第40話 全員で王都へ行けば、町の仕事が止まります
王都南区では、三百二十人が暮らす共同住宅の井戸と便所に問題が起きています。
しかし、銀月衛生商会の仕事は王都だけではありません。
仕立屋の試験運用、革工房地区の緊急給水、第三号便器の製造、教会や宿屋からの相談。
全員で王都へ向かえば、今度はこの町の衛生改善が止まってしまいます。
銀月亭の食堂に、大きな木板が運び込まれた。
いつもの相談札を掛ける板より、二回り大きい。
中央には、太い縦線。
左側には、リリアの字でこう書かれていた。
王都調査班。
右側には、
町内運営班。
その下には、銀月衛生商会が現在抱えている案件札が並んでいる。
仕立屋《金糸の針》。
革工房《黒樹皮》。
革工房地区の緊急給水。
《青雫染房》の沈殿槽。
白石教会の共同便所。
赤鍋亭。
治療院。
金鹿亭。
第三号便器。
陶器製水位案内筒。
そして、王都南区共同住宅。
「多いですね」
テオが板を見上げた。
「数えれば、十一件あります」
「細かな保守連絡を含めれば、もっとあるわ」
リリアが答えた。
「相談だけで、まだ現場調査をしていない家も六軒」
「全員で王都へ行くのは無理ですね」
ミーナが言う。
「最初から、そう言っている」
ガルドは腕を組んだまま、不機嫌そうに答えた。
「俺は行かん」
「親方は第三号便器を作るので、町に残ります」
テオが言った。
「お前もだ」
「僕もですか」
「縁の水路を作りかけだろうが」
「王都の陶工房も見てみたいです」
「今のお前が見るべきなのは、自分の水路だ!」
工房の親方と弟子の担当は、早々に決まった。
問題は、それ以外だった。
「王都へ必要なのは、まずナオトさん」
リリアが左側へ、直人の名札を掛けた。
「現場調査と、排水設計」
「はい」
「水務局のエルンさん」
エルンは王都水務局への報告者であり、現地との連絡役でもある。
「私は最初から同行予定です」
「次に、ボルグさん」
「待て」
ボルグが止めた。
「俺が王都へ行けば、革工房地区の汲み取りを誰がやる」
《黒樹皮》の既存溜め槽。
染料と革くずが混じった汚泥。
仮設便所の密閉壺。
青雫染房の仮回収槽。
通常の回収仕事とは異なる作業が続いている。
「組合の副頭領へ任せられませんか」
直人が尋ねた。
「通常の便槽ならな」
「薬剤が混じった槽は?」
「俺が判断した方がいい」
「では、町へ残る?」
リリアがボルグの名札を右へ移す。
「だが、王都の三百二十人分の処理槽を見る者も必要だ」
「両方はできません」
「分かっている」
ボルグは太い腕を組み、木板を睨んだ。
「王都へ行く前に、現地の汲み取り人から情報を集めろ」
「王都水務局へ依頼します」
エルンが答えた。
「便槽の大きさ、汲み取り回数、運搬先、働いている人数」
「使っている桶と車もだ」
「記録します」
「最初の調査は資料と現地の回収人で行い、処理計画を作る段階でボルグさんに確認してもらう」
直人が言った。
「図だけで分からん場合は、呼べ」
「分かりました」
◇
「ミーナさんは?」
リリアが尋ねた。
「王都の井戸と給水を確認するなら必要です」
直人が答える。
「町の緊急給水も、ミーナさんが必要でしょう」
革工房地区。
職人宿舎四十六人。
二世帯九人。
仕立屋。
治療院。
複数の現場で、ミーナの水魔法が補助給水として使われている。
「私が王都へ行けば、町の給水契約を続けられません」
ミーナ自身が答えた。
「ほかの水魔術師へ引き継ぐことは?」
「手洗い用の水なら、一部は頼めます。でも、治療院の緊急給水は、使用量と時間を私が調整しています」
「では、町内班」
リリアが名札を右へ掛けた。
「王都の水量調査はどうしますか」
ミーナが尋ねる。
「容器の大きさと運搬回数を記録します」
直人が答えた。
「井戸の湧水量は?」
「王都水務局の技術官と測ります」
「魔法を使わない場合の供給量を先に確認してください」
「なぜです?」
「私のような水魔術師がいれば、足りない分を埋められます。でも、それを最初から当てにすると、魔術師が休めなくなります」
