第26話 十室あるから、便器も十台とは限りません
金鹿亭は、異世界製便器の宿泊業向け独占販売を求めていました。
しかし、その条件を変更する代わりに提示したのは、十の客室すべてへ専用便所を設置する計画です。
十室あるなら、便器も十台。
数だけなら簡単ですが、設備は便器だけでは完成しません。
「十台だと?」
ガルドの怒声が工房中へ響いた。
成形途中の便器第二号へ向かっていた弟子たちが、一斉に手を止める。
「手を止めるな!」
今度は弟子たちへ怒鳴る。
「しかし、親方が……」
「俺が怒鳴ったくらいで土を乾かすな!」
テオは慌てて木型へ向き直り、粘土を押し始めた。
陶山直人は、リリアが持ってきた封書を受け取った。
金鹿亭からの新しい提案。
最初の条件だった三十日間の宿泊業向け独占販売は撤回する。
代わりに、十の客室すべてへ専用の水洗便所を設置したい。
設計費と現場調査費は支払う。
まず一室を試験改修し、問題がなければ残る九室へ順次施工する。
「一度に十台作れという意味ではありません」
直人が説明する。
「同じことだ!」
ガルドが答える。
「最終的には十台だろうが!」
「ほかの注文もあるので、製造順を分けます」
「仕立屋の二台。治療院。赤鍋亭。宿が十台。俺の窯はいつ休む!」
「親方が休む日も必要です」
テオが小さく言う。
「今それを言うな!」
ガルドは頭を抱えた。
「断れ」
「現場を見る前には断りません」
「十台など作れん!」
「十台置ける建物かどうかも分かっていません」
「置けなければ終わりか」
「はい」
「なら今すぐ、置けないと言ってこい」
「調査していないので言えません」
ガルドの眉間に、これまでで一番深い皺が刻まれた。
「お前は、なぜいつも面倒な方へ進む」
「正しい判断に必要だからです」
「十台を正しく断るためか?」
「設置できるなら、正しい方法を出すためです」
「やはり作る気ではないか!」
リリアが二人の間へ入った。
「今日は、契約ではなく現場調査だけ」
「本当だな?」
「見積もりを出す前に、ガルドの製造能力も確認する。勝手に十台を約束しない」
「一台でも勝手に約束するな」
「仕立屋は、あなたも署名したでしょう?」
「そうだった……」
ガルドは悔しそうに黙った。
◇
翌朝。
直人、リリア、ロッカ、ボルグ、ミーナの五人は、金鹿亭を訪れた。
銀月亭より大きな三階建て。
石造りの一階。
二階と三階は、太い木柱と漆喰壁で造られている。
正面玄関には金色の鹿の紋章。
広い食堂。
酒場。
浴室。
馬車置き場。
中庭。
宿泊料金が銀月亭より高いだけあり、設備も華やかだった。
「ようこそお越しくださいました」
支配人のラグナーが一行を迎えた。
相談に来た従業員サイルではなく、金鹿亭全体を管理する人物らしい。
四十代半ば。
黒い上着。
灰色の手袋。
言葉も姿勢も整っている。
「支配人のラグナーです。本日の調査には、私が立ち会います」
「陶山直人です。現場と設備を確認します」
「リリアです。契約と費用を担当します」
リリアの声は冷静だった。
ただし、笑顔は銀月亭の客へ向けるものより少し硬い。
「独占販売の条件を撤回したと伺いました」
「はい」
ラグナーはうなずいた。
「ただし、当宿への設置を優先していただきたい」
「優先の意味を確認します」
リリアがすぐに返す。
「すでに契約した仕立屋より先へ割り込む要求なら、受けられません」
「契約済みの仕事を妨げるつもりはございません」
「治療院や緊急改善もあります」
「水洗便器の製造枠だけで構いません」
「一月に作れる数は、現時点で最大二台です」
「設備投資によって増やせるのでしょう?」
「乾燥小屋を増やせば、月三台の可能性があります。ただし保証はできません」
「当宿が乾燥小屋と窯の増設費を負担します」
リリアの表情が変わった。
「窯まで?」
「十台を依頼する以上、製造能力を増やす必要があると考えました」
