↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第2章 町に、便器を広げます

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/42

第34話 引き渡した後から、保守が始まります

仕立屋《金糸の針》へ設置された、月白色の標準型第二号便器。


一晩の漏水試験を終え、異常がなければ正式な引き渡しとなります。


しかし、便器は完成した瞬間ではなく、毎日使い続けられて初めて価値を持つ設備です。

 翌朝。


 陶山直人が《金糸の針》へ着いた時、店の前にはすでに三人が待っていた。


 店主オルド。


 設備主担当のマイラ。


 副担当のソナ。


「遅いぞ」


 オルドが言った。


「約束の時刻より少し前です」


「皆、便所を使わずに待っている」


「屋外便所は使えます」


「新しい便器を最初に使いたいらしい」


 作業場の窓から、ほかの職人たちがこちらを見ている。


 月白色の便器は昨夜から使用停止。


 入口には赤い札。


 扉には縄。


 鍵は銀月衛生商会が預かっていた。


「最初に使う方は、もう決めましたか」


「くじを作った」


 オルドが小さな布袋を見せた。


「くじ?」


「九人が全員、最初に使いたいと言うからだ」


「なぜですか」


「町で二台目の水洗便器だぞ」


「見世物ではありません」


「皆、分かっている」


 マイラが苦笑する。


「でも、自分たちの働く場所へ初めて作られた便器だから」


 ナーラ宅の第一号は、一人の暮らしのために作られた。


 第二号は、九人の職人が共用する。


 同じ便器でも、意味は違う。


「くじを引く前に、漏水試験です」


 直人は赤い札を外さず、鍵だけを開けた。


「誰も入りませんでしたね」


「私が店へ泊まった」


 オルドが胸を張る。


「便所の前で?」


「作業場だ。誰かが勝手に使わないよう見張った」


「そこまでする必要はありませんでした」


「信用していないのか」


「利用者ではなく、仕組みで防ぐ方がよいという意味です」


 鍵と縄がある。


 それでも店主は、一晩中近くで見張っていたらしい。


 新しい設備への期待と不安。


 どちらも大きいのだろう。


          ◇


 最初に便器内の水位を確認する。


 昨夜付けた細い印。


 現在の水面。


「変わっていません」


 ソナが言った。


「目で見える範囲では、同じです」


 直人は細い木針を水面へ当てた。


 印とのずれは、ほとんどない。


「封水保持、異常なし」


 次に貯水槽。


 浮き式水位表示は白。


 槽内の水位も、昨夜の印と一致している。


「給水管の下」


 乾燥紙は濡れていない。


「排水接続部」


 床下点検口を開ける。


 ロッカが作った角度付きの鏡を差し込む。


 便器直下。


 緩やかな曲管。


 梁との隙間。


 白い確認板。


「擦れ跡なし。水滴なし」


「将来用分岐箱は?」


 マイラが自分で蓋を開けた。


 中の白砂は乾いている。


「色は変わっていません」


「触る前に、手が乾いていることを確認してください」


「はい」


 マイラはすでに点検手順を覚え始めている。


「処理槽入口」


 裏庭へ回る。


 ボルグが点検口を開けた。


 昨日の試験水は槽内へ到達している。


 周囲の確認砂に湿りはない。


「外漏れなし」


「臭いは?」


「今の範囲では異常なし」


「処理槽の水位は?」


「記録線より少し上だ。昨日流した分だけ増えている」


「正常です」


 最後に手洗い設備。


 水槽。


 栓。


 折り畳み式の受け。


 糸くずを止める網。


 排水管。


 受けの下に置いた紙の端が、少しだけ湿っていた。


「濡れています」


 ソナが声を上げた。


 直人はすぐにしゃがんだ。


「使用停止ですか」


 オルドが不安そうに尋ねる。


「便器ではなく、手洗い排水です」


「漏れているのだろう」


