第35話 落ちた職人を責めないでください
革工房の便所で床が抜け、一人の職人が腰まで転落しました。
工房主は、重い職人が傷んだ板を踏んだことが原因だと考えていました。
しかし、通常の利用で床が崩れたなら、責任を利用者だけへ押しつけることはできません。
革工房《黒樹皮》は、銀月亭から歩いて半刻ほどの場所にあった。
町の外周。
川から引かれた細い水路の近く。
広い作業場の前には、毛を落とす前の皮と、染色を終えた革が干されている。
樹皮を煮出した匂い。
獣脂。
石灰。
染料。
それらが混ざった重い空気が、建物の外まで流れていた。
「臭いが強いわね」
リリアが鼻元へ布を当てる。
「便所の臭いとは違います」
陶山直人は周囲を見回した。
作業場の横には、大きな水槽が三つ。
一つは皮を洗う槽。
一つは毛や脂を落とす槽。
一つは樹皮液へ漬ける槽。
槽からあふれた水は、地面の溝を通って建物裏へ流れている。
「こちらです!」
革工房の主人が走ってきた。
名はケルム。
四十代後半。
太い腕に革製の前掛け。
手袋を外す暇もなかったのか、指先には黒い染料が付いていた。
「銀月衛生商会の方ですね」
「はい。怪我をした方は?」
「治療院へ運びました。命に別状はないそうです」
「便所は使用停止にしましたか」
「穴の上へ板を載せました」
「建物全体を閉鎖しましたか」
「壊れた場所だけです」
「ほかの便所は使っています?」
ケルムは一瞬、答えをためらった。
「十二人も働いている。便所を全部止めるわけにはいかん」
「最初に、全員を外へ出してください」
「一か所が抜けただけだ」
「床下の状態が分かっていません」
「ほかの板は沈んでいない」
「見た目だけでは判断できません」
ケルムは不満そうだった。
「今朝から仕事が遅れている。調査だけでも早く頼む」
「人が中にいる状態では調査しません」
「便所の中にいる者はいない」
「隣の区画を使っている可能性があります」
直人は便所小屋へ向かった。
入口には、大きな板が立てかけられている。
ただし、立入禁止の縄はない。
使用停止札もない。
扉を叩く。
「中に誰かいますか」
返事があった。
「使っている!」
直人はケルムを見る。
「全員を出してください」
「隣の穴なら問題ないと思った」
「同じ床と梁で支えられている可能性があります」
中にいた職人が出た後、入口へ赤い札を掛け、縄を張る。
「ここから先は使用禁止です」
「いつまでだ」
「安全が確認できるまで」
「今日中に直せるか?」
「見てから判断します」
「またその答えか」
リリアが横から言った。
「見ずに今日直ると言う職人より、信用できるでしょう?」
◇
便所小屋は、作業場の裏にあった。
木造。
内部は二つの区画。
床へ並んだ二つの穴。
その下には、一つの大きな溜め槽があるらしい。
奥側の区画には、厚い板が載せられている。
「この下ですか」
「そうだ」
ケルムが答えた。
「ニコが板を踏んだ瞬間、床が割れた」
「ニコさんは、普通に便所を使おうとした?」
「本人はそう言っている」
「違う可能性が?」
「かなり体の大きい男だ。勢いよく座ったのかもしれん」
近くで聞いていた職人たちが黙る。
「工房主殿」
直人はケルムを見る。
「通常の利用で床が抜けたなら、体の大きさだけが原因ではありません」
「普通の者なら抜けなかったかもしれない」
「それでも床の問題です」
「便所の板にも限界はある」
「利用者の体格を制限する表示はありましたか」
「そんなものはない」
「床の荷重試験は?」
「便所で試験などしない」
「点検記録は?」
「板が傷めば交換している」
「いつ交換しました?」
「去年だったか、その前だったか……」
「誰が?」
「工房の者だ」
「どの板を?」
「覚えていない」
直人は手帳へ記録した。
「少なくとも、ニコさん個人だけの責任と決めることはできません」
「修理費を請求するつもりはない」
「治療費は?」
「仕事中の事故だから、半分は工房で出す」
「半分?」
「本人の不注意もある」
「不注意だったと確認できていますか」
ケルムの顔が険しくなる。
「便所へ入った時、酒を飲んでいたわけでもない。跳びはねたわけでもない」
若い職人が口を挟んだ。
「いつもどおりだった」
「エラン!」
ケルムが睨む。
「本当のことです」
