第2話 宿屋のトイレがひどすぎます
異世界で最初に見つけた現場は、悪臭の染みついた古い宿屋でした。
しかし、便器を置くだけでトイレが完成するわけではありません。
まず必要なのは、現場を知ることです。
「この宿の便所を、何とかします」
直人がそう告げると、初老の女性は困ったように眉を寄せた。
「何とかすると申されましても……」
「まず、今の状態を調べさせてください」
「便所を、ですか?」
「便所だけではありません。水をどこから持ってきているか。汚物をどこへ捨てているか。床の下がどうなっているか。全部です」
女性は、ますます理解できないという顔をした。
無理もない。
森で倒れていた宿の主人を運んできた見知らぬ男が、いきなり便所を調べたいと言い出したのだ。
直人が逆の立場でも警戒する。
「申し遅れました。陶山直人といいます」
「スヤマ……ナオト様?」
「ナオトで構いません。元いた場所では、便器や洗面台を売ったり、設置したり、壊れた設備を直したりしていました」
「便所を専門に扱う職人様、ということでしょうか」
「営業も施工も修理もしていました。肩書きは、まあ……設備屋です」
この世界で通じる呼び方かは分からない。
女性は直人の服装と工具箱を交互に見た。
会社名の入った作業着。
腰に巻いた工具袋。
異世界では、どう見ても怪しい格好だろう。
「わたくしはマルタと申します。長く、この銀月亭で働いております」
女性――マルタは丁寧に頭を下げた。
「リリアお嬢様を助けてくださったことには、心から感謝しております。ですが、宿のことを決めるのはお嬢様です」
「もちろんです。勝手に工事はしません」
「それに……大変申し上げにくいのですが、銀月亭には、新しい便所を作る余裕などございません」
直人は、客室を見回した。
古びてはいるが、掃除はされている。
寝台の布も丁寧に整えられ、窓枠にも埃は少ない。
この宿が汚いのではない。
現代日本とは、衛生設備の前提が違うのだ。
マルタたちは、自分たちが知る方法で懸命に手入れしている。
それでも、部屋の隅に置かれた便壺からは、どうしても臭いが漏れる。
床に染み込んだ汚れは、表面を拭くだけでは取り除けない。
「お金の話は、リリアさんが目を覚ましてからにしましょう。今は工事ではなく、確認だけです」
「確認にも、お代が必要なのでは?」
「今回はいただきません」
「よろしいのですか?」
「俺も、この町のことを何も知りません。泊まる場所も、お金もありませんから」
直人は苦笑した。
「代わりに、今夜ここへ泊めてもらえると助かります」
マルタは少し考えたあと、うなずいた。
「リリアお嬢様の恩人を、外で眠らせるわけにはまいりません。お部屋と食事はご用意いたします」
「ありがとうございます」
「ですが、便壺のお部屋になります」
「……それは、早めに何とかしたいですね」
真顔で答えると、マルタは初めて小さく笑った。
◇
直人は客室の寸法を測ることから始めた。
メジャーを引き出し、壁から壁までの長さを確認する。
床板を軽く踏み、軋み方を調べる。
便壺が置かれている場所には、長年の使用による黒い染みが広がっていた。
「この壺は、毎日空にするんですか」
「朝になると、裏庭へ運びます」
「誰が?」
「わたくしか、下働きの者が」
「客が多い日は大変でしょう」
「以前は十室すべて埋まることもございましたので、その頃は朝だけで二十近い壺を運んでおりました」
「二十……」
階段を下り、建物の外へ持ち出す。
中身をこぼさないように運ぶだけでも重労働だ。
転倒すれば、清掃だけでなく感染の危険もある。
「今は、それほどお客様がおりません」
マルタの声が沈んだ。
「近頃は、新しくできた宿へ流れてしまいまして。あちらは建物も新しく、部屋も広いのです」
「そちらの便所は?」
「銀月亭と同じようなものです。ただ、壺に香草を入れているそうです」
「臭いをごまかしているだけか」
「香りが良いと評判です」
直人は考えた。
裏を返せば、臭いが少なくなるだけでも十分な差別化になる。
もし銀月亭に、客室の便壺を必要としない清潔な便所を作れれば、宿の評判を変えられるかもしれない。
しかし、その前に調べるべきものがあった。
「裏庭を見せてください」
「こちらです」
宿の裏口を出た瞬間、直人は顔をしかめた。
建物の脇に、細い土の道がある。
その先に、板を組んで作られた小屋が立っていた。
屋根は傾き、壁には隙間がある。
「これが便所です」
「見れば、何となく分かります」
臭いで。
マルタが木の扉を開ける。
中には、床板を丸く切り抜いただけの穴があった。
便座も手すりもない。
穴の周囲には汚れが付着し、無数の羽虫が飛んでいる。
足元の板は湿気を吸って黒ずみ、一部が沈みかけていた。
「この板、いつ交換しましたか」
