第3話 臭いの原因は床の下です
銀月亭の床下には、長年こぼれ続けた汚物と、正体不明の生き物が潜んでいました。
直人は、目に見える汚れだけでなく、建物そのものに広がった問題を調べます。
床下の暗闇で、青緑色の光がもう一度揺れた。
小さく。
ゆっくりと。
まるで直人たちの様子をうかがっているように。
「ナオト、本当に入るつもりなの?」
背後から、リリアの声がした。
「入らなければ、どこまで腐っているか分かりません」
「何かいるのよ?」
「だから確認します」
「普通は、何かいると分かったら入らないものじゃない?」
「普通の床下なら、俺もそうします」
直人は工具箱からゴム手袋を取り出した。
持ち込めたのは数組だけだ。
本来なら使い捨てにしたいところだが、補充できる保証はない。破らないよう慎重にはめる。
さらに口元を清掃用の布で覆った。
感染症や有害な気体を完全に防げるものではない。
それでも、何もないよりはましだった。
「マルタさん。丈夫な板はありますか?」
「板、でございますか?」
「床下へ渡します。土に直接、手や膝をつけたくありません」
「薪小屋に、棚を直した時の残りがございます」
「それを数枚お願いします。あと、長い棒があれば」
「すぐにお持ちします」
マルタが物置を出ていく。
直人は床下収納の縁に水平器を置いた。
気泡は大きく片側へ寄っている。
「やっぱり、少し傾いているな」
「宿が倒れるの?」
「今すぐではありません。ただ、二階の便壺からこぼれたものが、同じ場所へ流れやすくなっています」
「床が傾いているから?」
「そうです」
少しの傾きでも、液体は低い方へ集まる。
長い年月をかけて同じ場所へ流れ続ければ、そこだけ腐食が進む。
直人が見た限り、黒ずんでいるのは床板だけではなかった。
梁を支える木材の一部も、湿気を吸って変色している。
「二階の客室は、いつ頃から便壺を置いているんですか」
「私が生まれる前からよ」
「ずっと同じ場所に?」
「部屋の隅に置くのが普通でしょう?」
「床を張り替えたことは?」
「一度もないと思う」
「そうですか」
直人は息を吐いた。
数十年分。
月に二、三度、壺を倒すことがある。
それ以外にも、運ぶ途中でこぼれたり、壺から染み出したりした可能性がある。
一度の量は少なくても、何十年も重なれば無視できない。
そこへ床下の湿気が加わり、腐敗が進んだ。
「臭いの原因は、ほぼここで間違いありません」
「壺をなくせば、臭わなくなる?」
「残念ですが、それだけでは消えません」
「どうして?」
「汚れが床板と土に染み込んでいます。汚染された木材を取り替えて、床下の土も一部入れ替える必要があります」
「そこまで……」
リリアの表情が曇る。
金がない。
それは何度も聞いた。
便所を新しくするどころか、床の修理費さえ出せない可能性がある。
直人も、軽々しく「全部直しましょう」とは言えなかった。
元の世界なら、見積書を出し、予算に応じて工事範囲を決める。
だが今の直人には、こちらの材料費も相場も、職人の日当も分からない。
そもそも、この世界の通貨すら持っていない。
「お持ちしました」
マルタが三枚の板と、箒より長い木の棒を抱えて戻ってきた。
「ありがとうございます」
直人は板を一枚ずつ床下へ差し込んだ。
土の上へ橋のように並べる。
「俺が中へ入ります。二人はここにいてください」
「私も行くわ」
「駄目です」
「宿のことよ」
「今のリリアさんは、腹痛と熱があります。床下へ入る状態ではありません」
「でも――」
「作業中に倒れられたら、俺一人では助け出せません」
言葉を強くすると、リリアは不満そうに唇を結んだ。
「それに、宿の責任者だからこそ、ここにいてください」
「ここに?」
「何かあったら、すぐ板を引き上げられるように。俺が戻れない時は、人を呼んでください」
