第30話 便器一台から、商会が生まれました
銀月亭へ現れたのは、王都水務局の調査官でした。
水洗便器は便利な道具である一方、使う水と流した汚物を誤って扱えば、井戸や町全体を汚染する危険があります。
正式な許可も制度も存在しない中、直人たちは便器事業を続けられるのでしょうか。
「王都水務局から参りました」
馬車から降りた男は、もう一度名乗った。
「水務局地方監査官、エルン・ヴァイスです」
三十代後半ほど。
茶色の髪を短く整え、紺色の外套を着ている。
外套の胸元には、二羽の鳥と河を描いた銀色の徽章が付けられていた。
「監査官……」
リリアが緊張した声で繰り返す。
「水務局というのは、井戸や水路を管理するところですか」
陶山直人が尋ねた。
「それだけではありません」
エルンは銀月亭の建物を見上げた。
「飲用水、共同井戸、排水路、汚物処理場、浴場、染色工房など、水を大量に使用する施設を監督しています」
「便所も対象になる?」
「便器そのものを管理する規則は、現時点では存在しません」
その答えに、リリアが少しだけ安堵する。
しかし、エルンは続けた。
「ただし、流した先は別です」
銀月亭の裏庭。
排水管。
処理槽。
井戸。
それらへ視線を向ける。
「人の排泄物を水で運び、地中の槽へ集めていると報告を受けました」
「はい」
「誤った施工をすれば、井戸水を汚染します」
「その危険は理解しています」
「王都では、排水を井戸へ流して病人を出した染色工房がありました」
エルンの声は穏やかだった。
だが、その内容は重い。
「もし、この宿の設備に同じ危険があるなら、使用を停止していただきます」
リリアの顔色が変わった。
「停止?」
「安全を確認できない施設を動かし続けることは認められません」
銀月亭の水洗便所は、宿の評判を回復させた設備だ。
これが止まれば、客が離れる可能性がある。
「今まで問題なく動いています」
リリアが言った。
「それを確認するのが、私の仕事です」
エルンは直人を見る。
「陶山直人殿」
「はい」
「あなたが設計者ですか」
「設計、施工管理、利用説明、点検を担当しています」
「陶工ではない?」
「便器の製造はガルドさんです」
「排水槽は?」
「ボルグさん」
「給水は?」
「ミーナさん。銀月亭では宿側の補充も行っています」
「契約は?」
「銀月亭が窓口です」
エルンは小さな手帳へ書き込んだ。
「複数の者が関わっているようですね」
「はい」
「代表責任者は誰ですか」
直人とリリアは顔を見合わせた。
「現時点では……」
リリアが答える。
「銀月亭の主人である私が契約を受けています」
「便器の製造事故も、あなたの責任ですか」
「製造はガルドよ」
「排水槽から漏れた場合は?」
「ボルグとナオトが――」
「給水不足で詰まった場合は?」
「ミーナと利用者側の確認になります」
「では、最終的に誰が判断するのですか」
リリアは答えられなかった。
エルンは責めるような口調ではない。
だからこそ、問題が明確になった。
役割は分かれている。
だが、事業全体の責任と判断方法は、正式には定められていない。
「まず設備を確認させてください」
エルンが言った。
「その後、今後の扱いをお話しします」
◇
銀月亭の水洗便所へ入る前に、エルンは利用説明板を見た。
便器へ入れてよいもの。
入れてはいけないもの。
操作紐は一度だけ。
水位が上がった場合は、再度流さない。
赤い使用停止札。
手洗い。
「文字だけではないのですね」
「読めない方にも分かるよう、絵を使っています」
「誰が考えました?」
「利用者の失敗を基に、全員で修正しました」
「失敗?」
「布と木片を流され、詰まりました」
リリアが横から言った。
「わざわざ言わなくてもいいでしょう」
「事故記録は隠さない方がいいです」
直人が答える。