「原因を確認します」


 栓を開き、少量の水を流す。


 手洗い受けから、小径排水管へ。


 接続部の下へ、一滴。


「締め付けが足りません」


 ロッカが金具を確認する。


「昨日、床板を固定した時に少し動いたかもしれん」


「分解します」


「一滴だけだぞ」


 オルドが言う。


「今日から毎日使います」


 一回で一滴。


 一日に二十回。


 一月。


 木床の見えない位置へ水が染み続ければ、床を腐らせる。


「少ない漏れほど、見逃されやすいです」


 接続を外す。


 弾樹の薄い密閉輪が、片側だけ折れていた。


「締め付け不足ではありません」


 直人が言った。


「輪がずれています」


「昨日、組んだ時には見えなかった」


 ロッカが密閉輪を取り出す。


「小径管は軽い。床板を閉じた時に引かれたな」


「管を固定する支えが足りません」


「支えを一つ増やす」


「手洗い管にも固定位置の基準が必要ですね」


「便器の管より細いから、軽く考えた」


 ロッカは正直に言った。


「俺もです」


 直人も記録へ書いた。


 手洗い小径排水管。床閉鎖時の移動対策不足。


 密閉輪を交換。


 管の途中へ固定具を追加。


 再度水を流す。


 一回。


 漏れなし。


 二回。


 漏れなし。


 三回。


 乾燥紙に変化なし。


「手洗い排水、補修後合格です」


「便器は最初から問題なかったのだな?」


「現時点では」


「その言葉を付けずに話せないのか」


「今後も点検しますから」


          ◇


 すべての検査結果が、引き渡し記録へ記入された。


 水務局地方監査官のエルンも到着する。


「一晩試験の結果を確認します」


「手洗い排水に一滴の漏れがありました」


 直人は最初に報告した。


「補修は?」


「管固定具と密閉輪を交換。三回の通水再試験で漏れなしです」


「便器本体ではないから、書かなくてもよいのでは?」


 オルドが言う。


「同じ個室内の設備です」


 エルンが答える。


「引き渡し後に再発した場合、この記録が原因調査に役立ちます」


「役人まで同じことを言うようになった」


「水務局は元から記録を重視します」


「ナオトと気が合うわけだ」


 エルンは検査表へ署名した。


 試験設備として使用開始を承認。


 条件。


 最初の七日間は、毎日始業前と終業後に漏水確認。


 八日目から三十日目までは、毎日一回。


 固定金具は週一回。


 処理槽は三日ごと。


 異常時は、赤札を掛けて使用停止。


「正式な安全認定ではありません」


 エルンが職人たちへ説明する。


「三十日間の運用結果を水務局へ提出します」


「三十日後には、試験ではなくなる?」


 マイラが尋ねる。


「結果に問題がなく、必要な改善が終われば、本登録設備として申請できます」


「途中で問題が出たら?」


「使用方法で改善できるのか、部品交換が必要か、設計変更が必要かを判断します」


「すぐ撤去するわけではない?」


「重大な危険でなければ、原因を調べて直します」


 試験とは、失敗を待つことではない。


 問題を早く見つけ、安全に直すための期間である。


          ◇


「次に、管理責任者を確認します」


 リリアが契約書を開いた。


「契約責任者は、店主オルド」


「私だ」


「設備主担当、マイラ」


「はい」


「副担当、ソナ」


「はい」


「給水担当は?」


 作業場が静かになった。


「決めていないのですか」


 直人が尋ねる。


「水なら、誰でも入れられる」


 オルドが答えた。


「誰でもできる仕事は、誰もやらない仕事になりやすいです」


「赤鍋亭でも聞いた言葉だな」


「必要なので、何度でも言います」


 ミーナとの給水契約では、毎朝決められた量を補充する。


 しかし、利用が予想より多い日には、仕立屋側でも井戸水を運ぶ必要がある。


「通常給水は私」


 ミーナが言った。


「日中の追加補充は、仕立屋側で担当を決めてください」


