第43話 料金を払えない人を追い返しても、排泄は消えません
王都南区の共同便所では、大人だけでなく幼い子どもにも利用料が求められていました。
料金を徴収する側には、清掃や汲み取りの費用が必要だという事情があります。
しかし、払えない住民を便所から追い返しても、その人の排泄そのものがなくなるわけではありません。
王都水務局南区支所は、共同住宅群から二本先の通りにあった。
二階建ての石造り。
一階には、井戸や排水路の相談を受ける窓口。
二階には、区域図と古い工事記録を保管する部屋がある。
陶山直人たちが到着すると、南区担当官のハイルが待っていた。
三十代後半。
細身。
机の上には、何冊もの苦情記録が積まれている。
「地方監査官エルン殿。お待ちしていました」
「遅れて申し訳ありません」
「関所井戸の件は報告を受けています」
ハイルは直人とセラへ視線を移した。
「こちらが銀月衛生商会の?」
「施工設計責任者、陶山直人です」
「調査協力者のセラです」
「王都まで便器屋を呼ぶことになるとは思いませんでした」
「便器を置く前の調査が仕事です」
直人が答える。
「今回は、すぐに便器を置ける状態ではないでしょう」
「その判断も含めてお願いしたい」
ハイルは南区共同住宅の図面を広げた。
図面と呼んでも、建設時の正式なものではない。
現在の建物の位置を、水務局が後から書き起こした区域図である。
「調査対象は、この七棟です」
三階から四階建ての共同住宅。
中央に細い通路。
住民登録上は三百二十人。
「実際には、もう少し多い可能性があります」
ハイルが言った。
「登録されていない人がいる?」
「一室を複数世帯で使っている例があります。地方から来た日雇い労働者も、短期間だけ寝泊まりします」
「便所は四か所?」
「報告書では、そうなっています」
「四棟ですか。四室ですか」
「現地で確認していただきたい」
直人はハイルを見る。
「南区支所でも、把握していないのですか」
「便所は私有設備です」
「共同住宅の住民が共用していても?」
「所有者が別々です。水務局へ登録されているのは、排水路との接続だけです」
「利用人数や穴数は?」
「届け出義務がありません」
四便所という言葉だけが記録にあり、実際の能力は不明。
予想していたとおりだった。
◇
「先ほど、便所前で母子が料金について揉めていました」
セラが記録紙を出す。
「母親一人分の料金は支払い済み。三歳ほどの子どもへ、別料金を求められていました」
ハイルは苦い顔をした。
「第一便所ですね」
「区別名があるのですか」
「水務局では便宜上、北から第一、第二、第三、第四と呼んでいます」
「所有者は?」
「第一便所は、共同住宅一号棟の所有者ベルク」
「料金を集めていた男性が、ベルクさんですか」
「おそらく息子のダスでしょう。日中の徴収を任されています」
「料金体系は?」
「所有者ごとに違います」
「子ども料金も?」
「第一便所は、歩いて使用できる年齢から一人分と聞いています」
「三歳でも?」
「便器を使えば一人です」
ハイル自身が決めた制度ではない。
事実を説明しているだけだったが、その声には疲れが混じっている。
「払えない住民は、どこで済ませていますか」
「無料の公衆便所まで歩く者もいます」
「距離は?」
「南へ二十分ほど」
「夜間は?」
「閉まります」
「では夜は?」
ハイルは答えなかった。
「路地、空き地、川沿いですね」
セラが言う。
「苦情記録には、そうあります」
ハイルが冊子を開く。
路地の糞尿。
階段裏の悪臭。
雨水溝への投棄。
子どもの排泄物を包んだ布。
川岸の汚染。
「便所から追い返された人が、消えるわけではありません」
直人が言った。
「分かっています」
「水務局から、料金制度へ指導は?」
「私有設備の料金へ、直接の権限はありません」
「衛生上の危険があっても?」
「公道への投棄は取り締まれます」
「排泄場所を確保せず、捨てた人だけを罰する?」
