第29話 二百人が来る前に、便所の列を作ります
白石教会の大礼拝まで、残り二日。
腐食した共同便所の一室は使用できず、急きょ四台の交換式仮設便所を追加することになりました。
同じ頃、仕立屋用の第二号便器を焼く窯から、不穏な音が響きます。
大礼拝当日の夜明け前。
白石教会の裏庭には、四つの新しい小屋が並んでいた。
小屋と呼んでも、恒久的な建物ではない。
木枠へ厚い布を張った囲い。
内側には固定式の座位便器。
便座の下には、蓋を閉めて交換できる陶器壺。
入口には使用中を示す札。
外には、利用者が並ぶ位置を示す縄が張られている。
「最後の壺を入れます」
陶山直人が前面扉を開けた。
ボルグが運んできた空の密閉壺を、木枠の中へ差し込む。
壺の口。
便座の穴。
蓋の操作棒。
すべてが所定の位置へ収まっていることを確認する。
「蓋を閉めます」
取っ手を引く。
かたん。
壺の上を蓋が滑り、白い確認印が小窓へ現れた。
「開閉は問題ありません」
「四台とも?」
リリアが尋ねる。
「今ので四台目です」
「女性用二台、男性用一台、歩行が難しい人の共用が一台」
「はい」
「本当に足りる?」
「常設便所も使います。ただし、女性用は安全な二室だけです」
礼拝参加者は最大二百人。
すべての者が便所を使うわけではない。
だが、祈りの前後へ利用が集中すれば、六つか七つの使用場所があっても列はできる。
「足りない可能性はあります」
「増やせないの?」
「便壺は予備がありますが、囲いと座位便器がありません」
ロッカが欠伸をしながら言った。
「一晩で四台作ったんだ。これ以上は、座る椅子が間に合わん」
「立って使う男性用だけ、簡易囲いを増やす方法は?」
「地面へ直接させるのか」
「受け容器と目隠しを作ります」
「今から?」
「必要な場合だけ使える予備として」
ロッカは直人を睨んだ。
「お前は、完成したと言った後で必ず追加するな」
「利用者数を考えると、予備が必要です」
「木板三枚と大桶一つで作る。だが、通常は閉じておけ」
「お願いします」
「工賃は追加だぞ」
「教会へ説明します」
少し離れた場所では、ミーナと見習い神官たちが手洗い設備を準備していた。
大きな貯水壺。
栓付きの流出口。
石けん草を薄く煮出した液。
使用後の水を受ける桶。
礼拝堂前の清めの水盤とは別の、汚れを落とすための手洗い場である。
「水槽、満杯です」
ミーナが言った。
「予備水は?」
「裏の壺二つに入っています」
「礼拝中に足りなくなった場合は?」
「私が補充します。ただし、ほかの作業中なら見習い神官が井戸水を運びます」
「担当者は決まっていますか」
「セイルさんが表を作りました」
壁へ掛けられた板には、時間帯ごとの担当者名が並んでいる。
手洗い水。
列の案内。
便壺交換。
利用回数記録。
高齢者優先列。
清掃。
「教会でも、表を使うようになったのね」
リリアが言った。
「神官たちは記録に慣れていますから」
「祈りの時間と寄付の記録は、昔から残しているそうよ」
「便所の記録も加わりましたね」
「聖典の隣へ、便壺交換表が置かれるとは思わなかったでしょうね」
◇
朝の鐘が鳴ると、人々が集まり始めた。
老人。
家族連れ。
商人。
職人。
農村から来た者。
礼拝堂の正面には祈りを待つ列。
裏庭には便所を使う列。
以前は二つの列が混ざり、入口付近で人が押し合うことがあったという。
今日は、地面へ色の違う縄が張られている。
白い縄は礼拝堂。
青い縄は男性用便所。
赤い縄は女性用便所。
黄色い縄は、高齢者や歩行困難者向け。
「黄色い列は、誰が使ってもいいのか?」
杖を持った老人が案内役の神官へ尋ねた。
「長く立って待つことが難しい方を優先します」
「私はまだ歩ける」
「ご自身で難しいと感じた時にお使いください」
「若い者に、ずるいと思われないか」
案内役が答えに迷う。
直人が近づいた。
「この列は、楽をするためではありません」
「では?」
「転ばず、間に合うようにするためです」
