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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第2章 町に、便器を広げます

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第36話 飲み水と仕事の水を、同じ桶に入れないでください

革工房《黒樹皮》では、便所の溜め槽から汚水が漏れ、近くの井戸まで汚染されている可能性が判明しました。


井戸を止めれば、職人の飲み水だけでなく、革を洗う作業水も失われます。


しかし、水が足りないからといって、安全な飲み水をすべて仕事へ使うこともできません。


直人たちは、水を用途ごとに分ける緊急給水計画を立てます。

「この井戸は、今から使用停止です」


 陶山直人は、革工房《黒樹皮》の井戸へ赤い札を掛けた。


 飲まない。


 料理へ使わない。


 傷を洗わない。


 文字の下には、口へ水を運ぶ手と、大きな斜線の絵。


「作業用なら使えるのか」


 工房主ケルムが尋ねた。


「水務局の判断が出るまで、汲み上げないでください」


「全部止めるのか」


「井戸を使えば、水位と地下水の流れが変わる可能性があります」


「汲めば、汚れた水がさらに入る?」


「その可能性があります」


「革を洗えない」


「人が飲む水の安全確認が先です」


「革は納期を待たない」


「汚れた水で洗った革を、商品として出せますか」


「革へ便所の水が染みるわけではない」


「分かりません」


 直人は溜め槽と井戸の位置を見比べた。


 井戸は、便所小屋から三十歩ほど。


 地面は井戸側へわずかに下っている。


 作業排水溝からあふれた水。


 漏れた便所汚水。


 雨水。


 それらが地下でどちらへ進んでいるか、まだ確認できていない。


「見た目が透明でも、安全とは限りません」


「昨日まで皆が飲んでいた」


「昨日まで事故が見つからなかっただけです」


「腹を壊した者はいないぞ」


 ケルムが職人たちを見る。


 誰も答えなかった。


「本当にいないのですか」


 直人が尋ねる。


 若い職人エランが、ゆっくり手を挙げた。


「先月、三人が腹を壊しました」


「何日ほど?」


「二日から四日」


「治療院へ行きましたか」


「一人だけ」


「誰です?」


「僕です」


「原因は?」


「食べ物だろうと言われました」


「ほかの二人も、同じものを食べましたか」


「昼は同じ鍋でした」


「工房以外の人は?」


「食堂の者には出なかったと思います」


 ケルムの顔が曇る。


「なぜ報告しなかった」


「腹痛まで工房へ報告する決まりはありません」


「仕事を休んだだろう」


「一日だけです」


「水が原因と決まったわけではありません」


 直人が言った。


「ただし、井戸汚染の疑いを強める情報です」


「今さら、先月の腹痛まで便所のせいにするのか」


「決めつけません。記録へ入れます」


 原因を確定するためではない。


 見落とさないために残す。


          ◇


 水務局地方監査官のエルンは、連絡を受けて昼前に到着した。


 溜め槽から取り出された排水溝の板。


 崩れた石積み。


 井戸との位置。


 作業排水溝。


 直人の調査記録。


 すべてを順に確認する。


「井戸の使用停止は妥当です」


 エルンが言った。


「作業用水もですか」


 ケルムが尋ねる。


「現時点では、すべての汲み上げを止めてください」


「工房が動かない」


「井戸の状態を確認する間、代替水を用意します」


「水務局が運ぶのか」


「生活に必要な最低量は、町の緊急備蓄から一部支援できます」


「仕事用は?」


「事業者負担です」


「飲み水だけで革は作れん」


 ケルムは苛立った声を上げた。


「井戸の安全管理を怠ったのは、こちらの責任ではないでしょう」


 エルンの声は静かだった。


「水務局へ届け出のない排水溝改修と、便所槽への漏水が確認されています」


「二年前の大雨だ」


「その後、点検しましたか」


「水は流れていた」


「流れていることと、安全に流れていることは違います」


 直人は何度も口にしてきた言葉を、今度はエルンが言った。


「まず、必要な水量を分けましょう」


