第31話 同じ型でも、同じ便器にはなりません
《銀月衛生商会》が仮登録され、便器事業は正式な一歩を踏み出しました。
最初に完成させなければならないのは、仕立屋《金糸の針》へ納める標準型第二号便器です。
同じ型を使えば、同じ便器が作れる。
そう考えていた直人たちは、手作業と窯の難しさを改めて知ることになります。
銀月亭の入口へ新しい看板が掛けられた翌朝。
陶山直人は、受付台の前で立ち尽くしていた。
「相談札が増えています」
「朝から三件来たわ」
リリアが帳簿へ名前を書き込む。
一件目。
腰を痛めた酒造職人の家族。
二件目。
子どもが多い共同長屋の管理人。
三件目。
町外れにある革工房。
「昨日まではありませんでした」
「商会の看板を出したからでしょうね」
「看板だけで?」
「今までは、誰へ相談すればいいか分からなかったのよ」
宿屋へ便所工事を頼む。
陶工へ排水管の相談をする。
汚物回収者へ手すりを作ってほしいと言う。
それぞれ不自然だった。
だが、便器、手洗い、排水、汚物処理、保守を扱う商会と書かれていれば、相談先だと分かる。
「問い合わせを受けるだけでも、担当者が必要ですね」
「当面は私とマルタで対応する」
「現場調査の予定を勝手に決めないでください」
「分かっている。まず困っていることだけ聞く」
「危険がある場合は――」
「赤い札。通常相談は黄色。見積もり中は青」
「完璧です」
「何度もやっているからね」
リリアは新しい相談札を木板へ差し込んだ。
「それより、今日は第二号でしょう?」
「はい」
仕立屋用の標準型第二号便器。
素焼きを無事に終え、洗浄水路にも異常はなかった。
今日は釉薬を施し、本焼きへ進む。
「仕立屋のオルドさんから、三回も使いが来ているわ」
「納期内です」
「商会登録で工事が止まったと思っている」
「製造は止めていません」
「それを本人へ説明して」
「工房へ来てもらいますか」
「釉薬を塗っている横で値引き交渉を始めるわよ」
「それは困ります」
「だから、私が仕立屋へ行く。あなたは工房」
「役割分担ですね」
「そういうこと」
リリアが帳簿を持ち上げる。
「ただし、今日中に進捗報告を書いて」
「本焼き前の状態までまとめます」
「一枚にして」
「検査記録とは別に?」
「お客様へ見せる報告書は一枚」
「詳細記録は?」
「商会で保管」
直人は少し考え、うなずいた。
技術記録と顧客への報告は、同じではない。
すべての数値を見せれば、丁寧になるとは限らない。
相手が知りたいのは、現在どこまで進み、問題があるか、予定が変わるかである。
「進捗、異常の有無、次の工程、予定日」
「それで十分よ」
「分かりました」
◇
ガルドの工房では、第二号便器が作業台の中央に置かれていた。
素焼き後の淡い土色。
ナーラ宅の第一号より少し高く、鉢の幅も標準化されている。
テオが細い刷毛で、表面の粉を払っていた。
「触る前に手を洗え」
ガルドが弟子たちへ怒鳴る。
「油が付けば、釉薬が弾かれる」
「はい!」
「刷毛を床へ置くな!」
「はい!」
「返事だけで釉薬は付かん!」
「親方は、今日も元気ですね」
直人が言うと、ガルドが振り返った。
「遅い!」
「予定時刻前です」
「俺が始めたら遅い」
「まだ始めていませんよね」
「口答えするな!」
作業台の横には、三種類の釉薬試験片が並んでいた。
第一号と同じ青灰色。
少し白みを増したもの。
表面を滑らかにするため、灰の割合を変えたもの。
「どれを使いますか」
「中央だ」
ガルドが白みの強い試験片を指した。
「第一号と色が違います」
「標準型は、この配合にする」
「なぜです?」
「第一号の釉薬は、窯の奥側で少し流れた」
「洗浄穴を塞いだ原因ですね」
「灰を減らし、流れにくくした」
「表面の滑らかさは?」
「こちらの方が少し落ちる」
「汚れやすくなりませんか」
「だから三つ作った」