「縁起でもないことを言わないで」
「安全確認です」
現場では、最悪を想定する。
床下は狭い。
酸素が薄い可能性もある。
有害な気体がたまっていれば、意識を失う危険もある。
本来なら、ガス濃度を測定してから入るべき場所だった。
しかし、測定器はない。
直人は携帯用ライトを床下へ向けたまま、入口へ顔を近づけた。
風はわずかに流れている。
奥に通気口があるらしい。
火を使って確認する方法は危険なので避ける。
まずは入口付近だけ。
少しでも息苦しさやめまいを感じたら、すぐ出る。
「十分ごとに声をかけてください」
「分かったわ」
「返事がなければ、入ってこないでください。人を呼んで、板ごと引き上げてもらってください」
「分かったから、早く戻ってきて」
直人は工具袋を腰へ固定した。
ライトを口にくわえ、床下へ足を入れる。
空間の高さは、膝をついて進める程度しかない。
板の上へ慎重に体重を移した。
ぎしり、と頭上の床が鳴る。
「大丈夫?」
「今のところは」
一枚目の板。
二枚目。
三枚目。
入口から二メートルほど進んだところで、臭いが急に濃くなった。
目が痛い。
直人は布越しに浅く息を吸った。
ライトで梁を照らす。
表面は黒い。
木の棒の先で軽く押すと、湿った音がした。
「まずいな」
手を伸ばし、ドライバーの先で木材の表面を突く。
抵抗が弱い。
刃先が簡単に食い込んだ。
内部まで腐朽が進んでいる。
すぐ崩れるほどではないが、この上へ重いものを置くのは危険だった。
もし二階の客室に、新しい便器をそのまま置けばどうなるか。
便器本体に水、利用者の体重。
床が耐えられない可能性がある。
「便器を置く前に、床から直さないと駄目だ」
「何か言った?」
入口からリリアが尋ねる。
「床の一部が腐っています。二階の部屋は、しばらく使わないでください」
「何部屋?」
「真上にある部屋と、その隣です」
「二部屋も……」
宿の十室のうち二室。
ただでさえ客が少ないとはいえ、使える部屋が減るのは痛い。
だが、床が抜けて客が怪我をすれば、それどころではない。
直人はさらに奥を照らした。
茶色い染みは、二階から伸びた柱を伝って床下へ落ちている。
その下の土は泥のようにぬかるみ、小さな虫が群がっていた。
そして、その泥の端に、青緑色のものがいた。
「……いた」
丸い。
大きさは両手に乗る程度。
透き通ったゼリーのような体が、ゆっくりと波打っている。
中心には淡く光る小さな核のようなものが見えた。
生き物だ。
直人がライトを向けると、透明な塊はぷるりと震えた。
逃げるかと思ったが、動かない。
代わりに体の一部を伸ばし、黒く汚れた土へ触れた。
じゅっ。
小さな音がした。
生き物の触れた部分から、土の表面に浮いていた汚れが吸い込まれていく。
透明だった体が、わずかに茶色く濁った。
「何だ、こいつ」
直人は木の棒を前へ出した。
刺激しないよう、距離を保つ。
ゼリー状の生き物は棒には反応せず、再び汚れた土へ体を伸ばした。
汚物か、腐敗したものを食べているように見える。
「何がいるの?」
「小さな……スライムみたいなものです」
「スライム?」
リリアの声が裏返った。
「ナオト、すぐ戻って!」
「危険なんですか?」
「魔物よ!」
「人を襲いますか?」
「大きなものなら襲うわ。小さなものは家畜小屋やごみ捨て場に出るけれど、触ったことなんてないわよ!」
「今のところ、こっちに興味はなさそうです」
「そういう問題じゃない!」
直人はスライムを観察した。
日本では当然、見たことがない。
ゲームや物語で知っているスライムなら、酸で物を溶かしたり、獲物を包み込んだりする。
この個体が同じ性質を持つ保証はない。
不用意に触れるべきではなかった。
しかし、ひとつだけ分かったことがある。
床下の汚れを、この生き物が食べている。
