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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第2章 町に、便器を広げます

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第41話 宿代を払っても、安全な便所とは限りません

王都へ向かう直人たちは、水務局指定の街道宿へ泊まることになりました。


指定宿なら、最低限の安全は確認されている。


直人はそう考えていました。


しかし、旅人が一晩だけ使う便所では、異常があっても次の利用者へ伝わらない仕組みが続いていました。

 王都へ向かう街道の一日目。


 馬車は、日が傾く前に宿場町へ入った。


 街道沿いには、旅人宿、馬小屋、食堂、鍛冶場が並んでいる。


 荷車を引く商人。


 護衛の傭兵。


 王都へ向かう役人。


 地方へ戻る職人。


 町の中より、出入りする人間の数が多い場所だった。


「今夜は《風見鶏亭》へ泊まります」


 水務局地方監査官のエルンが、街道の先にある三階建ての宿を指した。


 屋根には、鉄製の風見鶏。


 入口には水務局指定宿を示す青い札が掛けられている。


「水務局の指定基準は何ですか」


 陶山直人が尋ねた。


「飲用井戸の位置、馬小屋との距離、厨房の排水、客室数に対する便所数などです」


「便所の床や手すりも?」


「登録時には確認します」


「定期検査は?」


「三年ごとです」


「三年」


 直人は宿の外壁を見た。


 新しくはない。


 窓枠には歪み。


 雨樋の一部は外れ、壁へ水染みが残っている。


「問題がありますか」


 エルンが尋ねた。


「まだ外から見ただけです」


「今回は王都南区が目的です」


「分かっています」


 セラが馬車から降りながら笑った。


「ナオトさんへ先に言っておかないと、宿へ入る前に屋根から調べ始めますよ」


「泊まる場所の安全確認は必要です」


「宿泊客としての範囲でお願いします」


 エルンが念を押した。


「正式調査ではありません」


「危険が見つかった場合は?」


「それは現場を見てから判断します」


「同じ答えですね」


「あなたの影響です」


          ◇


 《風見鶏亭》の主人は、丸顔の男性だった。


 名はヘム。


 旅人相手の商売に慣れているらしく、三人の外套と荷物を見るだけで、すぐに対応を変えた。


「水務局のエルン様。いつもありがとうございます」


「今夜、三名です」


「二階の静かな部屋をご用意します」


「水は?」


「客室ごとに水差し一つ。追加は銅貨一枚です」


「飲用井戸は、以前と同じですか」


「はい。中庭の深井戸でございます」


 ヘムは直人とセラを見る。


「こちらのお二人は?」


「水務局の調査協力者です」


「では、特別料金で」


「通常の公務料金でお願いします」


 エルンが先に答えた。


「かしこまりました」


 宿帳へ名前を書く。


 直人は入口横へ置かれた手洗い桶を見た。


 大きな木桶。


 一つの柄杓。


 石けん草はない。


「この水は、いつ交換しますか」


 ヘムが直人を見る。


「手洗い桶ですか?」


「はい」


「朝と夕方です」


「利用者は、同じ柄杓を使う?」


「もちろんです」


「手を桶の中へ入れる方も?」


「旅人ですから、多少はおります」


「飲み水とは別ですよね」


「井戸は同じです」


「容器は?」


「厨房用の桶を使うこともあります」


 エルンが小さく咳をした。


「ナオト殿」


「確認しただけです」


「宿泊手続きが先です」


          ◇


 客室は清潔だった。


 寝台。


 毛布。


 荷物棚。


 小さな洗面器。


 窓の鍵も動く。


「部屋は問題なさそうですね」


 セラが言った。


「見える範囲では」


「まだ調べる気ですか」


「便所の場所を確認します」


