第38話 原因が決まるまで、水を止めないでください
革工房地区では、《黒樹皮》に続き、四十六人が暮らす職人宿舎の共同井戸も使用停止になりました。
しかし、井戸を汚した原因は、まだ一軒の工房に特定されていません。
原因が決まらなければ、代替水の費用も決められない。
だからといって、住民へ水を届けずに待つことはできません。
翌朝。
水務局の会議室には、普段より多くの椅子が並べられていた。
水務局地方監査官のエルン。
革工房《黒樹皮》の主人ケルム。
上流側にある革工房《赤角革房》の主人ドーガ。
染色工房《青雫染房》の管理人メルサ。
職人宿舎《川風長屋》の管理人グレブ。
住民代表として、洗濯仕事をしている女性ナディア。
水運び人のサムとルネ。
銀月衛生商会からは、陶山直人、リリア、ミーナが参加している。
机の中央には、三つの井戸を示した地図。
革工房地区を流れる排水溝。
下り側にある職人宿舎。
検査結果。
緊急給水量。
費用表。
「先に申し上げます」
エルンが会議を始めた。
「本日の目的は、汚染原因を確定することではありません」
ケルムが眉をひそめる。
「原因を調べる会議ではないのか」
「原因調査は別に続けます」
「では、何を決める?」
「今日から七日間、四十六人へ安全な水を届ける方法と、その仮の費用負担です」
「原因が分からないのに、誰が払うのだ」
《赤角革房》のドーガが言った。
「うちは便所の床など抜けていない」
「排水溝は同じものを使っています」
エルンが答える。
「それだけで、うちも払えと?」
「まだ、そうは決めていません」
「《黒樹皮》の槽から漏れたのだろう」
染色工房のメルサが、ケルムを見る。
「うちの染料まで疑われるのは迷惑だ」
「井戸から樹皮液に似た反応も出ている」
ケルムが言い返す。
「革工房は、うちだけではない」
「樹皮を使う量は、《黒樹皮》が一番多い」
「そちらは青染料を排水溝へ流しているではないか」
「許可された沈殿槽を通している!」
「その槽を、最後に点検したのはいつだ」
「今は関係ないでしょう!」
会議室の声が大きくなる。
「その話を続けている間、宿舎の水はどうするのですか」
住民代表のナディアが言った。
工房主たちの声が止まる。
「昨夜は、水務局から一人につき小壺一つ分の水が配られました」
「緊急備蓄量です」
エルンが答える。
「飲んで、料理をしたら終わりです。手を洗う水も、子どもの体を拭く水も足りません」
「水を大量に運ぶには金がかかる」
長屋管理人のグレブが言った。
「だから、今朝から一部屋につき銅貨一枚の緊急水代を集めることにした」
ナディアがグレブを睨んだ。
「まだ払っていません」
「水運び人へ支払わなければ、水は来ない」
「普段の井戸使用料は、家賃に含まれています」
「井戸が使えないのは、私の責任ではない」
「私たちの責任でもありません」
「払わなければ、水量を減らすしかない」
「減らさないでください」
直人が言った。
全員の視線が集まる。
「原因と費用を決める前に、必要最低量を確保します」
「金は誰が出す」
グレブが尋ねた。
「それを今から決めます。ただし、払えない住民から先に水を減らす方法は取りません」
「商会が払うのか」
「銀月衛生商会は、原因者ではありません」
リリアが答えた。
「でも、費用の組み方は提案できます」
◇
直人は、ミーナが作成した必要水量表を広げた。
「四十六人分を、一つの水として計算しません」
紙には、三つの区分がある。
飲用・料理用。
手洗い・体を清潔にする水。
洗濯・床清掃などの生活作業用。
「一人一日に必要な飲用・料理水は、最低でも小壺二つ分を見込みます」
「二つも?」
グレブが言った。
「昨日は一つで足りた者もいる」
「足りたのではなく、我慢したのです」