エランと呼ばれた職人は引かなかった。
「前から奥の床は、踏むと音がしていた」
「なぜ報告しなかった」
「しました」
「いつだ」
「三日前です」
「板を一枚載せろと、お前が言った」
工房の空気が変わった。
ケルムは言葉を失った。
「載せた板は、どれですか」
直人が尋ねる。
エランが、割れた部分を覆う厚板を指した。
「今朝置いた板ではありません」
「三日前から?」
「沈む場所の上へ載せていました」
「板の上から板を重ねた?」
「はい」
傷んだ床を外して修理するのではなく、上へ別の板を載せて使い続けていた。
「ニコさんが踏んだのは、追加した板ですか」
「その端です」
「下の床ごと抜けた?」
「はい」
直人はケルムへ向き直った。
「事故前に異常が報告されています」
「忙しかった」
「だからといって、安全確認を後回しにはできません」
「皮の納期があった」
「今は、便所全体が使えず、職人も怪我をしています」
ケルムは視線を落とした。
「修理すればいいのだろう」
「修理だけで終わらせません」
「何が必要だ」
「事故記録。床下調査。怪我人の治療費。使用停止中の仮設便所。今後の点検方法です」
「商会は、治療費まで決めるのか」
「決めません。ただし、安全設備の依頼を受ける前提として、事故を利用者の責任だけにしないことを確認します」
◇
便所へ入る前に、周囲の床板を棒で確認した。
軽く叩く。
入口側。
こん。
中央。
こん。
奥側。
ぼすっ。
音が違う。
「奥だけではない」
ロッカが言った。
「右側の梁まで傷んでいる」
「板を外します」
「待て」
ボルグが止めた。
「下に何があるか分からん。踏むな」
小屋の外から支え台を作り、上へ厚板を渡す。
調査員は傷んだ床へ直接体重をかけない。
ロッカが長い柄の工具で、壊れた板を少しずつ外した。
下から空気が上がる。
便壺の臭い。
革工房の排水臭。
石灰に似た刺激。
「顔を近づけないでください」
ミーナが薄い水膜を作る。
「中へ降りるのは危険です」
直人が言う。
「当然だ」
ボルグは長い棒を溜め槽へ入れた。
「底まで届かん」
「満杯ですか」
「上は液体だが、下に固い層がある」
「布や革くず?」
「棒へ何か絡んだ」
引き上げる。
棒の先には、細長い革片。
毛。
布。
木くず。
「便所へ革を捨てていますか」
直人が尋ねた。
「小さな端材くらいだ」
ケルムが答える。
「作業場の屑箱が満杯なら、便所へ入れる者もいる」
エランが言った。
「流すわけではない。落とすだけだ」
「溜め槽の容量を減らします」
ボルグは革片を地面へ置いた。
「石灰水も入っている」
「なぜ分かる?」
「棒の表面がぬるつく。色も違う」
直人は便所小屋の外を確認した。
革を洗う槽から伸びる排水溝。
便所の壁際を通っている。
溝の縁は崩れ、一部の水が便所側へ染み込んでいる。
「作業排水が床下へ入っています」
「溝からあふれた時だけだ」
ケルムが言う。
「雨の日は?」
「川の水位が上がると、流れが遅くなる」
「逆流しますか」
「少し」
「その水が便所側へ?」
「溝を越えることがある」
ロッカが便所の外壁下を削った。
土が黒く湿っている。
床を支える木材の端は、柔らかくなっていた。
「上から便所の湿気」
ロッカが言う。
「横から工房の排水。雨の日は逆流。梁が乾く暇がない」
「板だけ交換しても、また腐ります」
直人が言った。
「排水溝を先に直す必要があります」
「便所と革作業の工事は別だ」
ケルムが反論する。
「別ではありません」
「便所の床が壊れたのだぞ」
「床を腐らせている原因が、作業排水です」
「水路を作り直せば、工房を止めることになる」
「止めずに床を直せば、また事故が起きます」
「何日だ」
「調査を終えないと決められません」
ケルムが額を押さえた。
◇
溜め槽の石壁にも異常があった。
便所側からでは見えない。
外周の土を小さく試掘すると、石積みの隙間から茶色い水がにじんでいる。
「漏れています」
ミーナが言った。
「便所の中身か、工房の排水か?」
「両方混ざっている可能性があります」
直人は漏出位置へ白い布を当てた。
薄い茶色。
樹皮液に似た色。
臭いは便所のものも含んでいる。
「溜め槽へ工房排水を流しているのですか」
「直接は流していない」