 廊下の突き当たりに案内板がある。


 一階。


 男性用共同便所。


 女性用共同便所。


 二階。


 夜間用便壺置き場。


「夜間用便壺?」


 直人が案内板を見る。


「一階まで下りるのが危険な客向けでしょう」


 エルンが答えた。


「回収方法を確認しても?」


「宿泊客として使い方を聞く範囲なら」


 三人は、まず一階の共同便所へ向かった。


          ◇


 男性用便所は、宿の裏庭に近い場所にあった。


 三つの個室。


 女性用も三つ。


 宿泊客二十八人に対し、合計六室。


 数だけなら極端に少なくない。


 しかし、入口へ近づくと、床に細かな砂が撒かれていることに気づいた。


「滑り止めでしょうか」


 セラがしゃがむ。


「砂の下に水があります」


 指先では触れず、細い棒で砂を動かす。


 黒っぽい湿り。


「清掃水ですか」


 直人が近くの従業員へ尋ねた。


「雨漏りです」


 若い従業員は、慣れた様子で答えた。


「屋根の端から、水が落ちます」


「今日は雨が降っていません」


「昨日の雨が、壁の中に残っているのでしょう」


「いつから?」


「去年の秋頃です」


「修理は?」


「主人が大工へ頼むと言っています」


「現在も使っていますか」


「はい」


 床の砂を踏む。


 表面は滑りにくい。


 だが、下の木床は水を吸っている。


「床を棒で確認してもいいですか」


「壊さなければ」


 従業員は簡単に許可した。


 直人は個室へ入らず、入口側から床を叩いた。


 こん。


 中央。


 こん。


 壁際。


 ぼすっ。


 音が鈍い。


「壁際が傷んでいます」


「砂を撒いているので滑りません」


「滑りだけの問題ではありません」


 仕切り壁の下部にも黒い染み。


 釘の周りには赤錆。


「床が沈んだことは?」


「大柄な客が使うと、少し鳴ります」


「鳴る?」


「ぎしぎしと」


「使用停止にしたことは?」


「ありません」


 エルンの表情が変わる。


「水務局指定宿として、床の異常報告は受けていません」


「主人へ言いました」


 従業員が答える。


「砂を増やせと言われました」


 セラが直人を見る。


 革工房《黒樹皮》で起きた事故と似ている。


 床が沈む。


 上から板を載せる。


 危険を直さず、表面だけを補う。


「宿の主人を呼んでください」


 エルンが言った。


 今度は宿泊客ではなく、水務局監査官の声だった。


          ◇


 ヘムは、不満そうに便所へやってきた。


「今夜は公務途中の宿泊では?」


「指定宿の重大な安全問題を確認しました」


 エルンが答える。


「重大とは大げさです」


「床が湿り、壁際の打音が変わっています」


 直人が言った。


「あなたは何者ですか」


「銀月衛生商会の施工設計責任者です」


「便器屋が、うちの宿へ口を出すのか」


「床が抜ける可能性があります」


「抜けたことはない」


「抜けるまで使うのですか」


「古い宿なら、床は鳴る」


 ヘムは濡れた砂を靴で踏んだ。


「滑らないよう対策している」


「砂で腐食は止まりません」


「大工を呼ぶ予定だ」


「いつです?」


「冬前には」


 今は初夏。


 数か月先である。


「それまで使い続ける?」


「客を断れば、宿が回らない」


「女性用便所の状態も同じですか」


「こちらより新しい」


「確認します」


「女性用へ男が入るつもりか」


 セラが前へ出た。


「私が見ます」


 女性用便所は、利用者がいない時間を確認してから閉鎖された。


 セラと宿の女性従業員が内部へ入る。


 直人とエルンは外で待つ。


 しばらくして、セラが戻った。


「奥の一室で、床板の端が沈みます」


「どのくらい?」


「指一本分ほど。壁に水染み。扉の鍵も外れかけています」


「利用停止が必要です」


 直人が言った。


「六室のうち、いくつ止める気だ」


