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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第2章 町に、便器を広げます

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第33話 便器を指八本動かすだけでは済みません

仕立屋《金糸の針》へ搬入された、月白色の標準型第二号便器。


ところが、排水管を通す予定の場所から、図面にない太い梁が見つかりました。


梁を避けて便器を移動すれば、個室内のほかの設備にも影響します。


現場変更は、一か所だけ直せば終わるものではありません。

「便器を壁側へ指八本分、移動させます」


 陶山直人が床へ新しい線を引いた。


 古い施工線の横。


 壁に近い位置。


 排水口は、床下の梁を避けられる。


 しかし、月白色の便器をその線へ置いた完成形を想像すると、別の問題が見えてくる。


「壁に近すぎない?」


 女性職人のマイラが尋ねた。


「確認します」


 直人は本物の便器ではなく、試座に使った木製模型を新しい位置へ置いた。


「座っていただけますか」


「また?」


「位置が変わりました」


 マイラが模型へ座る。


 左側は壁。


 右側には、将来設置する布箱。


 背後には貯水槽。


「肘は当たりますか」


「普通に座れば大丈夫です」


「服を上げ下げする時は?」


 マイラは腕を少し広げた。


 左肘が壁へ触れる。


「当たるわ」


「壁側を指二本分戻します」


「梁は避けられるか?」


 ロッカが床下から尋ねた。


「排水管の外側と梁の間に、どれくらい余裕がありますか」


「指三本ほどだ」


「管を固定する金具も入ります」


「それを入れれば、指一本半だな」


「少なすぎます」


 木材は湿気や荷重でわずかに動く。


 排水管と梁が接触すれば、振動や摩耗で接続部へ負担がかかる。


「便器を壁から離せば、梁へ近づく」


 オルドが腕を組んだ。


「梁から離せば、壁へ近づく。どうする」


「便器の向きを少し変える方法があります」


 直人は便器模型の正面を、扉側へわずかに振った。


「斜めに置くのか?」


「完全な斜めではありません。排水口の位置だけ梁から外し、座った時の体は壁から離れます」


「見た目が悪い」


「大きくは傾けません」


「仕立屋は線をそろえる仕事だ。便器だけ曲がっていたら気になる」


 オルドは床の線を睨んだ。


 直人も同意した。


 使えればよいというだけでは、商業施設の商品として不十分である。


「では、排水接続部で位置を調整します」


「革管を曲げる?」


 ボルグが尋ねる。


「少しだけです。ただし、急な曲がりは作りません」


「汚物が引っかかるぞ」


「便器直下は、できる限りまっすぐ下ろします。その下で緩やかに梁を避けます」


 床下に、短い縦管。


 そこから緩やかな曲線。


 梁の横を通り、主管へ接続する。


「床下の深さが足りないと言っていなかったか」


 オルドが聞く。


「下へ大きく曲げる余裕はありません。ですが、便器位置を指四本だけ移し、接続管の下部で残りを吸収すれば可能です」


「指八本動かす話が、指四本になった?」


「はい」


「最初から、それでは駄目だったのか」


「床下を開ける前は、梁の正確な幅と位置が分かりませんでした」


 現場を開けて初めて得られた寸法である。


 図面だけを見ていても出せない答えだった。


          ◇


「試しに管を組みます」


 ボルグが、木製の排水管部品を床下へ並べた。


 便器直下の短い縦管。


 弾樹の密閉輪。


 緩やかに方向を変える接続管。


 主管へ入る部分。


「水だけ流します」


「まだ汚物は使わないのか」


 オルドが尋ねる。


「仮組みです。継ぎ目も完全には固定していません」