エルンは二人を見た後、説明板へ戻った。
「詰まりの記録はありますか」
「あります」
直人は銀月亭へ保管してある点検簿を出した。
発生日時。
症状。
使用者から聞いた内容。
分解箇所。
取り出した異物。
修理時間。
再試験。
説明板の改善。
「これを、すべて残しているのですか」
「同じ故障を減らすためです」
「処理槽の記録も?」
「こちらです」
ボルグが持ってきた木札と、直人が書き写した紙。
槽の水位。
臭い。
周辺土壌の湿り。
汲み取り日。
異物。
ポルンの観察記録。
「ポルンとは?」
エルンが聞き返す。
「汚物を食べる清掃スライムです」
直人が答える。
「現在は別容器で隔離しています」
「なぜ隔離を?」
「成長条件と配管への影響が確認できていないためです」
「処理槽へ入れれば、汚物が減るのでは?」
「可能性はあります。しかし、増殖しすぎる危険もあります」
エルンは記録をめくった。
「体積。餌の種類。活動時間。温度。分裂回数……」
「安全が確認できるまでは、営業用設備へ入れません」
「賢明です」
水務局の監査官から初めて、明確な肯定の言葉が出た。
◇
便所内では、通常どおり点検が行われた。
便器の固定。
床の乾燥。
給水管。
洗浄紐。
貯水槽。
手洗い。
換気。
「一度、流してください」
エルンが言った。
直人は貯水槽の水位を確認した。
「満水です」
紐を引く。
ごぼん。
水が鉢を回り、排水路へ吸い込まれる。
便器の底には、再び一定量の水が残った。
「なぜ、すべての水がなくならないのですか」
「排水管から臭いと虫が上がるのを防ぐためです」
「この水が蓋になる?」
「はい。封水と呼んでいます」
「水が蒸発した場合は?」
「長期間使わない時は、補充します」
「忘れたら?」
「臭いが上がる可能性があります」
「定期点検項目にありますか」
「はい」
エルンは自分の手帳へ、封水と書いた。
「王都の便所にも応用できるかもしれません」
「王都では、どのような便所を使っていますか」
「貴族や官庁は、便壺を使用人が運びます。共同施設は溜め槽です。川へ直接流している区画もあります」
直人の表情が変わった。
「飲み水の取水場所より上流ですか」
「地域によります」
「それは危険です」
「分かっています」
エルンは苦い顔をした。
「だから、私はここへ来ました」
◇
裏庭の処理槽では、エルンが井戸との距離を測った。
地面の高さ。
傾斜。
槽の壁。
点検口。
汲み取り口。
周辺へ敷かれた白い確認砂。
「この白い砂は?」
「漏れや湿りを見つけやすくするためです」
「雨の日は?」
「雨水が直接入らないよう、簡易屋根を付けました。雨の後は、通常と分けて記録します」
「槽の内側は粘土?」
ボルグが答える。
「粘土だけではない。細かい砂と弾樹の樹液を混ぜている」
「完全に水を通さない?」
「完全とは言わん」
「なぜです?」
「完璧だと言って漏れたら、嘘になる」
エルンは一瞬驚き、その後、小さく笑った。
「皆、よく似た答えをしますね」
「ナオトと仕事をしていると、簡単に完全とは言えなくなる」
ボルグが言った。
「三十日間の点検結果は?」
「今のところ、外部漏れは確認されていない」
「井戸水の変化は?」
「臭い、色、味に異常はありません」
「味まで確認しているのですか」
直人が答える。
「正確な水質検査道具がないため、目視、臭い、利用者の体調、周辺土壌を確認しています」
「それで十分だと思いますか」
「思いません」
直人は即答した。
「本当は、目に見えない汚染も調べる必要があります」
「方法は?」
「今はありません」
「では、危険な設備ということでは?」
「危険を完全に否定できない設備です」
リリアが不安そうに直人を見る。
エルンも黙っている。
「だから、井戸との距離を取る。漏れを見つけやすくする。汲み取りを続ける。利用記録を残す。体調変化があれば停止する」