ガルドは三枚目の試験片へ水を垂らした。
水滴が丸くなり、滑り落ちる。
「これは滑らかです」
「だが、焼成温度の幅が狭い」
「少し高ければ流れる?」
「低ければざらつく」
標準品として考えるなら、最も美しい結果が出る配合より、窯のわずかな変化へ耐える配合が向いている。
「中央案は、失敗しにくい?」
「一番安定している」
「では、標準釉薬として記録します」
「まだ決めるな」
「なぜです?」
「便器一台を焼いただけで標準を名乗るな」
直人は手を止めた。
ガルドの言うとおりだった。
第二号へ使い、結果を確認する。
第三号でも再現できるかを見る。
複数回、同じ品質が出て初めて標準と呼べる。
「候補配合、とします」
「それでいい」
テオが記録紙へ書いた。
標準釉薬候補・第二配合。
「親方」
「何だ」
「第一配合は、ナーラさん用として残しますか」
「同じ色を望む客がいれば使う」
「特注色?」
リリアがいれば、すぐ追加料金の話をしただろう。
「配合が増えると、管理が複雑になります」
直人が言った。
「捨てろと言うのか」
「いいえ。通常仕様と特注仕様を分けます」
「また契約が増えるな」
「釉薬を変える場合は、試験費と納期が増えることを説明します」
「勝手に安く売るな」
「俺は価格を決めません」
「ならリリアに言え」
「必ず伝えます」
◇
釉薬を施す前に、第二号の寸法が再び測られた。
縁の高さ。
排水口の中心。
便座固定穴。
床固定穴。
給水口。
第一号で使った測定板ではなく、新しい専用治具が用意されている。
木板へ穴と基準線が刻まれ、便器を載せるだけで位置の差を確認できる。
「ロッカさんが作ったのですか」
「俺が頼んだ」
ガルドが答えた。
「毎回、紐で測っていては遅い」
「標準化ですね」
「同じ言葉を何度も言うな」
第二号を治具へ載せる。
排水口は基準円の内側。
固定穴も許容線内。
給水口は、右へ木針一本分ずれていた。
「ずれています」
テオの表情が曇る。
「どのくらいまで許容しますか」
直人が尋ねる。
「革管なら吸収できる」
ガルドが答えた。
「しかし、将来硬い管を使う場合は問題になります」
「今の標準は革管だ」
「接続位置を統一する目的があります」
「焼けば、さらに縮む」
「本焼き後に最終判定ですね」
「素焼き段階では記録だけだ」
直人は測定値を書き込んだ。
完全に同じ形ではない。
同じ型を使っても、粘土の押し方。
乾き方。
接合。
窯内の位置。
それらで少しずつ変わる。
「許容差を決める必要があります」
直人が言った。
「きょようさ?」
「この範囲なら同じ部品で設置できる、という限界です」
「少しでも違えば不合格にするのか?」
「それでは、手作り品をほとんど捨てることになります」
「なら、使える範囲を決める」
「はい」
テオが治具を見た。
「この線の内側なら合格?」
「現時点では仮です」
「設置試験をして、管や金具が合うか確認する必要があります」
「仕立屋の現場で?」
「工房に標準配管の模型を作ります」
便器を現場へ運んでから、接続できないと分かるのでは遅い。
排水口。
固定金具。
給水管。
それらを再現した試験台が必要になる。
「またロッカの仕事を増やすのか」
ガルドが言う。
「木と短い管があれば作れます」
「自分で作れ」
「俺は木工職人ではありません」
「手を動かせ」
「精度が必要です」
「面倒な男だ」
ガルドは文句を言いながら、試験台の簡単な絵を描いた。
「排水口はここ。固定穴は二つ。給水は革管で左右へ動かせるようにする」
「作れるではありませんか」
「俺は陶工だ!」
◇
釉薬作業が始まった。
便器の外側。
鉢の内側。
縁の水路。
排水口周辺。
すべて同じ厚さにする必要がある。
「水路の穴へ釉薬を入れすぎないでください」
直人が言う。
「分かっておる!」
ガルドは細い棒を洗浄穴へ差し込み、余分な釉薬を取る。