ナディアが答える。
「子どもへ飲ませて、自分はほとんど飲まなかった人もいます」
「手洗い用は?」
エルンが尋ねた。
「共同手洗い場へ大桶四杯。食事前、便所後、乳幼児の世話を優先します」
「洗濯水は、どのくらいだ」
ドーガが表を覗く。
「通常どおりの量は運べません」
直人が答えた。
「飲用可能な水を、大量の洗濯へ使うのも現実的ではありません」
「服を洗わなければ、不衛生になる」
ナディアが言う。
「だから、飲み水とは別に、非飲用の生活用水を用意します」
「どこから?」
エルンが地図を指した。
「町の北側貯水池です。ただし、体や食器には使用できません」
「革工房の黒桶と同じ水?」
ミーナが尋ねる。
「同じ水源ですが、容器と配送先は分けます」
「革を洗った桶で、長屋へ運ばないでください」
ナディアが言った。
「当然です」
水運び人のサムが答える。
「生活用は灰色の桶を新しく用意する」
「黒は工房。灰色は長屋」
ルネが記録する。
「白は飲用。青は手洗い」
「色だけではなく、形も変えます」
直人が言った。
「飲用容器は口が狭く蓋付き。手洗い槽は栓付き。生活用水は広口ですが、飲用禁止の斜線を描きます」
「子どもが間違えて飲んだら?」
「置き場所を分けます」
飲用水は長屋中央の管理室。
手洗い槽は便所と食堂前。
生活用水は洗濯場。
それぞれを縄と表示で区切る。
「水を運ぶ回数は?」
サムが計算する。
「白容器が朝二台、夕方一台。青槽が朝一台、昼一台。灰色桶が一日二台」
「一日七台?」
「荷車一台では無理だ」
「ほかの契約もある」
ルネが言う。
「水運び人を追加で二組必要です」
「誰が手配しますか」
エルンが尋ねた。
「水務局から登録業者へ連絡します」
「料金は通常より上がる」
サムが言った。
「急な依頼。容器の洗浄。水源ごとの荷車分離。夜明け前の作業もある」
「正当な追加料金は費用表へ入れます」
リリアが答えた。
「緊急だから、安く働けとは言わない」
サムとルネがうなずいた。
◇
「問題は費用です」
リリアが、新しい紙を机へ置いた。
七日間の暫定費用。
飲用水。
手洗い水。
生活用水。
水運び人の追加料金。
容器の貸出。
清掃。
長屋側の水管理担当者。
水務局の再検査。
「全額を住民へ請求すれば、一世帯あたり銅貨九枚以上です」
会議室が静かになった。
「払えない家があります」
ナディアが言った。
「日雇い職人の部屋では、一週間の食費に近い」
「長屋管理人が払うべきだ」
メルサが言う。
「井戸付きの部屋として家賃を取っているのだから」
グレブが机を叩く。
「私は井戸を汚していない!」
「安全な井戸を提供する契約では?」
リリアが尋ねる。
「家賃には、井戸の利用が含まれています」
「井戸が使用停止になった場合の代替水については?」
「書いていない」
「では、住民へ追加料金を一方的に課す根拠もない」
「水を運ぶ金は、どこから出す!」
「仮負担を分けます」
リリアは表の下へ、四つの欄を作った。
町の緊急衛生費。
長屋管理者の仮負担。
排水区域事業者の仮負担。
住民の通常負担。
「住民の通常負担とは?」
ナディアが尋ねる。
「普段、家賃や井戸利用料として払っている範囲です」
「追加水代は?」
「原因調査中の七日間は、請求しない案です」
グレブが立ち上がった。
「私へ全部払わせるつもりか!」
「全部ではありません」
「長屋管理者の仮負担はいくらだ」
「全体の二割」
「高い!」
「井戸と水置き場を管理する契約者としての負担です」
「工房は?」
「排水区域事業者三者で、全体の三割を仮に分担」
ケルム、ドーガ、メルサの表情が変わる。
「原因が分からないのに?」
ドーガが言った。
「仮負担です」
リリアが答える。
「原因確定後、実際の責任割合に応じて精算する」