「できない検査を、できるふりはしない?」
「はい」
「王都の技術官は、結果を断言する者を好みます」
「分からないことを断言する方が危険です」
「私もそう思います」
エルンは処理槽の図面を閉じた。
◇
次に一行は、ナーラ宅を訪れた。
異世界製水洗便器第一号。
この世界の土。
ガルドの窯。
青灰色の釉薬。
ナーラの体に合わせた低い便座。
エルンは銀月亭以上に細かく確認した。
「使用者へ話を聞いても?」
「本人が同意すれば」
直人が答える。
ナーラは、パン屋の奥で椅子に座っていた。
「王都のお役人さんが、うちの便所を見に来るとはね」
「ご不快であれば、設備だけ確認して帰ります」
エルンが丁寧に言う。
「構わないよ。何を聞きたいんだい?」
「以前と比べて、不便になったことはありますか」
「水を入れる必要があるね」
「誰が入れています?」
「娘か、パン屋の若い者だ」
「ナーラ殿ご自身では?」
「重い水は持たないよう言われている」
「故障は?」
「まだないよ」
「使い方を間違えたことは?」
「布を入れかけて、娘に止められた」
「危なかったですね」
「でも、絵があったから思い出したよ」
エルンは説明板を見る。
「良くなったことは?」
ナーラは少し考えた。
「一人で便所へ行けるようになった」
「以前は?」
「娘を呼ぶことがあった。しゃがむと立てなくなるからね」
「壺を運ぶ作業は?」
「なくなった」
「処理槽の汲み取りは残っています」
直人が補足する。
「でも、私が運ぶわけじゃない」
ナーラは笑った。
「便所へ行くたび、誰かへ迷惑をかけていると思わなくて済む。それが一番だよ」
エルンの筆が止まった。
「水洗便器の価値は、臭いを減らすことだけではないのですね」
「はい」
直人が答える。
「人が自分で暮らすための設備でもあります」
◇
ガルドの工房では、標準型第二号便器へ釉薬を施す準備が進んでいた。
「役人を連れてくるな!」
エルンの徽章を見た瞬間、ガルドが怒鳴った。
「水務局の設備調査です」
「窯へ口を出すなら帰れ!」
「製造方法を奪いに来たのではありません」
エルンは動じずに答えた。
「水と排水に関わる設備が、どのように作られているか確認します」
「便器は俺が作る」
「責任者は、あなたですか」
「そうだ」
「製造記録は?」
ガルドは黙ってテオを見る。
テオが大量の記録紙を持ってきた。
土の配合。
収縮率。
乾燥日数。
重量変化。
厚み。
素焼き温度。
薪の量。
窯内の位置。
収縮試験片。
焼成音。
寸法。
「これを、毎回?」
エルンが尋ねる。
「ナオトとテオが勝手に書く」
ガルドが答えた。
「親方も確認しています」
テオが言う。
「余計なことを言うな」
「署名があります」
記録の下には、ガルドの印。
「製造基準はありますか」
「今作っておる」
「誰が作っても、同じ品質になりますか」
「同じにはならん」
ガルドは断言した。
「人の手で作る。土も火も毎回違う」
「では、標準化は不可能?」
「形と寸法と試験はそろえられる」
「完成品に差が出ても、安全基準は同じにする?」
「そういうことだ」
エルンは第二号便器を見た。
「王都の陶工へ、この作り方を教えることは可能ですか」
「断る」
ガルドの返答は速かった。
「親方」
テオが小さく呼ぶ。
「何だ」
「全部を断るのですか」
「俺の技術だ」
「でも、王都まで親方一人で便器を作りに行けません」
「行かん」
「王都で必要な人は?」
「俺の知ったことでは――」
ガルドは言葉を止めた。
ナーラ用便器を作った時。
仕立屋の注文。
治療院。
教会。
必要とする者が、作れる数を超えている。
「完成した便器を王都へ運ぶ方法もあります」
直人が言った。
「割れるぞ」
「梱包を改良します」
「十台、百台になれば運べん」