「金鹿亭専用設備にする条件ですか」
「いいえ」
ラグナーは即答した。
「ほかのお客様の便器も製造して構いません。その代わり、当宿の十台分には一定の納期枠を確保していただきたい」
「一月に一台?」
「最低一台。可能なら二台」
「ほかの緊急案件が入った場合は?」
「事前に協議します」
「金鹿亭の許可がなければ、緊急案件を先へ入れられない条件は受けません」
リリアの返答は速かった。
ラグナーはわずかに笑う。
「銀月亭の主人ではなく、事業の交渉人として話されていますね」
「どちらでもあります」
「競合宿へ便器を売ることに抵抗は?」
「あります」
リリアは隠さなかった。
「でも、感情だけで契約を断るつもりもありません」
「安心しました」
「安心するのは、現場調査が終わってからにして」
直人は二人の間へ入る。
「客室を見せてください」
◇
試験改修候補は、二階の角部屋だった。
客室番号は二〇一。
広い寝台。
机。
衣装箱。
洗面用の水差し。
窓から中庭が見える。
「便所を置きたい場所は?」
直人が尋ねる。
ラグナーは客室奥の小部屋を示した。
「現在は衣装室です」
扉を開ける。
人が二人立てる程度の広さ。
窓はない。
床は木板。
壁の向こうは廊下。
下の階には食堂の個室がある。
「排水管は、どこへ通す予定ですか」
「床下から外壁へ」
「一階の天井を通ります」
「見えないよう箱で隠せばよい」
「漏れた場合、一階の食事室へ落ちます」
ラグナーは黙った。
「外壁へ直接出すことは?」
ロッカが窓側の壁を叩く。
「この衣装室は、外壁に接していない」
「隣室の壁を通れば?」
「客室を横切る管になります」
「では、廊下側へ出し、共用の縦管へつなぐ方法です」
直人は図へ線を引いた。
衣装室から廊下の壁内へ短い排水管。
廊下の端に縦方向の太い主管。
一階を通り、地面下の処理槽へ。
「十室を改修するなら、各室から一本ずつ外へ出すのではなく、複数室を共通の縦管へ接続します」
「一つの管へ何台もつなげられるのですか」
サイルが尋ねた。
「できます。ただし、太さ、傾斜、通気、点検口が必要です」
「通気?」
「水が一度に流れると、管内の空気が押されたり引かれたりします」
「空気なら、隙間から抜けるのでは?」
「隙間があれば、臭いと水も漏れる可能性があります」
「管の上端を屋根まで伸ばす?」
ロッカが尋ねる。
「それが理想です」
直人は建物の断面図を描いた。
縦の排水主管。
最上部は屋根より上へ。
臭いが客室や窓へ戻らない高さまで伸ばす。
「便器十台より、こちらの方が大きな工事ですね」
ミーナが図を覗く。
「そうです」
「壁を壊すのか」
ラグナーの表情が険しくなる。
「一部は開ける必要があります」
「客室十室を順番に休ませる?」
「試験室だけなら、まず一室と廊下の一部。全室へ広げる場合は、縦管に近い部屋から順番に施工します」
「営業への影響は?」
「音、埃、通行制限があります」
「客を泊めながらできるか」
「同じ階の近接客室は、空けた方が安全です」
「工事期間の宿泊売上が減る」
「見積もりへ含める損失は、金鹿亭側で計算してください」
「施工費には入らない?」
リリアが答えた。
「こちらが工事を不当に長引かせた場合は別。ただし、予定どおりの工事で部屋を空ける損失は、宿側の事業費です」
ラグナーは紙へ書き留めた。
「便器代だけを考えていました」
「多くの方がそうです」
直人は答えた。
「ですが、二階以上では、配管と建物の方が高くなる場合があります」
◇
次に床の強度を確認した。
ロッカが床板を一部外す。
下には横梁。
衣装箱を置く程度なら十分な太さだが、水を入れた貯水槽と陶器便器を置くには確認が必要だった。
「便器は、どのくらい重い」
ラグナーが尋ねる。
「第一号より少し標準型の方が大きくなる可能性があります」
「人一人分ほどか?」
「便器本体だけなら、そこまではありません。ただし、利用者の体重、便座、固定台、貯水槽の水を合わせます」