「設備担当が見ればいいでしょう?」


 オルドがマイラを見る。


「漏れ、清掃、布箱、分岐箱、水まで全部ですか」


「手当を三枚出す」


「水運びまで含むとは聞いていません」


「水切れした時だけだ」


「水切れする前に運ぶ必要があります」


 マイラの言うとおりである。


「給水副担当を別に決めましょう」


 直人が言った。


「水位表示が黄色になったら、井戸から補充する」


「黄色?」


 オルドが尋ねる。


「現在は白と赤だけです」


「足りるか、足りないかだけでは駄目なのか」


「赤になってからでは、次の利用前に急いで水を運ぶ必要があります」


「黄色を追加すれば、余裕があるうちに補充できる?」


「はい」


 浮き式水位表示へ、白、黄、赤の三段階を付ける。


 白。


 十分な水量。


 黄。


 残りが少ない。補充準備。


 赤。


 一回分を保証できない。使用停止。


「今から塗り直すのか」


「棒へ黄色い印を追加するだけです」


 ミーナが細い筆を使い、浮き棒へ黄色の線を入れた。


「給水担当は誰にしますか」


 若い男性職人のルークが手を挙げた。


「僕がやります」


「理由は?」


 オルドが尋ねる。


「井戸に一番近い作業台を使っています」


「それだけか」


「毎朝、革を湿らせる水も汲んでいます。ついでに確認できます」


「便所の水と作業用水を、同じ桶で運ばないでください」


 直人が言った。


「別の桶を用意します」


「便所給水専用と分かる印を付けます」


「青い輪でいいですか」


「はい」


 ルークが給水担当。


 休みの日はソナ。


 給水記録は、一日二回。


 朝の満水。


 夕方の残量。


「仕事が増えたので、手当を――」


 ルークが言いかける。


 オルドが先に答えた。


「月に銅貨一枚」


「二枚」


「一枚半」


「銅貨を半分にできません」


「では、一枚と昼食一回追加」


「毎週?」


「毎月だ!」


 交渉の末、銅貨一枚と月二回の昼食追加で決まった。


「設備導入費だけでなく、運用費が増える」


 オルドがまた呟く。


「便壺を運んでいた人の作業時間は減ります」


 リリアが答えた。


「それも記録して比較しましょう」


「便所の費用を全部計算するのか」


「二台目を決める材料になる」


 オルドはそれ以上、文句を言わなかった。


          ◇


 正式な利用説明が始まった。


 九人の職人が、個室の前へ集まる。


「中へ全員は入れません」


 直人が言う。


「三人ずつ説明します」


「九人まとめて聞けば早い」


 オルドが言う。


「実際の表示や道具を見ながら確認します」


 最初の三人。


 オルド。


 マイラ。


 ソナ。


「入口で、針とはさみを外します」


「仕事着へ縫い付けている道具袋は?」


 ソナが尋ねる。


「外せるなら外してください。外せない場合は、口を閉じる」


「針が一本でも落ちたら?」


「流す前に拾ってください。見失った場合は、水を流さず赤札を掛ける」


「便器の中へ手を入れる?」


「手袋と専用道具を使います。素手では触れないでください」


「誰を呼ぶ?」


「設備担当者。回収できなければ商会へ連絡」


 次に水位表示。


 白。


 使用可。


 黄。


 補充連絡。


 赤。


 使用停止。


「赤でも一回くらい流れるかもしれないだろう」


 オルドが言う。


「“かもしれない”状態で使わないでください」


「急いでいたら?」


「屋外便所を使います」


「雨の日でも?」


「詰まらせて水があふれるより安全です」


 操作紐。


 一回だけ引く。


「流れが弱かったら?」


「二度目を引かず、鉢内の水位を見る」


「汚れが少し残った場合も?」


「水位が正常なら、設備担当者へ報告。掃除で対応できるか確認します」


「自分で二回流した方が早い」


「利用記録と水量が狂います」


「一回で流れない便器が悪いのでは?」