 ヘムの声が強くなる。


「男性用は、少なくとも壁側一室。女性用も奥一室」


「客二十八人に四室では、朝に列ができる」


「床へ落ちるより安全です」


「一晩しか泊まらない旅人だぞ」


 その言葉に、直人の表情が変わった。


「一晩なら、怪我をしてもいいのですか」


「そうは言っていない」


「旅人は翌日、この宿を出ます」


 セラが言う。


「床が沈んだことを知っても、次の客へ伝えられません」


 同じ町に住む者なら、危険な便所の噂が広がる。


 設備担当者がいれば、異常記録も残る。


 旅人宿では、利用者が毎日入れ替わる。


 昨日の異常を、今日の客は知らない。


「宿側が記録しなければ、危険が積み重なります」


 直人が言った。


「客は宿代を払っています」


「寝床と食事のためだ」


「便所の安全も宿泊設備に含まれます」


「契約書に書いていない」


「水務局の指定条件に入っています」


 エルンが指定宿登録書を取り出した。


「共用便所の床、扉、照明、排泄槽の安全を維持すること」


「登録時には問題なかった」


「現在の状態を維持する義務があります」


          ◇


「便所を止めるなら、代わりを用意してくれ」


 ヘムが言った。


「水務局が工事費を出すのか」


「所有者の保守責任です」


「急に二室止められたら、客へ返金が必要になる」


「空き部屋を減らし、宿泊人数を制限する方法もあります」


「今夜の客は、もう代金を払っている」


「仮設便所を設置できますか」


 エルンが直人へ尋ねた。


「銀月衛生商会の仮設便所は町に残しています」


「宿場町の大工と陶工で作れるか?」


「今夜中の座位式二台は難しいです」


「便壺はある」


 ヘムが言った。


「夜間用便壺を使えばよい」


「二階に置いているものですか」


「そうだ」


「見せてください」


          ◇


 二階の廊下奥。


 小さな物置に、六つの便壺が並んでいた。


 陶器製。


 蓋付き。


 客室へ持ち込める大きさ。


「夜、階段を下りたくない客へ貸しています」


 ヘムが説明する。


「使用後は?」


「朝、従業員が回収する」


「どこへ運ぶ?」


「一階便所の槽へ流す」


「階段を下ろす?」


「はい」


「一人で?」


「若い者なら」


 直人は便壺を持ち上げた。


 空でも重い。


 使用後は、さらに重量が増える。


「蓋の固定は?」


「載せるだけだ」


 蓋は、壺の口へ置かれているだけ。


 革帯も留め具もない。


「階段で傾いた場合は?」


「気をつけて運ぶ」


「こぼれたことは?」


 従業員たちが視線をそらす。


「ありますね」


 セラが言った。


 廊下の床に、丸い染み。


 階段の角にも、変色した跡。


「月に一度か二度です」


 若い従業員が答えた。


「私が慣れていなかった時に」


「怪我は?」


「一度、足を滑らせました」


「主人へ報告しましたか」


「しました」


「何と?」


「両手でしっかり持てと」


 直人はヘムを見る。


「運ぶ人の注意だけへ任せています」


「便壺は昔から、この方法だ」


「蓋を固定し、二人で運び、階段を使わない回収経路へ変える必要があります」


「二階に便壺を置くなと言うのか」


「現在の運び方は危険です」


「年寄りや病人に、一階へ行けと?」


「貸し出し自体を否定していません」


 直人は物置の窓を見る。


 外には、屋根付きの荷物用昇降台がある。


 厨房へ食材を上げるための簡易滑車。


「便壺を階段で運ばず、外側の昇降台で下ろせませんか」


「食材を運ぶ台だぞ!」


「同じ台を使うのは駄目です」


「なら、どうする」


「便壺専用の吊り籠と縄を設けます」


「建物の外を、汚物が下りるのか」


「蓋を固定し、囲いを付けます」


「客から見える」


「裏側へ専用経路を作る」


「工事費がかかる」


「こぼれた汚物を廊下で清掃する費用と、転倒事故の危険を比較してください」