テオは反対側の穴を担当した。
「棒を奥へ入れすぎるな」
「はい」
「穴の向きを変えるぞ」
「はい」
「釉薬を落としたら、そのままにするな」
「はい」
「返事が早すぎる!」
「どう答えればいいんですか!」
工房に笑いが起きる。
テオの手は、以前ほど震えていない。
第一号では、親方の作業を横から記録するだけだった。
第二号では鉢を成形し、素焼きの前半を任され、今は洗浄穴の施釉を担当している。
「穴一つ、釉薬が厚いです」
直人が灯りを当てた。
後方左側。
試験で角度を修正した重要な穴だ。
「どこです?」
テオが覗き込む。
「入口の下側です」
細い木針を差し込み、釉薬の厚みを確認する。
「削ります」
「待て」
ガルドが止めた。
「乾く前に触れば、周りまで剥がれる」
「では?」
「少し置く。表面が締まってから余分だけ取る」
「乾燥時間を記録します」
「同じ厚さでも、今日の湿気で変わるぞ」
「工房内の状態も書きます」
「温度を測れんのに?」
「火鉢の数、窓の開き、雨天かどうか」
外では弱い雨が降り始めている。
空気は湿っていた。
正確な湿度計はない。
だが、条件を言葉で残すことはできる。
「記録しておけば、次に乾きが遅い理由を比べられます」
テオが言った。
ガルドが弟子を見る。
「お前までナオトのようなことを言う」
「駄目ですか」
「手を止めなければいい」
「はい!」
◇
釉薬が少し乾くまでの間、直人は商会用の製品検査表を広げた。
「また紙か」
ガルドが言う。
「水務局へ提出する書類とは別です」
「さらに増えたではないか!」
「製造者、施工者、監査員が同じ項目を確認できるようにします」
検査項目。
外観。
寸法。
ひび。
打音。
洗浄水路。
水位保持。
静荷重。
反復荷重。
排水接続。
固定金具。
便座接続。
釉薬の剥離。
鋭い縁や突起。
「全部合格しなければ売らないのか」
「安全項目は、はい」
「色むらは?」
「性能へ影響しなければ、外観上の等級を分ける方法があります」
「一級品と二級品か?」
「たとえば、通常品と外観差あり品です」
「安く売るの?」
テオが尋ねる。
「小さな色むらだけで捨てるのは、もったいないです。ただし、客へ違いを説明し、合意を取ります」
「見えにくい場所へ置く便器なら、安い方が助かる人もいる」
「ハンナさんのように、資金が少ない家庭へも使える可能性があります」
「粗悪品と呼ばれないか」
ガルドが顔をしかめる。
「性能検査は同じです」
「見た目だけ違うと刻印する?」
「裏側へ等級印を付けましょう」
「便器へ傷を付けるな」
「焼成前の底へ印を入れます」
「なら、第三号からだ」
「第二号は?」
「外観も合格させる」
ガルドは当然のように言った。
「窯へ聞いてください」
「俺が焼く!」
◇
余分な釉薬を取り終えた第二号は、再び乾燥棚へ置かれた。
本焼きは翌朝。
その前に、窯の中へ置く位置を決める。
「第一号は、奥側でした」
「今回は中央寄りだ」
ガルドが窯の図を示す。
「奥は温度が上がりやすい」
「第二号だけを焼くのですか」
「ほかの器も入れる」
「温度へ影響しませんか」
「便器一台だけでは、薪が無駄になる」
工房の商品である皿、壺、鉢も同時に焼く。
商売として当然だ。
「水路試験片は?」
「便器の左右へ置く」
「釉薬の流れを確認する?」
「同じ配合、同じ厚みだ」
「収縮試験片も?」
「素焼きで一番薄いものが割れた。今回は厚みを変えて三枚入れる」
「音がしても、便器とは限らない」
テオが言った。
「だから、音だけで騒ぐな」
ガルドが答える。
「親方も前回、顔色が変わっていました」
「変わっておらん!」
「僕には――」
「薪を運べ!」
「はい!」
テオは笑いながら窯の外へ向かった。
◇
工房を出た直人は、その足で《金糸の針》へ向かった。
リリアから頼まれた一枚の進捗報告書を渡すためだ。