「間に合う?」
「排泄を長く我慢できない方もいます。必要な方が使う場所です」
老人は少し考え、黄色い縄の内側へ入った。
「なら、今日は使わせてもらう」
後ろにいた人々も文句を言わなかった。
基準を先に説明する。
善意だけに任せず、利用してよい理由を示す。
それだけで、使う側の遠慮を少し減らせる。
◇
最初の一刻は、順調だった。
利用者が入る。
入口の木札を裏返す。
使用する。
蓋を閉める。
外へ出る。
手を洗う。
案内係が利用回数の木玉を一つ動かす。
しかし、礼拝開始が近づくと、女性用の列が急に伸びた。
「十一人です」
セイルが報告する。
「常設二室と仮設二台。四人ずつ使っても、列が減りません」
「一人当たりの時間は?」
直人は記録係を見る。
「常設は短い者で二分。仮設は初めて使うため、三分から五分です」
「操作説明で時間がかかっていますね」
仮設便所の入口では、見習い神官が利用方法を一人ずつ説明していた。
座る。
使用後に蓋の取っ手を引く。
白い印を確認する。
壺へ水を入れない。
布は横の蓋付き箱へ。
「説明を全員へ繰り返すより、待っている間にまとめて伝えましょう」
直人は列の前に大きな絵板を立てた。
「案内役が、次の四人へ一度に説明してください」
「中へ入る時には確認だけ?」
「はい」
説明時間が短くなり、列が少しずつ進み始める。
だが、次の問題が起きた。
「こちらの蓋が閉まりません!」
女性用仮設便所の一台から声が上がる。
「使用を止めます」
直人は入口へ赤い札を掛けた。
中へ入る前に、利用者が退出済みであることを確認する。
便座下の小窓は、白ではなく黒と白の中間で止まっていた。
「壺がずれています」
「なぜ?」
ボルグが前面扉を開ける。
壺の底に、小さな石が挟まっていた。
「地面から入ったな」
仮設便所は土の上に設置されている。
利用者が出入りするたび、小石や泥が靴底から入る。
壺交換時に一つが木枠の下へ入り、壺の位置を傾けたらしい。
「壺を外します」
「中身が入っているぞ」
「蓋が完全には閉じていません」
「運ぶな」
ボルグは予備の木蓋を取り出した。
壺の口へ上からかぶせ、革帯で固定する。
その後、専用台へ慎重に載せた。
「こぼれなし」
「床を清掃します」
ミーナが少量の水を出そうとする。
「大量に流さないでください」
「布で泥を取ってからですね」
「はい」
乾いたへらで石と泥を除去。
少量の清掃水。
乾燥布。
新しい壺を入れる。
「十五分で復旧です」
リリアが時刻を記録した。
「長いですか」
「便器が一台止まると考えれば、短い方かもしれない。でも、列は伸びた」
四台あった仮設の一台が止まっただけで、待ち人数はすぐに増える。
「故障時の予備が必要ですね」
「また増やすの?」
「囲いではなく、交換できる木枠部品と予備壺です」
「商売の話なら後にして」
「運用の話です」
「同じ顔をしているわよ」
◇
礼拝が始まる直前。
男性用の列から騒ぎ声が上がった。
「何をしている!」
見習い神官が、一人の男の手を止めている。
男は木札を握っていた。
悩みを書いて便所へ落とそうとしていたらしい。
「ここへ捨てれば、罪が流れると聞いた」
「便所へ木札を入れないでください」
「教会の者が、神へ悩みを預けろと言ったぞ」
「こちらへお入れください」
セイルが、新しく用意した木箱を示した。
箱には、炎の絵と閉じた手紙の印が描かれている。
祈り札預かり箱。
中身を他人に読まれないよう封をし、礼拝後に祈願炉で焚く。
「便所ではなく、こちらなら神へ届くのか」
「正式な祈りとして扱います」
男は少し迷い、木札を箱へ入れた。
「本当に読まない?」
「封をしたまま焚きます」
「なら、こちらの方がいい」
男が去ると、セイルは息を吐いた。
「禁止だけでは納得しなかったでしょう」
リリアが言う。
「代わりの場所が必要でした」
「人は、捨てたいものがあるから便所へ入れるのですね」
直人が言った。
「布も、脂も、悩みも」