 ミーナが小さな水差しを持った。


「どのくらい?」


「最初は少量で」


 水を流す。


 透明な水が短い縦管を落ち、曲管を通って主管側へ流れた。


「残っていません」


 テオが床下を灯りで照らす。


「管の傾斜を確認します」


 直人は細い水位管と、目盛り付き木板を使った。


 入口。


 曲がり。


 出口。


 すべて下りになっている。


「途中で平らになっていません」


「なら使えるな」


 オルドが言う。


「まだです」


「水が流れた」


「固形物を模した試験が必要です」


「便器を付けずに?」


「透明な水だけでは、引っかかりが分かりません」


 柔らかく練った土を、小さな塊にする。


 葉を混ぜる。


 仮設の漏斗から、試験水と一緒に流す。


 最初の塊。


 曲管を通る。


 二つ目。


 少し遅れたが、出口まで出た。


 三つ目。


 曲管の手前で止まった。


「止まったぞ」


 オルドが言う。


「水量が便器の一回分より少ないです」


 ミーナが答えた。


「では一回分を流します」


 止まった塊が押し流される。


「通常洗浄量なら流れる」


 ボルグが言う。


「ただし、水量が不足すれば、この曲がりで止まりやすい」


「貯水槽が満水でない状態では、使わせない方がいいです」


 直人は説明板へ加える項目を書いた。


 水量不足時、使用停止。


「少しくらい水があれば流せないの?」


 マイラが尋ねる。


「便器の鉢だけはきれいに見えても、床下の管内へ残る可能性があります」


「見えない場所で詰まる?」


「はい」


「満水かどうかは、どう分かるの」


「貯水槽へ確認窓を付けます」


 現在の貯水槽には、蓋を開けて内部を見る方法しかない。


 毎回、利用者が確認するには不便だ。


「水位を示す浮き札を付けられませんか」


 ミーナが尋ねた。


「浮き札?」


「槽の中へ浮く木を入れて、細い棒を外へ出します。水が多ければ棒が上がる」


 直人は貯水槽の模型へ線を描いた。


 浮き。


 縦棒。


 外側の目印。


「可能です」


「水が足りる時は白。少ない時は赤が見えるようにする?」


 リリアが提案する。


「利用者にも分かりやすいです」


「また設備が増える」


 オルドが言った。


「便器の位置を変えたこととは関係ないだろう」


「曲管を追加したことで、水不足時の詰まり危険が高くなりました」


「だから、満水確認を簡単にする?」


「はい」


「一つ変えれば、別のものも変えるのだな」


「そういうことです」


          ◇


 便器模型を指四本分だけ壁側へ移す。


 マイラがもう一度座った。


「今度はどうですか」


「壁には当たらない」


「右側の布箱は?」


 仮の箱を置く。


 衣服を下ろした時、裾が箱へ触れそうになった。


「もう少し後ろへ置けませんか」


「後ろは貯水槽です」


「箱を小さくする?」


 オルドが言う。


「使用済みの布を入れる量が足りなくなります」


「毎日回収すればいい」


「誰が?」


 女性職人たちが一斉にオルドを見る。


「当番を決める」


「勤務時間内ですか」


 直人が確認する。


「分かっている」


 赤鍋亭での話が、町の職人たちにも伝わっている。


 清掃を罰ではなく、正式な業務にする。


「小型箱を一日一回交換する運用なら、位置を変えられます」


 リリアが言う。


「大型箱より製作費も少し下がる」


「安くなるのか」


 オルドが反応した。


「ただし、交換を忘れると満杯になる」


「当番表を作る」


「担当者が休んだ時は?」


「代わりを決める」


「記録は?」


 直人が尋ねる。


「お前はすぐ記録と言うな!」


「満杯で使えない状況を防ぐためです」


 マイラが笑った。


「布箱の蓋へ札を付けましょう。空なら白。半分なら黄。交換したら日付を動かす」


「私たちで作れます」