 直人は作業台へ大きな紙を広げた。


「全部の水を一つにまとめて考えると、足りるかどうか判断できません」


「水は水だろう」


「使い道で、必要な安全性が違います」


 紙へ三つの区画を描く。


 人が口へ入れる水。


 人の体へ触れる水。


 革を加工する水。


「一つ目は、飲み水、料理、食器洗いです」


「二つ目は?」


「手洗い、傷の洗浄、顔や体を洗う水」


「飲み水と同じではないのか」


「傷へ触れる水は、安全なものを使います。通常の手洗いも、できる限り同じ水源が望ましいです」


「三つ目は、革を洗う水?」


「工程によって、さらに分ける必要があります」


 ケルムは作業場から革職人を二人呼んだ。


 洗浄担当のエラン。


 染色工程を管理する年長職人、バッサ。


「革作りでは、どこに一番水を使いますか」


 直人が尋ねる。


 バッサが指を折って数えた。


「最初の泥落とし。毛を抜く前の浸水。石灰を落とす洗い。樹皮液の調整。染色後の仕上げ洗い」


「すべて同じ井戸水ですか」


「そうだ」


「汚れた革を最初に洗う水と、仕上げ洗いの水も?」


「井戸から汲む場所は同じだ」


「使った水は?」


「溝へ流す」


「再利用は?」


「樹皮液の一部は、濃さを見て使い回す。洗い水は捨てる」


「最初の泥落としは、飲用に適さない水でもできますか」


「砂や油が多くなければ」


「川の水は?」


「季節によって濁る。上流の工房が何を流したか分からん」


 工房に必要なのは、単純に大量の水ではない。


 工程ごとに、許容できる汚れが違う。


「最初の洗浄と、最後の仕上げを分けましょう」


 直人が言った。


「安全な井戸水を全部、泥落としへ使わない」


「では泥落としは何で行う」


「町の非飲用水路から運べるか、水務局へ確認します」


 エルンが図面を開いた。


「革工房の北側に、消火用の貯水池があります」


「火事用の水を使うのか」


「全量は使えません。水位を維持する条件で、一時利用を申請できます」


「革へ使えるほどきれいか」


「飲用には適しません。ただ、最初の泥落としなら試験できる可能性があります」


「樹皮や泥が少し混じっても構わん」


 バッサが答えた。


「石灰を落とす洗いには使いたくない」


「工程表を作ります」


          ◇


 工房で一日に使う水量を、誰も正確には把握していなかった。


「大桶で何杯ですか」


「日による」


 ケルムが答える。


「革の枚数は?」


「大きな皮なら八枚。小さいものなら二十枚以上」


「昨日は?」


「牛革六枚と羊革十二枚」


「井戸から何回運びました?」


 職人たちが顔を見合わせる。


「数えていない」


 エランが言った。


「桶が空になれば汲む」


「では、今日は工程ごとに記録します」


「井戸は止めたのに?」


「代替水を運ぶ量を決めるためです」


 工房内に残っていた水槽の水量。


 桶の大きさ。


 昨日処理した革の枚数。


 職人たちの記憶。


 そこから概算する。


 飲み水と料理。


 十二人分で、大桶二杯から三杯。


 手洗いと緊急洗浄。


 大桶三杯。


 革の初期洗浄。


 少なくとも大桶十杯以上。


 石灰落とし。


 大桶八杯。


 樹皮液の調整。


 大桶四杯。


 仕上げ洗い。


 大桶六杯。


「全部で三十杯以上?」


 リリアが驚く。


「忙しい日は、もっと使う」


 バッサが答えた。


「ミーナ一人では無理です」


 直人が言った。


「私もそう思います」


 ミーナは水量表を見た。


「飲み水と手洗い分なら、毎朝補助できます。でも、革加工の全量を魔法で出し続ければ、治療院や仕立屋へ行けません」


「専属で雇うと言ったら?」


 ケルムが尋ねる。


「一人へ依存する設備になります」


「また、その話か」


「私が病気になった日、工房が全部止まります」


「ほかの水魔術師は?」


「町に三人いますが、二人は浴場と染色工房の契約があります」


「一人残っている」


「農地の給水担当です」


「金を多く払えば来るだろう」


「別の仕事から水を奪うことになります」


 ケルムは黙った。


「水魔法は、井戸や水路の代わりではありません」


 ミーナがはっきり言った。


「緊急時の補助として使ってください」


 以前なら、直人が代わりに説明していた。


