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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

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第1話 便器を外したら異世界でした

便器の販売、現場調査、施工、修理。


目立たない仕事ですが、使えなくなれば誰もが困ります。


これは一人の施工担当者が、便器一台から異世界の暮らしを変えていく物語です。

 便器を外した瞬間、床下が光った。


「……は?」


 陶山直人は、膝をついた姿勢のまま動きを止めた。


 築三十年を超える木造住宅。その二階にあるトイレで、古い洋式便器の交換工事をしていた最中だった。


 止水栓を閉めた。


 給水管を外した。


 タンク内の水も抜いた。


 便器を固定しているナットを緩め、慎重に持ち上げた。


 そこまでは、いつもどおりだった。


 便器の下に現れた排水口から、青白い光が噴き出したことを除けば。


「ちょっと待て。これは聞いてないぞ」


 直人は思わず呟いた。


 排水口の奥から光が漏れるなど、どの施工説明書にも書かれていない。


 水漏れでもない。


 ガスでもない。


 火花でもない。


 青白い光は床一面へ広がり、円形の模様を描き始めた。


 直人は反射的に工具箱へ手を伸ばした。


 危険を感じたから逃げようとしたのではない。


 長年染みついた職業病だった。


 何かあれば、まず工具を確保する。


 その直後、床が消えた。


「うおっ――!」


 体が下へ引っ張られた。


 右手には工具箱。


 左手には、これから設置する予定だった新品の便器。


 直人はそれらを抱えたまま、青白い光の中へ落ちていった。


          ◇


「……痛い」


 最初に感じたのは、背中を打った鈍い痛みだった。


 次に、湿った土の匂い。


 その次に、鳥とも獣ともつかない甲高い鳴き声が聞こえた。


 直人は目を開けた。


 頭上には、見たこともないほど巨大な木々が生い茂っている。


 枝葉の隙間から差し込む光は夕方に近く、風が吹くたび、銀色の葉が波のように揺れていた。


「ここ……どこだ?」


 少なくとも、さっきまでいた家の二階ではない。


 床も壁も天井もない。


 森だった。


 しかも、普段目にする日本の山林とは明らかに違う。


 木の幹には淡い青色の苔が張りつき、その一部が呼吸するように明滅している。


 赤い羽を持つ小鳥が、直人の頭上を三羽並んで飛んでいった。


「夢じゃないな」


 背中が痛い。


 土も冷たい。


 何より、鼻の奥には排水口を開けたときに似た、生々しい森の湿気が残っている。


 直人はゆっくりと上体を起こした。


 幸い、工具箱はすぐ近くに転がっていた。


 樹脂製の箱には多少土が付着しているものの、割れてはいない。


 ロックを開け、中身を確認する。


 モンキーレンチ。


 ウォーターポンププライヤー。


 ドライバー。


 小型水平器。


 メジャー。


 パイプカッター。


 シールテープ。


 ゴム手袋。


 清掃用の布。


 携帯用ライト。


 交換用のパッキンやナット。


 短い給水ホース。


「工具は無事か」


 電動工具の一部は現場に置いたままだった。


 それでも、基本的な修理なら対応できる道具はそろっている。


 直人は次に、新品便器を確認した。


 白い陶器製の便器本体。


 タンクと便座は別箱だったため、一緒には転移していない。


 床に固定するための部品と排水接続部品は、工具箱の横に置いていたため持ち込めている。


「便器本体と工具だけで、どうしろっていうんだ」


 水もなければ排水管もない。


 便座すらない。


 この場に設置しても、ただの大きな白い器である。


 直人は上着のポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面は点灯した。


 時刻は午後四時十二分。


 しかし、通信圏外。


 地図も現在位置を取得できない。


 緊急通報もつながらなかった。


 充電は残り六十二パーセント。


「森で迷ったという状況でもないよな」