 ヘムは答えなかった。


          ◇


「今夜の応急対応を決めます」


 エルンが言った。


「男性用、女性用それぞれ一室を使用停止」


「残り四室」


「混雑時間には、夜間用便壺を一階の仮設個室へ置く」


 直人が提案した。


「二階から下ろすのではなく、最初から一階へ置く?」


「はい。空の便壺を二つ、一階裏庭の物置へ移します」


「囲いは?」


「荷車用の布と木枠で、一時的に二室作れます」


「客が座れるのか」


「便壺の上へ直接座らせません」


 ロッカはいない。


 だが、宿には古い椅子と木板がある。


 直人は、便壺へ体重を直接かけない座位枠の簡易図を描いた。


「大工を呼びます」


 ヘムが言う。


「今夜中に作れる者がいるか?」


「宿場町の荷車修理工なら」


「便座の高さは?」


「高齢者用一台。通常高さ一台」


「男女別にする?」


「利用状況を見て共用。鍵と使用中札を付けます」


 女性利用者が使いやすいよう、宿の女性従業員にも配置を確認してもらう。


「手洗いは?」


「現在の共用桶とは分けます」


 栓付き水壺。


 石けん草。


 使用済み水の受け。


「水壺まで追加か」


 ヘムが言う。


「仮設便所だけ置き、手を洗えなければ不十分です」


「費用は宿?」


「はい」


「今夜の宿代より高くなる」


「今後も使える仮設設備です」


「二室を修理したら不要になる」


「便所故障時、祝祭日の混雑、病人対応に使えます」


 ヘムは計算し始めた。


 目の前の出費ではなく、予備設備として残せる。


「宿場祭の日は、毎年便所が足りない」


「利用できます」


「便壺を増やせば、仮設を四室にできる?」


「処理と回収人員も増やす必要があります」


「商売にできるな」


「まず今夜の安全を確保してください」


          ◇


 応急工事が始まった。


 使用停止となった二室には、赤い札。


 入口の床へ縄。


 扉は外から固定。


 残り四室には、利用者が並ぶ位置を示す線を引く。


「なぜ列の位置まで?」


 ヘムが尋ねる。


「朝、利用が集中します」


「勝手に並ぶだろう」


「男性用と女性用の列が、厨房への通路へ重なります」


 便所の前は狭い。


 厨房から生ごみや食材を運ぶ従業員が通る。


 列と作業動線が交われば、衝突や汚れの持ち込みが起きる。


「厨房側の通路は空けます」


「列が裏庭へ伸びる」


「雨の場合は?」


「屋根の下へ曲げる」


「馬小屋の前へ出るぞ」


「馬の移動時間と重ならないよう、朝の荷出し時刻をずらしてください」


 便所二室を止めただけで、宿の朝の運営まで変わる。


「なぜ便所のために、馬車の時間まで変える」


 ヘムが言った。


「人の列と馬が交わるからです」


「今まで事故はない」


「起きる前に分けます」


          ◇


 簡易座位枠は、日没前に完成した。


 宿場町の荷車修理工が作った木枠。


 便壺は下部の扉から交換する。


 体重は木枠へかかり、壺へ直接かからない。


 蓋は革帯で固定。


 使用中札。


 簡易鍵。


 一台は通常高さ。


 もう一台は低めで、横に手すり。


「手すりは、どこへ固定した?」


 直人が尋ねる。


「木枠の脚と背板へ」


 修理工が答える。


「薄板だけではありませんね」


「荷車の座席より強くした」


「荷重試験をします」


「今から?」


「使用前です」


 砂袋を載せる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 通常型。


 ぐらつきなし。


 低型。


 手すりへ横方向の力をかける。


 木枠が少し動いた。


「床へ固定していないからです」


「仮設なのに、床へ穴を開けるのか」


 ヘムが言う。


「重い台座を追加します」


 荷車用の鉄板二枚。


 木枠の下へ固定。


 もう一度、手すりへ力をかける。


「動きが減りました」


「完全には止まらない」