「良いと思います」


 布箱は大型固定式から、小型交換式へ変更された。


 仕立屋が防水布袋を縫い、木枠はロッカが端材で作る。


          ◇


 次は手洗いの位置だった。


 当初は、便器右側の壁へ小型水槽を付ける予定だった。


 しかし、便器を指四本移したことで、利用者の肩と水槽の距離が近くなる。


「座った時に頭をぶつけるほどではない」


 ロッカが言う。


「立ち上がる時は?」


 直人が模型から立ち上がる。


 体を少し右へひねると、肩が水槽予定位置へ触れた。


「危険です」


「水槽を高くする」


「今度は、小柄な人が栓へ届きません」


「扉の横へ移す?」


 マイラが提案した。


「扉を開ける前に手を洗える位置です」


 衛生上も良い。


 手を洗ってから扉へ触れれば、個室外へ汚れを持ち出しにくい。


「ですが、扉が内開きです」


 直人は扉の軌道を確認した。


 扉を開くと、水槽予定位置へ重なる。


「外開きに変えるか」


 ロッカが言う。


「廊下を通る人へぶつかります」


 作業場と個室の間の通路は狭い。


「引き戸には?」


 オルドが尋ねる。


「壁の内側へ引く空間がありません」


「折れ戸は?」


「鍵と隙間の問題が増えます」


「では、扉を反対側へ開く」


 現在、右側に蝶番。


 左側を手前へ引く。


 蝶番を左へ移せば、開いた扉が手洗い水槽と反対側へ動く。


「廊下側の針置き箱と干渉します」


 テオが気づいた。


 個室入口へ設置する針置き箱。


 扉の向きを変えると、箱が隠れる。


「針置き箱を反対側へ移します」


「そこには作業予定表がある」


 オルドが言う。


「予定表を少し上へ」


「職人が書きにくくなる」


「別の壁へ移す?」


「布棚がある」


 便器を指四本動かしただけで、作業場の予定表まで動かす話になっていた。


「個室内の手洗いを、便器の正面へ置く方法は?」


 ミーナが尋ねる。


「足元の動線を塞ぎます」


「壁へ折り畳み式の水受けを付ける?」


 ロッカが木板を持ち上げた。


「使う時だけ倒す。終われば壁へ戻す」


「水槽本体は上部。受けだけ折り畳む?」


「そうだ」


「排水は?」


「下へ小さな受け桶を置く」


「桶を運ぶ作業が増えます」


「手洗い水を便器へ流してはいけないのか」


 オルドが尋ねた。


「石けん草の量と布くずが混ざらなければ可能です。ただし、利用者が桶を便器へ持ち上げて流すと、こぼす恐れがあります」


「受け桶から細い管で排水へつなげる?」


 直人は図を描いた。


 手洗い受け。


 小径排水管。


 便器の下流側で主管へ接続。


「逆流しませんか」


 テオが尋ねる。


「接続位置と高さを分けます。便器排水が手洗い側へ戻らない形が必要です」


「小さい管は詰まりやすいぞ」


 ボルグが言う。


「水だけを流す。布や大きな汚れは入れない」


「髪や糸は?」


 仕立屋では、細い糸くずが多い。


「受け皿に取り外し式の網を付けます」


「掃除担当が必要ね」


 リリアが言う。


「毎日、布箱と一緒に確認する」


 マイラが答えた。


 手洗いは、便器右側の固定水槽から、正面壁の折り畳み式受けへ変更。


 扉の向きは変えない。


 針置き箱も予定表も、そのまま。


「これで収まりそうです」


 直人が言う。


「水槽は高い位置に残す?」


 ミーナが尋ねる。


「栓は手が届く高さ。水受けは折り畳み。立って使います」


「使った後、受けを戻さない人がいる」


 オルドが言う。


「戻さなくても、扉とは干渉しません」


「なら、出したままになる」


「出したままでも通行に必要な幅は確保します」


「では折り畳む意味は?」


「清掃時と、便器部品を運び出す時に広くできます」


「普通の利用では開いたままでいい?」


「はい」


 完全に収納することを利用者へ強制しない。


 守られない手順を増やすより、開いた状態でも安全に使える方がよい。