「水が一番重いな」
ロッカが梁を見上げる。
「高い位置へ大きな槽を置けば、壁にも負担がかかる」
「各室に貯水槽が必要ですか」
サイルが尋ねた。
「現在の仕組みでは必要です」
「屋根裏へ大きな水槽を一つ置き、全室へ配れないか」
直人の動きが止まった。
各室へ水壺を運ぶのではなく、上部の共通水槽から管で配る。
現代の給水設備に近い考え方だった。
「技術的には可能性があります」
「では、それで」
「すぐには決められません」
「なぜです?」
「水圧です」
「みずあつ?」
「高い場所から水を流すと、低い階ほど強い力がかかります」
「強い方がよく流れるのでは?」
「革管や接続部が耐えられなければ、破裂します」
一階。
二階。
三階。
高さが違えば、水の力も違う。
現在の革管と弾樹パッキンが、常時水圧へ耐えられるか確認されていない。
「今の貯水槽は、洗浄する時だけ水が流れる構造です」
直人が説明する。
「屋根裏の大槽から常に水をかければ、管へ力がかかり続けます」
「栓を付ければいい」
ロッカが言う。
「各階の前に小槽を置き、大槽から小槽へ補充する方法もあります」
「一階、二階、三階に中継槽?」
「はい。大槽の圧力を直接便器へかけない」
直人は図を修正した。
屋根裏の主水槽。
各階の小型分配槽。
客室ごとの洗浄槽。
「槽だらけだな」
ボルグが言う。
「漏れた時が怖い」
「その通りです」
「屋根裏で漏れれば、全階へ水が落ちる」
ラグナーの顔色が少し変わった。
「大槽は石床の上に置けないか」
「屋根裏の床補強と、防水受けが必要です」
「漏れた水を外へ逃がす溝も」
ロッカが加える。
「水をためるだけで、ここまで必要なのか」
「十室分ですから」
銀月亭の一台。
ナーラ宅の一台。
小さな仕立屋の一台。
これまでとは規模が違う。
「ミーナ一人で毎日、十室の水を補充できますか」
直人が尋ねた。
「できません」
ミーナはすぐに答えた。
「一度に出すだけなら可能かもしれません。でも、毎朝金鹿亭へ来て、十室分と予備水を入れれば、ほかの仕事ができなくなります」
「専属契約なら?」
ラグナーが尋ねる。
「私一人へ依存する設備になります」
「専属で雇えば問題ないのでは」
「私が病気になった日は?」
「別の水魔術師を雇う」
「同じ量を同じ精度で出せる人が、すぐ見つかるとは限りません」
ミーナは直人を見た。
「井戸から汲み上げる仕組みと組み合わせた方がよいと思います」
彼女自身が、魔法だけへ依存しない方法を提案した。
「金鹿亭には井戸が三つあります」
ラグナーが言う。
「屋根裏まで水を上げるのは、人力ですか」
「使用人に運ばせる」
「一日に何往復するか計算します」
直人は仮の洗浄回数を出した。
十室。
一室二人。
従業員用は別。
一泊中、一人が数回利用。
手洗い。
清掃。
「満室なら、便器だけで一日に百回近く洗浄する可能性があります」
「百回?」
「一回の水量を現在の標準便器と同じと仮定すると、かなりの量です」
「井戸桶で何杯だ」
ミーナが計算を手伝う。
「大きな桶でも、数十杯以上です」
「毎日、屋根裏まで?」
「無理ではないが、専任の水運び担当が必要です」
「水魔法を使えば半分にできる」
「費用が増えます」
リリアが言った。
「設備費だけでなく、毎日の運用費も見積もる必要がある」
ラグナーは額へ手を当てた。
「客室へ便器を置けば、高い宿泊料を取れると思っていた」
「取れる可能性はあります」
「だが、水と保守に金がかかる」
「毎日です」
「汲み取りも?」
ボルグが答える。
「十台分なら、大きな処理槽がいる。水が増えるから、今より回収量が増える可能性もある」
「水洗なのに?」
「何度言えば分かる。消えるのではない。流れて集まるだけだ」
「処理槽へポルンを入れれば?」
「まだ駄目です」
直人とリリアとミーナの声が同時に重なった。