「繰り返す場合は設計改善が必要です。だから記録してください」


「失敗を隠すなということね」


 マイラが言う。


「はい。利用者の責任と決めるためではなく、設備を直すためです」


 手洗い。


 栓を開く。


 石けん草液。


 受けの網へ糸くずが残ったら取り除く。


 清掃布は、専用箱へ。


「洗った後、扉の取っ手に触るの?」


 ソナが尋ねた。


 個室内で手を洗い、その後、扉を開ける。


 取っ手が汚れていれば、手が再び汚れる。


「内側の取っ手も、毎日清掃します」


「手洗い前に触らない位置へ、鍵を付けられない?」


 現在の鍵は、扉中央。


 使用後、立ち上がり、鍵を開けてから手を洗えば、清潔な順番にならない。


 手を洗う。


 その後、鍵へ触る。


 やはり接触は必要。


「足で開ける仕組みは?」


 オルドが言う。


「扉の下へ踏み板を付ける?」


 ロッカが考える。


「複雑になり、壊れやすいです」


 直人は扉を見た。


「取っ手の横へ、清掃布を置く?」


「毎回布で開けるの?」


「守られませんね」


「手洗い後に触る場所を、毎日清潔に保つ方が現実的」


 マイラが言った。


「始業前、昼、終業後に取っ手を拭きます」


「昼にも?」


「九人で使うから」


「清掃回数を記録します」


「やっぱり増えるのね」


「最初の一月だけでも、実際に必要な回数を確認しましょう」


          ◇


 三組すべてへの説明が終わった。


「では、くじだ」


 オルドが布袋を持ち上げる。


「最初に使う方は、設備担当者が適切では?」


 直人が言う。


「なぜだ」


「使用後の状態を、自分で点検できます」


「それでは、くじを作った意味がない」


「設備担当は、私です」


 マイラが手を挙げた。


「最初に使わせてください」


 ほかの職人たちは、少し残念そうだった。


 だが、反対する者はいない。


「いいのですか」


 直人が尋ねる。


「配置変更の試座も、私が一番多くしました」


「確かに」


「それに、誰かが最初に使わなければ始まりません」


 マイラは針箱へ道具を預けた。


 入口札を、空室から使用中へ変える。


 個室へ入る。


 扉が閉まる。


 鍵の音。


 作業場が静かになった。


「全員で待たなくてもいいのでは」


 直人が言う。


「ここまで待ったのだぞ」


 オルドが小声で答える。


 しばらくして。


 個室の中から、操作紐を引く音。


 ごぼん。


 月白色の便器から流れた水が、床下の曲管を通る。


 主管。


 処理槽。


 直人は点検口の近くで音を聞いた。


 異常音はない。


「流れました」


 テオが小声で言う。


「まだ使用者の確認が終わっていません」


 ガルドは工房から第二号の初回利用を見るために来ていた。


 腕を組み、個室の扉を睨んでいる。


「親方が一番緊張していますね」


「しておらん」


 手洗いの水音。


 鍵。


 扉が開く。


 マイラが出てきた。


 作業場の全員が彼女を見る。


「どうだった」


 オルドが尋ねた。


「普通です」


「普通?」


「座って、使って、流れました」


「もっと何かないのか」


「何が?」


「感想だ」


 マイラは少し考えた。


「外の便所より、落ち着きます」


「臭いは?」


「ほとんどしません」


「音は?」


「流す音は大きい。でも、中の細かな音は作業場から聞こえにくいと思います」


「壁の防音が効いている?」


「外で聞いていた人は?」


 マイラが尋ねる。


 職人たちは顔を見合わせた。


「洗浄音しか聞こえなかった」


「それなら十分です」


 マイラは赤い異常札を使わず、空室札へ戻した。


「便器内に汚れは?」


 直人が尋ねる。


「残っていません」


「水位は?」


「いつもの印まで戻りました」


「床は?」


「濡れていません」


「手洗い排水は?」


「漏れなし」


「初回利用、異常なしです」