          ◇


「衣服掛けは?」


 リリアが確認した。


 当初は便器の左側へ、折り畳み式の掛け板を付ける予定だった。


 しかし、便器を壁側へ移したことで、その空間が狭くなっている。


「正面扉の裏側へ付けます」


 ロッカが言った。


「扉を開けた時、外から服が見えます」


 マイラが指摘する。


「便所へ掛けた上着が、作業場から見える程度では?」


「人によっては、下着や道具袋を掛けます」


「なら、右側の上方」


「水槽があります」


「水槽の下」


「肩へ触れます」


 配置が再び詰まる。


「天井から下げるのは?」


 テオが言った。


「縄を引けば掛け板が下がり、使い終えたら上へ戻す」


「複雑すぎます」


 直人が即答する。


「壊れたら、衣服が便器へ落ちます」


「普通の木鉤を、扉横の高い位置へ二つ付けましょう」


 マイラが壁を指した。


「小柄な人は、下の鉤。長い服は上の鉤」


「棚ではなく鉤だけ?」


「荷物は持ち込まない。服だけ掛ける」


「職人たちが守れますか」


「入口に荷物置き籠を作る」


 便所内へ何でも持ち込むのではなく、外側で置ける物は外へ。


 針とはさみは針置き箱。


 大きな荷物は籠。


 衣服だけを個室内の鉤へ掛ける。


「利用者側の運用で、設備を小さくする」


 直人が言った。


「設備だけで全部解決しなくてもいいでしょう?」


 マイラが答える。


「はい。ただし、守れる運用にする必要があります」


「仕立屋で働く人は九人。全員で決めれば守れる」


「新しく入った職人には?」


「最初の日に説明する」


「利用説明へ追加します」


 オルドがうんざりした顔をした。


「便所を使うだけで、研修が必要なのか」


「針を持ち込まない。水量を確認する。異常時は二度流さない。手を洗う」


 マイラが数えた。


「仕事の道具の扱いより簡単よ」


「そう言われればそうだが……」


          ◇


 変更後の配置が、床へ描かれた。


 便器は当初位置から、壁側へ指四本。


 排水管は短い縦管から緩い曲管。


 手洗いは正面壁。


 布箱は右後方の小型交換式。


 衣服掛けは扉横の上下二段鉤。


 大きな荷物は個室外。


 針箱は既存位置。


 便器前方の立ち座り空間も確保できている。


「もう一度、試座します」


 マイラ。


 小柄な職人。


 背の高い職人。


 三人が順番に確認した。


「壁は?」


「当たらない」


「立ち上がりは?」


「問題ない」


「手洗いへ移動できますか」


「一歩前へ出れば届く」


「扉は?」


「便器へ当たらない」


「布箱は?」


「少し後ろだけれど、手は届く」


「衣服掛けは?」


「下の鉤なら使いやすい」


「清掃用具を持って入れますか」


 マイラが長い柄の清掃棒を持った。


 扉から便器周囲へ入る。


 右側。


 左側。


 背後。


「壁側が狭い」


「清掃棒を薄くできるか」


 ロッカが尋ねる。


「便器と壁の隙間へ入る形にします」


「布を巻く方式?」


「交換式の清掃布を先端へ固定する」


「使った布は、専用箱へ」


「赤鍋亭と共通の清掃道具にできますね」


 直人が言う。


「商会の標準道具として売るの?」


 リリアが尋ねる。


「各現場で同じ部品を使えれば、交換が楽です」


「値段を決めるのは私」


「お願いします」


「最近、商売の話になると素直ね」


「役割分担です」


          ◇


 配置が決まり、ようやく床工事が始まった。


 ロッカが必要な範囲だけ床板を外す。


 ボルグが床下へ入り、排水管を仮配置。


 直人は梁との距離を確認する。


「接触なし」


「固定金具を付けても?」


「指一本半以上あります」


「少ないが、管が動かなければ大丈夫だ」


「梁側へ緩衝材を付けます」


「管へ巻く?」


