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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

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30/42

第30話 便器一台から、商会が生まれました

銀月亭へ現れたのは、王都水務局の調査官でした。


水洗便器は便利な道具である一方、使う水と流した汚物を誤って扱えば、井戸や町全体を汚染する危険があります。


正式な許可も制度も存在しない中、直人たちは便器事業を続けられるのでしょうか。

「王都水務局から参りました」


 馬車から降りた男は、もう一度名乗った。


「水務局地方監査官、エルン・ヴァイスです」


 三十代後半ほど。


 茶色の髪を短く整え、紺色の外套を着ている。


 外套の胸元には、二羽の鳥と河を描いた銀色の徽章が付けられていた。


「監査官……」


 リリアが緊張した声で繰り返す。


「水務局というのは、井戸や水路を管理するところですか」


 陶山直人が尋ねた。


「それだけではありません」


 エルンは銀月亭の建物を見上げた。


「飲用水、共同井戸、排水路、汚物処理場、浴場、染色工房など、水を大量に使用する施設を監督しています」


「便所も対象になる?」


「便器そのものを管理する規則は、現時点では存在しません」


 その答えに、リリアが少しだけ安堵する。


 しかし、エルンは続けた。


「ただし、流した先は別です」


 銀月亭の裏庭。


 排水管。


 処理槽。


 井戸。


 それらへ視線を向ける。


「人の排泄物を水で運び、地中の槽へ集めていると報告を受けました」


「はい」


「誤った施工をすれば、井戸水を汚染します」


「その危険は理解しています」


「王都では、排水を井戸へ流して病人を出した染色工房がありました」


 エルンの声は穏やかだった。


 だが、その内容は重い。


「もし、この宿の設備に同じ危険があるなら、使用を停止していただきます」


 リリアの顔色が変わった。


「停止?」


「安全を確認できない施設を動かし続けることは認められません」


 銀月亭の水洗便所は、宿の評判を回復させた設備だ。


 これが止まれば、客が離れる可能性がある。


「今まで問題なく動いています」


 リリアが言った。


「それを確認するのが、私の仕事です」


 エルンは直人を見る。


「陶山直人殿」


「はい」


「あなたが設計者ですか」


「設計、施工管理、利用説明、点検を担当しています」


「陶工ではない?」


「便器の製造はガルドさんです」


「排水槽は?」


「ボルグさん」


「給水は?」


「ミーナさん。銀月亭では宿側の補充も行っています」


「契約は?」


「銀月亭が窓口です」


 エルンは小さな手帳へ書き込んだ。


「複数の者が関わっているようですね」


「はい」


「代表責任者は誰ですか」


 直人とリリアは顔を見合わせた。


「現時点では……」


 リリアが答える。


「銀月亭の主人である私が契約を受けています」


「便器の製造事故も、あなたの責任ですか」


「製造はガルドよ」


「排水槽から漏れた場合は?」


「ボルグとナオトが――」


「給水不足で詰まった場合は?」


「ミーナと利用者側の確認になります」


「では、最終的に誰が判断するのですか」


 リリアは答えられなかった。


 エルンは責めるような口調ではない。


 だからこそ、問題が明確になった。


 役割は分かれている。


 だが、事業全体の責任と判断方法は、正式には定められていない。


「まず設備を確認させてください」


 エルンが言った。


「その後、今後の扱いをお話しします」


          ◇


 銀月亭の水洗便所へ入る前に、エルンは利用説明板を見た。


 便器へ入れてよいもの。


 入れてはいけないもの。


 操作紐は一度だけ。


 水位が上がった場合は、再度流さない。


 赤い使用停止札。


 手洗い。


「文字だけではないのですね」


「読めない方にも分かるよう、絵を使っています」


「誰が考えました?」


「利用者の失敗を基に、全員で修正しました」


「失敗?」