革工房で、すでに学んだことだった。
水魔法は便利だ。
しかし、井戸や水路の代わりとして一人へ依存すれば、その者が倒れた日に全設備が止まる。
「王都でも、通常供給と魔法補助を分けます」
「お願いします」
ミーナは自分の名札が町内側へ掛けられたことを確認した。
以前なら、自分が王都へ呼ばれなかったことを能力不足と受け取ったかもしれない。
今は違う。
町の給水責任者として、残る理由を理解している。
◇
「ロッカさんは、町内班です」
直人が言った。
「勝手に決めるな」
「革工房の排水溝と、青雫染房の仮槽があります」
「分かっている」
「仕立屋の陶器製案内筒も、取り付け枠の改修が必要です」
「それも分かっている」
「教会の腐食床も――」
「全部分かっている!」
ロッカが木板を叩いた。
「だから、俺は残る」
王都の共同住宅にも、床や建物の確認が必要だ。
しかし、最初の調査であれば、写真も測定器もないこの世界では、詳細な図と木型を持ち帰る方法を取るしかない。
「床の状態は、どう記録させる」
ロッカが直人へ尋ねた。
「叩いた音だけでは伝わらんぞ」
「木材の表面、色、柔らかさ、湿り、沈み幅を確認します」
「床下へ入るな」
「安全な点検口がない場合は入りません」
「棒を刺した深さも残せ」
「測定棒へ目盛りを付けます」
「梁の位置は?」
「上から推定せず、小さな確認穴を開けられるか所有者へ確認します」
「勝手に開けるなよ」
「当然です」
「仕立屋で梁を見落としたことを忘れるな」
「忘れていません」
ロッカは納得したように、自分の名札を町内班へ掛けた。
◇
「リリアさんは、王都へ同行してください」
直人が言った。
リリアはすぐに答えなかった。
「理由は?」
「契約、費用、住民との話し合いがあります」
「町にも同じものがある」
「マルタさんが受付を――」
「受付だけではないわ」
リリアは町内側の案件札を指した。
「革工房地区の給水費は、七日後に再協議。青雫染房の仮槽契約。金鹿亭の乾燥小屋出資。教会の衛生献金案。仕立屋の保守契約」
「王都では三百二十人分です」
「最初の調査で、契約まで結ぶの?」
「正式工事は、調査後です」
「なら、今回はあなたが現場を見て、私は町で商会を動かす」
「王都の住民や管理者との話は?」
「事実を聞くところまで。金額や契約条件は決めずに持ち帰る」
「その場で決める必要が出た場合は?」
「決めない」
リリアはきっぱり言った。
「急かされても、調査契約の範囲を超える約束はしない」
「住民の水が止まっていたら?」
「緊急措置だけ、水務局の予算で行う。商会が勝手に費用を背負わない」
直人は黙った。
自分が王都で困っている人を見れば、その場で仮設便所や給水を約束してしまう可能性がある。
「私が同行した方が、安全かもしれません」
「町の商会が止まる方が危険よ」
「マルタさんと――」
「ナオト」
リリアは直人の言葉を止めた。
「銀月衛生商会の契約責任者は、誰?」
「リリアさんです」
「では、私が残ると決める」
直人は、ゆっくりうなずいた。
「分かりました」
「王都の正式見積もりと契約交渉が始まる時は、私も行く」
「最初の調査班は?」
「ナオト、エルン。それからセラさん」
◇
「私ですか」
部屋の隅で静かに話を聞いていたセラが顔を上げた。
セラは、わずかな汚れや痕跡を追うことを得意としている。
水の染み。
土の色。
古い擦れ跡。
人が歩いた跡。
革工房地区でも、青い水の経路調査へ助言していた。
「王都では、図面にない地下水路を探す必要があります」
リリアが言った。
「痕跡を見る人が必要よ」
「ナオトさんは?」
「設備の形は見ます。でも、土や建物に残った細い跡は、セラさんの方が詳しい」
「現地の犯罪調査ではありませんよね」
「違います」
エルンが答えた。
「水務局の衛生調査です。ただし、住民同士の責任争いが起きているため、勝手に私物を調べることはできません」
「許可を得た範囲だけ?」
「はい」
「聞き取り記録も?」