「接触防止の目印として梁側に白い薄板を付けます。もし管が動けば、擦れ跡が分かる」


「点検口から見えるか?」


「鏡を使います」


 小さな磨き金属板を角度付きの棒へ付ける。


 点検口から入れれば、梁の裏側と管の間を確認できる。


「また専用道具か」


 オルドが言う。


「分解せずに確認するためです」


「うちで保管する?」


「商会が定期点検時に持参します」


「毎月来るのか」


「最初の三十日は週一回。その後は状態に応じて月一回か、三月に一回」


「費用は?」


「初月は契約内。その後は保守契約です」


「契約しなければ?」


「日常点検は店側で行い、故障時は都度料金です」


「どちらが安い」


「故障しなければ都度の方が安く見えます」


「なら、都度でいい」


「ただし、定期点検で早く見つけられた問題が、大きな故障になった場合は修理費が高くなります」


「また不安にさせる」


「選択に必要な情報です」


 オルドはリリアを見た。


「保守契約の見積もりも出してくれ」


「最初の一月を見てから、三段階で出すわ」


「三段階?」


「店側点検中心。商会の定期点検付き。緊急対応を含む上位契約」


「便所にも上級契約があるのか」


「店の営業を止めたくないなら、必要でしょう?」


 赤鍋亭や金鹿亭にも使える契約形式になる。


          ◇


 排水管の接続が終わる。


 水務局へ申請した将来用分岐も設置された。


 主管から分かれる短い枝管。


 内側の密閉栓。


 白い確認砂を入れた点検箱。


 外蓋。


「これが二台目用ですか」


 マイラが覗き込む。


「はい」


「今は何も流れない?」


「内栓で閉じています」


「漏れたら白い砂が濡れる」


「月一回、確認してください」


「誰が?」


 全員がオルドを見る。


「また私か?」


「管理担当者を選んでください」


「便所担当を決める」


「罰にしないでください」


「分かっている!」


 オルドは作業場を見回した。


「誰か、設備担当をやりたい者はいるか」


 すぐに手を挙げる者はいない。


 清掃。


 水位確認。


 布箱。


 分岐点検。


 異常報告。


 責任だけ増えるように見える。


「担当手当は?」


 マイラが尋ねた。


「なぜ、すぐ金の話になる」


「仕事が増えるからです」


 赤鍋亭で清掃手当が始まった話は、すでに知れ渡っていた。


「月、銅貨一枚」


「少ない」


「二枚」


「設備記録も付けるなら三枚」


「誰が店主だ!」


「誰が毎日確認するのですか」


 オルドは唸った。


「最初の一月は三枚。その後、作業量を見直す」


 マイラが手を挙げた。


「私がやります」


「一人だけでは、休みの日に止まります」


 直人が言う。


「副担当も必要です」


「また手当が増える!」


 最終的に、マイラが主担当。


 若い職人のソナが副担当。


 主担当は銅貨三枚。


 副担当は銅貨一枚。


 月末に作業時間と異常件数を確認し、金額を見直す。


「便器を買ったら、人件費まで増えた」


 オルドが呟く。


「以前は、便壺の運搬と清掃を、誰かが見えない形で行っていました」


 直人が答える。


「仕事が新しく生まれたのではなく、担当と価値が見えるようになった部分もあります」


「見えなければ、払わずに済んだ」


「誰かが無償で負担していました」


 女性職人たちの視線がオルドへ集まる。


「分かった。払うと言っているだろう!」


          ◇


 日が傾く頃。


 床の補強と排水管設置が終わった。


 新しい床板には、便器固定穴。


 点検口。


 将来用分岐箱の確認蓋。


 手洗い排水の接続口。


 すべてが開けられている。


「便器を入れます」


 月白色の第二号便器が、運搬枠から外された。


 直人。


 ガルド。


 ロッカ。


 テオ。


 四人で持ち上げる。