ケルムが答える。
「便所横の溝があふれ、土へ染みた水が槽へ入ったのかもしれん」
「外から水が入る。中からも漏れる」
ボルグが石壁を見た。
「石積みの目地が傷んでいる」
「すぐ崩れますか」
「今すぐとは言えん。だが、汲み取りで中身を減らすまで近づけたくない」
「便所小屋全体を立入禁止にします」
「隣の穴も?」
「同じ槽です」
「職人十二人はどうする」
「仮設便所を用意します」
「今日中に?」
「銀月衛生商会に、教会で使った交換式仮設便所があります」
「水洗ではないのか」
「緊急時に安全な排泄場所を確保する方が先です」
「水洗便器を注文したい」
「すぐには設置できません」
「金は払う」
「製造順だけの問題ではありません」
直人は作業排水溝と崩れた床を示した。
「水洗便器を置けば、さらに水が増えます」
「新しい槽を作ればいい」
「革工房の排水と、人の排泄物を分けなければなりません」
「今も分かれている」
「地面の中で混ざっています」
ケルムは言い返せなかった。
◇
「怪我をしたニコさんの状態を確認したいです」
直人が言った。
「治療院へ行くのか」
「便所へ落ちただけでなく、工房排水へ触れた可能性があります」
「腰まで落ちたが、すぐ引き上げた」
「皮膚へ傷は?」
エランが答えた。
「左脚に切り傷があった。昨日、革包丁で少し切ったところだ」
「その状態で、汚水へ触れた?」
「はい」
「治療院へ、石灰水や樹皮液が混ざっている可能性を伝えましたか」
ケルムが黙る。
「便所へ落ちたとだけ伝えた」
「追加で知らせてください」
「何が違う?」
「洗浄や処置が変わる可能性があります」
ミーナがすぐに治療院へ向かうことになった。
「私が説明します」
「工房で使う材料の一覧を持っていってください」
「石灰、樹皮液、染料、獣脂?」
「皮膚に触れる可能性があるものを全部です」
ケルムは若い職人へ指示し、材料札を集めさせた。
「治療費は工房で全額負担してください」
エランが言った。
「今、その話を――」
「今だからです」
「お前は雇われ職人だ」
「僕も、同じ床を使っていました」
ほかの職人たちもうなずく。
「次に落ちるのは、僕だったかもしれない」
「事故前の報告もあった」
「板を載せればいいと言われた」
「ニコだけの不注意ではない」
ケルムは十二人の職人を見た。
誰も視線をそらさない。
「分かった」
短く答えた。
「治療費は工房で全額出す」
「休んでいる間の賃金は?」
「……半分」
「事故による休業です」
リリアが静かに言った。
「その条件では、職人が次から危険を報告しなくなるわ」
「なぜだ」
「報告して便所が止まれば仕事が遅れる。怪我をして休めば収入が減る。なら、危険を隠して働く方を選ぶ人が出る」
「では全額払えと?」
「少なくとも、今回の事故については」
「商会が雇用契約まで口を出すのか」
「口を出すのではなく、安全改善の前提を確認しているの」
ケルムは長く黙った。
「治療院が働けないと判断した期間は、通常賃金を出す」
「紙へ残してください」
「必要か?」
職人たちの視線を受け、ケルムはため息を吐いた。
「書く」
◇
銀月衛生商会へ戻り、仮設設備が準備された。
教会で使用した座位式仮設便所二台。
密閉交換壺、四個。
手洗い水槽。
石けん草液。
使用中札。
回収路用の衝立。
「十二人なら二台で足りますか」
テオが尋ねた。
「男女別の利用人数は?」
「男性九人、女性三人です」
リリアが受付記録を見る。
「二台を男女別に固定しますか」
「一台ずつでは、男性側だけ混む可能性があります」
「共用にする?」
「個室なので、札と鍵があれば共用できます」
「着替えや作業着の問題は?」
革工房では、石灰や染料の付いた服を着ている。
便座へ薬剤が付着すれば、次の利用者の皮膚へ触れる可能性がある。
「便所へ入る前に、汚れた前掛けと外手袋を外します」
「作業靴は?」
「床に石灰が付く」
「入口へ靴底清掃板を置きます」
「水で洗う?」
「水だけでは、仮設便所周辺が泥になります」
ロッカが提案した。
「粗い刷毛を固定した板を作る。乾いた汚れを先に落とす」
「落とした石灰粉が舞いませんか」
「下へ受け箱を置く」
「一日ごとに回収」
「工房廃棄物として処理し、便壺には入れない」
前掛け掛け。
外手袋箱。