 直人は空を見上げた。


 木々の隙間を横切るように、二つの月が浮かんでいた。


 一つは白い。


 もう一つは淡い紫色。


「……異世界か」


 口にすると、ひどく馬鹿げて聞こえた。


 だが、ほかに適切な説明が思いつかない。


 直人は三十四歳だった。


 剣道の経験はない。


 格闘技もやっていない。


 魔法など当然使えない。


 休日の運動といえば、ホームセンターの売り場を歩く程度である。


 持っているのは、住宅設備会社で十二年間働いた経験だけだった。


 便器や洗面台の販売。


 交換前の現場調査。


 設置条件の確認。


 見積もり。


 施工。


 修理。


 客からの苦情対応。


 職人と営業担当の間に入る調整。


 異世界で役立つとは思えない経歴である。


「剣の代わりにモンキーレンチで戦え、とか言わないよな」


 工具箱の中で最も重いレンチを持ち上げてみる。


 魔物を相手にできるような武器ではない。


 せいぜい、小動物を驚かせる程度だ。


 森の奥から低い唸り声が響いた。


 直人はすぐにレンチを戻した。


「戦う選択肢はなしだ」


 現場でも同じだった。


 危険な状態で無理をすれば、事故が起きる。


 床下に腐食が見つかれば、作業を止める。


 給水管の状態が悪ければ、客に説明する。


 分からないまま進めるのが一番危ない。


「まず、安全な場所。次に水。日が暮れる前に人のいる場所を探す」


 直人は便器を置いたままにするか迷った。


 陶器製の便器は、見た目以上に重い。


 何キロも運べるものではない。


 しかし、異世界へ来た証拠であり、唯一のまともな商品でもある。


 工具箱だけでもかなりの重量があった。


「捨てたくはないが、命より高い便器はない」


 直人は周囲を確認した。


 少し離れた場所に、車輪が通ったような細い跡がある。


 荷車の道かもしれない。


 人が通る道なら、町や村につながっている可能性が高い。


 便器は茂みの陰に隠し、目印として木の枝を三本重ねた。


 工具箱だけを持って道へ出る。


 五分ほど歩くと、かすかな音が聞こえてきた。


「……助けて」


 人の声だった。


 直人は足を速めた。


 道脇の茂みを抜けると、一人の少女が木に背を預けて座り込んでいた。


 年齢は二十歳前後。


 栗色の髪を後ろで結び、生成り色の上着と長いスカートを身につけている。


 傍らには、野菜や布袋を積んだ小さな荷車が倒れていた。


 少女は腹部を押さえ、苦しそうに息をしている。


「大丈夫ですか」


 直人が声をかけると、少女は警戒するように顔を上げた。


「あなた……誰?」


 言葉が分かる。


 直人は驚いたが、今は問いただしている場合ではない。


「通りがかった者です。腹が痛いんですか」


「少し……朝から、ずっと」


「吐き気は?」


「ある。でも、もう何も出ない」


「熱はありますか」


 額に触れる許可を取ってから手を当てる。


 少し熱い。


 少女の顔色は悪く、唇も乾いている。


「水は飲みましたか」


「井戸の水を……」


「いつ頃から痛みました?」


「昼前。町を出てから、急に」


 食中毒か。


 水か。


 感染症か。


 医師ではない直人には診断できない。


「町は近いですか」


「この道をまっすぐ。歩けば半刻くらい……」


「立てますか」


 少女は立とうとしたが、すぐに膝をついた。


 直人は荷車を起こし、荷物を積み直した。


 少女を荷台に乗せる。


「少し揺れます。つらくなったら言ってください」


「あなた、商人?」


「いや、便器の販売と設置をしていました」


「ベンキ?」


「ええと……便所に置く器です」


 少女は苦痛に歪んでいた顔を、さらに不思議そうに歪めた。


「便所の器を売るの?」


「そうです」


「そんなものを買う人がいるの?」


「俺のいた場所では、ほとんどの家にありました」


「変な国から来たのね」


「自分でもそう思います」


 直人は荷車を引きながら歩き出した。


 道は土が固められており、荷車の車輪が深い轍を作っている。


 しばらく進むと、森の向こうに灰色の煙が見えた。


 町がある。


 助かった。


 そう思った直後、風向きが変わった。