 今は、ミーナ自身が契約と限界を伝えている。


          ◇


 緊急給水計画は、三系統に分けられた。


 一つ目。


 飲用・料理・食器用。


 町の共同井戸から、蓋付き白桶で運ぶ。


 二つ目。


 手洗い・傷の洗浄用。


 共同井戸水と、ミーナの給水を併用。


 青い貯水槽へ入れる。


 三つ目。


 革の初期洗浄用。


 北側貯水池から、黒い大桶で運ぶ。


 ただし、最初の泥落としだけ。


「白、青、黒」


 エランが桶を見た。


「文字が読めない者でも、色で分かります」


「黒桶を手洗いに使う者が出ないか」


 ケルムが尋ねた。


「置き場所も分けます」


 白桶は、休憩室。


 蓋付き。


 専用の柄杓。


 青槽は、手洗い場。


 栓から流れる。


 黒桶は、作業場外側。


 革洗い槽の横。


「容器の形も変えましょう」


 リリアが言う。


「白桶は背が高く、口を狭くする。青槽は栓付き。黒桶は広口」


「色が落ちても、形で分かる」


「白桶へ、工房の手袋で触らないでください」


 直人が付け加える。


「飲み水担当者を決めます」


「また担当か」


 ケルムが顔をしかめる。


「誰でも水を飲みます。だからこそ、誰かが蓋と柄杓を管理する必要があります」


 飲用水担当は、年長職人のバッサ。


 手洗い水担当は、仮設便所を管理しているエラン。


 作業水担当は、洗浄工程の職人二人。


「担当手当は?」


 エランがすぐに尋ねた。


「仮設便所の手当に含めろ」


 ケルムが答える。


「飲み水と手洗い水は別の仕事です」


「一日銅貨一枚は払っている」


「五日で三枚の契約です」


「細かい!」


「契約書に書いてあります」


 リリアが紙を示した。


 最終的に、井戸停止期間中は、飲用・手洗い管理を追加業務として一日ごとに小額を加算することになった。


「水を止めたら、手当ばかり増える」


 ケルムが呟く。


「これまで、誰かが無償で水を管理していました」


 直人が言った。


「管理していなかったから、同じ桶を使っていたのだ」


 バッサが低い声で言う。


 作業用の汚れた手で飲み水桶の蓋を開ける。


 柄杓を水槽へ落とす。


 井戸桶を、そのまま革洗いにも使う。


 仕事として決められていなかったため、清潔さも個人の注意へ任されていた。


「今後は、飲み水用の桶を作業へ使った者は――」


 ケルムが言いかける。


「罰を先に決めないでください」


 直人が止めた。


「では、どうやって守らせる」


「置き場所と形を変え、間違えにくくします。それでも間違えた場合は、水を廃棄し、原因を確認します」


「水を全部捨てる?」


「汚れた手袋や作業用柄杓が入った場合は」


「高い水だぞ」


「だから、間違えにくい仕組みにします」


          ◇


 共同井戸から水を運ぶには、町の水運び人が必要だった。


 普段は宿屋や食堂へ水を届ける者たちである。


 リリアが二人の水運び人を連れてきた。


 兄のサム。


 妹のルネ。


 二人で荷車一台を扱っている。


「一日に何往復できますか」


 直人が尋ねる。


「共同井戸からここなら、四往復」


 サムが答えた。


「ほかの契約を止めれば六往復」


「止めないでください」


「では四回」


「白桶と青槽分は?」


「朝二回。昼一回。夕方一回」


「革の作業水は?」


「重すぎる。貯水池の水は別の荷車が必要だ」


「黒桶だけ、工房の職人が運べます」


 ケルムが言った。


「作業時間が減る」


「工房を止めるよりはよいでしょう」


 水運び費。


 共同井戸の利用料。


 荷車の清掃。


 容器の保証金。


 契約書へ項目が増える。


「水桶は、誰のものですか」


 リリアが尋ねた。


「うちのだ」


 サムが答える。


「工房の薬剤が付いた場合は?」


「買い取りだ」


「飲用桶を革工房内へ置けば、外側へ汚れが付きます」


「置き台と囲いを作ります」


 ロッカが言った。


「休憩室の入口へ、水置き場を新設する」


「作業着のまま入る場所だぞ」


 ケルムが言う。


「床へ清潔区画を作ります」


 白い線。


 その内側へは、石灰の付いた靴で入らない。


 入口で靴底を払う。


 外手袋を外す。


 白桶へ直接触れない。