「では、品質基準を満たした陶工へ、正式に技術を教える仕組みが必要です」
「誰にでも教える気はない」
「試験と契約を作りましょう」
エルンが反応した。
「認定陶工制度ですか」
「にんてい?」
ガルドが眉をひそめる。
「基準を学び、試作便器を作り、検査に合格した者だけが同じ方式を作れる」
「勝手に粗悪品を売る者は?」
「水務局登録品とは名乗れないようにします」
「水務局が俺の便器を管理するのか」
「製造方法を奪うのではありません。ガルド殿が定めた基準を、公的な登録で守ります」
「俺の許可なく変えるな」
「契約に明記します」
「値段へ口を出すな」
「価格は商会と工房が決めます。ただし、不当な独占が起きた場合は別です」
「もう面倒だ!」
ガルドは怒鳴った。
だが、完全には拒否しなかった。
◇
銀月亭へ戻ったのは、日が沈む頃だった。
エルンは食堂の長机へ、すべての記録を並べた。
銀月亭。
ナーラ宅。
治療院。
ハンナ宅。
赤鍋亭。
仕立屋。
金鹿亭。
白石教会。
水洗便器だけではない。
交換式便壺。
仮設便所。
手洗い。
給水。
処理。
清掃契約。
利用記録。
「結論を申し上げます」
食堂には関係者が集められていた。
リリア。
直人。
ガルド。
テオ。
ミーナ。
ボルグ。
ロッカ。
マルタ。
「銀月亭とナーラ宅の水洗便器について、直ちに使用停止とする重大な欠陥は確認されませんでした」
リリアが大きく息を吐く。
「ただし、王都水務局として正式な安全認定を与える段階ではありません」
「今後も使えますか」
「三十日ごとの運用報告を条件に、試験設備として継続使用を認めます」
「仕立屋の第二号は?」
「施工前に、設計図と処理槽計画を提出してください。水務局地方監査員が引き渡し検査へ立ち会います」
「工事を止めなくていい?」
「正式な仮登録を行えば」
エルンは新しい紙を出した。
上部には、水務局の印章。
「現在、銀月亭は宿泊業として登録されています」
「はい」
「しかし、便器販売、給排水施工、汚物処理、定期保守を、宿泊業の付随業務として扱うことには限界があります」
「正式な事業登録が必要?」
リリアが尋ねた。
「はい」
「登録費がかかります」
「王都への申請費。町への営業費。責任者印の作成。帳簿登録」
エルンは金額を読み上げた。
安くはない。
銀月亭が水洗便所で得た利益だけでは、負担が大きい。
「払えなければ?」
直人が尋ねる。
「新規契約は停止です」
食堂が静かになった。
「既存の設備保守と、仕立屋の契約済み工事は?」
「仮登録期間として、六十日間だけ認めます」
「その間に正式登録しろと」
「はい」
リリアは帳簿を開いた。
銀月亭の売上。
ナーラ宅から受け取った代金。
仕立屋の契約金。
今後必要な材料費。
職人の工賃。
すべてを見比べる。
「登録費を払えば、工事資金が減る」
ガルドが言った。
「土と薪を買えなくなるぞ」
「金鹿亭の設備投資契約が成立すれば補える」
リリアが答える。
「競合宿の金で商会を作るのか」
「乾燥小屋の資金よ。登録費とは分ける」
「では、登録費は?」
全員が黙った。
◇
「一つ、方法があります」
エルンが言った。
「この事業を、水務局の地方衛生試験事業として申請します」
「試験事業?」
「新しい排泄設備、手洗い、汚物処理の効果を記録し、王都へ報告する事業です」
「登録費が免除される?」
「半額になります。残りも一年間の分割が可能です」
リリアの目が鋭くなる。
「条件は?」
「七つあります」
エルンは一つずつ読み上げた。
「第一。新規設備は、施工前に所在地、井戸、排水先、処理方法を届け出ること」
「すでに現場ごとに確認しています」
直人が答える。
「第二。完成後、最低三十日間の点検記録を提出すること」
「問題ありません」