「全部同じにまとめないで」
「設備側から見れば、流してはいけない異物です」
「心まで配管扱いしないでください」
セイルが苦笑した。
◇
礼拝中。
便所の利用は一度落ち着いた。
直人は仮設便所の内部を順番に点検する。
壺の使用量。
蓋。
木枠。
床の泥。
布箱。
手洗い水。
「二号仮設の壺が半分を超えています」
ボルグが確認した。
「礼拝終了前に交換します」
「利用停止時間を短くするため、空の壺を横へ準備しておきます」
「人から見えない囲いの中で交換する」
回収通路には、厚い布の衝立が立てられている。
利用者の列とは交わらない。
「交換担当は二人です」
「俺と回収人一人でやる」
「記録係も?」
「外から札を動かすだけでいい」
交換開始。
入口へ赤い札。
中身の入った壺へ蓋。
専用台へ載せる。
空壺を入れる。
位置確認。
操作棒確認。
床清掃。
白い使用可能札。
「七分です」
リリアが言う。
「最初より短くなりました」
「手順が決まったからです」
「何度もやれば、さらに短くなる」
「急ぎすぎて確認を飛ばさないようにします」
「あなたがいる限り、その心配は少なそう」
◇
礼拝が終わると、便所の列は再び一気に伸びた。
今度は男性用も混雑する。
「予備の簡易小便所を開けます」
直人が言った。
ロッカが朝に追加した囲い。
受け容器。
目隠し。
手洗い。
男性の小便利用をそちらへ分ける。
「大便と小便の列を分けるのですか」
セイルが尋ねる。
「目的が違えば、使用時間も変わります」
「入口で聞くのですか」
「大声で聞く必要はありません」
青い札と緑の札。
利用者自身が目的に合う列を選ぶ。
文字ではなく、便座の絵と立って使う姿の絵で示した。
男性用の待ち人数が減っていく。
「常設の水洗便所でも、この分け方は使えますか」
大神官エルダが様子を見に来ていた。
「男性用小便器を別に作れば、水と待ち時間を減らせる可能性があります」
直人は答えた。
言った直後、ガルドの「新しい形を思いつくな」という言葉を思い出す。
「新しい便器が必要なのか?」
「陶器製でなくても、最初は受け容器と排水で試験できます」
「ガルド殿の仕事が増えるな」
「まだ決めていません」
リリアが直人の顔を覗き込む。
「考え始めたでしょう?」
「利用分散の方法として必要です」
「教会の調査だけで、何種類の商品が増えるのかしら」
◇
昼過ぎ。
大礼拝は、大きな事故なく終了した。
最終記録が集計される。
参加者、百八十七人。
女性用常設便所、五十三回。
女性用仮設便所、四十一回。
男性用常設便所、四十六回。
男性用仮設座位便所、十七回。
男性用簡易小便所、三十八回。
高齢者・歩行困難者用、二十二回。
同じ人が複数回利用しているため、合計は参加者数を超えている。
「高齢者用が二十二回も使われています」
セイルが驚いた。
「今までは、どこを使っていたのですか」
「普通の列へ並んでいました」
「利用を諦めた方もいたかもしれません」
直人は答えた。
「見えなかった需要ですね」
女性用は、常設二室と仮設二台を合わせても列が発生した。
男性用は、小便利用を分けると混雑が大きく減った。
「常設水洗便器を二台入れるなら、女性用を優先すべきですね」
大神官が言う。
「通常日の記録も必要です」
「今日の結果だけでは決めない?」
「最大人数の日だけで設備数を決めると、普段使われない便器が増えます」
「では、通常日は水洗二台。大礼拝は仮設を追加?」
「その案が現実的です」
「男性用小便所は?」
「水量を減らせる可能性があるので、別途試験します」
「また試験か」
大神官は笑った。
「便器屋殿の言葉が分かってきた」
「安全に使うためです」
「費用について、教会会議へ諮ろう」
「水洗便器の前に、腐食した床と溜め槽を直してください」
「そちらが先か」
「はい」
「聖水は?」
「今日は、便所内へ流しませんでした」
セイルが報告する。
「何か問題は起きましたか」