「布と木片を流され、詰まりました」


 リリアが横から言った。


「わざわざ言わなくてもいいでしょう」


「事故記録は隠さない方がいいです」


 直人が答える。


 エルンは二人を見た後、説明板へ戻った。


「詰まりの記録はありますか」


「あります」


 直人は銀月亭へ保管してある点検簿を出した。


 発生日時。


 症状。


 使用者から聞いた内容。


 分解箇所。


 取り出した異物。


 修理時間。


 再試験。


 説明板の改善。


「これを、すべて残しているのですか」


「同じ故障を減らすためです」


「処理槽の記録も?」


「こちらです」


 ボルグが持ってきた木札と、直人が書き写した紙。


 槽の水位。


 臭い。


 周辺土壌の湿り。


 汲み取り日。


 異物。


 ポルンの観察記録。


「ポルンとは?」


 エルンが聞き返す。


「汚物を食べる清掃スライムです」


 直人が答える。


「現在は別容器で隔離しています」


「なぜ隔離を?」


「成長条件と配管への影響が確認できていないためです」


「処理槽へ入れれば、汚物が減るのでは?」


「可能性はあります。しかし、増殖しすぎる危険もあります」


 エルンは記録をめくった。


「体積。餌の種類。活動時間。温度。分裂回数……」


「安全が確認できるまでは、営業用設備へ入れません」


「賢明です」


 水務局の監査官から初めて、明確な肯定の言葉が出た。


          ◇


 便所内では、通常どおり点検が行われた。


 便器の固定。


 床の乾燥。


 給水管。


 洗浄紐。


 貯水槽。


 手洗い。


 換気。


「一度、流してください」


 エルンが言った。


 直人は貯水槽の水位を確認した。


「満水です」


 紐を引く。


 ごぼん。


 水が鉢を回り、排水路へ吸い込まれる。


 便器の底には、再び一定量の水が残った。


「なぜ、すべての水がなくならないのですか」


「排水管から臭いと虫が上がるのを防ぐためです」


「この水が蓋になる?」


「はい。封水と呼んでいます」


「水が蒸発した場合は?」


「長期間使わない時は、補充します」


「忘れたら?」


「臭いが上がる可能性があります」


「定期点検項目にありますか」


「はい」


 エルンは自分の手帳へ、封水と書いた。


「王都の便所にも応用できるかもしれません」


「王都では、どのような便所を使っていますか」


「貴族や官庁は、便壺を使用人が運びます。共同施設は溜め槽です。川へ直接流している区画もあります」


 直人の表情が変わった。


「飲み水の取水場所より上流ですか」


「地域によります」


「それは危険です」


「分かっています」


 エルンは苦い顔をした。


「だから、私はここへ来ました」


          ◇


 裏庭の処理槽では、エルンが井戸との距離を測った。


 地面の高さ。


 傾斜。


 槽の壁。


 点検口。


 汲み取り口。


 周辺へ敷かれた白い確認砂。


「この白い砂は?」


「漏れや湿りを見つけやすくするためです」


「雨の日は?」


「雨水が直接入らないよう、簡易屋根を付けました。雨の後は、通常と分けて記録します」


「槽の内側は粘土?」


 ボルグが答える。


「粘土だけではない。細かい砂と弾樹の樹液を混ぜている」


「完全に水を通さない?」


「完全とは言わん」


「なぜです?」


「完璧だと言って漏れたら、嘘になる」


 エルンは一瞬驚き、その後、小さく笑った。


「皆、よく似た答えをしますね」


「ナオトと仕事をしていると、簡単に完全とは言えなくなる」


 ボルグが言った。


「三十日間の点検結果は?」


「今のところ、外部漏れは確認されていない」


「井戸水の変化は?」


「臭い、色、味に異常はありません」


「味まで確認しているのですか」


 直人が答える。


「正確な水質検査道具がないため、目視、臭い、利用者の体調、周辺土壌を確認しています」


「それで十分だと思いますか」


「思いません」


 直人は即答した。


「本当は、目に見えない汚染も調べる必要があります」


「方法は?」


「今はありません」


「では、危険な設備ということでは?」


「危険を完全に否定できない設備です」