ボルグが小さく笑った。
「そこは全員同じ答えだな」
◇
処理槽の候補地は、金鹿亭の馬車置き場の奥だった。
土地は広い。
井戸からも距離がある。
地面は緩やかに下っている。
「場所だけなら作れます」
直人が言った。
「大きさは?」
ボルグが歩幅で測る。
「十台を満室で使うなら、銀月亭の槽を少し大きくする程度では足りん」
「二つに分ける方法は?」
「建物の東側と西側で分ける?」
「はい。客室を二系統に分けます」
一つの巨大処理槽ではなく、二つの中型槽。
片方を清掃している間も、もう片方の系統は使える。
「予備になりますね」
直人が言う。
「ただし、費用は上がる」
「故障時に全十室が止まるよりいい」
ラグナーが答えた。
「さすが大型宿です」
リリアが少し皮肉を込めて言う。
「予備へ金を払える」
「銀月亭も必要なら投資すべきでしょう」
「必要性と資金があればね」
ラグナーは気にした様子もない。
「処理槽を二つにする案で見積もってください」
「まだ決めません」
直人が言った。
「今度は何が足りない?」
「地面の下です」
「掘れば分かるだろう」
「先に試掘します」
「費用は払います」
「井戸との地下水の関係も確認します。ボルグさん、可能ですか」
「数か所掘る。土の湿りと匂いを見る」
「雨の後も確認したいです」
「調査だけで何日かかるのだ」
ラグナーが尋ねた。
「最低五日。雨がなければ、人工的に水を流して地面の動きを確認します」
「十台分の見積もりは?」
「試験室一室分と、全体の概算を分けます」
「正確な総額は出ない?」
「壁を開けないと見えない部分があります。十室分を固定額で約束するのは危険です」
「金鹿亭には、予算計画が必要です」
リリアが間へ入った。
「概算には、幅を持たせる。最低額と、最大想定額。その差が出る条件も書く」
「最大額を超えた場合は?」
「追加契約。勝手には進めない」
「工事途中で止まる可能性がある?」
「資金不足なら」
「それは避けたい」
「なら、予備費を確保して」
宿屋同士の会話ではなく、完全に事業交渉だった。
◇
午後。
直人たちは一階から三階まで、十の客室を調査した。
同じ大きさに見えても、構造は異なる。
二階東側の四室は、縦管を共通化しやすい。
二階西側の一室は、下に厨房があり、漏水時の危険が高い。
三階の二室は、屋根裏水槽へ近いが、排水管が長くなる。
一階の三室は、処理槽へ近いが、外壁が厚く穴を開けにくい。
「同じ便器を十台置くだけではないですね」
サイルが言った。
「部屋ごとに施工条件が違います」
「客室料金も変えるべきでしょうか」
ラグナーが尋ねる。
「それは金鹿亭側の判断です」
リリアが答えた。
「ただ、工事費の高い部屋が、必ずしも客にとって一番価値が高いわけではない」
「眺めや広さもありますから」
「便所付きという価値を、どの料金帯へ載せるか考える必要がある」
直人は部屋の利用者像も確認した。
高齢者。
商人。
貴族。
家族。
長期滞在者。
「十室すべてを同じ便器にしますか」
「標準型でよいのでは?」
ラグナーが尋ねた。
「一階の二室は、階段を使えない客へ貸していますね」
「高齢者や怪我人が多いです」
「そこは、ナーラさん用に近い低型や、手すりを強化した便所が適しています」
「標準型では駄目?」
「移動式の足置きと手すりで対応できる場合もあります。ただし、低すぎる便器は背の高い人が使いにくい」
「客室ごとに型を変えると、製造が遅れるでしょう」
「はい」
「では、一階の一室だけ特別対応。残りは標準型」
「利用者の試座が必要です」
「宿泊客へ座ってもらうのですか」
「従業員や協力者で、異なる体格を確認します」
「金鹿亭の客へ試験をさせるつもりはありません」
「当然です」
ラグナーは少し安心した。
「一室目は、どこがよい?」
直人は図面を見た。
二階の角部屋は、最初に案内されたが、排水縦管を作るには難しい。