 テオが記録紙へ大きく印を付けた。


 九人のための水洗便器が、正式に動き始めた。


          ◇


 その後の利用順は、結局くじで決められた。


 二人目。


 三人目。


 四人目。


 午前中だけで、七回使用された。


 利用するたびにマイラかソナが確認する。


 水位。


 漏れ。


 布箱。


 手洗い網。


「毎回、全部見るのですか」


 五回目を終えた頃、ソナが尋ねた。


「初日だけは、利用後確認を勧めます」


 直人が答える。


「明日からは?」


「始業前、昼、終業後。異常の申告があれば、その都度」


「これなら続けられます」


 昼前。


 浮き式水位表示が、白から黄色へ近づいた。


「黄色です」


 ルークが専用桶を持ち上げる。


「井戸へ行ってきます」


「水切れ前に気づけましたね」


 追加給水。


 水位表示は白へ戻る。


「ミーナさんの朝の水だけでは、一日足りない?」


 オルドが尋ねる。


「今日は皆が試したので、通常より利用回数が多いです」


 直人が答えた。


「一週間、記録して判断します」


「給水契約を増やすと金がかかる」


「職人が運ぶ時間も費用です」


「ルークの手当も増えた」


「水魔法の料金と比較してください」


 オルドは帳簿へ利用回数と給水時間を書いた。


「私まで記録するようになった」


「良いことです」


「お前のせいだ」


          ◇


 昼休み。


 屋外便所の前には誰も並んでいなかった。


 女性用の水洗便所へ二人。


 男性職人は屋外便所を使用している。


 同時に二人が使えるため、以前のような三人待ちは起きていない。


「一台増えただけで、列がなくなりました」


 マイラが言った。


「今日は利用が分かれています」


「二台目は、すぐ必要ない?」


 オルドが尋ねる。


「まだ決められません」


「またか」


「雨の日、冬、体調不良、屋外便所の故障もあります」


「一月記録する?」


「はい」


「でも、処理槽と主管は二台分作ってある」


「二台目を追加する時、大きく壊し直さずに済みます」


 オルドは将来用分岐箱を見た。


「銅貨四枚を追加して、これを作った」


「床を開け直す費用を減らせます」


「本当に二台目が必要になれば、得になる」


「必要にならなければ、使わない設備が残ります」


「売り手なのに、二台目を勧めないのか」


「利用記録を見てからです」


 オルドは苦笑した。


「お前は、便器を売りたいのか、売りたくないのか分からん」


「必要な設備を売りたいんです」


          ◇


 午後の作業中、最初の運用上の問題が起きた。


「便所が開かない!」


 扉の前で、ルークが声を上げる。


 使用中札。


 だが、中から返事がない。


「誰か入っていますか」


 オルドが作業場を見る。


 九人全員がいる。


「全員いる?」


 職人たちが数える。


 誰も便所内にはいない。


「札を戻し忘れたようです」


 マイラが空室へ変えようとした。


「待ってください」


 直人が止める。


「中に誰もいないことを、鍵で確認します」


「全員いるのに?」


「来客が使った可能性があります」


「客には使わせていない」


「扉を叩きます」


 返事なし。


 設備担当用の解錠具で、外から確認。


 扉を少し開ける。


 誰もいない。


「空室です」


「札を戻し忘れただけですね」


「誰だ?」


 オルドが職人たちを見る。


 誰も名乗らない。


「失敗した人を探すより、戻し忘れにくくします」


 直人が言った。


「扉と連動させる?」


 ロッカが札を触る。


「扉を閉じると使用中。開けると空室へ戻る仕組みは作れる」


「壊れやすくなりませんか」


「紐と重りだけだ」


「鍵とは別?」


「別にする」


 扉が閉まる。


 紐が引かれ、使用中札が下がる。


 扉が開く。


 重りで空室札が戻る。


「今日中に改造できますか」