「うちが無関係なら、返るのか」
「はい」
「誰が金を預かる」
「水務局です」
エルンが答えた。
「特別会計として分けます。原因調査費とは混同しません」
「町は?」
「最初の七日間、緊急衛生費から全体の五割を支出します」
「町が半分?」
グレブが少し安心した声を出す。
「住民の健康被害を防ぎ、汚染拡大を抑える公共上の必要があるためです」
「八日目以降は?」
ナディアが尋ねた。
「調査状況を見て再協議します」
「原因が分からなければ、また住民が払う話になる?」
「そうならないよう、七日以内に排水源調査を進めます」
直人が言った。
「でも、安全確認前に井戸を再開することはできません」
◇
ケルムが費用表を見つめた。
「《黒樹皮》は、すでに仮設便所と工房の代替水へ払っている」
「その費用は、工房内の安全確保です」
リリアが答える。
「長屋分まで払えば、資金が足りなくなる」
「三事業者で均等に分ける案ではありません」
「どう分ける?」
「排水量に応じた仮割合です」
直人は各工房の水使用記録を示した。
《黒樹皮》。
一日の推定排水量が最も多い。
《赤角革房》。
二番目。
《青雫染房》。
水量は少ないが、染料を含む。
「量だけで決めるのか」
メルサが言う。
「染料の危険性まで計算できません」
「なら、なぜうちも払う」
「同じ排水溝へ流し、井戸から染色成分の可能性がある反応も出ています」
「青色ではなかった」
「色が見えない濃さでも成分が残る可能性があります」
エルンが補足する。
「仮割合は、《黒樹皮》五、《赤角革房》三、《青雫染房》二」
「うちが半分か」
ケルムが呟く。
「最終責任割合ではありません」
「《黒樹皮》の便所槽から漏れが見つかったからだな」
「はい。それは確認済みの危険要因です」
「認める」
ケルムは苦い顔でうなずいた。
「だが、ほかの工房も調べろ」
「今日から調査します」
ドーガは、まだ不満そうだった。
「先に金を出し、無関係だった場合、本当に戻るのだな?」
「水務局印付きの仮負担証を発行します」
「支払期限は?」
「三日以内」
「今日払えなければ、水を止めるのか」
「止めません」
エルンが即答した。
「町の緊急費で先に水運び人へ支払います。事業者の未払いは、別に徴収します」
直人は、その言葉を確認した。
「費用問題を理由に、給水自体を止めない?」
「はい」
「それを契約へ書いてください」
「記載します」
◇
次は、長屋内の水管理だった。
「四十六人へ自由に配れば、初日の午前中で空になる可能性があります」
ミーナが言った。
「先着順にするのか」
グレブが尋ねる。
「しません」
直人が答えた。
「部屋数だけで均等に分ける?」
長屋には十六部屋ある。
一人暮らしもいれば、五人家族もいる。
「一部屋一壺では、人数の多い家庭が足りません」
ナディアが言った。
「人数別にします」
「子どもも大人と同じ?」
「飲み水は、体格だけで単純に半分にはできません」
病人。
妊婦。
乳幼児。
暑い作業をする職人。
必要量は異なる。
「最初は、居住人数を基準に配ります」
直人が言った。
「追加が必要な場合は、水管理担当者へ申告する」
「申告しにくい人もいます」
ナディアが言う。
「なぜです?」
「多く欲しがっていると思われるから」
「では、病人や乳幼児がいる世帯は、最初から追加枠へ入れます」
「誰が決める?」
「治療院の助言を受けます」
「病気を長屋全員へ知られる」
「個別の理由は公開しません」
配水札には、部屋番号と基準量だけ。
追加理由は、水管理責任者と治療院だけが確認する。
「飲用水を受け取った者の名前まで書くのか」
グレブが尋ねる。
「配った量と部屋番号は記録します」
「盗まれた場合は?」
「飲用水置き場に鍵を付けます」
「鍵を持つのは管理人の私だな」