「交換したことはございません」
「何年使っています?」
「わたくしがこの宿へ来る前からですから……二十年以上でしょうか」
「誰か落ちたことは?」
「まだ、ございません」
「“まだ”で済ませていい状態じゃありません」
直人は床板へ体重をかけないよう、入口から内部を観察した。
穴の下には大きな溜め穴が掘られているらしい。
底は暗く、深さまでは分からない。
しかし、壁面の土が湿っている。
汚水が地中へ染み出している可能性が高かった。
「ここに便壺の中身を捨てるんですね」
「はい」
「満杯になったら?」
「町の汲み取り人を呼びます」
「どれくらいの頻度で?」
「三月に一度ほどです。お客様が少なくなってからは、半年に一度で足りております」
「回収したものは、どこへ?」
「町外れへ運ぶと聞いています。畑に使う者もおります」
処理方法が悪ければ、井戸や川の汚染につながる。
肥料として利用すること自体はあり得るが、安全に発酵・処理しているとは限らない。
「この便所から井戸まで、どのくらいですか」
「井戸なら、すぐそこにございます」
マルタが指した方向を見て、直人は言葉を失った。
宿の裏庭の端に、石組みの井戸がある。
便所小屋からの距離は、目測で十数メートルほどしかない。
しかも地面を見る限り、便所側の方がわずかに高い。
「この井戸の水を、料理にも使っていますか」
「もちろんです。銀月亭の井戸水は冷たくて、お客様にも好評でした」
「リリアさんが今朝飲んだのも、この水ですか」
「はい。ですが、町の者は皆、井戸の水を飲んでおります」
「皆が飲んでいるから安全とは限りません」
強い口調になり、マルタが不安そうに身を縮めた。
直人は息を吐き、言い方を改めた。
「すみません。まだ、この水が原因だと決まったわけではありません。ただ、便所と井戸の位置が近すぎます」
「便所の中身が、井戸に入ると?」
「地面の下を通って染み込む可能性があります。特に雨が降った後は」
「ですが、井戸水は澄んでおります」
「透明でも、安全とは限りません」
マルタの顔から血の気が引いた。
直人は医者ではない。
水質検査の道具もない。
断定はできない。
だが、少なくとも飲料水として使うなら、煮沸した方がいい。
「当面、この井戸の水は沸かしてから使ってください。特に飲み水と料理です」
「分かりました」
「便所の穴には近づきすぎないように。床が抜ける危険があります」
「お客様には、どこを使っていただけば……」
便壺。
直人は一瞬、答えに詰まった。
今ある選択肢の中では、危険な小屋を使わせるより、便壺を適切に管理した方がまだ安全かもしれない。
「ひとまず客室の壺を使ってください。ただし蓋を用意して、運ぶときは手袋を……」
そこまで言って、直人は気づいた。
この世界に、使い捨てのゴム手袋が一般的に存在するとは思えない。
「厚手の布か、革で手を覆えますか」
「古い革手袋ならございます」
「使った後は、手をよく洗ってください。壺を運ぶ人と、料理をする人は、できれば分けた方がいい」
「人手が足りませんので、難しいかと」
「ですよね」
現場は、理想論だけでは動かない。
人も金も設備も限られている。
だからこそ、現実にできる改善から始めなければならない。
直人は井戸と便所の位置を簡単な図に描いた。
スマートフォンのメモ機能を使いたかったが、電池を節約する必要がある。
工具箱に入っていた施工記録用の小さな手帳を取り出し、鉛筆で記す。
宿の建物。
裏庭。
井戸。
便所。
土地の傾き。
次に調べるのは、便壺からこぼれた汚物が染み込んでいる客室の床下だ。
◇
宿へ戻ると、二階から物音がした。
「マルタ……」
弱々しい声が聞こえる。
リリアが目を覚ましたらしい。
直人とマルタが部屋へ入ると、リリアは寝台の上で上体を起こしていた。
顔色はまだ悪いが、森で見つけた時より意識ははっきりしている。
傍らには、湯気の立つ木製のカップが置かれていた。
「お湯を冷まして、少しずつ飲んでいただいております」
マルタが説明する。
「ありがとうございます」
直人が答えると、リリアは不思議そうに彼を見た。
「どうして、あなたが礼を言うの?」
「俺が頼んだからです」
「森で助けてもらった上に、宿の指図までしているのね」
「指図というより、提案です」
「同じようなものよ」
口調には力が戻っていた。
どうやら、簡単に人の言うことを聞く性格ではないらしい。
「それで、便所を作り直すと言ったそうね」
「まだ、作り直すとは決めていません。現場を調べています」
「マルタから聞いたわ。井戸の水も使うなと言ったのでしょう?」
「使うな、ではなく、飲むなら沸かしてくださいと」
「薪代がかかるのよ」
「分かっています」
「分かっていないわ。うちには余裕がないの」
リリアは唇を噛んだ。