「第三。重大な漏水、逆流、井戸汚染の疑い、利用者の負傷が起きた場合、直ちに使用を止めて報告すること」
「当然です」
「第四。製造、施工、給水、汚物処理、契約の責任者を明確にすること」
エルンは関係者を見た。
「製造責任者」
「俺だ」
ガルドが答える。
「施工設計責任者」
「俺が担当します」
直人が答える。
「給水責任者」
「私です」
ミーナがまっすぐ手を挙げた。
「汚物処理責任者」
「俺だ」
ボルグが言う。
「木工と建物改修責任者」
「俺になるのか」
ロッカが頭をかく。
「契約、会計、顧客窓口」
全員がリリアを見る。
「私がやります」
リリアは答えた。
「第五。清掃スライムを、許可なく営業設備へ投入しないこと」
「現在も隔離中です」
「第六。水務局の調査へ協力し、重大な危険が確認された場合は改善命令へ従うこと」
リリアが尋ねる。
「水務局が間違っていた場合は?」
「異議申し立てができます」
「工事を全部止められたら、事業が終わる」
「だから、記録と根拠を残してください。私たちも理由なく停止命令は出せません」
「契約書へ書いて」
「記載します」
「第七」
エルンは最後の項目を読んだ。
「試験結果を、王都および他地域の衛生改善へ利用すること」
「便器の製造方法を公開するという意味ですか」
ガルドの声が低くなる。
「技術秘密は除外できます」
「どこまでだ」
「事故原因、利用回数、水量、処理槽、手洗い効果など。便器の土配合や型寸法は、権利者の許可なく公開しません」
「権利者?」
「製造者と事業体です」
「なら、契約へはっきり書け」
「承知しました」
◇
「事業体の名前が必要です」
エルンが言った。
リリアが直人を見る。
「ついに、この話を決める時が来たわね」
「異世界便器販売所では?」
「駄目」
「まだ最後まで言っていません」
「聞かなくても分かる」
マルタが笑う。
「便器だけではなく、手洗いや汚物回収も扱っています」
ミーナが言った。
「水もです」
「床や手すりも作るぞ」
ロッカが加える。
「便壺もだ」
ボルグが言う。
「陶器も忘れるな」
ガルドが不満そうに腕を組む。
「全部入れたら、長い名前になりますね」
テオが記録紙を見た。
「銀月亭を窓口として始まった事業です」
マルタが静かに言う。
「銀月の名を残してはいかがでしょう」
リリアは少し驚いた。
「銀月亭の名前を?」
「この宿の便所から始まりましたから」
日本から来た白い便器。
最初の水路。
最初の詰まり。
最初の修理。
最初の利用者説明。
そこから、この町で作られた青灰色の便器へつながった。
「銀月衛生商会」
リリアが言った。
「ぎんげつ、えいせい、しょうかい?」
ガルドが顔をしかめる。
「何を売る場所か分からん」
「便器だけを売る商会ではないからよ」
「衛生という言葉は、この町で通じますか」
直人が尋ねる。
「治療院と教会では、もう使い始めている」
エルンが答えた。
「王都の水務局でも、清潔な水、排泄物管理、病気の予防をまとめて衛生と呼ぶことがあります」
「では、正式名称は銀月衛生商会」
リリアが紙へ書いた。
「ただし、看板には説明を付ける」
その下へ、もう一行。
便器・手洗い・排水・汚物処理・保守。
「分かりやすくなりました」
直人が言う。
「あなたの名前よりは短いでしょう?」
「異世界便器販売所も短いです」
「その案は忘れて」
◇
登録費の残額は、関係者で分担することになった。
銀月亭が最大部分。
ガルドの工房が製造業者登録分。
ボルグの組合が処理業登録分。
ロッカとミーナは、最初の報酬から少額ずつ積み立てる。
「私は、今すぐ払える銅貨が少ないです」
ミーナが言った。
「給水契約の利益が出てからでいい」
リリアが答える。
「でも、責任者になるなら――」
「責任と、最初から大金を持っているかは別よ」
「私も商会の一員ですか」
「給水責任者でしょう?」
