗浄場にも、簡易沈殿工程が必要になる。
「赤槽をそのまま運ばず、一度静置します」
直人が言った。
「時間がかかる」
「上澄みと沈殿物を分ける?」
「処理場側の受け入れ方法に合わせます」
「南区で設備を増やしすぎるな」
ゴザが言う。
「管理する人がいなくなる」
その指摘は正しい。
安全を考えるたび、設備と手順が増える。
しかし、複雑になりすぎれば守られない。
「沈殿は処理場で行ってください」
直人が判断を変えた。
「ここでは異物だけを除き、密閉運搬までにします」
「それでいい」
「受け入れられない物が見つかった場合は、別容器」
「薬品臭、油、染料、鋭い金属だな」
「受付表へ追加します」
現場で行うこと。
処理場へ任せること。
分けなければならない。
◇
昼前。
第二共同井戸の採水検査が始まった。
井戸水は透明。
強い臭いなし。
だが、水面の端に薄い膜が見える。
「油のようにも見えます」
セラが言った。
「便壺洗浄だけで油膜が出る?」
「料理油を便壺へ捨てている家があれば」
直人は採水器を中央へ入れた。
表面水。
中層。
深い位置。
三つに分ける。
「試験液を使います」
関所で正式許可を得た薬品箱。
使用場所を記録。
開封番号。
使用量。
残量。
「ここでもそこまで書くのですか」
フィルが尋ねる。
「王都内の使用条件です」
検査結果。
表面水。
腐敗物反応、弱い陽性。
中層。
わずかな反応。
深層。
目立つ反応なし。
「上から入っている?」
ハイルが尋ねた。
「可能性があります」
「地下水全体が汚れているわけではない?」
「現時点では、表面付近の影響が強いです」
「なら、井戸を止めなくてよい?」
「井戸壁の外側から流れ込んでいる可能性があります」
洗い場側の石積み。
目地。
土台。
調査棒を入れると、湿った黒い泥が付着した。
「洗浄水が井戸周囲へ染みています」
「飲用停止にしますか」
エルンが尋ねた。
直人は周囲を見る。
水壺を持って待つ住民。
代替給水車は、まだ到着していない。
「まず、表面水を飲用へ使わない方法は?」
「井戸水を汲めば、表面も混ざります」
「はい」
「停止すべきです」
直人は答えた。
「ただし、代替水の到着と同時に」
「何刻後?」
「王都本局から二台。早ければ昼過ぎ」
「それまで飲ませ続ける?」
「料理用に残っている家庭水を優先。井戸からの新規汲み上げは、今止めます」
「水がない家庭は?」
「南区支所の緊急備蓄を配ります」
「量は?」
「小壺二百人分程度」
三百二十人全員には足りない。
「乳幼児、病人、妊婦、飲用水を使い切った世帯を優先します」
「並んだ順ではなく?」
「はい」
「また優先列が必要ですね」
◇
第二共同井戸へ、赤い使用停止札が掛けられた。
飲用。
料理。
手洗い。
すべて停止。
「便壺洗い場を止めたと思ったら、井戸まで止まった!」
住民から怒声が上がる。
「いつ水が来る!」
「水代は誰が払う!」
「私たちは昨日も井戸代を払ったぞ!」
水務局のハイルが前へ出た。
「本日から、井戸利用料は停止します」
「昨日分は?」
「安全確認前の利用料について、所有者と協議します」
「返せ!」
井戸の料金徴収者は、第一便所のダスとは別の男性だった。
名はクラウ。
「私は、井戸が汚れていると知らなかった」
「知らなければ、金を返さなくていいのか」
「水は渡した!」
「汚れた水だったかもしれない!」
住民が詰め寄る。
「今は、水の確保を先にします」
直人が間へ入った。
「料金の記録を封印してください」
「なぜだ」
クラウが硬貨箱を抱える。
「利用者数と徴収額を、後の返金や代替給水費の計算へ使います」
「金を取り上げるのか」
「取り上げません。記録が変わらないよう封印します」
「信用していない?」
「住民側も、水務局側も同じ記録を確認できるようにします」
徴収札。
利用記録。
硬貨箱。
クラウ立会い。
住民代表立会い。
水務局印。
封印された。
◇
昼過ぎ。
緊急給水車が到着した。
白い飲用容器。
青い手洗い槽。
灰色の生活用水桶。
革工房地区で作った区分が、王都南区でも使われる。
「洗濯用の灰色水は、いつ来る?」
住民が尋ねる。
「今日は飲用と手洗いを優先します」
「子どもの服が汚れている」