ハイルは机の上で手を組んだ。
「南区支所でも問題だと考えています。しかし、無料便所を新設する土地と予算がありません」
「だから、既存便所所有者へ依存している」
「はい」
◇
調査初日の範囲が決められた。
一。
先ほどの母子から、利用状況を聞く。
二。
第一便所の料金徴収者から、費用と管理方法を聞く。
三。
聞き取りは別々に行う。
四。
料金問題と設備安全調査を、最初から一つに混ぜない。
「なぜ別々なのですか」
ハイルが尋ねた。
「所有者の前では、住民が話しにくい可能性があります」
セラが答える。
「反対に、住民の前では、徴収者が防御的になります」
「両方の話を比べる?」
「はい。ただし、違いがあっても、すぐにどちらかを嘘と決めません」
直人が加えた。
「同じ出来事でも、立場で見え方が違います」
「調査への立会は?」
「水務局から一名。ただし、質問の途中で料金制度を擁護したり、所有者を責めたりしない方」
ハイルは少し考え、若い書記官を呼んだ。
「フィルです。南区へ配属されて半年」
「記録担当ですか」
「はい」
「住民の個人名は、公開記録と分けてください」
「承知しました」
「子どもの名前は?」
「調査に必要がなければ書きません」
フィルがうなずいた。
◇
母子は、共同住宅三号棟の一室に住んでいた。
部屋は、三階。
狭い階段。
途中の踊り場には水壺や薪が置かれ、通路がさらに細くなっている。
「火事の時、危険ですね」
直人が呟く。
「今日は便所と水の調査です」
エルンが念を押した。
「記録だけします」
「すでに仕事を増やしています」
セラが小声で笑った。
部屋の扉を叩く。
先ほどの女性が顔を出した。
年齢は二十代後半。
名はミレナ。
腕には三歳の娘、エマを抱いている。
「水務局の方ですか」
「便所利用について、お話を聞かせていただけますか」
エルンが許可書を見せる。
ミレナは廊下を確認してから、三人を中へ入れた。
部屋には寝台が一つ。
小さな食卓。
調理用の炉。
壁際に、蓋付きの陶器壺。
直人の視線が止まる。
「これは?」
ミレナが気まずそうに壺の前へ立った。
「夜に使うものです」
「便壺ですか」
「はい」
「回収は?」
「自分で共同便所の槽へ捨てます」
「料金は?」
「捨てる時にも取られます」
「便所を使う料金とは別ですか」
「一回分です」
人が直接便所を使っても。
部屋で便壺を使い、後から捨てても。
同じ料金。
「子どもの分も?」
「ダスさんは、二人分だと言います」
「便壺一つでも?」
「中に二人分入っているから」
ミレナは娘を抱き直した。
「毎日払っていますか」
「払える日は」
「払えない日は、どうします?」
彼女は答えなかった。
セラが急かさず待つ。
しばらくして、ミレナが小さな声で言った。
「布へ包んで、朝早く川へ持っていきます」
「便を?」
「ほかに捨てる場所がありません」
「川へ直接?」
「流れの強いところへ」
直人は言葉を選んだ。
「責めるために聞いているのではありません」
「分かっています」
「危険だとは知っていますか」
「知っています」
「それでも?」
「娘を夜中に二十分歩かせられません。便所代を払えば、パンを一つ減らさなければならない日もあります」
「一回いくらですか」
「大人は小銅貨一枚。子どもも一枚」
「一日何回?」
「朝と夜。昼は仕事先の便所を使います」
「仕事先では無料?」
「給金から便所代を引かれています」
「別に取られている?」
「月ごとに」
暮らす場所でも。
働く場所でも。
便所利用料を払っている。
◇
「第一便所以外は使えませんか」
直人が尋ねた。
「第二便所は少し安いです」
「では、なぜ第一を?」
「女性用の囲いがあるから」
「第二には?」
「板が低く、外から上半身が見えます」
「第三は?」
「夜になると、酒場の客が並びます」
「第四は?」
「一番遠い。階段を下りて、路地を二本越えます」
「安全面で、第一を選んでいる?」
「はい」