「利用者が手すりへ全体重を預けた場合を考えます」


 壁側へ、取り外し可能な突っ張り材を追加する。


「これで?」


 再試験。


 動きなし。


「仮設低型、合格です」


「便器一つで、何度試す」


 修理工が額の汗を拭いた。


「人が体重を預ける設備です」


「荷車より面倒だ」


「荷車も車輪が外れれば危険でしょう」


「確かに」


          ◇


 手洗い場も変えられた。


 共用の浸し桶は、便所利用後の手洗いには使わない。


 宿の水壺へ簡易栓を付ける。


 水は一方向へ流れる。


 石けん草液。


 乾燥布は共用しない。


 小さな交換布を用意し、使用済み箱へ入れる。


「布代がかかる」


 ヘムが言った。


「宿で洗って再利用できます」


「誰が洗う?」


 女性従業員の一人が尋ねた。


 ヘムが彼女を見る。


「厨房の洗い物と一緒に――」


「分けてください」


 直人が止める。


「便所用の布と、食器用の布を一緒に扱わない」


「洗う桶も?」


「はい」


「従業員が増えないと回らない」


「作業量を記録してください」


「また記録か」


 ヘムが言う。


「今まで見えなかった仕事量を確認します」


 手洗い水補充。


 使用済み布の回収。


 仮設便壺の交換。


 床の水確認。


 列の案内。


「これまでは、誰がやっていましたか」


「空いた者だ」


「担当を決めましょう」


「一晩のために?」


「今後も予備設備として使います」


 宿の夜番リッツが仮設便所担当。


 朝番の女性従業員サーナが手洗いと女性用便所確認。


 男性用は馬番の一人が、馬の移動前に確認。


「馬番へ便所掃除までさせるのか」


「勤務時間と手当を決めてください」


 リッツがヘムを見る。


「手当が出るのですか」


「今まで宿の仕事として――」


「新しい仮設管理です」


 エルンが言った。


「追加業務として記録することを勧めます」


 ヘムは不満そうに銅貨を数え始めた。


          ◇


 夕食後。


 宿泊客へ便所の変更が説明された。


「男性用と女性用、それぞれ一室が修理のため使えません」


 ヘムが食堂で声を上げる。


「一階裏庭に、仮設便所を二室用意しました」


「宿代を払っているのに、仮設か?」


 商人が不満を口にする。


「危険な床を使わせるより安全です」


 直人が答えた。


「この男は?」


「設備調査の者です」


 ヘムが説明する。


「水務局の指定宿なのに、壊れているのか」


 別の旅人が言う。


「だから、使う前に止めました」


 エルンが答えた。


「今日泊まった者は、便所が壊れていたことを知らなかった」


 セラが周囲を見た。


「明日来る客にも、修理中であることを知らせてください」


「宿の評判が落ちる」


 ヘムが低い声で言う。


「隠して床が抜けた方が落ちます」


「修理中と書けば、客が別の宿へ行く」


「選ぶための情報です」


 入口の指定宿札の横へ、黄色い告知札が追加された。


 共同便所二室、修理のため停止中。


 仮設便所あり。


 高齢者・歩行困難者向け低型一室あり。


「高齢者用があるなら、かえって選ぶ客もいるかもしれません」


 リリアなら、そう言っただろう。


 直人は思った。


 欠点を隠すのではなく、対応内容を示す。


 修理中でも、安全へ配慮している宿として伝えることはできる。


          ◇


 夜。


 直人が客室で王都資料を確認していると、廊下から音がした。


 がたん。


 続いて、陶器が擦れる音。


 扉を開ける。


 若い従業員が、夜間用便壺を抱えている。


「どこへ運ぶのですか」


「三階の客室です」


「階段で?」


「今夜から、二人で運べと言われました」


 後ろには、もう一人の従業員。


 二人で壺を持っている。


「空の壺ですね」


「はい」


「使用後は?」


「朝まで部屋に置きます」


「回収は?」