「お願いします」
セラは少し考えた後、うなずいた。
「参加します」
「報酬は?」
リリアが尋ねる。
「通常の町内調査とは別です」
「移動日を含め、日当を設定する。宿代と食費は商会負担。危険区域へ入る場合は追加」
「危険の判断は?」
「エルンさんとナオト」
「調査を止める権限もください」
セラが言った。
「危険だと判断した時、依頼主が続けろと言っても止められるように」
リリアはすぐに契約書へ加えた。
「調査班全員に停止権限を付ける」
「全員?」
「誰か一人でも、崩落、毒性、汚水接触の危険を感じたら一時停止」
直人がうなずく。
「良いと思います」
「ナオトだけに判断させない」
「俺だけでは見落とす可能性があります」
「そこまで素直に言えるなら安心ね」
◇
王都調査班は、三人に決まった。
陶山直人。
エルン。
セラ。
王都までの移動は、馬車で三日。
現地での予備調査は五日。
往復を含め、最低十一日間。
「十一日も町を離れるのですか」
テオが驚いた。
「道の状態で延びる可能性があります」
「第三号が、その間に素焼きまで進みます」
「製造判断はガルドさんが行います」
「洗浄穴の位置は?」
「第二号の改善目標を渡します」
「ナオトさんの確認なしで作る?」
テオの声に不安が混じる。
「製造責任者はガルドさんです」
「だが、設計責任者はお前だろう」
ガルドが言った。
「安全へ関わる設計変更は、出発前に決めます」
「窯で予想外の変形が出た場合は?」
「製造を止めるか、試験品として続けるか、ガルドさんが判断してください」
「俺が決めてよいのか」
「今までも、窯の判断はガルドさんがしていました」
「最終製品の合格は?」
「俺が戻るまで待つ必要はありません」
工房が静かになった。
「検査表の安全項目を満たし、エルンさんの代わりに水務局の地方技官が立ち会えば、試験便器として判定できます」
「お前なしで、第三号を合格にする?」
「商会の仕組みとしては、それが必要です」
ガルドは直人をじっと見た。
「戻ってから、気に入らんと言うなよ」
「記録と検査結果に問題がなければ言いません」
「形が少し違っても?」
「許容範囲なら」
「釉薬の色が違っても?」
「性能へ影響しない外観差なら」
「本当に言うなよ」
「何度確認するんですか」
「お前は戻ると細かいことを言う!」
全員が笑った。
◇
町内運営班の責任者は、リリアとなった。
ただし、すべてをリリア一人へ集めるわけではない。
製造。
ガルド。
製造記録と検査準備。
テオ。
給水。
ミーナ。
汚物処理。
ボルグ。
木工・建物改修。
ロッカ。
契約・会計・優先順位。
リリア。
受付と宿の運営。
マルタ。
「問題が起きた時、誰へ聞けばいいですか」
マルタが尋ねた。
「内容ごとに責任者へ」
直人が答える。
「内容が分からない場合は?」
「リリアさんへ」
「結局、リリアへ集まるではないか」
ガルドが言った。
「判断の種類を分けます」
直人は新しい紙を広げた。
現場で即時判断してよいこと。
班内で相談すること。
王都班の帰還を待つこと。
「待ってください」
リリアが止めた。
「十一日間も、あなたの帰りを待つ案件を作らない」
「新しい水洗便器の設計変更は?」
「緊急でなければ保留」
「既存設備の漏水は?」
「現場責任者が止め、修理」
「費用上限は?」
「そこを決める」
◇
町内班には、判断可能な費用枠が与えられた。
銅貨十枚以内。
担当責任者が、保守契約内の修理として判断可能。
銀貨一枚以内。
リリアの承認で、緊急修理または仮設対応が可能。
銀貨一枚を超える工事。
依頼主との追加契約が必要。
ただし、生命や井戸汚染へ直結する場合は、最小限の使用停止と封鎖を先に行う。
「金がない相手の便所が崩れた場合は?」
ロッカが尋ねた。
「仮設と立入禁止までは、緊急衛生費を申請する」
リリアが答える。
「本修理は?」
「支払方法、町の支援、分割契約を検討する」
「金を払わないからと、壊れた便所を使わせることはない?」
「もちろん」