 リリアが不安そうに直人を見る。


 エルンも黙っている。


「だから、井戸との距離を取る。漏れを見つけやすくする。汲み取りを続ける。利用記録を残す。体調変化があれば停止する」


「できない検査を、できるふりはしない?」


「はい」


「王都の技術官は、結果を断言する者を好みます」


「分からないことを断言する方が危険です」


「私もそう思います」


 エルンは処理槽の図面を閉じた。


          ◇


 次に一行は、ナーラ宅を訪れた。


 異世界製水洗便器第一号。


 この世界の土。


 ガルドの窯。


 青灰色の釉薬。


 ナーラの体に合わせた低い便座。


 エルンは銀月亭以上に細かく確認した。


「使用者へ話を聞いても?」


「本人が同意すれば」


 直人が答える。


 ナーラは、パン屋の奥で椅子に座っていた。


「王都のお役人さんが、うちの便所を見に来るとはね」


「ご不快であれば、設備だけ確認して帰ります」


 エルンが丁寧に言う。


「構わないよ。何を聞きたいんだい?」


「以前と比べて、不便になったことはありますか」


「水を入れる必要があるね」


「誰が入れています?」


「娘か、パン屋の若い者だ」


「ナーラ殿ご自身では?」


「重い水は持たないよう言われている」


「故障は?」


「まだないよ」


「使い方を間違えたことは?」


「布を入れかけて、娘に止められた」


「危なかったですね」


「でも、絵があったから思い出したよ」


 エルンは説明板を見る。


「良くなったことは?」


 ナーラは少し考えた。


「一人で便所へ行けるようになった」


「以前は?」


「娘を呼ぶことがあった。しゃがむと立てなくなるからね」


「壺を運ぶ作業は?」


「なくなった」


「処理槽の汲み取りは残っています」


 直人が補足する。


「でも、私が運ぶわけじゃない」


 ナーラは笑った。


「便所へ行くたび、誰かへ迷惑をかけていると思わなくて済む。それが一番だよ」


 エルンの筆が止まった。


「水洗便器の価値は、臭いを減らすことだけではないのですね」


「はい」


 直人が答える。


「人が自分で暮らすための設備でもあります」


          ◇


 ガルドの工房では、標準型第二号便器へ釉薬を施す準備が進んでいた。


「役人を連れてくるな!」


 エルンの徽章を見た瞬間、ガルドが怒鳴った。


「水務局の設備調査です」


「窯へ口を出すなら帰れ!」


「製造方法を奪いに来たのではありません」


 エルンは動じずに答えた。


「水と排水に関わる設備が、どのように作られているか確認します」


「便器は俺が作る」


「責任者は、あなたですか」


「そうだ」


「製造記録は?」


 ガルドは黙ってテオを見る。


 テオが大量の記録紙を持ってきた。


 土の配合。


 収縮率。


 乾燥日数。


 重量変化。


 厚み。


 素焼き温度。


 薪の量。


 窯内の位置。


 収縮試験片。


 焼成音。


 寸法。


「これを、毎回?」


 エルンが尋ねる。


「ナオトとテオが勝手に書く」


 ガルドが答えた。


「親方も確認しています」


 テオが言う。


「余計なことを言うな」


「署名があります」


 記録の下には、ガルドの印。


「製造基準はありますか」


「今作っておる」


「誰が作っても、同じ品質になりますか」


「同じにはならん」


 ガルドは断言した。


「人の手で作る。土も火も毎回違う」


「では、標準化は不可能?」


「形と寸法と試験はそろえられる」


「完成品に差が出ても、安全基準は同じにする?」


「そういうことだ」


 エルンは第二号便器を見た。


「王都の陶工へ、この作り方を教えることは可能ですか」


「断る」


 ガルドの返答は速かった。


「親方」


 テオが小さく呼ぶ。


「何だ」


「全部を断るのですか」


「俺の技術だ」


「でも、王都まで親方一人で便器を作りに行けません」


「行かん」


「王都で必要な人は?」


「俺の知ったことでは――」


 ガルドは言葉を止めた。


 ナーラ用便器を作った時。


 仕立屋の注文。


 治療院。


 教会。


 必要とする者が、作れる数を超えている。