店主オルドは、報告書を受け取ると最初に一番下を見た。
「完成予定日は変わらない?」
「現時点では変わりません」
「現時点では、か」
「明日の本焼き結果によります」
「また割れるかもしれない?」
「可能性はあります」
「契約金を払っている」
「失敗した場合は、こちらの費用で作り直します」
「納期は遅れる」
「その可能性も契約時に説明しました」
オルドは不満そうに紙を読む。
進捗。
素焼き合格。
寸法は仮基準内。
洗浄水路、通水確認済み。
釉薬塗布完了。
明日、本焼き開始予定。
現時点で重大な異常なし。
「詳しい数字はないのか」
「必要ですか」
「前は、たくさんの紙を持ってきただろう」
「詳細記録は商会で保管しています。希望があれば閲覧できます」
「隠しているわけではない?」
「ありません」
「ならいい」
オルドは報告書を畳んだ。
「工事側はどうなっている」
「排水主管と処理槽について、水務局へ設計を提出します」
「役所の許可待ちで遅れるのか」
「仮登録事業として、事前確認が必要です」
「商会になったら早くなると思っていた」
「安全確認は増えます」
「面倒が増えただけではないか」
「責任の所在は明確になりました」
「壊れたら、誰へ言えばいい?」
「銀月衛生商会です」
「以前なら?」
「便器はガルドさん。床はロッカさん。排水はボルグさん。契約は銀月亭へ別々に連絡する可能性がありました」
「今は一か所?」
「はい。商会が受け、原因に応じて担当者を手配します」
オルドは少し考えた。
「それなら、客には分かりやすい」
「売った後の連絡先も、便所内へ掲示します」
「夜中に詰まったら?」
「赤い使用停止札を掛け、予備便所を使用してください。水があふれている場合は、銀月亭へ緊急連絡」
「緊急料金は?」
「通常使用で発生した初期保証内の故障なら無料。異物投入や故意の破損は有料です」
「針を落としたら?」
「流す前に回収してください」
「流した後は?」
「有料の可能性が高いです」
オルドは作業場の職人たちを振り返った。
「便所へ針を持ち込んだ者は、自分で修理代を――」
「個人へ全額負担させるかは、店の労務管理の話です」
直人が止めた。
「商会からは店へ請求します」
「誰が落としたか分からなければ、私が払う?」
「契約者は《金糸の針》です」
「従業員へ針箱を使わせる」
「事故を減らす方が安いです」
◇
報告を終え、直人は改修予定の物置へ入った。
古い型紙と壊れた椅子は、すでに片づけられている。
床には、排水管を通す位置を示す白い線。
壁には、手洗いと貯水槽の位置。
扉の横には、針置き箱の試作品があった。
「職人たちで作ったのですか」
「針を布へ刺したまま入る者がいるからね」
女性職人のマイラが答えた。
小さな箱には、番号付きの布片が並んでいる。
針やはさみを包み、自分の番号の場所へ入れる。
「金属をむき出しで入れないのですね」
「手を入れた時、刺さらないようにしました」
「良い改善です」
「ナオトさんが言ったでしょう。間違えた人を叱るより、間違えにくくする方がいいって」
赤鍋亭では、便所へ脂を捨てるなと命じながら、代わりの場所がなかった。
教会では、祈り札を便所へ捨てるなと止めるだけでは守られなかった。
針も同じだ。
持ち込むなと言うだけではなく、安全に置ける場所を作る。
「この仕組みも記録していいですか」
直人が尋ねた。
「ほかの仕立屋でも使うの?」
「はい」
「では、《金糸の針》で考えたと書いてください」
「分かりました」
現場の工夫にも、作った人がいる。
便器の設計者だけが、すべてを考えているわけではない。
◇
翌朝。
第二号便器は窯へ入れられた。
ガルドが火を入れる。
前半は、テオが薪の量と炎の色を確認する。
中盤からガルド。
直人は、商会の受付と水務局への書類作成があるため、工房を離れなければならなかった。