「信仰上の混乱はありません。入口の清めの儀式だけで、皆受け入れました」
大神官は静かにうなずいた。
「長く続いた方法も、変えられるものだな」
◇
片づけを始めた頃。
テオが教会の裏庭へ駆け込んできた。
「ナオトさん!」
「窯ですか」
「冷えました!」
「第二号便器は?」
「まだ開けていません。親方が、全員そろってから開けると言っています」
「なぜ教会まで?」
「僕が呼んでこいと言われました!」
「走って来たのですか」
「はい!」
「帰りは歩いてください」
「急げとも言われています!」
直人はリリアを見る。
「集計は終わりました」
「行きましょう」
「教会の片づけが――」
「ここはセイルさんたちへ任せられる」
大神官が言った。
「我々も、今日一日で手順を学んだ」
「異常があれば銀月亭へ連絡してください」
「承知した」
ボルグとロッカは仮設設備の撤去と点検のため残る。
直人、リリア、ミーナ、テオはガルドの工房へ向かった。
◇
工房の窯は、手で触れられる程度まで冷えていた。
ガルドが扉の前に立っている。
「遅い」
「教会に百八十七人来ていました」
「便器の方が先だ」
「礼拝日です」
「俺には関係ない」
「仮設便壺を別工房へ頼む件は――」
「今は第二号だ!」
ガルドが窯の留め具を外す。
弟子たちが灯りを掲げた。
煉瓦の扉が開く。
暗い窯の中。
床には、小さな陶器の破片が落ちていた。
テオの顔が青ざめる。
「便器の色と同じです」
「待て」
ガルドが長い棒で破片を引き寄せる。
湾曲した薄い破片。
表面には、目盛りの線が刻まれている。
「収縮試験片だ」
「便器ではない?」
「便器と同じ土で作った、厚み違いの試験片だ」
「なぜ割れたんですか」
「一番薄いものだけ、熱へ耐えられなかった」
ガルドは破断面を見る。
「音の正体は、これだろう」
「第二号は?」
窯の奥へ灯りを向ける。
標準型便器第二号は、専用焼成台の上に立っていた。
鉢。
縁の水路。
排水路。
大きな割れは見えない。
「出すぞ」
四人で台ごと運び出す。
作業台へ載せる。
テオは息を止めている。
ガルドが木槌を持った。
縁を叩く。
こん。
鉢。
こん。
側面。
こん。
接合部。
こん。
澄んだ音が続く。
「割れなし」
ガルドが言った。
「本当に?」
「目に見える範囲と、音ではな」
直人は寸法を測る。
高さ。
幅。
排水口。
固定穴。
「第一号より、左右差が小さいです」
「焼成台を変えたからだ」
「鉢の形も整っています」
テオが恐る恐る尋ねる。
「僕の成形は……」
ガルドは第二号の鉢を見た。
「合格とは言わん」
テオの肩が下がる。
「釉薬を焼き、水を流し、砂袋を載せるまで便器ではない」
直人は思わず笑った。
「俺と同じことを言っています」
「違う!」
「でも、素焼きとしては?」
ガルドは長く黙った。
「次も、この厚みで作れ」
テオが顔を上げる。
「はい!」
「厚み記録を残せ」
「はい!」
「接合は、まだ俺がやる」
「はい!」
「浮かれるな。二号はまだ土の器だ」
「はい!」
返事は大きく、工房中へ響いた。
◇
水路へ少量の水を通す。
素焼きの表面が水を吸う。
洗浄穴から順番に細い水が出た。
「後方の穴は?」
直人が見る。
第一号で汚れが残った場所。
第二号では、穴の向きを少し下へ変えている。
「流れています」
「前方は?」
「すべて通っています」
「釉薬で塞がる可能性は残る」
ガルドが言う。
「施釉前に空気と水を通して確認します」
テオが記録へ書く。
「水路試験、現段階では合格です」
直人が言った。
「現段階では、を付けるな!」
「ガルドさんが先ほど、まだ便器ではないと言いました」
「それとこれとは別だ!」
怒声の中、リリアは第二号便器を見つめていた。
「一号より、商品らしくなったわね」
「第一号も商品です」
「ナーラさん専用の特注品。こちらは、同じ型で次も作る標準品でしょう?」
「はい」
「テオさんも作れるようになる」
「鉢部分からですが」
「ガルド一人しか作れなかったものが、少しずつ増やせるようになる」