一階の東端なら、外壁へ近く、処理槽までの管も短い。
床下へ点検口を作れる。
ただし、高級客室ではない。
「一階東端の一〇三号室を勧めます」
「最上級室ではなく?」
「試験施工は、配管が短く、点検しやすい場所がいいです」
「最上級室へ付けた方が宣伝になる」
「不具合が起きた時、客と宿への影響が大きいです」
「成功すれば?」
「次に上級室へ広げます」
「慎重すぎないか」
「最初の一台を、失敗しにくい場所へ置きます」
リリアがラグナーを見る。
「宣伝は、正常に一月動いてからでも遅くないわ」
「競合宿の主人が、宣伝を遅らせろと言うのですか」
「便器事業の契約窓口として言っている」
「本当に?」
「半分はね」
ラグナーは初めて声を出して笑った。
「正直な方だ」
◇
調査後、金鹿亭の会議室で、試験導入案がまとめられた。
第一段階。
一階一〇三号室へ、標準型便器一台。
客室専用の小型貯水槽。
屋外から補充できる給水口。
外壁沿いの短い排水管。
専用の小型処理槽。
手すり。
手洗い。
換気。
使用説明。
三十日間は、宿の従業員または協力者だけで試験使用。
「客へ貸さないのですか」
サイルが尋ねた。
「最初の三十日は、一般客への提供を勧めません」
「一月も?」
「ナーラ宅では一人の生活利用。金鹿亭では、清掃担当も利用者も変わります」
「宿泊客を入れず、どう試す」
「従業員の休憩室として使い、希望者が便所を利用する。数日後から、事情を説明して同意した関係者へ試験宿泊を依頼する方法があります」
「料金は取れるか?」
「試験中であることを伝え、通常料金は取らない方がよいです」
「部屋を一月遊ばせるのか」
「事故が起きれば、十室計画全体が止まります」
ラグナーは腕を組んだ。
「七日では?」
「最低十四日」
「十日」
「漏れ、詰まり、臭い、清掃、水量、利用方法の誤りを確認するには短いです」
「十五日」
「二十一日」
「間を取って十八日」
リリアが口を挟む。
「二人とも、何を競っているの?」
「営業再開を早めたい」
ラグナーが答える。
「安全確認が必要です」
直人も答える。
「最初の七日は従業員のみ。次の七日は、説明へ同意した関係者。十四日目に中間判定。問題がなければ、十五日目から客室として限定運用」
「限定?」
「連泊客、幼児連れ、泥酔客は最初は避ける」
「客を選ぶのか」
「設備の使い方を説明し、守れる方へ提供します」
「いつから通常客室にできる?」
「三十日後」
ラグナーはしばらく考えた。
「受け入れよう」
「正式契約は見積もり後です」
「試験室の費用は払う」
「全十室分の契約を先に要求しませんか」
「一室目が失敗すれば、残り九室を契約する意味がない」
合理的な判断だった。
「ただし、製造設備への投資は先に行う」
ラグナーは続ける。
「なぜです?」
「一室目が成功してから乾燥小屋を建てていては遅い」
「投資分の見返りは?」
リリアが尋ねた。
「金鹿亭の二台目以降について、標準価格から一定額を減らす。製造枠は一月一台確保。ただし、緊急案件による変更は認める」
「変更時は事前説明」
「承知しています」
「設備の所有者は?」
「ガルドの工房」
「金鹿亭が契約を取りやめても、返却はしない?」
「それでは当宿だけが損をする」
「設備投資ですから」
「では、取りやめ理由が製造側の重大な不履行なら、一部返金」
「妥当ね」
リリアは交渉条件を書き始めた。
直人は、工房設備の内容を考える。
乾燥小屋。
大型棚。
成形型の保管場所。
専用焼成台。
将来は第二窯。
「第二窯を作るには、ガルドさん以外の焼成担当も必要です」
「弟子がいるでしょう」
ラグナーが言う。
「テオさんは、今ようやく鉢の成形を始めた段階です」
「人を増やせばよい」
「陶工は、雇った翌日に便器を焼けません」
「ガルドに育ててもらう」
「本人の合意が必要です」
工房へ戻った時の怒声が、容易に想像できた。
◇