靴底清掃板。
仮設手洗い。
「仮設便所だけでも、革工房仕様になりますね」
テオが言う。
「現場の汚れを便所へ持ち込まないためです」
「仕立屋は糸。革工房は石灰と染料」
「同じ便座を使っても、入口設備が違います」
◇
午後には、仮設便所二台が《黒樹皮》の裏庭へ運ばれた。
壊れた便所小屋から十分に離す。
作業排水溝より高い場所。
雨水がたまりにくい地面。
汲み取り用の裏動線も確保する。
「ここは材料置き場だ」
ケルムが言った。
「今は何を置いていますか」
「乾燥前の樹皮袋」
「別の場所へ動かせますか」
「作業場が狭くなる」
「低い場所へ便所を置くと、排水溝があふれた時に浸水します」
「数日だけだろう」
「修理期間は、まだ決まっていません」
仮設設備を軽く扱えば、管理も雑になる。
数日だけのつもりが、数週間使われることもある。
「樹皮袋を移す」
ケルムは職人たちへ指示した。
「仮設便所の責任者は?」
直人が尋ねる。
「エランに任せる」
「本人の同意は?」
ケルムがエランを見る。
「やります」
「作業内容を確認してください」
「利用回数。壺の満杯線。手洗い水。石灰箱。便座清掃。異常時の停止」
「壺交換は一人で行わない」
「ボルグさんの回収人と二人」
「担当手当は?」
エランが尋ねる。
ケルムは眉間を押さえた。
「月ではなく、仮設使用期間の日数で払う」
「一日、銅貨一枚?」
「高い!」
「汚物と石灰を確認する仕事です」
「半枚」
「銅貨は割れません」
「五日で銅貨三枚」
「七日なら?」
「五枚」
「十日なら?」
「八枚」
「修理を早く終わらせたくなりますね」
リリアが笑う。
「商会まで職人側に付くのか」
「安全担当へ正当な費用を付けるのは、工房主の利益にもなるわ」
「なぜだ」
「異常を早く見つければ、便所を全部止める事故を減らせる」
ケルムは渋々、条件へ署名した。
◇
仮設便所の設置後、十二人へ利用説明を行った。
作業用前掛けを外す。
汚れた外手袋を専用箱へ入れる。
靴底を乾式清掃する。
石灰、染料、革片、毛、布を便壺へ入れない。
水を便壺へ注がない。
満杯線を超える前に交換。
便座へ染料が付いた場合は、利用停止。
「染料が少し付いただけでも?」
職人が尋ねる。
「皮膚へ付着する種類か確認できるまで止めます」
「作業着を全部脱ぐのか」
「前掛けと外手袋だけです。便所内へ持ち込む汚れを減らします」
「冬は寒いぞ」
「恒久設備では、更衣場所も含めて考えます」
「水洗便器はいつ入る?」
ケルムが尋ねた。
「安全な排水経路ができた後です」
「注文だけ先に入れられないか」
「調査申込は受けます」
「製造順へ入れる?」
「現場が整う時期と、便器の完成時期を合わせる必要があります」
「金鹿亭より先には?」
「床抜け事故は緊急改善ですが、陶器便器の製造順をすべて飛び越えるとは限りません」
「人が落ちたのだぞ」
「だから仮設便所を即日設置しました」
「本設も緊急だ」
「本設を急いで、作業排水と便所排水を混ぜれば、次は井戸や川を汚します」
ケルムは何も言わなかった。
◇
夕方。
治療院からミーナが戻ってきた。
「ニコさんは?」
「傷口を洗浄し直しました」
「石灰水の影響は?」
「強い炎症は、今のところありません。ただ、二日ほど経過を見るそうです」
「骨折は?」
「ありません。腰と左脚を強く打っています」
「仕事へ戻れる時期は?」
「治療院長は、最低五日は休ませるようにと」
ケルムはうなずいた。
「賃金は出す」
「材料一覧を渡したので、治療院でも必要な処置を選べました」
「最初から言うべきだったな」
ケルムが小さく呟く。
「便所へ落ちたという情報だけでは不十分でした」
直人が答えた。
「工房で使っているものまで関係するとは思わなかった」
「事故は、一つの場所だけで起きるとは限りません」
床が抜けた。
汚物へ落ちた。
傷口があった。
そこへ革工房の薬剤が混ざっていた。
それぞれ別の問題に見えて、すべてつながっている。
◇
その日の調査結果が、銀月衛生商会の赤い案件板へ追加された。
革工房《黒樹皮》――便所床崩落。
緊急措置。
既存便所、全面使用停止。
交換式仮設便所二台。
怪我人の治療情報追加。
溜め槽の緊急汲み取り。
床と梁の撤去調査。
工房排水溝の改修。