ナディアが首を振った。
「グレブさん一人では困ります」
「私が管理人だ」
「今朝、追加水代を払えない部屋へ、水を減らすと言いました」
会議室が静かになった。
「払わない者へ、同じ量を出せば不公平だ」
「だから、あなた一人へ鍵を任せられません」
ナディアはまっすぐグレブを見た。
「住民側の担当者も必要です」
「管理権へ口を出すのか」
「生活に必要な水です」
直人が間へ入る。
「鍵を二つに分けましょう」
「二つ?」
「外扉と水槽蓋を別の鍵にする」
外扉の鍵は長屋管理人。
水槽蓋の鍵は住民側担当者。
どちらか一人では、飲用水を配れない。
「毎回、二人そろう必要があるの?」
グレブが不満そうに言う。
「朝と夕方に配水時間を決めます」
「急に水が必要な時は?」
「副担当者を置きます」
管理人側。
グレブと、長屋の夜番。
住民側。
ナディアと、食堂で働く年長女性。
「管理人を信用していない仕組みだ」
「住民だけへ任せない仕組みでもあります」
リリアが答えた。
「互いに記録を確認できます」
「盗難が起きたら?」
「量の差を追えます」
「誰かを疑うため?」
「水がどこで減ったかを確認するためです」
◇
会議の途中、長屋から使いが来た。
「水置き場で、揉め事です!」
ナディアが立ち上がる。
「何があったの?」
「灰色桶の水を、飲み水へ使おうとした人がいます」
「まだ灰色桶は届いていないはずです」
サムが言った。
「昨夜、火事用貯水池から長屋管理人が運ばせた桶です」
全員がグレブを見る。
「飲むためではない!」
グレブが答えた。
「床掃除と便所用だ」
「表示は?」
直人が尋ねる。
「桶へ灰色の布を巻いた」
「暗い場所では分かりません」
「住民へ説明した」
「全員へ?」
「夜番には言った」
使者が首を振った。
「子どもの母親が、透明だから飲めると思ったそうです」
「飲みましたか」
「口へ入れる前に、別の住民が止めました」
「すぐ現場へ行きます」
◇
会議は一時中断され、関係者は《川風長屋》へ向かった。
長屋の中庭には、三つの桶が置かれていた。
一つは水務局が昨夜届けた、蓋付きの飲用容器。
一つは手洗い用。
もう一つは、グレブが独自に用意した生活用水。
生活用水の桶には、灰色の布が一枚巻かれているだけ。
水自体は透明に見える。
「これでは、飲めない水だと分かりません」
直人が言った。
「布の色が違う」
「暗い時、目が悪い人、色を見分けにくい人には伝わりません」
「何を付ければいい」
直人は桶の側面へ、大きな絵を描いた木札を付けた。
口へ水を運ぶ人。
その上へ大きな斜線。
さらに、桶の縁へ凹凸のある太い縄を巻く。
「触っても違いが分かります」
「飲用容器には?」
「滑らかな白縄」
「手洗い用は?」
「結び目を一つずつ付けた青縄」
色。
絵。
容器の形。
手触り。
複数の方法で区別する。
「生活用水は、飲用置き場から離してください」
「どこへ置く?」
「洗濯場です」
「遠い」
「遠いから、間違えにくくなります」
グレブは不満そうだったが、職人たちへ桶を移動させた。
◇
「水の配給を始めます」
ナディアが住民へ声を掛けた。
中庭には、すでに長い列ができている。
大人。
子ども。
老人。
空の壺や水差しを持って待っている。
「部屋番号順にします」
グレブが言った。
「並んだ順ではないのか?」
住民の一人が不満を口にする。
「先着順だと、仕事で遅れた人の分がなくなります」
直人が説明した。
「一室から一人だけ、容器を持って来てください」
「家族が五人なら?」
「人数分を記録しています」
配水台には、部屋番号札。
居住人数。
基準量。
受領印。
飲用容器は、各家庭が持参したものをそのまま水槽へ入れない。
水管理担当者が、栓から注ぐ。