 強烈な臭いが流れてきた。


「うっ……」


 直人は思わず足を止めた。


 腐った野菜。


 濁った排水。


 動物の糞。


 人間の排泄物。


 さまざまな悪臭が混ざり合っている。


 住宅設備の現場で、長期間放置された汚水槽を開けたことがある。


 それに近い臭いだった。


 しかも、臭いは一か所からではない。


 町全体から漂っている。


「これは……まずいな」


「何が?」


 荷台の少女が弱々しく聞いた。


「町の臭いです」


「いつもこんなものよ」


「いつも?」


「人が暮らしていれば、臭うでしょう?」


 少女は当然のことのように言った。


 町の入口には木製の柵があり、その先には石造りと木造の建物が並んでいた。


 道の両側には浅い溝が掘られ、黒く濁った水が流れている。


 窓から女が桶を傾けた。


 灰色の水と生ごみのようなものが、道端の溝へ落ちる。


 少し先では、子どもがそのすぐ隣で遊んでいた。


 共同井戸の周囲にも、ぬかるんだ汚水が広がっている。


 井戸から汲んだ水を、その場で飲んでいる男がいた。


 直人は荷台の少女を振り返った。


「朝、飲んだ水は、あの井戸ですか」


「そうだけど……」


 腹痛。


 発熱。


 吐き気。


 町の排水状況。


 井戸の位置。


 偶然で済ませるには、嫌な条件がそろいすぎている。


「宿はどこです?」


「銀月亭。母から引き継いだ、小さな宿」


「そこまで運びます」


 銀月亭は町の中央から少し外れた場所にあった。


 二階建ての古い建物で、入口の上に銀色の月を描いた看板が揺れている。


 少女を見つけた従業員らしき初老の女性が、慌てて駆け寄ってきた。


「リリアお嬢様!」


「森で倒れていました。休ませてください。それと、水を飲ませるなら一度沸かしたものを」


「水を沸かす?」


「詳しい話はあとでします」


 二人がかりで少女――リリアを建物の中へ運ぶ。


 直人も工具箱を持って後に続いた。


 宿の中は、外より暖かかった。


 しかし、臭いも強かった。


 湿った床。


 壁に染みついた煙。


 料理の匂い。


 そして、その奥に、はっきりと排泄物の臭いが混じっている。


「便所はどこですか」


 直人が尋ねると、初老の女性は怪訝な顔をした。


「外ですが」


「外?」


「裏庭に穴があります。それが何か?」


「客室には?」


「夜に外へ出るのは危ないので、部屋に壺を置いております」


 女性は近くの客室を開けた。


 狭い部屋の隅に、大きな陶器の壺が置かれている。


 蓋はない。


 縁には汚れがこびりつき、周囲の床板は黒く変色していた。


 直人はしばらく無言で壺を見つめた。


 異世界へ転移した。


 魔法があるかもしれない。


 魔物もいるかもしれない。


 剣も使えず、金も身分証もない。


 そんな問題は、確かに深刻だった。


 だが、直人には、それより先に放置できないものが見つかってしまった。


「これ、倒したことはありませんか」


「ございますよ」


 初老の女性は平然と答えた。


「月に二、三度ほど」


「その後は?」


「布で拭いております」


「床板の下は確認しましたか」


「床の下?」


 直人はしゃがみ込み、黒く変色した床板へ鼻を近づけた。


 強い臭いがする。


 壺だけではない。


 床下にまで染み込んでいる。


 場合によっては、建物の基礎部分まで腐っている可能性がある。


「リリアさんが起きたら、話をさせてください」


「何のお話でしょう」


 直人は壺から目を離さずに答えた。


「この宿の便所を、何とかします」


 初老の女性は、意味が分からないという顔をした。


 直人は工具箱の取っ手を握り直した。


 剣はない。


 魔法もない。


 だが、ここには直さなければならない現場がある。


 そして、直人は現場を放置して帰れる性格ではなかった。

陶山直人は、便器本体と工具箱を持ったまま異世界へ転移しました。


最初にたどり着いた宿屋では、客室の便壺と汚染された可能性のある井戸が使われています。


次回は、銀月亭のトイレと床下を調査します。

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