「飲み水を取るだけで、手順が多い」


 職人の一人が言った。


「今まで、飲み水へ何が入っていたか分からなかったからです」


 直人が答える。


「手順を減らす方法も考えます」


「どうやって?」


「白桶から直接柄杓で汲まず、栓付き容器へ変える」


「大桶へ栓を付ける?」


 ロッカが確認する。


「手や柄杓を水の中へ入れない形です」


「銀月亭の手洗い槽と同じだな」


「飲み水用なので、材質と清掃方法を分けます」


「飲用水槽まで商品になるの?」


 リリアが尋ねた。


「必要です」


「値段は後で決めるわ」


          ◇


 最初の水運び荷車が到着した。


 共同井戸で満たした蓋付き容器。


 封印紐。


 井戸管理人の印。


「なぜ封をしているのですか」


 エランが尋ねる。


「途中で別の水を足していないことを確認するためです」


 サムが答えた。


「荷車が倒れた場合は?」


「封が切れる。容器も確認する」


「到着記録へ、印の状態を書きます」


 直人が言う。


「毎回?」


「水源を追えるようにします」


「井戸の名前も?」


「はい」


 共同井戸が一つ止まった場合、どの水を飲んだ者へ影響があるか追跡できる。


 水を運ぶだけではない。


 どこから来た水か。


 誰が運んだか。


 いつ届いたか。


 どの容器へ入れたか。


 それを残す。


「水にまで製造番号を付けるのか」


 ケルムが呆れた。


「番号ではなく、供給記録です」


「同じようなものだ」


 白桶へ水を移す前に、容器外側を清掃。


 蓋を開ける担当者はバッサ。


 作業用外手袋を外し、手を洗う。


 匂い。


 色。


 濁り。


 異物。


「異常なし」


「白桶へ入れます」


 飲用水が、初めて工房の作業水から完全に分けられた。


          ◇


 問題は、その直後に起きた。


「青槽が空だ!」


 若い職人が声を上げた。


 手洗い用の青い槽は、まだミーナが給水する前だった。


「白桶の水を入れればいいだろう」


 職人が飲用水用の小桶を持ち上げる。


「待ってください」


 エランが止めた。


「白は飲み水です」


「手を洗う水も安全な水だと言っただろう」


「間違いではありません」


 直人が近づいた。


「緊急時には、白桶の水を手洗いへ使えます。ただし、勝手に容器を入れないでください」


「なぜだ」


「その小桶は、作業場の床へ置かれていました」


 底には石灰粉。


 取っ手には黒い染料。


「白桶へ戻したら、飲み水を汚します」


「では、どうやって移す」


「白桶の栓から、清潔な予備容器へ出します」


「手洗いのたびに?」


「通常は青槽を使います」


 ミーナが青槽へ水を満たす。


「今後、青槽の残量表示も付けましょう」


「また白、黄、赤か」


 ケルムが言う。


「仕立屋と同じ方式なら、説明を共通にできます」


「赤になる前に補充を依頼する?」


「はい」


「誰が依頼する」


「エランさんです」


 エランは自分の担当表へ、新しい項目を書き加えた。


「仮設便所。手洗い。飲用区画。水位確認」


「一人へ集まりすぎています」


 直人が言った。


「副担当を決めましょう」


「また手当か!」


 ケルムの叫びが工房へ響いた。


          ◇


 午後。


 エルンは水務局の検査箱を持って井戸へ戻った。


 中には、透明な小瓶。


 白い粉。


 青い試験液。


 細い布片。


「水質を調べられるのですか」


 ミーナが尋ねた。


「一部だけです」


 エルンは答えた。


「石灰や強い薬剤、腐敗物の混入を調べます。ただし、病気の原因となる目に見えないものを、完全に判定することはできません」


「検査で問題なしでも、飲用再開とは限らない?」


「はい」


 井戸水を、長い柄の採水器で汲む。


 汲み桶は使わない。


 井戸壁へ触れないよう、中央の水を取る。


 一つ目の瓶。


 色と臭い。


 わずかに茶色い。


 二つ目。


 白い粉を入れる。


 底へ細かな沈殿。


 三つ目。


 青い試験液。


 色が緑へ変わる。


「これは?」


 ケルムが尋ねる。


「石灰または灰汁に近い性質が強いことを示します」


「革工房の作業水が入っている?」


「可能性があります」