「完成した便器を王都へ運ぶ方法もあります」


 直人が言った。


「割れるぞ」


「梱包を改良します」


「十台、百台になれば運べん」


「では、品質基準を満たした陶工へ、正式に技術を教える仕組みが必要です」


「誰にでも教える気はない」


「試験と契約を作りましょう」


 エルンが反応した。


「認定陶工制度ですか」


「にんてい?」


 ガルドが眉をひそめる。


「基準を学び、試作便器を作り、検査に合格した者だけが同じ方式を作れる」


「勝手に粗悪品を売る者は?」


「水務局登録品とは名乗れないようにします」


「水務局が俺の便器を管理するのか」


「製造方法を奪うのではありません。ガルド殿が定めた基準を、公的な登録で守ります」


「俺の許可なく変えるな」


「契約に明記します」


「値段へ口を出すな」


「価格は商会と工房が決めます。ただし、不当な独占が起きた場合は別です」


「もう面倒だ!」


 ガルドは怒鳴った。


 だが、完全には拒否しなかった。


          ◇


 銀月亭へ戻ったのは、日が沈む頃だった。


 エルンは食堂の長机へ、すべての記録を並べた。


 銀月亭。


 ナーラ宅。


 治療院。


 ハンナ宅。


 赤鍋亭。


 仕立屋。


 金鹿亭。


 白石教会。


 水洗便器だけではない。


 交換式便壺。


 仮設便所。


 手洗い。


 給水。


 処理。


 清掃契約。


 利用記録。


「結論を申し上げます」


 食堂には関係者が集められていた。


 リリア。


 直人。


 ガルド。


 テオ。


 ミーナ。


 ボルグ。


 ロッカ。


 マルタ。


「銀月亭とナーラ宅の水洗便器について、直ちに使用停止とする重大な欠陥は確認されませんでした」


 リリアが大きく息を吐く。


「ただし、王都水務局として正式な安全認定を与える段階ではありません」


「今後も使えますか」


「三十日ごとの運用報告を条件に、試験設備として継続使用を認めます」


「仕立屋の第二号は?」


「施工前に、設計図と処理槽計画を提出してください。水務局地方監査員が引き渡し検査へ立ち会います」


「工事を止めなくていい?」


「正式な仮登録を行えば」


 エルンは新しい紙を出した。


 上部には、水務局の印章。


「現在、銀月亭は宿泊業として登録されています」


「はい」


「しかし、便器販売、給排水施工、汚物処理、定期保守を、宿泊業の付随業務として扱うことには限界があります」


「正式な事業登録が必要?」


 リリアが尋ねた。


「はい」


「登録費がかかります」


「王都への申請費。町への営業費。責任者印の作成。帳簿登録」


 エルンは金額を読み上げた。


 安くはない。


 銀月亭が水洗便所で得た利益だけでは、負担が大きい。


「払えなければ?」


 直人が尋ねる。


「新規契約は停止です」


 食堂が静かになった。


「既存の設備保守と、仕立屋の契約済み工事は?」


「仮登録期間として、六十日間だけ認めます」


「その間に正式登録しろと」


「はい」


 リリアは帳簿を開いた。


 銀月亭の売上。


 ナーラ宅から受け取った代金。


 仕立屋の契約金。


 今後必要な材料費。


 職人の工賃。


 すべてを見比べる。


「登録費を払えば、工事資金が減る」


 ガルドが言った。


「土と薪を買えなくなるぞ」


「金鹿亭の設備投資契約が成立すれば補える」


 リリアが答える。


「競合宿の金で商会を作るのか」


「乾燥小屋の資金よ。登録費とは分ける」


「では、登録費は?」


 全員が黙った。


          ◇


「一つ、方法があります」


 エルンが言った。


「この事業を、水務局の地方衛生試験事業として申請します」


「試験事業?」


「新しい排泄設備、手洗い、汚物処理の効果を記録し、王都へ報告する事業です」


「登録費が免除される?」


「半額になります。残りも一年間の分割が可能です」


 リリアの目が鋭くなる。


「条件は?」


「七つあります」


 エルンは一つずつ読み上げた。


「第一。新規設備は、施工前に所在地、井戸、排水先、処理方法を届け出ること」


「すでに現場ごとに確認しています」


 直人が答える。