「窯の前にいなくていいのか」
ガルドが尋ねる。
「俺がいても、焼成そのものはできません」
「第一号の時は、ずっといた」
「今は、ほかの仕事があります」
「音がしたら?」
「時刻と状況を記録してください」
「便器が割れていたら?」
「冷えてから確認します」
ガルドは鼻を鳴らした。
「少しは学んだな」
「最初から分かっていました」
「窯の前で何度も開けられないか聞いたのは誰だ」
「確認しただけです」
「三回も聞いた」
「覚えていたんですか」
「うるさかったからだ!」
直人は窯へ一礼した。
祈ったわけではない。
設備は祈るだけでは完成しない。
だが、自分にできる確認を終えた後、無事を願う気持ちまで否定する必要はない。
「お願いします」
「誰に言っている」
「ガルドさんとテオさんに」
「窯にも言っただろう」
「少しだけ」
「早く仕事へ戻れ!」
◇
銀月亭へ戻ると、水務局のエルンが待っていた。
「仕立屋の申請書を確認しました」
「何か不足がありますか」
「処理槽と井戸の距離は問題ありません」
「では承認を?」
「一つ、確認が必要です」
エルンは建物図面を指した。
「将来二台目を接続する分岐管についてです」
「何でしょう」
「現在使わない管の先端は、どのように閉じますか」
「木栓と弾樹パッキンで密閉します」
「長期間使わない間に、腐食や虫の侵入が起きませんか」
直人は答えようとして、止まった。
主管を二台分用意する。
将来接続用の分岐を作る。
そこまでは考えていた。
だが、使用開始まで数か月、場合によっては一年以上閉鎖される管の内部を、どう点検するか。
「点検口から確認します」
「見える位置ですか」
「分岐部までは見えません」
「では、二台目を接続する時まで異常に気づかない可能性があります」
「取り外し可能な栓にして、定期的に開ける?」
「開けるたび臭いが出ます」
「栓の外側に確認箱を作ります」
「漏れが箱内へ出れば分かる?」
「はい」
「虫の侵入は?」
「二重栓にします」
直人はその場で図を書き直した。
主管から分かれる短い枝管。
内側の密閉栓。
その外側に空間。
さらに外蓋。
外側空間へ白い確認紙または乾燥砂を置く。
内栓から水分が漏れれば変色する。
「将来接続箱、とでも呼びますか」
エルンが尋ねる。
「未使用分岐点検箱」
「相変わらず長いですね」
「意味は分かります」
「申請書には、その名前で構いません」
エルンは修正図を見た。
「これを仕立屋で試験し、結果を報告してください」
「承認は?」
「修正版の提出を条件に、工事開始を認めます」
「ありがとうございます」
直人は新しい項目を施工手順へ加えた。
未使用分岐。
月一回点検。
漏れ。
臭い。
虫。
栓の緩み。
未来の二台目のために作った部分も、現在の設備として管理しなければならない。
◇
昼を過ぎた頃。
工房から、テオが走ってきた。
直人は受付台から立ち上がる。
「窯に何かありましたか」
「火が予定より早く強くなっています!」
「ガルドさんは?」
「薪を減らしています。でも、右側の炎だけ色が違います」
「窯の壁ですか」
「分かりません」
直人は工具箱を持った。
「行きます」
リリアが腕をつかむ。
「あなたが窯へ行って、何ができるの?」
「状況を記録します」
「テオさんが記録している」
「試験片の位置や、窯の外側に異常がないか――」
「ガルドが見ているでしょう?」
「でも――」
「任せると決めたのでは?」
直人は動きを止めた。
自分がいなければ確認されない。
自分が見なければ危険。
そう考え、すべての現場へ走ろうとする。
だが、今は商会になった。
製造責任者はガルド。
焼成記録はテオ。
「緊急の応援要請ですか」
直人がテオへ尋ねた。
「親方は、状況を伝えろとだけ」
「工房へ来いとは?」
「言っていません」
「なら、ここで待ちます」
テオが驚いた。