「料金を払ってでも?」
「払える時は」
直人は記録へ書いた。
料金だけではない。
距離。
囲い。
夜間の安全。
子ども連れ。
「第一便所で、怖い思いをしたことはありますか」
セラが尋ねる。
「列で怒鳴られることがあります」
「誰に?」
「料金を払っていないと思われた時。子どもが中で時間をかけた時」
「設備上の問題は?」
「床が濡れています」
「いつも?」
「朝は特に」
「水漏れ?」
「掃除で水を撒いています」
「滑ったことは?」
「娘が一度」
「怪我は?」
「膝を擦りました」
「報告しましたか」
「ダスさんに言いました」
「返事は?」
「子どもを抱いて使え、と」
子どもを抱けば、母親自身が姿勢を崩しやすい。
狭い個室なら、さらに危険である。
「便器の高さは?」
「穴だけです」
「座る台は?」
「木板が二枚」
「子ども用の補助は?」
「ありません」
「娘さんは、どう使いますか」
「抱えます」
大人用の穴へ、三歳の子どもを支えながら排泄させる。
落下の危険もある。
「これまで、子どもが落ちたことは?」
ミレナが視線を下げた。
「隣の棟の男の子が、片脚を落としました」
「いつですか」
「去年の冬」
「水務局へ報告は?」
フィルが記録を確認する。
「ありません」
「怪我は?」
「足を切ったと聞きました」
「誰が治療費を?」
「家族です」
◇
「便所を無料にすれば、問題は解決すると思いますか」
セラが尋ねた。
ミレナはすぐに答えなかった。
「無料なら助かります」
「それだけでは?」
「掃除されなくなるのは困ります」
「今の料金で、掃除は十分ですか」
「朝に一度、誰かが水を撒いています」
「便や汚れが残ることは?」
「あります」
「臭いは?」
「ひどいです」
「では、料金を払っても、管理が十分ではない?」
「ほかよりはましです」
より良いから選んでいるのではない。
ほかがさらに悪いため、比較的ましな便所へ料金を払っている。
「料金を払うこと自体に反対ですか」
直人が尋ねた。
「掃除や汲み取りにお金がかかるのは分かります」
「では、何が問題です?」
「払えない時に、娘まで追い返されることです」
ミレナは静かに答えた。
「後で払うと言っても、駄目だと言われます」
「後払いの記録制度は?」
「ありません」
「月契約は?」
「一号棟の住民だけです。私たちは三号棟だから、一回ごと」
「同じ便所を使っても、住む棟で条件が違う?」
「はい」
第一便所は、一号棟所有者の設備。
一号棟住民は家賃へ利用料が含まれる。
他棟の住民は一回ごと。
子どもも一回。
便壺を捨てる時も一回。
「話してくださって、ありがとうございます」
直人が言った。
「便所を止めるのですか」
「まだ設備を確認していません」
「止まったら困ります」
ミレナの声に不安が混じった。
「危険が見つかった場合でも、代わりを用意せずに止めない方法を考えます」
「無料になりますか」
「今ここでは約束できません」
「そうですか」
「ただし、払えない人が排泄できなくなる仕組みは、衛生上の問題として記録します」
◇
第一便所の料金徴収者ダスは、便所脇の小屋にいた。
三十歳前後。
腰には硬貨袋。
机には利用記録らしい木札が並んでいる。
「先ほどの女が苦情を言ったのか」
直人たちを見るなり、ダスが言った。
「聞き取り対象者については答えられません」
セラが答える。
「料金と管理方法を教えてください」
「水務局へ料金を決める権利はないはずだ」
「今日は調査です」
エルンが許可書を出す。
「帳簿を見せる義務は?」
「設備安全と汲み取り状況に必要な範囲で求めます」
「商売の利益まで見るのか」
「利益額を公表するためではありません」
リリアがいれば、より上手く交渉しただろう。
直人は調査範囲を確認した。
「利用料金が、清掃、汲み取り、修理へどの程度使われているかを確認します」
「料金が高いと言いたいのか」
「高いか安いかは、費用を見ずに判断できません」