「ゆっくり」


「分かっておる」


「排水口の中心を合わせます」


「右を少し上げろ」


「テオさん、固定穴を見てください」


「合っています!」


「下ろします」


 便器が床へ載る。


 弾樹の固定座が、底面のわずかな歪みを吸収する。


 排水接続。


 給水管。


 床固定金具。


 一つずつ締める。


「強く締めすぎないでください」


「陶器が割れるからだろう」


 オルドが言った。


「覚えましたね」


「何度も聞いた」


 左右のぐらつきを確認。


 前後。


 斜め。


「動きません」


 テオが言う。


「便座を付けます」


 木製の標準便座。


 検査後に再び外され、別梱包で運ばれていた。


 固定金具。


 開閉。


 高さ。


「通常仕様ですね」


 リリアが言う。


「金鹿亭のぬくもり便座ではありません」


「仕立屋には必要ないのか?」


 オルドが尋ねる。


「追加料金です」


「値段だけ聞こう」


「便器を使い始める前から追加しないで」


 リリアが止めた。


「通常便座を一月使い、必要なら交換できます」


「便座だけ変えられる?」


「はい。標準寸法にしています」


「冬になってから考える」


 便器本体は設置された。


 だが、まだ使用はできない。


「水を入れます」


 ミーナが貯水槽を満たす。


 新しく追加した浮き式水位表示。


 棒が上がる。


 外側の窓へ白い印が現れた。


「満水です」


「分かりやすい」


 マイラが言う。


「赤が見えている時は使わない?」


「補充後、白へ変わったことを確認します」


「途中で水が減った場合は?」


「一回分を確保できる位置まで白。足りない位置で赤になります」


 試験洗浄。


 紐を引く。


 水が月白色の鉢を回る。


 ごぼん。


 床下の曲管を通り、主管へ流れた。


「漏れ確認!」


 直人の声で、全員がそれぞれの位置を見る。


 便器の底。


 給水管。


 排水接続。


 点検口。


 将来用分岐箱。


 手洗い側。


「便器下、濡れなし」


「管接続、漏れなし」


「分岐箱、白いまま」


「主管側、流れ確認」


 ボルグが答える。


「もう一度」


 二回目。


 異常なし。


 三回目。


 通常の試験物を入れる。


 土と葉。


 一回で流れた。


「前方は?」


 直人が鉢を見る。


 工房試験で、ごく少量残ることがあった場所。


 今回は何も残っていない。


「設置時の水量と管の状態では、問題ありません」


「合格か?」


 オルドが尋ねる。


「今夜、貯水槽と便器へ水を残します」


「一晩試験」


「はい。床下と処理槽入口を明朝確認します」


「では、座れるのは明日?」


「引き渡し説明後です」


「便器は置いた。水も流れた」


「夜間に漏れないか確認していません」


「誰も使わなければ漏れないだろう」


「接続部へ水を残しています」


「一晩、見るだけ?」


「見るだけではありません」


 直人は便器内の水位へ印を付けた。


 貯水槽の水位。


 給水管下の乾燥紙。


 排水接続下の白砂。


 将来用分岐箱。


 処理槽入口。


 すべて、現在の状態を記録する。


「明朝、変化を比較します」


「夜中に誰かが使ったら?」


 マイラが尋ねた。


 便器の入口には、赤い使用停止札。


 扉にも縄を張る。


「鍵は商会が預かります」


「緊急時は?」


「屋外便所を使ってください」


「水洗便器が目の前にあるのに?」


「まだ引き渡していません」


 オルドが大きなため息を吐いた。


「便器とは、ずいぶん待たされる道具だな」


「使い始めた後、長く待たずに済むためです」


          ◇


 夜。


 銀月亭へ戻った直人は、現場変更記録をまとめた。


 変更理由。


 図面にない床下梁。


 便器位置、壁側へ指四本。