「銀月亭は、先月も赤字だった。新しい宿に客を取られて、従業員も減らした。便所へ使うお金なんてない」
「便所へ金を使っても客は増えない、と思っていますか」
「当然でしょう」
リリアは即答した。
「客は、寝台と食事にお金を払うの。排泄する場所を見るために宿を選ぶ人はいないわ」
「俺のいた場所では、便所が汚いという理由で宿を選ばない人は大勢いました」
「あなたの国の人は、便所を見て旅をするの?」
「そこだけ聞くと、かなり変な国ですね」
マルタが口元を押さえた。
リリアは笑わなかった。
「便所を作る金はない。水を沸かし続ける薪もない。これが現実よ」
「なら、まず金をかけずに確認します」
「何を?」
「客室の床下です」
直人は、便壺の置かれている場所を指した。
「汚れが床板の下まで染み込んでいます。臭いの原因が壺だけなら、蓋をするだけでも改善できます。ですが、床下に汚物がたまっているなら、壺を交換しても臭いは消えません」
「床の下なんて、見られるの?」
「開けられる場所があれば」
マルタが思い出したように手を打った。
「一階の物置に、昔使っていた床下収納がございます。今は板で塞いでおりますが」
「そこから入れるかもしれません」
「待って」
リリアが直人を止めた。
「あなたは、なぜそこまでするの?」
直人は少し考えた。
自分でも、異世界へ来た直後に宿の便所を調べている理由を、完全には説明できない。
帰る方法を探すべきだ。
食料や身分証、金を確保するべきだ。
森に置いてきた新品便器も回収しなければならない。
それでも、目の前に明らかな設備不良がある。
利用者が困っている。
床が腐っているかもしれない。
水まで汚染されている可能性がある。
それを見なかったことにはできなかった。
「現場を見てしまったからです」
「それだけ?」
「壊れていると分かっているものを放置すると、あとで必ずもっと大きな問題になります」
直人は工具箱を持ち上げた。
「それに、今の俺にできることは、これくらいしかありません」
リリアはしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「壊さないでよ」
「必要以上には壊しません」
「必要なら壊すの?」
「直すために必要なら」
「変な職人」
「よく言われました」
実際には、そこまで言われた記憶はなかった。
◇
一階奥の物置には、使われなくなった椅子や割れた食器、古い寝具が積み上げられていた。
マルタと二人で荷物を移動させると、床の一角に不自然な継ぎ目が見つかった。
「これですね」
直人は隙間へマイナスドライバーを差し込んだ。
板は釘で固定されている。
周囲を傷めないよう、少しずつ釘を浮かせる。
一本。
二本。
三本。
最後の釘を抜き、板へ手をかけた。
「開けます」
マルタが口元を布で覆う。
リリアは寝ているよう言われたにもかかわらず、壁に手をつきながら物置まで下りてきていた。
「本当に大丈夫なの?」
「何が出ても、近づかないでください」
「何が出るのよ」
「見てみないと分かりません」
直人は板を持ち上げた。
直後。
生温かい空気とともに、強烈な臭いが吹き上がった。
「うっ……!」
リリアとマルタが同時に後ずさる。
直人も顔を背けた。
便壺の臭いよりはるかに強い。
湿気。
腐敗。
汚水。
何年も閉じ込められていた臭いだ。
携帯用ライトを点灯し、床下を照らす。
低い空間。
黒ずんだ土。
腐食した床板。
そして、奥の方から床下へ垂れ落ちている、茶色い染み。
位置を考える。
二階の客室で、便壺が置かれていた場所の真下だ。
「やっぱりか」
「何が、やっぱりなの?」
リリアが鼻を押さえながら尋ねる。
直人は床下を照らしたまま答えた。
「この宿の臭いの原因は、便壺だけじゃありません」
長い年月をかけてこぼれた汚物が、床板の隙間を通り、建物の下へ染み込んでいる。
表面をいくら拭いても、臭いが消えないはずだ。
それだけではない。
床を支える木材の一部が黒く変色し、腐り始めている。
このまま放置すれば、いずれ床が抜ける。
直人はライトをさらに奥へ向けた。
すると、暗がりの中で何かが動いた。
ぬるり。
濡れた塊が、光から逃げるように土の上を這った。
「……今、何かいませんでしたか?」
マルタが震える声で言った。
「いましたね」
「ネズミ?」
「ネズミにしては、光り方が変でした」
床下の奥で、青緑色の小さな光が瞬いた。
直人は工具箱から手袋を取り出した。
ただの床下点検では、終わりそうになかった。
銀月亭では、客室の便壺からこぼれた汚物が床下へ染み込み、建物の腐食と悪臭を引き起こしていました。
さらに、床下には正体不明の何かが潜んでいるようです。
次回は床下へ入り、悪臭の原因と建物の状態を詳しく調べます。