「便壺洗浄用水も必要です」
「便壺だけ優先するのか!」
「便壺洗浄水は、汚れを井戸や路地へ広げないためです」
「生活用水も衛生に必要です」
ナオトは水量表を見た。
二台の給水車だけでは足りない。
「飲用水を、便壺洗浄へ使いません」
「洗浄場の水は?」
「南区支所の清掃用貯水槽を使います」
「安全な水ではない?」
「壺の洗浄用です。最後のすすぎだけ、比較的清潔な水を使います」
用途ごとに水質を分ける。
すべてへ飲用水を使えば、住民が飲む分がなくなる。
◇
配水管理者が急いで選ばれた。
水務局職員。
住民代表二人。
共同住宅管理者一人。
井戸料金徴収者クラウは、参加を申し出た。
「私も水を配る」
「理由は?」
セラが尋ねる。
「住民の部屋数を知っている」
「料金を払っていない家庭にも、同じ基準で配れますか」
クラウは少し黙った。
「緊急給水は、料金と分けるのだろう」
「はい」
「なら、従う」
彼を完全に外せば、既存の住民情報が使えない。
しかし、一人へ鍵を任せることもできない。
「飲用槽は二重管理にします」
「また鍵が二つか」
フィルが言う。
「南区支所側と住民側」
「クラウさんは?」
「部屋確認と配水記録担当。水槽の鍵は持たない」
役割を分ける。
◇
夕方。
仮洗浄場所の初日記録がまとまった。
受け付けた便壺。
七十三個。
洗浄完了。
六十五個。
ひびで使用停止。
三個。
蓋不適合。
五個。
返却待ち。
八個。
回収した布。
十二枚。
木片。
九個。
骨。
四個。
金属片。
一個。
「金属?」
直人が尋ねる。
イリナが小さな曲がった針を見せた。
「縫い針です」
「便壺へ落ちた?」
「分からない」
「洗浄作業者が怪我をするところでした」
針や刃物の確認工程。
革工房や仕立屋だけの問題ではない。
「受け取り時に、鋭い物が入っていないか申告させます」
「本人が知らなければ?」
「最初の汚水を網へ通します」
「網が必要だ」
「金属網は高い」
「木枠と太い布では?」
「針が抜ける」
ゴザが言った。
「鍛冶屋に細格子を作らせろ」
「費用は?」
「作業者の安全費です」
ハイルが記録した。
◇
「一壺あたりの費用を計算します」
フィルが紙を広げる。
水。
石けん草。
作業員三人。
回収槽。
運搬。
処理。
札。
設備補修。
「小銅貨一枚では足りません」
「現在の便所利用料と同じくらい?」
「洗浄だけで、小銅貨一枚を超える可能性があります」
「住民が払いますか」
「払わなければ、川や路地へ流す人が出ます」
セラが言う。
「便壺廃棄と洗浄を別料金にするほど、利用されなくなる」
「一つの料金へまとめる?」
直人が考える。
便所利用。
便壺廃棄。
便壺洗浄。
それぞれ別に取れば、住民は最も安い行動を選ぶ。
その結果、路地や川へ捨てる。
「衛生利用札に、廃棄と洗浄を含める案を作ります」
「一定回数までは、町や住宅所有者が負担?」
「はい」
「それを超えた分は?」
「追加料金を検討」
「子どもは?」
「介助利用と、排泄量の少ない幼児を大人一回と同じにする必要はありません」
「複雑になります」
「複雑な料金は、徴収現場で間違います」
フィルが言った。
「では、世帯単位?」
「人数帯で月額を分ける方法もあります」
一人世帯。
二から三人。
四人以上。
ただし、日雇い労働者の短期滞在がある。
「短期利用者は一日札」
「定住世帯は月札」
「払えない世帯は?」
「最低利用分を公共負担」
「誰が資格を決める?」
また新しい管理が必要になる。
「今日は料金制度を決めません」
直人が言った。
「洗浄場所を安全に動かすことが先です」
問題を全部、一度に解こうとしない。
◇
夜。
第二共同井戸の周囲は静かになっていた。
汲み上げ縄は外されている。
井戸蓋には水務局の封印。
横の洗い場には、赤い停止札。
地面へ流れていた汚水は止まった。
「これで井戸は戻りますか」
フィルが尋ねた。
「すぐには戻りません」
「表面の汚れを除けば?」
「井戸壁外側の土も調べます」
「洗い場を壊す?」
「必要なら」
「代替水は何日必要ですか」
「少なくとも数日。井戸水を入れ替え、複数回検査します」
「費用が大きくなる」
「便壺洗浄を何年も続けた結果です」
長期間積み重なった問題は、一日では消えない。