「第二。完成後、最低三十日間の点検記録を提出すること」


「問題ありません」


「第三。重大な漏水、逆流、井戸汚染の疑い、利用者の負傷が起きた場合、直ちに使用を止めて報告すること」


「当然です」


「第四。製造、施工、給水、汚物処理、契約の責任者を明確にすること」


 エルンは関係者を見た。


「製造責任者」


「俺だ」


 ガルドが答える。


「施工設計責任者」


「俺が担当します」


 直人が答える。


「給水責任者」


「私です」


 ミーナがまっすぐ手を挙げた。


「汚物処理責任者」


「俺だ」


 ボルグが言う。


「木工と建物改修責任者」


「俺になるのか」


 ロッカが頭をかく。


「契約、会計、顧客窓口」


 全員がリリアを見る。


「私がやります」


 リリアは答えた。


「第五。清掃スライムを、許可なく営業設備へ投入しないこと」


「現在も隔離中です」


「第六。水務局の調査へ協力し、重大な危険が確認された場合は改善命令へ従うこと」


 リリアが尋ねる。


「水務局が間違っていた場合は?」


「異議申し立てができます」


「工事を全部止められたら、事業が終わる」


「だから、記録と根拠を残してください。私たちも理由なく停止命令は出せません」


「契約書へ書いて」


「記載します」


「第七」


 エルンは最後の項目を読んだ。


「試験結果を、王都および他地域の衛生改善へ利用すること」


「便器の製造方法を公開するという意味ですか」


 ガルドの声が低くなる。


「技術秘密は除外できます」


「どこまでだ」


「事故原因、利用回数、水量、処理槽、手洗い効果など。便器の土配合や型寸法は、権利者の許可なく公開しません」


「権利者?」


「製造者と事業体です」


「なら、契約へはっきり書け」


「承知しました」


          ◇


「事業体の名前が必要です」


 エルンが言った。


 リリアが直人を見る。


「ついに、この話を決める時が来たわね」


「異世界便器販売所では?」


「駄目」


「まだ最後まで言っていません」


「聞かなくても分かる」


 マルタが笑う。


「便器だけではなく、手洗いや汚物回収も扱っています」


 ミーナが言った。


「水もです」


「床や手すりも作るぞ」


 ロッカが加える。


「便壺もだ」


 ボルグが言う。


「陶器も忘れるな」


 ガルドが不満そうに腕を組む。


「全部入れたら、長い名前になりますね」


 テオが記録紙を見た。


「銀月亭を窓口として始まった事業です」


 マルタが静かに言う。


「銀月の名を残してはいかがでしょう」


 リリアは少し驚いた。


「銀月亭の名前を?」


「この宿の便所から始まりましたから」


 日本から来た白い便器。


 最初の水路。


 最初の詰まり。


 最初の修理。


 最初の利用者説明。


 そこから、この町で作られた青灰色の便器へつながった。


「銀月衛生商会」


 リリアが言った。


「ぎんげつ、えいせい、しょうかい?」


 ガルドが顔をしかめる。


「何を売る場所か分からん」


「便器だけを売る商会ではないからよ」


「衛生という言葉は、この町で通じますか」


 直人が尋ねる。


「治療院と教会では、もう使い始めている」


 エルンが答えた。


「王都の水務局でも、清潔な水、排泄物管理、病気の予防をまとめて衛生と呼ぶことがあります」


「では、正式名称は銀月衛生商会」


 リリアが紙へ書いた。


「ただし、看板には説明を付ける」


 その下へ、もう一行。


 便器・手洗い・排水・汚物処理・保守。


「分かりやすくなりました」


 直人が言う。


「あなたの名前よりは短いでしょう?」


「異世界便器販売所も短いです」


「その案は忘れて」


          ◇


 登録費の残額は、関係者で分担することになった。


 銀月亭が最大部分。


 ガルドの工房が製造業者登録分。


 ボルグの組合が処理業登録分。


 ロッカとミーナは、最初の報酬から少額ずつ積み立てる。


「私は、今すぐ払える銅貨が少ないです」


 ミーナが言った。


「給水契約の利益が出てからでいい」


 リリアが答える。


「でも、責任者になるなら――」


「責任と、最初から大金を持っているかは別よ」


「私も商会の一員ですか」