「行かないのですか」
「ガルドさんの判断に任せます」
「分かりました」
「炎の変化、薪を減らした時刻、窯外壁の温度感、煙の色を記録してください」
「はい!」
「危険を感じた場合は、焼成中止を優先してください」
「親方にも伝えます」
テオが工房へ戻る。
直人は座り直した。
「落ち着かない顔ね」
リリアが言う。
「当然です」
「でも、走らなかった」
「役割分担です」
「少し進歩したわ」
「工房が燃えたら、すぐ行きます」
「それは行って」
◇
夕方。
ガルド本人が銀月亭へ現れた。
顔と作業着には煤が付いている。
「焼成は?」
直人が立ち上がる。
「終えた」
「温度上昇の原因は?」
「右側の通気穴へ、灰がたまっていた」
「空気の流れが変わった?」
「そうだ。灰を少し落とし、薪を減らした」
「便器への影響は?」
「分からん」
「試験片は?」
「窯の中だ」
「冷却予定は?」
「明日の夕方以降」
いつもの答え。
今すぐ窯を開けることはできない。
「記録を見せてください」
ガルドが一枚の板を差し出した。
時刻。
炎の色。
薪の量。
右側温度上昇。
通気穴確認。
灰除去。
薪減少。
炎の安定。
「ガルドさんが書いたのですか」
「テオだ」
「確認印は?」
板の下に、ガルドの印がある。
「対応は手順どおりです」
「手順には、通気穴の灰詰まりが書かれていなかった」
「今回追加します」
「次からは、火入れ前に確認する」
「点検棒を作りましょう」
「もう作った」
ガルドは短い鉄棒を机へ置いた。
先端が曲がり、通気穴の内部を掃除できる形になっている。
「鍛冶屋へ頼んだのですか」
「昼前に作らせた」
「早いですね」
「同じことを二度起こすなと言うのは、お前だろう」
直人は笑った。
「はい」
「何がおかしい」
「何でもありません」
同じ型。
同じ土。
同じ釉薬。
同じ窯。
それでも、同じ便器ができるとは限らない。
天気。
湿気。
薪。
灰。
炎。
人の手。
毎回異なる条件を、記録と道具と手順で少しずつそろえていく。
標準品とは、何も考えず同じものが生まれることではない。
違いが起きることを前提に、使える範囲へ収める仕組みだった。
「明日、窯を開けます」
直人が言った。
「俺が決める」
「では、冷えたことを確認した後で」
「当たり前だ」
「第二号が無事なら、すぐ検査台へ載せます」
「検査台は?」
工房の入口からロッカが顔を出した。
「できたぞ」
荷車の上には、短い排水管と固定金具を備えた木製台が載っている。
仕立屋の設置条件を再現した、標準接続試験台。
「早いですね」
「お前が急ぎだと言ったんだろう!」
「精度は?」
「ガルドの木型と、仕立屋の図面に合わせた」
「水平は?」
「確認した」
「荷重は?」
「砂袋六つまで載せられる」
「給水は?」
「革管接続もある」
「完璧です」
「まだ便器を載せていない」
ロッカが直人の言葉を訂正した。
ガルドが笑う。
「お前もナオトのようになってきたな」
「毎日一緒に仕事をさせられているからだ!」
銀月亭の前に、職人たちの声が響いた。
明日。
窯が開く。
第二号便器が無事なら、標準型として初めての総合検査が始まる。
同じ型で作った二台目が、第一号と同じように流れるのか。
そして、次の三台目、十台目へつながる基準を作れるのか。
町へ便器を広げる仕事は、ようやく「一台を作る」段階から、「同じ安全を繰り返す」段階へ進もうとしていた。
標準型第二号便器には、第一号より安定して焼ける釉薬候補を使用しました。
同じ木型を使っても、手作業や乾燥、窯の状態によって寸法や仕上がりには差が生じます。
そこで直人たちは、許容差、接続試験台、製品検査表、外観等級など、繰り返し製造するための仕組みを整え始めました。
次回は窯から第二号便器を取り出し、標準接続試験台を使った通水、固定、荷重、交換性の総合検査を行います。