「小一刻あれば」


「追加費用は?」


 オルドが尋ねた。


 リリアが答える。


「初月試験で見つかった運用改善。簡単な改修なので、今回は商会負担」


「無料?」


「次の標準設備へ使える知見になるから」


「では、全部改善と言って無料に――」


「利用者都合の追加装飾は有料よ」


「まだ何も言っていない」


「顔が言っていた」


          ◇


 夕方。


 初日の利用回数は、十九回。


 朝に待っていた職人たちが、普段より積極的に使ったため多い。


 給水追加、一回。


 詰まり、なし。


 漏れ、なし。


 洗浄後の汚れ残り、一回。


 前方へ細い糸が付着していた。


「糸を便器へ入れた人がいる?」


 オルドが怒った。


「衣服から落ちた可能性があります」


 直人が言う。


「使用者を調べる!」


「まず、便器内へ糸が入る経路を考えます」


「針箱は使っている」


「作業着へ付いた糸くずまでは、すべて取れません」


「便器が詰まるか?」


「短い糸一本では直ちに詰まる可能性は低いですが、繰り返し流さない方が安全です」


「便所へ入る前に服を払う?」


「糸くず回収用の粘着具はありません」


「湿らせた布で軽く払う方法なら」


 マイラが提案した。


「入口へ小さな服払い布を置く?」


「布自体を便器内へ持ち込まない位置で使います」


「糸はどう捨てる?」


「針箱横の糸くず箱へ」


「仕立屋特有の設備ですね」


 直人は記録へ加えた。


 入口に糸くず確認場所。


 水洗便所は同じ標準型でも、設置する業種によって必要な周辺設備が変わる。


「赤鍋亭なら脂」


 マイラが言う。


「教会なら祈り札」


「仕立屋なら糸と針です」


「治療院なら?」


「便壺と清潔な水の分離」


「宿なら?」


「酔った客と、使い方を知らない旅人」


「便器は同じでも、問題は違うのね」


「はい」


          ◇


 終業後。


 マイラとソナが、初めての正式清掃を行った。


 手袋。


 薄型清掃棒。


 交換式の布。


 石けん草液。


 便器内。


 便座。


 操作紐。


 手洗い。


 扉の取っ手。


 床。


 壁側の狭い隙間にも、薄型棒が入る。


「清掃できます」


 マイラが言った。


「無理な姿勢になりませんか」


「少しかがみます。でも、便壺を持ち上げるより楽です」


「作業時間を測ります」


「掃除されながら横で測られると、急がされている気分になります」


「急がなくて構いません」


「今度は、ゆっくりすぎると言われそう」


 オルドが後ろから見ている。


「通常の速さでお願いします」


 清掃完了まで、四分の一刻より短かった。


「以前は?」


 リリアが尋ねる。


「便壺を外へ運ぶ。大壺へ移す。小壺を洗う。床を拭く。戻す」


「時間は?」


「二人で、今の倍近く」


「運搬時のこぼれは?」


「月に何度か」


「水洗化で減った作業時間として記録します」


 オルドが帳簿を見た。


「設備担当の手当を払っても、全体では安くなる可能性がある?」


「給水、保守、汲み取りも含めて一月比較します」


「汲み取りはなくならない」


 ボルグが言う。


「処理槽の回収がある」


「回数は?」


「水が増える。以前の便壺より、総量は多くなるかもしれん」


「費用も増える?」


「槽の状態を見なければ分からん」


「楽になった分、別の費用が増える」


「だから全体を見ます」


 直人が答えた。


          ◇


 正式な引き渡しは、清掃後に行われた。


 便器。


 貯水槽。


 手洗い。


 処理槽。


 将来用分岐箱。


 予備便所。


 清掃道具。


 異常札。


 記録板。


 すべてを確認する。


 リリアが引き渡し書を読み上げた。


「本日より、仕立屋《金糸の針》へ標準型水洗便器第二号を引き渡します」


 オルドが最終支払いの銀貨を机へ置く。


「外観差は説明済み」


「承知した」