セラが洗い場の石を見ていた。
「この石、少し新しくありませんか」
「どこです?」
井戸側の土台。
周囲の古い石より、二枚だけ色が違う。
「補修跡?」
「目地も新しい」
エルンが灯りを近づける。
「水務局へ補修届けはありません」
「誰が直した?」
洗い場の管理者を呼ぶ。
料金徴収者クラウは、石を見て答えた。
「去年、井戸の縁から水が漏れたので、石工に埋めてもらった」
「どこから漏れたのですか」
「洗い場側の地面へ水が出ていた」
「井戸水が外へ漏れたと思った?」
「そうだ」
「逆だった可能性があります」
直人が言った。
「洗浄水が井戸側へ入り込んでいたのかもしれません」
「石で埋めたから止まった」
「見える場所へ出なくなっただけです」
「地面の中へ流れた?」
「はい」
洗い場の水染みを石で塞いだ。
その結果、汚水は別の経路を通り、井戸壁の外側へ集まった可能性がある。
「補修した石を外します」
「井戸が崩れないか」
「支えを作ってから、一枚ずつです」
「明日?」
「朝一番に」
セラが記録へ新しい項目を加えた。
去年の無届け補修。
洗い場側の漏水経路変更の可能性。
また、見えない場所で行われた修理が、問題を別の方向へ動かしていた。
◇
南区支所へ戻ると、王都水務局本局から追加命令が届いていた。
第二共同井戸の停止。
代替給水。
便壺仮洗浄場。
すべてを三日間の緊急措置として承認。
ただし。
四日目以降の費用について、便所所有者、井戸所有者、住宅所有者、町の負担案を提出すること。
「三日で料金制度を作れということですか」
フィルが驚く。
「暫定負担案です」
エルンが答える。
「本制度ではありません」
「リリアさんへの使者は、もう出しました」
直人が言った。
「返事は間に合いません」
「こちらでも案を作ります」
「契約責任者は町にいるのでしょう?」
「正式契約は結びません」
「では、何を作る?」
「王都側が決めるための選択肢と費用比較です」
無償。
全額利用者負担。
所有者負担。
町の補助。
利用札方式。
世帯契約。
廃棄・洗浄を一体化。
それぞれの長所と問題を整理する。
「その場で約束しない」
リリアに言われたことを、直人は思い出した。
「調査結果を出し、決める人へ渡します」
「少し物足りなさそうですね」
セラが言った。
「決めるのは、王都の責任者です」
「守れそうですか」
「守ります」
直人は費用表を開いた。
便壺を洗う水を、飲み水のそばへ流さない。
言葉にすれば簡単だ。
だが、それを実現するには。
代わりの場所。
水。
人。
回収槽。
処理先。
料金。
預かり記録。
作業者の安全。
それらを同時に用意しなければならない。
危険な行為を止めるだけでは、人の暮らしは続かない。
代替手段がなければ、汚れはまた別の井戸や路地へ流される。
「明日は、補修石の下を確認します」
直人が言った。
「その後、第四便所?」
フィルが尋ねる。
「井戸調査班と便所調査班を分けます」
「また班分けですか」
「全部を一人で見る時間はありません」
町で学んだ方法を、王都でも使う。
直人とエルンは井戸。
セラとフィルは第四便所の聞き取り。
ただし、危険な構造調査は直人の合流後。
「セラさんだけで、便所へ入らないでください」
「分かっています」
「床が沈んでいたら――」
「止めて、記録して、待つ」
「料金の約束は――」
「しない」
「古い管が――」
「ナオトさん」
セラが笑った。
「町内班へ任せられたのですから、王都班にも任せてください」
直人は口を閉じた。
「分かりました」
王都南区の二日目。
便壺洗浄は飲用井戸の横から切り離された。
だが、井戸を汚した水の通り道は、まだ地面の中に残っていた。
第二共同井戸横での便壺洗浄は停止され、南区支所裏へ仮洗浄場所が設置されました。
未洗浄、洗浄、返却の動線を分け、濃い汚水とすすぎ水も別々の密閉槽へ回収します。
初日だけで七十三個の便壺が持ち込まれ、布、木片、骨、針などの異物も確認されました。
また、第二共同井戸の表面水から腐敗物反応が出たため、井戸は使用停止となり、緊急給水が始まります。
次回は、去年の無届け補修で塞がれた石を外し、便壺洗浄水が井戸壁の外側へ入り込んでいた経路を調べます。