「その壺は、洗いましたか」
ナディアが一人の男性へ尋ねる。
「昨日まで井戸水を入れていた」
「外側に染料が付いています」
「中はきれいだ」
「飲用水を入れる前に、外側を拭きます」
専用の清掃台を通す。
水槽の栓へ汚れた容器が直接触れないよう、少し離して注ぐ。
「面倒だな」
男性が言った。
「安全な水を、容器で汚さないためです」
「飲む時に煮ればいい」
「すべての汚れを煮れば安全になるとは限りません」
エルンが答えた。
配給は、急がず進められた。
◇
列の途中で、一人の女性が基準量より大きな壺を持ってきた。
「部屋番号十二です」
ナディアが表を見る。
「三人暮らし。基準は小壺六杯です」
「この壺を満杯にして」
「それでは八杯分になります」
「夫は革工房で働いている。汗をかくから水が必要なの」
「追加枠の申請をしますか」
「今すぐ必要よ」
後ろの列から声が上がる。
「皆、必要だ!」
「一軒だけ多く取るな!」
女性の顔が赤くなる。
「夫は、暑い作業場で一日働いているの!」
「静かにしてください」
直人が列へ向き直った。
「追加が必要な家庭を、ここで責めないでください」
「水が足りなくなったら、どうする」
「追加分は別の記録へ入れます」
女性の夫は《赤角革房》の火を扱う工程で働いている。
通常より多く水分を必要とする可能性がある。
「今回は、一杯追加します」
ミーナが言った。
「明日からは、工房側が作業中の飲み水を用意してください」
「工房の水と、長屋の水を分ける?」
「仕事中に必要な水を、家庭分だけへ負担させないためです」
《赤角革房》の主人ドーガが、気まずそうに視線をそらす。
「うちで用意する」
「安全な飲用水を?」
「共同井戸から買う」
「その費用は事業費です」
リリアが記録する。
「従業員の家庭へ持ち帰らせないでください」
「分かった」
生活用水の問題は、家庭だけの問題ではない。
仕事中に必要な水。
工房が負担すべき水。
家庭で使う水。
それも分けなければならなかった。
◇
夕方までに、最初の正式な緊急給水契約が作られた。
期間は七日。
飲用水、手洗い水、生活用水を分離。
住民への追加料金徴収は禁止。
町が五割。
長屋管理者が二割。
排水区域の三事業者が三割を仮負担。
原因確定後に精算。
給水費の未払いを理由に、住民への水を停止しない。
水運び人へは、町が先に支払う。
配水管理は、管理人側と住民側の共同責任。
工房労働中の飲用水は、各雇用事業者が負担。
「署名をお願いします」
エルンが言った。
グレブ。
ナディア。
ケルム。
ドーガ。
メルサ。
水務局。
水運び人。
銀月衛生商会は、給水計画と衛生管理の支援者として署名する。
「これで、原因調査中も水は届きます」
ナディアが確認した。
「七日間は」
エルンが答える。
「八日目以降は?」
「調査結果を基に更新します」
「原因者が払わなければ?」
「水務局が徴収します。住民への給水とは切り離します」
ナディアは、ようやく少し安心した表情を見せた。
◇
銀月亭へ戻る道で、リリアが会計表を見ていた。
「町の緊急費だけでは、長く続かない」
「七日で原因を絞れますか」
直人が尋ねる。
「排水溝沿いの工房を全部調べる必要がある」
エルンが答えた。
「《黒樹皮》の槽漏れは確認済み。しかし、宿舎の井戸へそれだけが届いた証拠はまだない」
「水の流れを追えれば」
「地面の下です」
「色の違う安全な試験水を、各排水源へ流す方法は?」
直人が言った。
「井戸へ色が出るか確認する?」
「飲用井戸へ試験物を入れることになります」
「無害なものでも、避けた方がいいですね」
「土を掘り、排水溝と地下水の向きを調べる方が先です」
「時間がかかります」
「だから、給水を原因確定まで待てない」
今回決めたのは、誰が悪いかではない。