「給水責任者でしょう?」


 ミーナは少し戸惑った後、深くうなずいた。


「やります」


 ボルグも登録書を見た。


「汚物回収者の名が、正式な責任者として紙へ載るのか」


「嫌ですか」


 エルンが尋ねる。


「逆だ」


 ボルグは太い指で、自分の名が書かれる欄をなぞった。


「今まで、俺たちは契約の最後に“ほか”と書かれていた」


 便所を作る大工。


 壺を作る陶工。


 宿の主人。


 依頼主。


 そして、その他の作業として扱われる汲み取り人。


「今回は、処理責任者です」


 直人が言った。


「処理がなければ、水洗便器は使えません」


「分かっている」


 ボルグは不器用な文字で署名した。


「だから、名前を残す」


 ガルドも署名する。


「この紙で、粗悪な便器を止められるのだな?」


「登録品を名乗ることは止められます」


 エルンが答える。


「勝手に作る者そのものは?」


「事故や井戸汚染の危険があれば、水務局が調査します」


「なら、早く基準を作るぞ」


 ガルドはテオを見る。


「明日から、第三号用の土を準備しろ」


「第二号はまだ釉薬焼成前です」


「同じ失敗をしないため、準備だけ先にする」


「はい!」


「浮かれるな」


「はい!」


          ◇


 全員の署名が終わると、エルンは水務局の仮登録印を押した。


 どん。


 紙の中央に、二羽の鳥と河の紋章が残る。


 銀月衛生商会。


 地方衛生試験事業・仮登録。


 有効期間、六十日。


「六十日以内に、正式な登録手続きを完了してください」


「はい」


 リリアは紙を両手で受け取った。


「これで、新しい注文を受けられますか」


「調査依頼は受けられます」


「契約は?」


「施工予定と製造能力を超えない範囲で」


「金鹿亭の十台計画は?」


「試験室一台まで。残り九台は試験結果後に再申請です」


「教会は?」


「共同便所の改修を優先。水洗設備は、利用記録と処理計画を提出後」


「赤鍋亭と治療院は?」


「緊急改善は継続可能。水洗便器の製造順に入れる場合は届け出が必要です」


「全部、書類が増えるわね」


 リリアが言う。


「正式な事業になるということです」


「分かっている」


「嫌ですか」


「いいえ」


 リリアは仮登録書を見た。


「今までは、何か事故が起きたら、銀月亭だけが責任を負う形だった」


「これからは商会として負います」


「もっと重くなっているじゃない」


「役割は分けられます」


「そうね」


 リリアは関係者を見回した。


「一人で抱えるよりはいい」


          ◇


 翌朝。


 銀月亭の入口へ、新しい看板が掛けられた。


 上段には、これまでどおり。


 宿屋 銀月亭。


 その下へ、小さな看板が追加されている。


 銀月衛生商会。


 便器・手洗い・排水・汚物処理・保守。


 ロッカが作った木製看板。


 文字はリリア。


 便器と水滴の小さな絵は、ミーナが描いた。


「便器の絵に見えますか」


 ミーナが不安そうに尋ねる。


「少し鍋にも見える」


 ガルドが言った。


「親方」


 テオが止める。


「下に水の絵があるので分かります」


 直人が答えた。


「本当ですか」


「少なくとも、赤鍋亭の鍋には見えません」


「比較する相手が悪いわ」


 リリアが笑った。


 看板の前には、すでに相談者が待っていた。


 治療院のエレン。


 白石教会のセイル。


 仕立屋のオルド。


 赤鍋亭の給仕マーヤ。


 金鹿亭の使者。


 神殿から紹介された高齢者の家族。


 その後ろには、見慣れない旅人もいる。


「受付は順番です」


 リリアが声を上げた。


「高いお金を払っても、先約や緊急案件を勝手に飛び越すことはできません」


「見積もりだけでも今日中に!」


 オルドが言う。


「第二号便器の本焼き前よ」


「工事予定だけでも決めてくれ!」


「正式な設計承認が先です」


「水務局の紙が増えたせいで遅くなったではないか!」


「安全確認が増えたの」


「便器一つに面倒だ!」


「買う前に言ったでしょう?」


 入口では、早くも騒がしい商談が始まっている。


 直人は少し離れた場所から、その様子を見た。