「三十日間は水務局試験設備」


「承知した」


「通常使用の不具合は保証範囲。針、はさみ、布、大量の糸、食べ物、油を流した場合は有償修理」


「食べ物や油まで?」


「赤鍋亭の件があります」


「ここは仕立屋だ」


「利用者が持ち込む可能性を考え、書いています」


「承知した」


「水量不足時の使用は禁止」


「白、黄、赤だな」


「異常時は再洗浄せず、赤札」


「分かった」


「勝手に便器を外さない」


「誰が外すのだ」


「設備に詳しいつもりの職人が、修理しようとする可能性があります」


 オルドがロッカを見る。


「俺は勝手に触らん」


「念のためです」


「全部、承知した」


 リリアは最後の欄を指した。


「では、契約者署名を」


 オルドが署名する。


 商会側はリリア。


 施工設計責任者、直人。


 製造責任者、ガルド。


 処理責任者、ボルグ。


 木工責任者、ロッカ。


 給水責任者、ミーナ。


 水務局立会、エルン。


 設備主担当、マイラ。


 副担当、ソナ。


「署名が多いな」


 オルドが紙を見た。


「多くの仕事で動く設備です」


 直人が答えた。


「壊れた時、誰へ連絡する?」


「銀月衛生商会です」


「一か所でいいのだな」


「はい」


 オルドは引き渡し書を受け取った。


 こうして、月白色の標準型第二号便器は、正式に《金糸の針》の設備となった。


          ◇


 銀月亭へ戻る途中。


 テオが、今日の記録を抱えて歩いていた。


「第二号は成功ですか」


「製品検査と設置検査には合格しました」


 直人が答える。


「今日も十九回、使えました」


「一日です」


「まだ成功ではない?」


「長く使えて、初めて成功です」


「何日なら?」


「決まった日数だけでは判断できません」


「三十日?」


「水務局の試験期間としては」


「一年?」


「一年使えれば、長期の問題が見えてきます」


「十年?」


「部品交換をしながら使えるなら、良い設備だと思います」


 テオは記録紙を見た。


「便器を作り終えたのに、記録が増え続けるのですね」


「引き渡した後から、保守が始まります」


「作って終わりではない」


「はい」


 銀月亭の前へ着くと、新しい相談者が待っていた。


 革工房の主人。


 作業着には濃い染み。


 手には、折れた木管。


「銀月衛生商会はこちらか」


 リリアが受付台へ入る。


「はい。どのようなご相談ですか」


「便所を水洗にしたい」


「利用者数と、現在の設備を教えてください」


「職人は十二人。今朝、便所の底が抜けた」


 直人の表情が変わった。


「怪我人は?」


「一人、腰まで落ちた」


「治療院へ?」


「連れていった」


「便所は使用停止にしましたか」


「板を載せてある」


「立入禁止にしてください」


 直人は赤い緊急調査札を取った。


「今日、現場を確認します」


 リリアが止める。


「今から?」


「床が抜けています」


「《金糸の針》の初日点検は?」


「マイラさんたちへ手順を渡しました。異常があれば連絡が来ます」


「今度は任せられる?」


「はい」


 仕立屋の第二号便器は、すでに商会だけの設備ではない。


 現場の担当者が管理を始めている。


 直人たちは、次の危険な便所へ向かうことができる。


 一台を引き渡す。


 それは仕事の終わりではない。


 管理を現場へ渡し、必要な時に支える関係の始まりだった。

仕立屋の第二号便器は一晩の漏水試験を終えましたが、手洗い用の小径排水管から一滴の漏れが見つかりました。


補修後、九人の職人へ利用方法、給水、清掃、異常対応を説明し、正式な使用を開始します。


初日には使用中札の戻し忘れや糸くずの混入も発生し、現場に合わせた追加改善が行われました。


次回は、便所の床が抜け、職人が腰まで転落した革工房を緊急調査します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。