ダスは少し意外そうな顔をした。
「無料にしろと言われると思った」
「清掃と処理には費用が必要です」
「分かっているではないか」
「ただし、払えない人を追い返した場合の衛生影響も確認します」
ダスの表情が戻る。
「金を払わない者まで使わせれば、誰も払わなくなる」
「後払いは?」
「逃げる」
「月契約は?」
「一号棟の住民だけだ。家賃と一緒に集められる」
「他棟の住民は?」
「名前も部屋も変わる。日雇いは翌日いなくなる」
「だから一回ごと?」
「そうだ」
◇
第一便所は、一棟だった。
内部には四つの区画。
男性用二つ。
女性用二つ。
さらに外壁側に、男性用の立ち小便場所が一つ。
「四便所という報告の一つが、四室と一か所の小便設備?」
直人が確認する。
「そうだ」
「一日の利用人数は?」
「百五十回から二百回」
「人ではなく、回数?」
「同じ者が朝晩使う」
「記録していますか」
ダスは木札を示した。
硬貨一枚を受け取るごとに、木札を箱へ移す。
一号棟住民の月契約者は別の色。
「子どもも一回?」
「掃除と汲み取りは、大人か子どもかで無料にならない」
「排泄量は違います」
「便所を占有する時間は、子どもの方が長いこともある」
「料金は、汚物量ではなく利用回数で決めている?」
「管理が簡単だからだ」
「便壺の廃棄も一回?」
「誰が使ったか分からない壺なら、量で取る」
「先ほどは二人分と――」
セラが言いかけ、止めた。
聞き取り対象者を特定することになる。
「便壺の料金基準を見せてください」
セラは言い直した。
小壺半分まで、一回分。
半分を超えれば二回分。
満杯なら三回分。
「中身を確認するのですか」
「蓋を開ける」
「徴収小屋の前で?」
「裏の廃棄口だ」
「開けた時の飛散や臭気対策は?」
「布で口を覆う」
「手袋は?」
「必要ない」
直人は廃棄口を見る。
石造りの蓋。
周囲には、乾いた汚れが付着。
ハエ。
足元の土は黒い。
「便壺を流した後、容器はどこで洗いますか」
「持ち主が井戸で洗う」
直人の顔が変わった。
「どの井戸ですか」
「第二共同井戸」
「飲用井戸ですか」
「洗い場は、井戸の横にある」
「排水は?」
「地面へ流れる」
ハイルの資料にあった、井戸汚染疑い。
一つの経路が見えた。
「便壺を飲用井戸の横で洗わないでください」
「昔からそうしている」
「便壺の汚れが井戸周囲へ流れます」
「井戸の口には蓋がある」
「地面から入る可能性があります」
「また地下の話か」
「この地区では、古い地下水路も疑われています」
ダスは腕を組んだ。
「洗い場を閉じれば、住民が困る」
「代替洗浄場所が必要です」
「誰が作る」
「今後の調査で決めます。少なくとも、飲用井戸周辺での洗浄は停止候補です」
「候補?」
「現場を確認して、水務局が判断します」
◇
「清掃は一日何回ですか」
「朝一回」
「利用回数は最大二百回」
「汚れがひどければ昼も水を撒く」
「誰が?」
「老女のパナ」
「雇用契約は?」
「一日銅貨二枚」
「作業時間は?」
「朝一刻ほど」
「昼の追加清掃は?」
「料金内だ」
「手当は増えない?」
「一日契約だ」
「防護具は?」
「古い手袋を渡している」
清掃用具を確認する。
擦り切れた布手袋。
穴の開いた前掛け。
木製の水桶。
床へ水を撒く柄杓。
汚れをこする棒。
「手洗い場所は?」
「便所の裏」
小さな桶。
水は濁っている。
「交換は?」
「朝に一回」
「二百回利用しても?」
「減れば足す」
「入れ替えではなく、足すだけ?」
「水を全部捨てれば、金がかかる」
「利用者が同じ水へ手を入れています」
「だから手を洗うのだろう」
直人は一度、息を整えた。
「汚れた手を入れ続ければ、水も汚れます」
「見た目は水だ」
「安全な手洗いとは言えません」
「新しい水を毎回流せと言うのか」
「栓付き容器なら、使用量を抑えながら一方向に流せます」
「設備代は?」
「見積もりが必要です」
「また金だ」
「料金を取っている設備です」