「勝手に高級仕様へ直すこともない?」
「当然よ」
「ぬくもり便座を付けるのは?」
ガルドが尋ねた。
「なぜ、そこへ戻るの」
「金鹿亭の製造順を確認しただけだ」
「金鹿亭は試験室一台。第三号便器の検査後」
「分かっておる」
◇
次に決めたのは、使用停止の権限だった。
「赤い札を誰でも掛けていいのですか」
テオが尋ねる。
「設備担当者と商会の責任者です」
直人が答えた。
「一般の利用者は?」
「異常を感じた場合は、入口に置く黄色い注意札を掛け、担当者へ連絡」
「水があふれていたら?」
「利用者でも赤札を掛けられるようにします」
「誰かが悪戯で掛けたら?」
「確認して外せばよい」
ガルドが言った。
「止めることより、止められないことの方が危険だ」
直人は少し驚いてガルドを見る。
「何だ」
「同意見です」
「お前だけの考えではない!」
利用停止の条件。
床の沈み。
便器のぐらつき。
給水管からの継続漏れ。
排水の逆流。
封水の急な消失。
井戸水の色、臭い、味の変化。
利用者の転倒。
原因不明の腹痛が複数人。
「腹痛まで設備担当者が判断するの?」
マルタが尋ねた。
「原因を決める必要はありません」
直人が答える。
「同じ場所を利用する複数人に症状があれば、治療院と商会へ連絡する」
「便所や水をすぐ止める?」
「飲用水なら、代替水を用意して停止。便所は、ほかの原因も考えて水務局と判断します」
「全部を一律に赤札ではないのね」
「はい」
◇
連絡方法も問題だった。
王都まで三日。
使者を出しても、返事まで最低六日。
「緊急時に、ナオトへ聞けない」
ミーナが言った。
「だから、聞かずに判断できる範囲を決めています」
「新しい問題で、表にないものは?」
「似た危険を基準にしてください」
「それでも迷ったら?」
「安全側に止める」
直人が答えた。
「止めた後、町内班で相談」
「あなたが帰った後、判断が違っていても怒らない?」
「記録と理由があれば」
「覚えておきます」
リリアが笑った。
「本当に覚えておいてください」
「あなたの方がね」
◇
正式な班分けの前に、一日の試験運営を行うことになった。
直人は銀月亭の二階へ上がり、王都資料の整理だけをする。
町内案件には、原則として口を出さない。
「同じ建物にいるのに?」
テオが尋ねた。
「俺が王都にいる想定です」
「声が聞こえても?」
「呼ばれない限り、下りません」
リリアが腕を組む。
「自分から下りてきたら、王都班の準備失格ね」
「失格まで決める必要は――」
「一日も任せられない人を、十一日送り出せないでしょう?」
「分かりました」
試験開始。
直人は二階の小部屋へ入り、扉を閉めた。
◇
最初の連絡は、仕立屋《金糸の針》からだった。
陶器製案内筒の試作品が、ガルドの工房で焼き上がった。
太さの違う三本。
どれを取り付けるか判断が必要。
「ナオトを呼ぶか?」
ガルドが言う。
「呼びません」
リリアが答えた。
「製造責任者と、取り付けをするロッカさんで決めて」
「水位棒の動きも見る必要がある」
「ミーナさんも」
三人で試験。
一番細い筒。
乾いた棒は動く。
水垢を模した薄い泥を付けると、引っかかった。
二番目。
正常。
三番目。
隙間が広く、棒が傾きすぎる。
「二番目だ」
ガルドが決めた。
「十回ではなく、三十回動かします」
ミーナが言う。
「ナオトの真似をするな」
「必要です」
三十回。
水位変化。
作動。
異常なし。
「仕立屋へ取り付けます」
リリアが承認した。
二階の直人には、連絡されなかった。
◇
二件目。
革工房地区の仮設便所。
予定より早く、密閉壺が黄色線へ達した。
「利用回数が増えた」
ボルグが記録を見る。
「既存便所を完全に止めたからだ」
「予備壺は?」
「二つ」
「今日の終業まで足りますか」
「交換すれば足りる。だが、明日の回収車が朝に来られん」
「なぜ?」
「青雫染房の仮槽運搬と重なった」
リリアは運行表を見る。
「別の回収人へ頼めますか」
「通常便壺担当なら一人空いている」