「今までどおり階段を――」


「専用経路が完成していません」


「仮設便所を使えと言っても、客が部屋へ持ってこいと」


 高齢の旅人。


 脚を痛め、三階から一階へ下りられない。


「便壺を貸すこと自体は必要です」


 直人は答えた。


「回収方法を変えましょう」


「今夜はどうする?」


 外側の昇降台は食材用。


 汚物へは使えない。


「朝、客が部屋を出る前に、便壺の蓋を革帯で固定します」


「それから二人で階段?」


「階段を通る間、廊下と階段を一時的に通行止め。下側の者が先に安全確認。運搬後、手すりと床を清掃」


「大げさでは?」


「こぼれた時、ほかの客が滑ります」


「分かりました」


「今夜使用する壺へ、固定帯を追加します」


 従業員は、直人と一緒に革帯を取り付けた。


「朝、ナオトさんも見てくれますか」


 直人は答えようとして、止まった。


 王都調査班として、明朝出発しなければならない。


「宿側の担当者が行います」


「僕ですか」


「夜番のリッツさんと二人で」


「失敗したら?」


「手順表を作ります」


「それでも怖いです」


「怖いと感じたら、運搬を止めて主人を呼んでください」


「止めてもいい?」


「はい」


 誰かに急かされても、危険なら止める。


 銀月衛生商会で決めた権限は、宿の従業員にも必要だった。


          ◇


 翌朝。


 宿泊客が起きる前に、便壺回収が行われた。


 客室前。


 蓋固定。


 外側清掃。


 運搬用木台へ載せる。


 二人で持つ。


 階段通行止め。


「下、通行なし」


「上、運搬開始」


 一段ずつ下ろす。


 途中で急がない。


 踊り場で一度置く。


 持ち手を確認。


 再開。


 一階へ到着。


「こぼれなし」


「床、汚れなし」


 回収された便壺は、仮設便所と同じ処理経路へ運ばれた。


「毎回これをやるのか」


 ヘムが見ていた。


「専用昇降設備を作るまでです」


「費用が大きい」


「二階か三階へ、高齢者用便所を設ける方法もあります」


「水洗か?」


「排水経路を確認しなければ決められません」


「また調査か」


「建物を壊さず置けるとは限りません」


「商会へ相談を出せばいいのか」


「銀月亭の窓口へ、現況図と利用回数を送ってください」


「お前が戻るまで待つ?」


「町内班が調査受付をします」


「本人がいなくても?」


「商会ですから」


 直人は少し誇らしく答えた。


          ◇


 朝の便所利用は、予想どおり集中した。


 男性用二室。


 女性用二室。


 仮設二室。


 列はできたが、厨房通路とは分けられている。


 低型仮設便所は、杖を使う旅人二人が利用した。


「今までなら、二階の便壺を借りていた」


 一人が言った。


「一階に座れる便所がある方が楽だ」


 女性用仮設では、利用者が鍵の位置に戸惑った。


 サーナが外から説明する。


「扉を閉め、右の木片を下げてください」


「使用中札は?」


「扉と連動して変わります」


 仕立屋で改良した仕組みが、ここでも役立っている。


「全部、別の現場から持ってきた方法ですね」


 セラが言った。


「同じ問題が、場所を変えて起きます」


「同じ解決を、そのまま使える?」


「そのままではありません」


 宿では旅人が入れ替わる。


 毎回、説明が必要。


 複雑な手順は守られにくい。


「だから、表示を増やす?」


「表示だけでなく、操作を減らします」


 使用中札は扉連動。


 水位確認は担当者だけ。


 一般利用者は、空室か使用中か、使用可か停止中かだけを見る。


「旅人へ記録を書かせないのですね」


「一晩の利用者へ管理を任せません」


「宿側の責任が大きくなる」


「宿泊料には、設備管理も含まれます」


          ◇


 出発前。


 エルンは水務局指定宿の臨時改善命令をヘムへ渡した。


 七日以内。


 男性用と女性用の腐食床を開放調査。