直人は便所を示した。
「利用料の中から、衛生を維持する必要があります」
◇
「一月の収入と支出を確認できますか」
ダスは強く警戒した。
「利益を奪うつもりか」
「利用料が必要な理由を確認します」
「父へ聞かなければ見せられない」
「概算でも構いません」
「一日百五十回。月契約者は八十四人」
「月契約はいくら?」
「家賃に含まれる。便所分は一人月銅貨十八枚として計算している」
「一回払いは?」
「小銅貨一枚」
「汲み取りは?」
「三日に一度」
「料金は?」
「一回、銀貨二枚」
「清掃人件費」
「月で銀貨一枚と銅貨二十枚ほど」
「修理積立は?」
「必要な時に父が出す」
「定額で分けていない?」
「していない」
「最近の修理は?」
「去年、女性側の扉を直した」
「床は?」
「板を一枚替えた」
「処理槽は?」
「十年前に石積みを補修した」
「点検は?」
「汲み取り人が見る」
「記録は?」
「ない」
収入はある。
汲み取り費も清掃費も支払っている。
すべてを利益として取っているわけではない。
だが、設備維持のための積立や点検記録はない。
「料金を無料にすれば、汲み取りが止まります」
ダスが言った。
「それは理解しています」
「なら、払えない者を入れられない理由も分かるだろう」
「分かることと、今の方法が最善だと認めることは別です」
「どうしろと?」
「費用を確保しながら、払えない時にも最低限使える仕組みを考えます」
「誰が不足分を払う」
「住宅所有者、町、水務局、利用者、事業者。負担を分ける方法があります」
「地方の小さな町と、王都を同じにするな」
「人数は違います。でも、原因が決まるまで水を止めなかった方法は使えます」
「便所料金と緊急給水は違う」
「生活に必要な設備という点は同じです」
◇
第一便所の設備調査は、聞き取りとは別の日に立会者をそろえて行うことになった。
今日は、外観と危険箇所だけ。
入口。
料金所。
列。
手洗い。
便壺廃棄口。
男女別の四室。
立ち小便設備。
「床を叩いても?」
直人が尋ねる。
「壊すなよ」
ダスが答えた。
男性側一室目。
乾いている。
二室目。
入口付近に沈み。
女性側一室目。
床へ大量の水。
二室目。
奥の板に割れ。
「割れているではないか」
ダスが覗き込む。
「いつからです?」
「朝はなかった」
「利用者が壊した?」
「そうに決まっている」
「まだ決めないでください」
割れた板の周囲には、古い黒ずみ。
今日突然できた傷だけではない。
「長く湿っていた板に、最後の荷重がかかった可能性があります」
「誰が使ったか、木札で分かる」
「責任を請求するために調べるのですか」
「修理費を――」
「先に使用停止です」
直人は赤札を出した。
「女性側一室を止めます」
「列が倍になる!」
「三室と立ち小便設備は残ります」
「料金収入が減る」
「人が落ちる可能性があります」
「仮設を持ってきていないのか」
「調査初日です」
「便器屋なのに?」
「三百二十人分の仮設設備を、許可なく持ち込めません」
エルンが水務局支所へ使者を出す。
「南区の緊急便所備蓄を確認します」
「そんなものがあるのか」
「祝祭用の交換式設備が六台あります」
「全部ここへ置け」
ダスが言う。
「四便所全体の利用状況を確認して配分します」
「うちが最初に壊れたのだぞ」
「壊れたから優先候補です。ただし、最も代替手段がない場所を確認します」
町で決めた優先順位。
命や健康。
代替の有無。
影響人数。
準備状況。
申請順。
王都でも、その考えは使える。
◇
使用停止札を掛けようとした時、列から声が上がった。
「また使えないの?」
先ほどのミレナだった。
娘の手を引いている。
「女性側一室に床の割れが見つかりました」
直人が説明する。
「残り一室は使えます」
「列は?」
すでに女性側だけで十二人。
「仮設便所を手配します」
「いつ?」
「南区支所の備蓄を確認しています」
「娘が我慢できません」