ボルグが答える。
「薬剤混じりではなく、仮設便所の壺だけなら任せられる」
「追加料金は?」
「銅貨六枚」
町内班責任者の承認枠内。
「依頼します」
「ナオトに聞かなくていいのか」
「聞かない」
回収人を追加。
仮設便所の満杯による停止を回避した。
◇
三件目。
昼前。
銀月亭の相談窓口へ、子どもを抱いた女性が駆け込んできた。
「共同長屋の便所で、手すりが外れました!」
「怪我人は?」
マルタが最初に尋ねた。
「祖父が転びました。腕を擦りむいています」
「治療院へ?」
「隣人が連れていきました」
「便所は?」
「ほかの人が使っています」
マルタは赤い緊急札を取った。
「場所と利用人数を教えてください」
共同長屋。
十八人。
便所一室。
代替便所なし。
リリアが判断する。
「ロッカさんは仕立屋へ行く予定だった」
「陶器筒の取り付けは午後でもよい」
ロッカが言った。
「長屋を先に見る」
「仮設便所は?」
「銀月亭の予備一台を運ぶ」
「十八人に一台?」
「既存便所の床が安全なら、手すりだけ止めて使える可能性がある」
「現場確認前に決めない」
ミーナが言った。
全員が一瞬、彼女を見る。
「ナオトさんなら、そう言います」
「そのとおりね」
リリアがうなずいた。
「赤案件として現場調査。便所全体が危険なら、仮設を追加する」
ロッカ、ミーナ、マルタが現場へ向かった。
二階の直人は、足音と会話を聞いていた。
扉へ手を掛ける。
だが、開けなかった。
◇
共同長屋の手すりは、壁板だけへ短い釘で固定されていた。
体重を掛けたことで、板ごと外れた。
「手すりの形は悪くない」
ロッカが確認する。
「固定先が悪い」
壁の裏に柱がない。
「便所の床は?」
床板の打音。
沈み。
湿り。
大きな異常なし。
「使用停止は、手すり側の壁周辺だけでよい」
「手すりなしで使える人は?」
ミーナが尋ねる。
「使える。ただし、転んだ方のように支えが必要な者は、仮設の座位便所を使う」
「優先札を付けます」
応急対応。
外れた手すりを撤去。
壁へ注意表示。
仮設座位便所一台。
本修理は、壁裏の柱へ固定できる位置へ変更。
「費用は銀貨一枚以内です」
マルタが概算した。
「長屋管理人へ見積もりを出し、今日は緊急衛生費で仮設と封鎖」
「正しい」
ロッカが言った。
「ナオトを呼ばなくても進んだな」
◇
夕方。
一日の試験運営が終わった。
直人が二階から下りると、町内班の記録が机へ並んでいた。
陶器製案内筒。
中間径を選定。
三十回試験合格。
翌日取り付け予定。
革工房の仮設便所。
回収人一名を追加。
満杯停止を回避。
共同長屋。
手すり脱落。
怪我人治療。
便所本体は条件付き使用継続。
仮設一台。
本修理見積もり。
「何か問題はありますか」
リリアが尋ねた。
直人は三件の記録を順に読んだ。
「陶器筒の試験は、水温の違いを確認しましたか」
「始まった」
リリアが呟く。
「聞いただけです」
「常温水と、朝の冷たい水で試した」
ミーナが答えた。
「乾燥後も?」
「明朝、もう一度確認します」
「問題ありません」
「仮設便壺の回収人は、防護具を?」
「ボルグさんが確認済み」
「問題ありません」
「長屋の手すりは、壁裏の柱位置を――」
「小さな確認穴を開け、二本確認した」
ロッカが答えた。
「問題ありません」
直人は記録を閉じた。
「俺がいなくても、動いています」
「当たり前よ」
リリアが言う。
「少し寂しそうですね」
テオが笑った。
「安心しています」
「本当に?」
「少しだけ、落ち着きません」
全員が笑った。
◇
王都へ持っていく資料は、原本ではなく写しに決まった。
「原本を持っていけば、町内班が確認できなくなります」
マルタが言った。
「王都で紛失する可能性もあります」
リリアが資料へ番号を付ける。
王都南区依頼書。
革工房地区排水図。
井戸使用停止手順。
緊急給水契約。
便所利用記録例。
処理槽点検表。
仮設便所運用表。
「住民の名前は?」
セラが尋ねた。
「王都の調査に不要な個人名は消します」