「便所の汚水は?」


「この検査だけでは分かりません」


 エルンは布片を水へ浸した。


 少し時間を置く。


 布の一部が茶色へ染まる。


「樹皮液の成分も疑われます」


「井戸へ流した覚えはない」


 バッサが言った。


「地面の中で移動したのでしょう」


「作業溝から?」


「溜め槽からかもしれません。両方かもしれない」


「飲めない水ですか」


 ケルムが尋ねた。


「少なくとも、飲用再開を認められる状態ではありません」


 エルンは赤い使用停止札へ、水務局の封印を追加した。


 これで、工房主の判断だけでは外せない。


「解除条件は?」


「溜め槽の汲み取りと補修。作業排水溝の遮水。周辺土壌の確認。その後、井戸水を数回入れ替えて再検査します」


「どのくらいかかる」


「早くても十日以上」


「十日も水を運ぶ?」


「状態によっては、さらに長くなります」


 ケルムの顔から血の気が引いた。


          ◇


「近隣井戸も確認します」


 エルンが続けた。


「近隣?」


「地下水が同じ方向へ流れていれば、革工房の外にも影響がある可能性があります」


「どこまでだ」


「まず、下り側にある三つの井戸」


 一つは職人宿舎。


 一つは小さな食堂。


 一つは二軒の家が共同で使っている井戸。


「工房の問題が、近所へ広がる?」


 リリアが言った。


「まだ決まっていません」


「もし汚れていたら?」


「同じく使用停止と代替給水です」


「費用は誰が払う」


 ケルムが尋ねた。


「原因が革工房の設備にあると確認された場合、補償協議が必要になります」


「三軒分の水まで?」


「被害を受けた側へ、負担を押しつけることはできません」


「工房が潰れる」


「だからこそ、原因を早く止めます」


 直人は、排水溝の上流側を見た。


 《黒樹皮》だけではない。


 同じ水路沿いには、別の革工房が二軒ある。


 染色小屋。


 獣脂を扱う加工場。


「ほかの工房の排水も、同じ溝へ入っていますか」


「最終的には合流する」


 ケルムが答えた。


「では、井戸へ入った成分が《黒樹皮》だけのものとは限りません」


「うちだけの責任ではない?」


 ケルムの声に、わずかな安堵が混じる。


「責任がなくなるという意味ではありません」


 エルンが言った。


「複数の工房が原因なら、区域全体で排水を改める必要があります」


「この工房の便所だけ直せば終わらない?」


「その可能性があります」


 革工房一軒の床抜け事故。


 そこから、井戸。


 隣家。


 水路沿いの複数工房。


 問題の範囲がさらに広がっていく。


          ◇


 夕方。


 緊急給水の初日記録が集計された。


 飲用水。


 大桶二杯と半分。


 手洗い水。


 大桶三杯。


 仮設便所清掃。


 半桶。


 革の初期洗浄。


 黒桶九杯。


 仕上げ洗いは実施せず。


 石灰落とし工程は停止。


「今日、完成した革は?」


 リリアが尋ねた。


「ゼロだ」


 ケルムが答えた。


「乾燥と裁断は進めた。水を使う工程は、ほとんど止まった」


「止められる工程と、続けられる工程を分けたのですね」


「十二人を全員休ませるわけにはいかん」


「作業変更の賃金は?」


「通常どおり出す」


 ニコの事故と、職人たちの反発。


 その後、ケルムの判断は少しずつ変わっていた。


「明日から、初期洗浄だけ再開する」


 バッサが言う。


「貯水池の水を、小さな革片で試した。泥落としには使える」


「仕上げには?」


「使わん」


「工程ごとに水を分けられそうですか」


「面倒だがな」


「水の使用量は減りますか」


「飲める井戸水を、泥だらけの皮へ大量に使っていたことは分かった」


「今まで水が近くにあったから、分ける必要がなかった」


 エランが言った。


「井戸を止めたことで、使い方が見えました」


 直人は記録へ書いた。


 安全な水を、必要な工程へ優先する。


 ただ水を大量に用意するのではない。


 飲む。


 洗う。


 傷へ使う。


 泥を落とす。


 薬剤を落とす。


 仕上げる。


 必要な質と量を分ける。


「この方法は、井戸が再開しても続けた方がいいです」


 直人が言った。


「なぜだ」


 ケルムが尋ねる。