ミーナは少し戸惑った後、深くうなずいた。
「やります」
ボルグも登録書を見た。
「汚物回収者の名が、正式な責任者として紙へ載るのか」
「嫌ですか」
エルンが尋ねる。
「逆だ」
ボルグは太い指で、自分の名が書かれる欄をなぞった。
「今まで、俺たちは契約の最後に“ほか”と書かれていた」
便所を作る大工。
壺を作る陶工。
宿の主人。
依頼主。
そして、その他の作業として扱われる汲み取り人。
「今回は、処理責任者です」
直人が言った。
「処理がなければ、水洗便器は使えません」
「分かっている」
ボルグは不器用な文字で署名した。
「だから、名前を残す」
ガルドも署名する。
「この紙で、粗悪な便器を止められるのだな?」
「登録品を名乗ることは止められます」
エルンが答える。
「勝手に作る者そのものは?」
「事故や井戸汚染の危険があれば、水務局が調査します」
「なら、早く基準を作るぞ」
ガルドはテオを見る。
「明日から、第三号用の土を準備しろ」
「第二号はまだ釉薬焼成前です」
「同じ失敗をしないため、準備だけ先にする」
「はい!」
「浮かれるな」
「はい!」
◇
全員の署名が終わると、エルンは水務局の仮登録印を押した。
どん。
紙の中央に、二羽の鳥と河の紋章が残る。
銀月衛生商会。
地方衛生試験事業・仮登録。
有効期間、六十日。
「六十日以内に、正式な登録手続きを完了してください」
「はい」
リリアは紙を両手で受け取った。
「これで、新しい注文を受けられますか」
「調査依頼は受けられます」
「契約は?」
「施工予定と製造能力を超えない範囲で」
「金鹿亭の十台計画は?」
「試験室一台まで。残り九台は試験結果後に再申請です」
「教会は?」
「共同便所の改修を優先。水洗設備は、利用記録と処理計画を提出後」
「赤鍋亭と治療院は?」
「緊急改善は継続可能。水洗便器の製造順に入れる場合は届け出が必要です」
「全部、書類が増えるわね」
リリアが言う。
「正式な事業になるということです」
「分かっている」
「嫌ですか」
「いいえ」
リリアは仮登録書を見た。
「今までは、何か事故が起きたら、銀月亭だけが責任を負う形だった」
「これからは商会として負います」
「もっと重くなっているじゃない」
「役割は分けられます」
「そうね」
リリアは関係者を見回した。
「一人で抱えるよりはいい」
◇
翌朝。
銀月亭の入口へ、新しい看板が掛けられた。
上段には、これまでどおり。
宿屋 銀月亭。
その下へ、小さな看板が追加されている。
銀月衛生商会。
便器・手洗い・排水・汚物処理・保守。
ロッカが作った木製看板。
文字はリリア。
便器と水滴の小さな絵は、ミーナが描いた。
「便器の絵に見えますか」
ミーナが不安そうに尋ねる。
「少し鍋にも見える」
ガルドが言った。
「親方」
テオが止める。
「下に水の絵があるので分かります」
直人が答えた。
「本当ですか」
「少なくとも、赤鍋亭の鍋には見えません」
「比較する相手が悪いわ」
リリアが笑った。
看板の前には、すでに相談者が待っていた。
治療院のエレン。
白石教会のセイル。
仕立屋のオルド。
赤鍋亭の給仕マーヤ。
金鹿亭の使者。
神殿から紹介された高齢者の家族。
その後ろには、見慣れない旅人もいる。
「受付は順番です」
リリアが声を上げた。
「高いお金を払っても、先約や緊急案件を勝手に飛び越すことはできません」
「見積もりだけでも今日中に!」
オルドが言う。
「第二号便器の本焼き前よ」
「工事予定だけでも決めてくれ!」
「正式な設計承認が先です」
「水務局の紙が増えたせいで遅くなったではないか!」
「安全確認が増えたの」
「便器一つに面倒だ!」
「買う前に言ったでしょう?」
入口では、早くも騒がしい商談が始まっている。
直人は少し離れた場所から、その様子を見た。
異世界へ来た日。