だからといって、掃除を任せれば解決するわけではない。
汚染された土は残っている。
腐った木材も直らない。
生き物が増えすぎれば、別の問題になる。
便利そうだから使う。
その考え方は危険だった。
「刺激せずに戻ります」
「早くして!」
直人は後退しようとした。
その時、頭上から小さな音が聞こえた。
ぴちゃん。
茶色い雫が、床板の隙間から落ちる。
スライムのすぐそばへ着地した。
透明な体が素早く伸び、雫を包み込む。
数秒後、体の色がまた少し濃くなった。
上は二階の客室。
今は使っていないはずだ。
「マルタさん!」
「はい!」
「二階の部屋に、まだ便壺はありますか?」
「すべて置いたままでございます」
「中身も?」
「今朝、空にしたはずですが……」
壺の底に残ったものが漏れているのかもしれない。
あるいは床板に染み込んだ汚れが、湿気で再び垂れている。
「客室の便壺を全部確認してください。ひびがあるものは使わないで。中身があるものは、床へこぼさないよう外へ運んでください」
「承知しました」
直人は入口へ戻り始めた。
板を一枚ずつ後ろへ進む。
床下のスライムは追ってこなかった。
ただ、ライトの光を受けながら、汚れた土の上でゆっくり体を震わせていた。
◇
床下から出た直人は、すぐに手袋を外した。
汚れた面を内側へ折り込み、袋の代わりになる布へ包む。
「大丈夫?」
リリアが駆け寄ろうとする。
「近づかないでください。服に何が付いているか分かりません」
直人は裏庭へ移動し、マルタに用意してもらった湯で手と顔を洗った。
石鹸に似たものはあったが、香りの強い油脂の塊だった。
洗浄力は不明でも、使わないよりはいい。
作業着の膝と肘も拭く。
道具も一本ずつ清掃した。
「そこまで洗う必要があるの?」
少し離れた場所から、リリアが尋ねた。
「床下の汚れを、厨房や客室へ持ち込まないためです」
「服についたくらいで?」
「目に見えない汚れもあります」
「目に見えないのに、どうして分かるの?」
直人は手を止めた。
細菌やウイルスを、どのように説明すればいいのか。
この世界に同じ概念があるか分からない。
「腐った食べ物を触った手で、別の料理を作れば、その料理まで悪くなることがありますよね」
「あるわ」
「それと似ています。床下にあったものを、手や服で別の場所へ運ぶ可能性があります」
「病気も運ぶの?」
「可能性があります」
リリアは自分の腹へ手を当てた。
「私の腹痛も?」
「まだ分かりません。食べ物かもしれないし、井戸水かもしれない。俺は医者ではありません」
「でも、水が怪しいと思っているのね」
「便所と井戸が近すぎます。床下の状態も悪い。疑う理由はあります」
リリアは黙った。
宿の井戸水は、長く客へ出してきた。
もし、それが病気の原因だったら。
責任を感じているのだろう。
「今までのことを責めても仕方ありません」
直人は言った。
「知らなかったんですから」
「知らなければ、許されるの?」
「許されるかどうかではなく、分かった時から変えればいいんです」
「簡単に言うのね」
「簡単ではありません」
直人は床下の入口を見た。
「床の修理。汚染された土の除去。便壺の管理。屋外便所の補強。井戸水の確認。排泄物の処理方法。やることは山ほどあります」
「やっぱり、お金がかかるじゃない」
「全部を一度にはできません」
「では、どうするの?」
「危険な順に対応します」
現場対応の基本だった。
予算が限られているなら、優先順位をつける。
まず、人命に関わる危険。
次に、被害が広がる原因。
最後に、快適性や見た目。
「最優先は、腐っている二部屋を使用禁止にすること」
「それは、今すぐできるわ」
「次に、屋外便所の床が抜けないよう立ち入りを止める」
「客はどこを使うの?」