ミレナは料金箱を見た。
「二人分払ったら、先に入れますか」
ダスが答える。
「順番は順番だ」
「子どもが漏らしたら?」
「路地でさせるなよ」
「では、どこで?」
直人は列を見る。
高齢者。
子ども。
妊婦らしい女性。
通常列だけでは、緊急性を扱えない。
「優先利用の順番を作ります」
「勝手に変えるな」
ダスが言う。
「料金徴収の権利は変えません。列の安全管理です」
「誰が優先かで揉める」
「基準を表示します」
幼い子ども。
妊婦。
歩行困難者。
体調不良者。
長く我慢できない事情がある者。
「申告すれば、誰でも先に入れるではないか」
「設備担当者が確認します」
「設備担当者?」
「今はいませんか」
「料金を集める私だ」
「一人で料金、列、故障、清掃連絡を全部?」
「今までやっている」
「だから、割れた床を利用者から言われるまで把握できなかった可能性があります」
ダスは黙った。
◇
仮の優先列には、黄色い縄が使われた。
通常列は白。
優先列は黄色。
利用者同士で順番を奪い合わないよう、フィルが記録板を持つ。
「水務局が便所の列を管理するのか」
ダスが言う。
「今日だけの緊急措置です」
エルンが答えた。
「仮設設備と恒久管理は、調査後に決めます」
ミレナと娘は、優先列の二番目になった。
先頭は杖を持つ老人。
「料金は?」
ダスが尋ねる。
「通常どおり徴収します」
直人が答えた。
ミレナの顔が曇る。
「ただし、料金問題は別途協議します」
「今日払えなければ?」
「立替札を使います」
「誰の金で?」
「南区水務局の緊急衛生調査費から、今日の対象者分を仮払いします」
ハイルが使者から受けた承認書を持って到着した。
「一日分だけです」
「無料で使わせれば、全員が優先だと言うぞ」
ダスが反発する。
「利用記録を残します」
ハイルが答えた。
「対象は、床破損による待ち時間増加で緊急性が高い利用者だけ」
「後で誰に請求する」
「調査費として処理します。あなたの収入は減らしません」
ダスは渋々うなずいた。
ミレナは小銅貨を出さず、立替札を受け取った。
子どもと一緒に個室へ入る。
「二人分だ」
ダスがフィルへ言う。
「利用者一人と、介助を必要とする幼児一人」
直人が記録内容を確認する。
「料金単位は、調査欄へ別に書いてください」
「子どもも使う」
「介助利用と、単独利用を分けます」
「何が違う」
「設備を二室占有するわけではありません」
ダスは何か言おうとしたが、黙った。
料金制度を考えるためには、利用回数だけでなく、利用形態も必要になる。
◇
ミレナたちが出た後。
床。
洗浄設備はない。
排泄穴へ落とすだけ。
手洗い桶。
濁った水。
「娘さんは転びませんでしたか」
「今日は大丈夫です」
「子ども用の足台が必要です」
「置く場所がありますか」
個室は狭い。
大人が子どもを抱え、衣服を扱うだけで、ほとんど余裕がない。
「子ども用便座を付ける?」
フィルが尋ねた。
「穴の大きさを一時的に狭める板は作れます」
「便所ごとに?」
「まず一台試験」
「持ち運び式にすれば、ほかでも使える?」
「清掃と保管方法が必要です」
利用者が入れ替わる共同便所。
個人宅の子ども用設備と同じにはできない。
「子ども料金を取るなら、子どもが安全に使える設備も必要です」
ミレナが言った。
ダスが彼女を見る。
「料金は汲み取り代だ」
「でも、娘は大人用の穴を使わされます」
「母親が支えればいい」
「支えて、私が落ちたら?」
返事はなかった。
◇
初日の調査結果が、南区支所へ持ち帰られた。
第一便所。
四個室。
男性二、女性二。
男性立ち小便設備一。
推定一日百五十から二百利用。
女性一室、床割れで使用停止。
手洗いは浸し桶方式。
清掃一日一回。
便壺廃棄口あり。
便壺を飲用井戸横で洗浄。
利用料は一回ごと。
一号棟住民は家賃込み。
他棟住民、子ども、便壺廃棄は個別料金。
「四便所のうち一つを見ただけで、これだけあります」