悪い者が決まるまで、人の暮らしを止めない仕組みだった。
「原因者が最後まで見つからなかったら?」
ミーナが尋ねる。
エルンは少し考えた。
「区域の排水設備全体に問題があるなら、事業者共同負担と町の工事になります」
「一軒だけ直しても終わらない?」
「はい」
「王都の共同住宅と似ていますね」
直人が言った。
三百二十人が暮らす王都南区。
便所使用料を払えない者が、路地や川沿いで済ませている。
設備の責任と費用が、住民へ押しつけられている可能性がある。
「今回の給水契約は、王都でも使えるかもしれない」
リリアが言う。
「原因者が決まるまで、住民へ負担させない方法?」
「町、管理者、事業者が仮に分け、後から精算する」
「水運び人へ先に払うことも重要です」
ミーナが加えた。
「支払いが決まらないから働けと言われても、続けられません」
「誰かの善意だけへ頼らない」
直人はうなずいた。
◇
銀月亭の入口へ着くと、マルタが待っていた。
「ナオトさん。仕立屋から白い連絡札です」
「白?」
「異常なしの定期報告よ」
リリアが札を受け取る。
第二号便器。
使用回数、二十一回。
水位表示作動試験、正常。
漏水なし。
詰まりなし。
糸くず混入なし。
手洗い排水、異常なし。
「故障の連絡ではありません」
テオが少し驚いた。
「正常な記録も必要です」
直人が答える。
「何も起きなかったことを残す?」
「はい。改良後、正常に動いている根拠になります」
「白い札が増えるといいですね」
ミーナが言った。
「赤い札ばかりでは、商会がもちません」
リリアは受付板を見る。
赤。
革工房と井戸。
黄。
治療院、赤鍋亭、金鹿亭。
青。
見積もりと製造待ち。
白。
仕立屋の正常報告。
その時、水務局の使者が再び走ってきた。
「エルン監査官!」
まだ近くにいたエルンが振り返る。
「どうしました」
「下り側三つ目の井戸でも、異常反応が出ました」
「二軒共同井戸ですか」
「はい。二世帯九人が使用しています」
「使用停止を」
「すでに封印しました」
「症状のある住民は?」
「一人、三日前から腹痛を訴えています」
直人の表情が変わる。
「治療院へ連絡してください」
「もう一つあります」
使者は息を整えた。
「井戸の近くで、地面から青い水がにじんでいます」
「青い?」
メルサが顔を上げる。
《青雫染房》の管理人。
工房の名のとおり、青い染料を扱っている。
「どの程度ですか」
「雨水溝の下から、少量ずつ」
原因調査は、ようやく一つの手がかりを見せ始めた。
だが、青い水が見つかったからといって、すべてを染色工房の責任と決めることはできない。
「現場を封鎖してください」
直人が言った。
「水へ触らない。子どもを近づけない。流れを止める前に、位置と量を記録します」
「今から行くの?」
リリアが尋ねる。
「腹痛の人と、青い漏水があります」
「私は給水契約の対象を九人分追加する」
「住民へ追加料金は?」
「同じ暫定契約へ入れる」
原因が見つかる前でも、水は届ける。
原因らしいものが見つかっても、確認する前に誰かを犯人にしない。
銀月衛生商会は、便器を作るだけでなく、水が止まった時に暮らしを止めない仕組みまで作り始めていた。
四十六人が暮らす《川風長屋》への緊急給水について、原因確定前の暫定契約が作られました。
七日間は住民へ追加水代を請求せず、町、長屋管理者、排水区域の事業者が費用を仮負担します。
原因が確定した後で精算し、費用の未払いを理由に住民への水を止めないことも明記されました。
また、飲用水、手洗い水、生活用水を色、形、表示、置き場所で分け、管理人側と住民側が共同で配水を管理します。
次回は、下流の井戸近くで見つかった青い漏水を追い、《青雫染房》の地下排水管を調査します。