 異世界へ来た日。


 手にしていたのは、床から外した白い便器と工具箱だけだった。


 剣は使えない。


 魔法もない。


 言葉も、この世界の常識も、何一つ分からなかった。


 目の前にあったのは、臭い宿屋の便所。


 腐った床。


 汚れた便壺。


 水も、排水管も、処理先もない。


 あの時は、一台を使えるようにするだけで精いっぱいだった。


 今。


 銀月亭では、白い便器が毎日動いている。


 ナーラの家では、この世界で作られた青灰色の第一号便器が、彼女の暮らしを支えている。


 工房では、標準型第二号が釉薬焼成を待っている。


 交換式便壺。


 仮設便所。


 手洗い設備。


 清掃契約。


 給水契約。


 処理記録。


 職人の分業。


 そして、正式な商会。


「ナオト」


 リリアが受付台から呼んだ。


「何ですか」


「王都水務局のエルンさんから、もう一通預かっている」


「まだ何か条件が?」


「条件ではなく、依頼」


 封書の表には、水務局の紋章と王都の印。


 直人が中を開く。


 王都南区。


 共同住宅群。


 住民、三百二十人。


 便所、四か所。


 溜め槽のあふれと井戸への汚水混入が疑われる。


 現場調査への協力を求める。


「三百二十人……」


 ガルドが封書を覗き込み、顔を引きつらせた。


「便器は何台だ」


「まだ書いてありません」


「行くな」


「王都の調査依頼です」


「第二号を完成させてからにしろ!」


「すぐには行きません」


「本当だな?」


「現場資料を先に送ってもらいます」


「もう受ける気ではないか!」


 怒声が銀月亭の前へ響く。


 相談者たちが笑う。


 直人は封書を閉じた。


 異世界に、最初の便器を置く。


 その仕事は終わった。


 だが、一台を置いたことで、見えなかった問題が見えるようになった。


 水をどう運ぶのか。


 汚物をどこへ流すのか。


 誰が掃除するのか。


 故障した時に誰が直すのか。


 金を払えない人をどう助けるのか。


 多くの人が使う場所をどう守るのか。


 そして、この町だけでなく、王都や遠い国へ、どう安全な設備を広げるのか。


「まず、第二号を完成させます」


 直人は言った。


「その後、王都の資料を確認します」


「王都へ行くの?」


 ミーナが尋ねる。


「必要なら」


「私も行くわ」


 リリアが即答した。


「銀月亭は?」


「マルタに任せる」


「私は、まだ何も決めていません」


「一人で行かせるわけがないでしょう」


「便器を運ぶなら俺の確認が必要だ」


 ガルドが言う。


「親方も行くんですか」


 テオが驚く。


「行くとは言っておらん!」


「王都の陶工を見る機会になります」


「勝手な便器を作っていないか確認するだけだ!」


「僕も行きます!」


「工房は誰が見る!」


「弟子たちが――」


「まだ早い!」


 ボルグも封書を見る。


「三百人分の処理槽なら、町のやり方では足りん」


「現地の回収人とも話す必要があります」


「なら、俺も必要だな」


「水は?」


 ミーナが言う。


「王都の井戸と水路を確認したいです」


「全員で行ったら、こちらの仕事が止まるわ」


 リリアが頭を抱えた。


 直人は、銀月衛生商会の新しい看板を見上げた。


 便器一台から始まった仕事。


 それは今、一人では動かせない仕事になった。


 異世界で最初の便器は、すでに置かれた。


 次は、その一台から生まれた仕組みを、町へ、王都へ、さらに遠い土地へ届ける番だった。

王都水務局の監査によって、銀月亭とナーラ宅の水洗便器は、試験設備として継続使用を認められました。


一方、便器販売、給排水施工、給水、汚物処理、保守を続けるには、正式な事業体と責任者が必要になります。


直人たちは、製造、施工、給水、処理、木工、契約の役割を明確にし、地方衛生試験事業として《銀月衛生商会》を仮登録しました。


こうして第1章「異世界に、最初の便器を」は完結です。


次章では、仕立屋へ標準型第二号便器を設置しながら、町全体へ注文が広がり、王都の三百二十人が暮らす共同住宅の衛生問題も動き始めます。

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