「飲み水と作業水を同じ桶へ戻せば、また汚れが入ります」


「井戸がきれいになっても?」


「工房内で汚れる危険は残ります」


「白、青、黒を恒久化する?」


「少なくとも、飲用水は分けてください」


「容器代がかかる」


「職人が腹痛で休む費用と比べてください」


 ケルムは帳簿を見た。


 先月休んだ三人。


 床へ落ちたニコ。


 止まった工程。


 緊急給水。


「分かった」


 小さな声だった。


「飲み水は分ける」


          ◇


 銀月亭へ戻ると、仕立屋《金糸の針》から連絡札が届いていた。


 黄色。


 緊急ではないが、確認が必要な印。


「第二号便器に問題ですか」


 直人が尋ねる。


 リリアが伝言を読む。


「水位表示が、昼から黄色のまま戻らないそうよ」


「給水しましたか」


「ルークさんが満水まで入れた。でも、棒が上がらない」


「浮きが引っかかった可能性があります」


「便器は?」


「赤になるまで使用できると書いてあるけれど、設備担当のマイラさんが念のため止めた」


「正しい判断です」


「今から行く?」


 直人は革工房の給水記録を見た。


 エラン。


 バッサ。


 ミーナ。


 水運び人。


 それぞれの担当が決まり、今夜の管理手順も渡してある。


「《黒樹皮》は、現場担当へ任せます」


「一人で全部抱えない?」


「はい」


「少し慣れてきたわね」


 直人は工具箱を持った。


「仕立屋へ行きます」


「私も行く」


「帳簿は?」


「マルタに任せる」


「全員で現場へ行くと、商会が止まります」


「では、あなたとテオで行って」


「リリアさんは?」


「私は近隣井戸の給水費を計算する」


 リリアは革工房の契約書を持ち上げた。


「井戸が三つ止まった場合、誰がどこまで払うか、明日には話し合いになる」


「設備より難しそうです」


「便器は、水を流せば動く」


「正しく作れば、です」


「お金と責任は、流しても消えない」


「汚物と同じように言わないでください」


「あなたがいつも言っているでしょう。消えたのではなく、別の場所へ移っただけだって」


 直人は否定できなかった。


          ◇


 《金糸の針》へ向かう道。


 テオが工具箱を持ちながら尋ねた。


「浮き式水位表示は、商会が追加した部品ですよね」


「はい」


「壊れていたら、無償修理ですか」


「通常使用であれば」


「給水担当が棒を強く押した場合は?」


「原因を確認してからです」


「誰かの責任にするためではなく?」


「再発を防ぐためです」


「革工房の事故と同じですね」


「規模は違いますが、考え方は同じです」


 床が抜けた。


 井戸が汚れた。


 浮き棒が動かない。


 問題が起きた時、最初に利用者を責めれば、原因を見失う。


「第二号の便器本体は動いていますかね」


 テオが不安そうに言う。


「連絡では、水位表示だけです」


「でも、見てから決める」


「はい」


 仕立屋の建物が見えてきた。


 入口には、設備担当のマイラが待っている。


 便所の扉には、赤い使用停止札。


 町で二台目の水洗便器は、使用開始から二日目で止まっていた。


 原因が小さな浮きの引っかかりなのか。


 貯水槽の変形なのか。


 給水管の問題なのか。


 それとも、別の異常なのか。


 飲み水も、便器も。


 安全だと確認できない時は、まず止める。


 止めた後で、誰かを責めるのではなく、原因を探す。


 銀月衛生商会が町へ広げようとしているのは、便器だけではなかった。


 異常を隠さず、早く止め、確認してから再開する。


 そのための考え方もまた、少しずつ現場へ広がり始めていた。

革工房の井戸からは、石灰や樹皮液の混入を疑わせる反応が確認され、飲用再開は認められませんでした。


直人たちは、飲用・料理用の白、手洗い用の青、革の初期洗浄用の黒に水を分け、供給元、容器、担当者、置き場所を明確にします。


また、革加工のすべてへ飲用可能な水を使うのではなく、工程ごとに必要な水質を分ける運用を始めました。


次回は、仕立屋の浮き式水位表示が動かなくなった原因を調査します。小さな部品の故障が、水洗便器全体の使用停止へつながる問題を見直します。

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