フィルが記録紙を見た。
「残り三つも同じではないでしょう」
直人が答える。
「もっと悪い可能性も」
「もっと良い可能性もあります」
セラが言った。
「先に悪いと決めない」
「はい」
ハイルは、料金記録を見ていた。
「第一便所が一番高いと言われています」
「その分、囲いと男女分離がある」
「料金が高いから設備が良い?」
「最低限の安全が保たれているとは、まだ言えません」
「床が割れていますからね」
「でも、住民はほかよりましだと選んでいる」
料金を取ること。
清掃費を確保すること。
女性用の囲いを作ること。
それ自体は、悪いことではない。
問題は、料金を払えない人の代替手段がないこと。
子どもから大人と同じ料金を取りながら、子ども用の安全設備がないこと。
利用料が保守積立へ分けられず、故障後にしか修理されないこと。
「無料化だけを提案すると、所有者は反対します」
エルンが言った。
「汲み取りと清掃が止まるからです」
「全額有料のままでは、路地と川への排泄が続く」
直人が答えた。
「最低利用分を、町や住宅所有者が負担する方法?」
フィルが尋ねる。
「考えられます」
「一定回数までは利用札を配る?」
「世帯人数に応じた衛生利用札」
「それ以上は有料?」
「通常利用をどこまで保障するか、計算が必要です」
「便壺廃棄は?」
「別料金にすると、川へ捨てる人が増えます」
セラが言う。
「廃棄だけは、無料にした方が町の利益になるかもしれない」
「所有者の槽が早く満杯になります」
「その汲み取り費を、公共側が一部負担する?」
「路地清掃や井戸汚染の費用と比較します」
リリアがいれば、すぐに費用表を作り始めただろう。
「町へ資料を送ります」
直人が言った。
「リリアさんに、料金案の試算を頼みます」
「返事まで六日以上です」
「今すぐ決める必要はありません」
「目の前で、払えない人がいるのに?」
フィルが尋ねた。
「だから、正式制度までの暫定措置を作ります」
◇
初日の暫定措置。
一。
床破損による混雑が解消するまで、幼児、妊婦、歩行困難者、体調不良者の優先列を設置。
二。
優先利用者が料金を払えない場合、南区緊急衛生費で一日一回分を仮負担。
三。
便壺廃棄は、夜間の路上投棄防止のため、日没後から翌朝まで一世帯一回を仮無料。
四。
料金徴収者へは、利用記録に基づいて水務局が後払い。
五。
床破損室の代替として、祝祭用仮設便所一台を第一便所脇へ設置。
「一台だけですか」
直人が尋ねる。
「六台のうち、二台は破損」
ハイルが答えた。
「残り四台は?」
「第二から第四便所も確認して配ります」
「一台で女性側の不足を補う?」
「男女共用の個室型です」
「子ども用補助座は?」
「ありません」
「簡易枠を作ります」
「誰が?」
「南区の大工組合へ依頼してください」
「費用は?」
「緊急衛生費の範囲で」
「また増えます」
ハイルが頭を抱える。
「必要性と費用を記録します」
「あなたも、すぐ記録と言うのですね」
「最近、言うようになりました」
フィルが笑った。
◇
夕方。
祝祭用仮設便所が第一便所脇へ運び込まれた。
交換式の大壺。
木製座位枠。
扉。
使用中札。
状態は良くない。
座面にささくれ。
蓋の革帯は切れかけている。
「備蓄なのに、点検されていません」
直人が言った。
「祭りの後に倉庫へ戻したままです」
ハイルが答える。
「このままでは使えません」
「今日中に直せますか」
「座面研磨。革帯交換。固定確認。荷重試験」
大工組合から二人が呼ばれた。
作業。
試験。
夕暮れ前に合格。
「備蓄設備も、使う前に毎回修理するのですか」
フィルが尋ねる。
「保管前と、定期点検が必要です」
「使っていない間にも壊れる?」
「木は湿気を吸います。革は乾いて切れます。虫も入ります」
「緊急時に出してすぐ使えると思っていました」
「すぐ使える状態を保つことが、備蓄管理です」
また一つ、王都水務局の記録項目が増えた。