直人が答える。
「腹痛や病気の記録も?」
「部屋番号と人数だけ。本人の同意がない限り、名前は持ち出さない」
「責任争いの資料として求められたら?」
「水務局の正式手続きを通します」
衛生記録には、人の暮らしや体調が含まれる。
詳しく残せばよいというだけではない。
必要な者だけが見る仕組みも必要だった。
◇
出発前夜。
工具箱の中身が確認された。
短い解体工具。
測定棒。
水位管。
角度付き鏡。
白い確認紙。
採水瓶。
赤、黄、青、白の札。
手袋。
防水前掛け。
封印紐。
筆記具。
「便器は持っていかないのですか」
テオが尋ねた。
「調査です」
「見本を見せれば、住民が理解しやすい」
「馬車で運ぶには重いです」
「木製模型なら?」
ロッカが、便器と処理槽の小型模型を持ってきた。
「排水の流れを説明できる」
「助かります」
「壊すなよ」
「ガルドさんの便器ではありません」
「俺が作った模型だ!」
「ロッカさんでした」
「誰の物でも壊すな!」
◇
翌朝。
銀月亭の前に、水務局の馬車が止まった。
荷物。
資料。
工具。
旅用の食料。
セラはすでに外套を着て待っている。
エルンは王都への通行書を確認していた。
「町のことは、こちらで判断する」
リリアが直人へ言った。
「危険があれば、止めてください」
「分かっている」
「費用が――」
「決めた範囲で使う」
「新しい水洗契約は――」
「調査だけ受ける」
「第三号は――」
「ガルドとテオが決める」
「毎日、仕立屋の白札を――」
「ナオト」
リリアがため息を吐いた。
「もう出発して」
「はい」
「王都でも、全部一人で見ようとしない」
「エルンさんとセラさんがいます」
「住民に頼まれても、その場で十台作ると約束しない」
「約束しません」
「無料で仮設便所を置くとも言わない」
「緊急時は、水務局と――」
「勝手に商会負担へしない」
「分かりました」
「本当に?」
「調査範囲を超える費用は持ち帰ります」
リリアはようやくうなずいた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
馬車が動き始める。
銀月亭。
新しい商会看板。
相談札。
工房の煙。
少しずつ遠ざかっていく。
直人が異世界へ来てから、初めて長期間町を離れる。
以前なら、自分がいなければ便器も工事も止まると思っていた。
今は違う。
ガルドが作る。
テオが記録する。
ミーナが水を守る。
ボルグが処理する。
ロッカが建物を直す。
マルタが相談を受ける。
リリアが商会を動かす。
一人で全部を行わないから、町の仕事を止めずに次の場所へ行ける。
「王都まで、三日です」
エルンが言った。
「途中の宿は、水務局指定の場所を使います」
「便所の状態は?」
直人が尋ねる。
エルンが一瞬、黙った。
「旅人から苦情が多い宿もあります」
「調査対象ですか」
「今回は王都が先です」
「危険が見つかった場合は?」
セラが笑う。
「町を出て半刻も経っていませんよ」
「確認しただけです」
馬車は王都へ続く街道を進む。
町で最初の便器を作った施工士は、初めてその技術を町の外へ持ち出そうとしていた。
ただし、持っていくのは便器だけではない。
止める基準。
記録する方法。
責任の分け方。
費用が決まるまで、人の水を止めない仕組み。
そして、自分がいなくても仕事を続けられる商会。
銀月衛生商会は、一台の便器を売る集団から、複数の場所を同時に支える組織へ変わり始めていた。
王都調査には直人、エルン、セラが向かい、リリアたちは町へ残ることになりました。
町内班では、製造、給水、処理、木工、契約、受付の責任者と判断可能な費用範囲を定めます。
さらに一日の試験運営を行い、直人へ確認せずに水位案内筒、仮設便壺、共同長屋の手すり事故へ対応しました。
全員で一つの現場へ集まらず、それぞれの責任者が記録と基準に沿って判断する仕組みが動き始めます。
次回は王都へ向かう街道の宿で、旅人用便所の危険な管理方法を目にします。