「一時的に便壺を使います。ただし、蓋付きにして、壊れていないものだけを使う」
「蓋なら木で作れると思います」
「その次に、床下の汚れを取り除きます」
「誰がやるの?」
「専門の職人か、汲み取り人に頼めませんか」
「汲み取り人なら、ボルグという男が町にいるわ」
直人は手帳へ名前を書いた。
「その人に、床下の土を扱えるか相談しましょう」
「あなたがやるのではないの?」
「俺一人では無理です。それに、こちらの汚物の扱いを知っている人が必要です」
「自分で何でもできるわけではないのね」
「当然です」
直人は即答した。
「便器を設置する仕事は、一人で完結しません。便器を作る人、運ぶ人、配管を扱う人、水を用意する人、排泄物を処理する人。全員が必要です」
「それで、便器はどうするの?」
リリアが尋ねた。
「森に、一台あります」
「森に?」
「俺と一緒に、この世界へ来ました」
「便器が?」
「はい」
リリアは数秒間、直人の顔を見つめた。
「あなた、森で便器を持って歩いていたの?」
「正確には、便器と一緒に落ちてきました」
「どこから?」
「俺のいた世界からです」
「……熱があるのは、私ではなくあなたかもしれないわ」
「そう言われると思いました」
直人は苦笑した。
「ただ、便器本体があっても、すぐには使えません」
「置けば使えるものではないの?」
「水を入れる。汚物を流す。流した先で処理する。床へ固定する。臭いが上がらないようにする。全部そろって、初めて便器として使えます」
「面倒なのね」
「面倒だから、施工担当者がいるんです」
直人は手帳へ、銀月亭の簡単な配置図を描いた。
客室。
床下。
裏庭。
井戸。
古い便所。
森の方角。
現代の便器一台。
異世界の宿屋。
材料も職人も不足している。
それでも、最初に何をすべきかは見えてきた。
「明日、森へ便器を取りに行きます」
「一人で?」
「道は覚えています」
「魔物が出るわ」
「さっき聞きました」
「だったら、一人で行くなんて言わないで」
「でも、誰かに頼めますか?」
リリアは少し考えた。
「町の冒険者を雇う」
「金がないのでは?」
「……ないわ」
「ですよね」
「でも、便器を取りに行って死なれたら、助けてもらった礼もできないでしょう」
「便器を取りに行って死ぬのは、確かに格好がつきませんね」
リリアは呆れたように息を吐いた。
「明日まで待って。誰か探すから」
「分かりました」
「それと、床下の魔物には近づかないで」
「今のところ、汚れを食べているだけでした」
「食べ終わったら、あなたを食べるかもしれないでしょう」
「可能性は否定できません」
「否定してよ」
直人は床下収納の板を仮に戻した。
完全には釘を打たず、上へ重い棚を移動させて立ち入りを防ぐ。
青緑色の光は、板の隙間からもう見えなかった。
だが、あの小さな生き物が何を食べ、なぜ銀月亭の床下にいるのか。
いずれ調べる必要がある。
今は、それより先にやるべきことがある。
直人は宿の外へ出た。
夕暮れの町には、相変わらず悪臭が漂っている。
道端の溝を、黒い水が流れていた。
一軒の宿だけ直しても、この町全体は変わらない。
それでも、最初の一軒を直さなければ、何も始まらない。
「まずは銀月亭だ」
直人は小さく呟いた。
便器を置くだけでは終わらない。
床を直す。
水を確保する。
流す先を作る。
使い方を伝える。
壊れた時に直せるようにする。
それが施工だ。
異世界で最初の現場が、ようやく動き始めた。
床下では、長年の汚れによって床材と支柱の一部が腐り始めていました。
さらに、汚物を食べる小さなスライムらしき生物も確認されます。
直人は便器だけを置くのではなく、床、水、排水処理まで含めた工事が必要だと判断しました。
次回は、森に残した新品便器を回収するため、直人が町の協力者を探します。