リリアは教会の利用記録を机へ置いた。
「必要とする人は、もう待っている」
仕立屋。
治療院。
赤鍋亭。
金鹿亭。
白石教会。
高齢者宅。
相談札は増え続けている。
一方、作れる便器はまだ月に二台。
「乾燥小屋の契約を進めましょう」
リリアが言った。
ガルドは第二号を見たまま答える。
「設計を先に見せろ」
「金鹿亭の条件を受ける?」
「工房へ口を出させん」
「契約に書く」
「納期で品質を変えん」
「書く」
「弟子の育て方にも口を出させん」
「書く」
「窯を増やすなら、火事にならん距離を取れ」
「ロッカと確認する」
「なら、話だけは進めろ」
初めて、ガルドが工房拡張へ明確に同意した。
「第二号が成功したからですか」
直人が尋ねる。
「まだ成功しておらん!」
「では、なぜ?」
ガルドは、工房の外に並ぶ相談者の木札を見た。
「待たせすぎれば、勝手な便器を作る者が出る」
「ほかの陶工が?」
「見よう見まねで穴の開いた壺を作り、水を流せば同じだと売る」
「事故が起きる可能性があります」
「だから、先に正しいものを作る」
ガルドの言葉は、職人としての独占欲だけではなかった。
便器の信用を守る。
安全な水路。
封水。
強度。
固定。
釉薬。
それらを知らず、形だけ真似した製品が広がれば、誰かが怪我をする。
「製造基準が必要ですね」
直人が言った。
「また紙か」
「誰が作っても、確認すべき項目を同じにします」
「俺が確認する」
「数が増えれば、一人では足りません」
「テオに教える」
「ほかの弟子にも」
「まずテオだ」
テオは記録紙を抱き締めた。
自分が、次の便器を作る側に入ったことを理解している。
◇
工房を出ると、空は夕焼けに染まっていた。
教会の大礼拝は終わった。
大きな事故はなかった。
仮設便所は、利用回数と交換手順を記録した。
第二号便器は素焼きを越えた。
弟子が作った鉢も、窯の火に耐えた。
「次は釉薬ですね」
直人が言う。
「それから本焼き、通水、強度、設置」
リリアが数える。
「まだ先は長い」
「契約納期内です」
「第1章も、そろそろ一区切りね」
「何の話ですか」
「便器一台しかなかった頃から考えると、町全体へ仕事が広がったという話」
直人は銀月亭を見た。
日本から持ち込まれた、たった一台の白い便器。
そこから始まった。
今は、この世界の土で第一号が作られ、ナーラの家で毎日使われている。
第二号は、標準品として工房の作業台にある。
仮設便壺も、手洗いも、処理契約も生まれた。
「まだ二台目です」
「でも、一台だけではなくなった」
リリアの言葉に、直人はうなずいた。
その時、銀月亭の前に一台の馬車が止まった。
扉へ刻まれていたのは、見慣れない紋章。
二頭の鳥が、一本の河を挟んで向かい合っている。
馬車から降りた男は、銀月亭の白い便器を見るために来た町人とは違う服装をしていた。
長い外套。
腰には細身の剣。
胸には、教会でも町役場でもない印章。
「陶山直人殿と、銀月亭の主人リリア殿にお会いしたい」
「どちら様ですか」
リリアが尋ねる。
男は一礼した。
「王都水務局から参りました」
直人は目を瞬いた。
「水務局?」
「町で、新しい方式の便所と汚物処理が始まったと報告を受けています」
男は銀月亭の奥から聞こえた洗浄音へ顔を向けた。
ごぼん。
「王都より、正式な調査依頼をお持ちしました」
町の宿屋から始まった一台の便器を、今度は王都が見ようとしていた。
白石教会の大礼拝には百八十七人が集まり、常設便所と四台の交換式仮設便所を併用しました。
利用者の列、手洗い、便壺交換、祈り札の分別を管理し、大きな事故なく礼拝を終えることができました。
一方、窯の音は薄い収縮試験片が割れたもので、テオが鉢を成形した標準型第二号便器は無事に素焼きを終えます。
次回、第1章最終話。
王都水務局の調査官が現れ、直人たちは便器販売と衛生改善を正式な事業として続けるため、大きな決断を迫られます。