 雨漏り原因の修理。


 傷んだ板と梁の交換。


 便壺運搬手順の正式化。


 三十日以内。


 二階・三階用便壺の専用回収設備を計画。


 便所点検記録を開始。


 水務局へ報告。


「従わなければ?」


 ヘムが尋ねる。


「指定宿登録を一時停止します」


「水務局の客が来なくなる」


「一般客へも、指定札を掲示できません」


「工事費の融資は?」


「町の宿泊衛生改善枠へ申請できます」


「そんな制度があるのか」


「利用件数が少なく、知られていません」


「先に言ってくれ!」


「危険を報告しなければ、制度へもつながりません」


 ヘムは申請書を受け取った。


「銀月衛生商会へ正式調査を頼む」


「町へ戻ってから、担当者が日程を調整します」


「王都から戻るまで待つのだろう?」


「ロッカさんと町内班が、先行調査できます」


「本当に、お前がいなくても動くのか」


「昨日、確認したばかりです」


          ◇


 馬車が宿場町を出る。


 直人は振り返った。


 《風見鶏亭》の入口には、修理中の黄色札。


 裏庭には、二つの仮設便所。


 朝番のサーナが、手洗い槽の水位を確認している。


 夜番のリッツは、便壺回収表へ印を付けていた。


「一晩しかいないのに、結局調査になりましたね」


 セラが言った。


「床が沈んでいました」


「見つけた以上、無視はできません」


 エルンも認める。


「ただし、王都への到着を遅らせない範囲で済みました」


「正式工事は町内班へ引き継ぎます」


「任せられるようになりましたか」


「はい」


「本当に?」


 セラが笑う。


「少しだけ、気になります」


「それは任せたとは言わないのでは?」


「口を出さなければ、任せています」


 馬車は街道を進む。


 宿代を払う。


 水務局の指定札がある。


 客室が清潔。


 それでも、便所が安全とは限らない。


 旅人は一晩で去る。


 昨日床が鳴ったことも。


 前の客が水をこぼしたことも。


 従業員が階段で便壺を落としかけたことも。


 次の利用者は知らない。


 だから、短期間だけ使う場所ほど、施設側の記録と点検が必要になる。


「王都南区も、住民が頻繁に入れ替わります」


 エルンが資料を見ながら言った。


「日雇い労働者や地方から来た家族が多い」


「異常があっても、長く住む人へ情報が残らない?」


「管理者が記録していなければ」


 宿場町の便所で見た問題は、王都の共同住宅にもつながる。


 利用者が変わる。


 所有者が複数。


 誰が管理するか分からない。


 危険を見つけても、次の人へ伝わらない。


 便器の数だけを増やしても、それでは安全にならない。


「まず、管理記録の有無を確認します」


 直人が言った。


「便所四か所の所有者も」


 セラが加える。


「井戸を管理している人と、使用料を集めている人が同じかどうかも」


 エルンがうなずく。


「到着前に、調査項目へ追加しましょう」


 王都まで、あと二日。


 町の外へ出ても、直人が見るものは変わらない。


 便器。


 水。


 床。


 汚物。


 そして、誰も担当していない仕事。


 次の宿では何も起きないことを願いながら、直人は新しい調査表を作り始めた。

水務局指定宿《風見鶏亭》では、雨漏りで共同便所の床が傷んでいましたが、砂を撒くだけで使用を続けていました。


さらに、二階と三階の夜間用便壺は、蓋を固定せず従業員一人で階段を運ぶ危険な方法が続けられていました。


直人たちは危険な二室を停止し、一階へ交換式仮設便所を設置。利用者の列、手洗い、便壺回収、従業員の担当も見直します。


旅人が毎日入れ替わる施設では、異常を次の利用者へ伝えるため、宿側の記録と点検が不可欠です。


次回は王都へ入る前の関所で、調査道具と採水瓶を「毒物を運ぶ道具」と疑われ、衛生調査そのものを止められそうになります。

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