便所排水と作業排水の分離。
井戸と川への影響確認。
「水洗便器を一台置く仕事ではなくなりました」
テオが案件板を見た。
「最初から、そういう仕事ではありません」
直人が答える。
「でも、お客様は便器を買いたいと言っています」
「便器を置く前に、流す先を作ります」
「工房の排水まで?」
「それが床を壊しているなら」
リリアが会計欄を見た。
「費用が大きくなるわ」
「革工房は払えますか」
「すぐに全額は難しいでしょうね」
「工事を分ける?」
「緊急安全工事。作業排水改修。便所本設。三段階になる」
「優先するのは?」
「人が落ちないこと」
リリアが答えた。
「次に、汚れた水を地面へ漏らさないこと」
「最後に水洗化」
「そうなるわね」
「水洗便器を売る商会なのに」
「銀月衛生商会よ。便器だけの商会ではない」
直人は、少し笑った。
「名前を広くして正解でしたね」
「異世界便器販売所にしなくて、本当に良かった」
◇
翌朝。
ボルグたちが、既存溜め槽の緊急汲み取りを始めた。
便所小屋の周囲には立入禁止縄。
作業員は手袋と前掛け。
汲み取り口の横には、清潔な水と洗浄場所。
「最初の桶を上げるぞ」
ボルグが声を掛ける。
二人で縄を引く。
重い桶が、ゆっくり地上へ上がった。
中には汚物だけでなく、革片、毛、布、樹皮、黒い泥が混ざっている。
「処理場へ、そのまま運べますか」
直人が尋ねた。
「分ける必要がある」
「革工房の薬剤が混ざっている?」
「通常の便所槽とは違う」
ボルグは桶の液面を見た。
「ポルンへ与えるなよ」
「もちろんです」
その時、作業員の一人が溜め槽の底近くへ長い棒を入れた。
「何か硬いものがあります」
「石か?」
「違う。板のようです」
引き上げる。
黒く汚れた、細長い木板。
表面には溝が刻まれている。
「これは便所の部品ですか」
直人がケルムへ尋ねた。
「知らん」
エランが近づく。
「工房の排水溝に使っていた板です」
「なぜ溜め槽の中へ?」
「二年前、大雨で排水溝が壊れました」
「その時に流れ込んだ?」
「便所側の土へ沈んだと思っていました」
板の裏には、石積みを削ったような跡がある。
「流れ込んだ板が、槽の内壁へ当たり続けた可能性があります」
直人が言った。
「それで目地が壊れた?」
「大雨のたび、水と一緒に動いたのかもしれません」
「二年前から漏れていた可能性がある」
ボルグが低い声で言う。
直人は周囲を見た。
溜め槽。
作業排水溝。
川へ向かう地面。
そして、工房の職人たちが飲み水を汲む、小さな井戸。
「井戸水の確認が必要です」
「臭いはしないぞ」
ケルムが言う。
「見た目と臭いだけでは判断できない場合があります」
「王都の監査官を呼ぶのか」
「エルンさんへ報告します」
「工房を止められる?」
「井戸汚染の疑いがあれば、飲用を止める可能性があります」
「十二人の水はどうする」
「安全な井戸から運びます」
ケルムの顔色が変わった。
便所の床が抜けた。
原因は、腐った板だけではなかった。
二年前の大雨。
壊れた作業排水溝。
溜め槽へ流れ込んだ板。
傷んだ石積み。
地面へ漏れた汚水。
問題は、便所小屋の下だけに収まっていないかもしれない。
「井戸を、すぐ使用停止にします」
直人は赤い札を取り出した。
「まだ汚れていると決まっていない!」
ケルムが言う。
「安全だとも決まっていません」
「水がなければ、革を洗えない」
「まず、飲用と調理への使用を止めます。作業用水については、水務局と確認します」
「工房が止まる」
「人が飲む水を優先します」
赤い札が、革工房の井戸へ掛けられた。
床の穴から始まった緊急調査は、工房全体の水の流れへ広がっていた。
革工房の便所では、事故前から床の沈みが報告されていましたが、修理せず上から板を重ねて使用を続けていました。
さらに、革片や毛、石灰水を含む作業排水が便所周辺へ染み込み、床梁と溜め槽を傷めていました。
直人たちは怪我をした職人へ責任を押しつけず、治療費と休業中の賃金を工房側が負担することを確認します。
交換式仮設便所を設置したものの、二年前の排水事故が原因で、近くの井戸まで汚染されている可能性が判明しました。
次回は、革工房の井戸を使用停止にし、飲み水、作業用水、便所排水を分ける緊急給水計画を立てます。