 排水管、緩曲接続へ変更。


 水位表示器を追加。


 手洗い位置変更。


 布箱を小型交換式へ変更。


 衣服掛けを二段鉤へ変更。


 荷物置き籠を個室外へ追加。


 清掃道具を薄型へ変更。


 設備担当者と手当を決定。


「一か所の梁で、十項目近く変わりました」


 テオが記録を写しながら言う。


「だから、現場変更を口頭だけで済ませてはいけません」


「図面も描き直しますか」


「完成後の状態を、完成図として残します」


「最初の図面は捨てる?」


「捨てません」


「なぜです?」


「何を変えたか分からなくなるからです」


 最初の計画。


 現場で見つかった問題。


 変更内容。


 完成状態。


 すべてが必要になる。


「次の仕立屋では、最初から床を開けて調査する?」


 テオが尋ねた。


「開けられる場所なら」


「便器が完成する前に?」


「床を長く開けたままにしない方法も考えます」


「小さな調査穴だけ先に開ける?」


「それが良いかもしれません」


 次回の現場調査では、排水予定位置へ小さな確認穴を開ける。


 梁。


 埋設物。


 土。


 水分。


 工事前に確認する。


 また一つ、標準調査手順が増えた。


「ナオト」


 リリアが帳簿を持って食堂へ入ってきた。


「王都から、共同住宅の図面が届いた」


「三百二十人の?」


「ええ」


「便所四か所。井戸汚染の疑い」


「それだけではないわ」


 リリアは大きな紙を広げた。


 何棟もの共同住宅。


 中央の井戸。


 共同便所。


 排水溝。


 川。


 紙の端には、住民から寄せられた苦情が書かれている。


 臭い。


 あふれ。


 虫。


 腹痛。


 夜間の危険。


 そして、一つの項目。


 便所を使うために、区画ごとに追加料金を取られている。


「便所の使用料?」


 直人が尋ねた。


「払えない住民は、川沿いや路地で済ませているそうよ」


「衛生設備の問題だけではありませんね」


「管理者と住民の契約も調べる必要がある」


「王都へ行く前に、確認事項をまとめます」


「第二号の引き渡しが先」


「もちろんです」


「明日の朝、漏れていたら?」


「原因を調べて修正します」


「漏れていなければ?」


「正式引き渡しです」


「そこで、町で二台目の水洗便器が動き始める」


 リリアは少し笑った。


「一号は一人の暮らしを変えた。二号は九人が働く場所を変える」


「運用が続けば、です」


「最後まで慎重ね」


 直人は完成図へ、最後の線を書き加えた。


 便器を指八本動かす。


 最初は、それだけの変更に見えた。


 実際には、指四本の移動で済んだ。


 だが、動いたのは便器だけではない。


 管。


 水。


 手洗い。


 布箱。


 衣服。


 清掃。


 担当者。


 費用。


 契約。


 そして、次の現場調査の方法。


 一つの変更は、設備全体へ広がる。


 だから、現場で変えたことを残し、次の標準へつなげなければならない。


 月白色の第二号便器は、その夜、赤い使用停止札の向こうで静かに水をたたえていた。


 明日の朝。


 水位が変わらず、床下の白砂も濡れていなければ。


 この世界で二台目の水洗便器が、初めて九人のために使われる。

排水予定位置から梁が見つかり、便器を壁側へ移動することになりました。


しかし、位置変更は排水管だけでなく、手洗い、布箱、衣服掛け、清掃道具、水量確認、管理担当者にまで影響します。


直人たちは、便器を指四本分だけ移し、緩やかな曲管と浮き式水位表示を採用しました。


設置と試験洗浄は完了しましたが、正式な使用開始には一晩の漏水試験が必要です。


次回は、仕立屋へ月白の標準便器を正式に引き渡し、九人の職人が初めて利用します。

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