◇
仮設便所が使えるようになると、ミレナが娘を連れてやってきた。
「こちらは、子どもも使えますか」
「補助座を付けます」
大人用の穴の上へ、取り外し式の小型座面。
落下防止の横枠。
足台。
「料金は?」
ミレナが尋ねる。
ハイルが答えた。
「床修理が終わるまで、幼児の介助利用は緊急衛生費で負担します」
「無料?」
「調査期間中の暫定措置です」
ダスが利用記録へ札を入れる。
「母親分は?」
「通常料金です」
ミレナは小銅貨を一枚払った。
「娘の分は、利用札」
「はい」
娘は足台へ足を置き、母親に支えられて補助座を使った。
以前より、抱き上げる必要が少ない。
「どうですか」
直人が個室の外から尋ねる。
「少し楽です」
「怖くない?」
母親が娘へ聞く。
「こわくない」
小さな声が返る。
設備は、大げさなものではない。
木板一枚。
横枠。
足台。
だが、子ども料金を取るなら、子どもが落ちずに使える形が必要だった。
◇
その夜。
直人たちは南区支所の宿直室で、明日の調査順を決めた。
第二便所。
料金は安い。
囲いが低い。
第三便所。
酒場客が多い。
夜間混雑。
第四便所。
住宅群から遠い。
最も古い。
「どこから見ますか」
フィルが尋ねる。
「代替が最も少ない場所」
直人が答えた。
「第四便所?」
「遠いですが、周辺住民はそこしか使えません」
「第三は夜の危険がある」
セラが言う。
「昼のうちに第四。夕方から第三」
「第二は?」
「明後日」
「すべてを見るのに三日以上」
「急いで一か所だけ見れば、ほかの危険を見落とします」
エルンが王都本局から届いた追加資料を広げた。
「井戸汚染についても新しい報告があります」
「どこですか」
「第二共同井戸。便壺洗い場の下流側」
「第一便所利用者が洗う井戸?」
「はい。水面に薄い膜が見つかりました」
「飲用停止は?」
「まだです」
直人が顔を上げる。
「なぜです?」
「検査前に止めれば、代替水が足りません」
「安全確認前に飲ませ続ける?」
「王都本局は、臭いと色に明確な異常がないため、翌朝の採水まで継続使用と判断しました」
「今日、便壺洗浄を止めます」
「所有者の許可が――」
「井戸周辺の汚染行為は、水務局の権限で止められますか」
エルンが答える。
「一時停止命令は可能です」
「代替洗い場は?」
「ありません」
「作らず止めれば、路地で洗います」
フィルが言った。
「だから、仮洗浄場所を同時に用意します」
「夜から?」
「排水を密閉桶へ集めるだけでも」
便壺を洗わなければ、住民の部屋へ汚れた容器が戻る。
飲用井戸横で洗えば、井戸を汚す可能性がある。
止めるだけでは、問題が別の場所へ移る。
「また仕事が増えましたね」
セラが言う。
「見つけたからには、対応します」
「王都へ来て一日目ですよ」
直人は、区域図へ新しい赤い印を付けた。
便所を使う料金。
便壺を捨てる料金。
子どもの安全。
清掃人の仕事。
汲み取り費。
飲用井戸横の洗い場。
すべてがつながっている。
料金を払えない人を追い返しても、排泄は消えない。
路地へ移る。
川へ移る。
便壺へ残る。
飲用井戸の横へ持ち込まれる。
必要なのは、無料か有料かを一言で決めることではない。
清掃と汲み取りの費用を確保しながら、誰も排泄場所を失わない仕組み。
その仕組みを作らなければ、便所の外へ追い出した汚れは、別の場所から町全体へ戻ってくる。
第一便所は四個室と男性用小便設備を持ち、一日百五十回以上利用されていました。
料金は清掃や汲み取りへ使われていますが、払えない住民や幼児にも例外がなく、便壺の廃棄にも料金が必要です。
その結果、一部の住民は排泄物を川へ捨てていました。
さらに、子ども料金を取る一方で、子どもが安全に使える補助設備はなく、女性用一室では腐食した床板の割れも見つかりました。
次回は、飲用井戸の横で行われている便壺洗浄を緊急停止し、汚水を井戸へ近づけない仮洗浄場所を設置します。