手にしていたのは、床から外した白い便器と工具箱だけだった。
剣は使えない。
魔法もない。
言葉も、この世界の常識も、何一つ分からなかった。
目の前にあったのは、臭い宿屋の便所。
腐った床。
汚れた便壺。
水も、排水管も、処理先もない。
あの時は、一台を使えるようにするだけで精いっぱいだった。
今。
銀月亭では、白い便器が毎日動いている。
ナーラの家では、この世界で作られた青灰色の第一号便器が、彼女の暮らしを支えている。
工房では、標準型第二号が釉薬焼成を待っている。
交換式便壺。
仮設便所。
手洗い設備。
清掃契約。
給水契約。
処理記録。
職人の分業。
そして、正式な商会。
「ナオト」
リリアが受付台から呼んだ。
「何ですか」
「王都水務局のエルンさんから、もう一通預かっている」
「まだ何か条件が?」
「条件ではなく、依頼」
封書の表には、水務局の紋章と王都の印。
直人が中を開く。
王都南区。
共同住宅群。
住民、三百二十人。
便所、四か所。
溜め槽のあふれと井戸への汚水混入が疑われる。
現場調査への協力を求める。
「三百二十人……」
ガルドが封書を覗き込み、顔を引きつらせた。
「便器は何台だ」
「まだ書いてありません」
「行くな」
「王都の調査依頼です」
「第二号を完成させてからにしろ!」
「すぐには行きません」
「本当だな?」
「現場資料を先に送ってもらいます」
「もう受ける気ではないか!」
怒声が銀月亭の前へ響く。
相談者たちが笑う。
直人は封書を閉じた。
異世界に、最初の便器を置く。
その仕事は終わった。
だが、一台を置いたことで、見えなかった問題が見えるようになった。
水をどう運ぶのか。
汚物をどこへ流すのか。
誰が掃除するのか。
故障した時に誰が直すのか。
金を払えない人をどう助けるのか。
多くの人が使う場所をどう守るのか。
そして、この町だけでなく、王都や遠い国へ、どう安全な設備を広げるのか。
「まず、第二号を完成させます」
直人は言った。
「その後、王都の資料を確認します」
「王都へ行くの?」
ミーナが尋ねる。
「必要なら」
「私も行くわ」
リリアが即答した。
「銀月亭は?」
「マルタに任せる」
「私は、まだ何も決めていません」
「一人で行かせるわけがないでしょう」
「便器を運ぶなら俺の確認が必要だ」
ガルドが言う。
「親方も行くんですか」
テオが驚く。
「行くとは言っておらん!」
「王都の陶工を見る機会になります」
「勝手な便器を作っていないか確認するだけだ!」
「僕も行きます!」
「工房は誰が見る!」
「弟子たちが――」
「まだ早い!」
ボルグも封書を見る。
「三百人分の処理槽なら、町のやり方では足りん」
「現地の回収人とも話す必要があります」
「なら、俺も必要だな」
「水は?」
ミーナが言う。
「王都の井戸と水路を確認したいです」
「全員で行ったら、こちらの仕事が止まるわ」
リリアが頭を抱えた。
直人は、銀月衛生商会の新しい看板を見上げた。
便器一台から始まった仕事。
それは今、一人では動かせない仕事になった。
異世界で最初の便器は、すでに置かれた。
次は、その一台から生まれた仕組みを、町へ、王都へ、さらに遠い土地へ届ける番だった。
王都水務局の監査によって、銀月亭とナーラ宅の水洗便器は、試験設備として継続使用を認められました。
一方、便器販売、給排水施工、給水、汚物処理、保守を続けるには、正式な事業体と責任者が必要になります。
直人たちは、製造、施工、給水、処理、木工、契約の役割を明確にし、地方衛生試験事業として《銀月衛生商会》を仮登録しました。
こうして第1章「異世界に、最初の便器を」は完結です。
次章では、仕立屋へ標準型第二号便器を設置しながら、町全体へ注文が広がり、王都の三百二十人が暮らす共同住宅の衛生問題も動き始めます。