最後に、直人は金鹿亭の既存共用便所を確認した。
客室専用便所を十室へ作る計画でも、共用便所は残る。
一階に二か所。
二階に一か所。
従業員用が裏庭に一か所。
「客室へ便所を付ければ、共用は使われなくなる」
サイルが言った。
「全室へ付くまで、何年かかるか分かりません」
「十台なら、一年以内では?」
「現在の製造能力なら、ほかの注文を止めても五か月以上。施工は別です」
「設備投資後なら?」
「月三台作れても、乾燥や失敗を考えれば半年程度を見た方がいいです」
「半年も?」
「最初の一室の試験期間もあります」
共用便所は、金鹿亭らしく装飾されていた。
壁には絵。
香草袋。
磨かれた木製扉。
しかし、中身は大きな便壺。
手洗いは廊下の先。
汲み取り口の蓋には隙間がある。
「客室便所より先に、ここを改善した方が、多くの客へ効果があります」
直人が言った。
「共用便所を水洗化する?」
「選択肢です」
「十室計画をやめろと?」
「優先順位の話です」
共用便所一台を水洗化すれば、複数の客が利用できる。
客室十台より安く、早い。
ただし、金鹿亭が求めている「客室専用」という付加価値は得られない。
「当宿は、ほかの宿にない設備を求めています」
ラグナーが言う。
「共用水洗便所は、銀月亭にある」
リリアの表情がわずかに固くなる。
「客室専用なら、銀月亭より上だと言いたいのね」
「競争ですから」
「だからこそ、一室目を失敗できません」
直人は言った。
「急いで十室へ広げ、漏水や詰まりを起こせば、“金鹿亭の便器は危険だ”という評判になります」
「銀月亭の宣伝になる?」
ラグナーが尋ねる。
「便器事業全体の信用が落ちます」
「競合宿でも守るのか」
「設備を作る側としては」
「ナオトは、そこだけは変わらないわ」
リリアが言った。
「うちの宿へ有利かどうかより、便器の信用を先に考える」
「不満ですか」
「少しね」
「申し訳ありません」
「でも、それでいい」
リリアは共用便所の扉を見た。
「中途半端なものを売って金鹿亭に事故を起こされたら、銀月亭の白い便器まで危険だと思われる」
「利害は一致していますね」
「あなたは、もう少し宿同士の感情を学んで」
◇
銀月亭へ戻ると、ガルドが食堂で待っていた。
なぜか工房の作業着のまま、腕を組んで座っている。
「何台だ」
直人たちが入口を通った瞬間に尋ねた。
「現時点では一台です」
「十台ではないのか」
「最初に試験室一室。三十日運用後、残りを判断します」
「なら一台か」
「成功すれば、残り九台です」
「やはり十台ではないか!」
食堂の客が驚いて振り返る。
「金鹿亭が、乾燥小屋と将来の窯増設費を負担する提案をしています」
リリアが言った。
ガルドの怒声が止まった。
「乾燥小屋?」
「工房の裏へ建てる。所有者はガルドの工房。金鹿亭専用ではない」
「広さは?」
先ほどまでの怒りが少し薄れている。
「便器三台を同時に乾燥できる規模を想定しています」
「温度と風は?」
「設計はこれからです」
「南側に窓を作るな。日が当たりすぎる」
「換気口は?」
「上と下に必要だ。だが、直接風が当たらんよう壁を二重にする」
「もう作る気ですね」
直人が言うと、ガルドは我に返った。
「作るとは言っておらん!」
「条件が合えば?」
「金鹿亭に工房を支配されるのは御免だ」
「契約には、製造方法へ口を出さない条件を入れます」
「納期を急がせるな」
「品質基準を下げないことも入れます」
「失敗時の材料費は?」
「通常の製造失敗は工房負担。ただし、新型開発や金鹿亭指定の特殊仕様は別契約」
「十台とも標準型か」
「一階の一室だけ、低型または手すり強化案があります」
「型を増やすな!」
「まだ決めていません」
「決めるな!」
ガルドは怒鳴りながらも、リリアから契約条件の紙を受け取った。
目で追う。
製造設備の所有。
優先枠。
緊急案件。
品質。
納期。
返金条件。
技術秘密。
「最後の項目は何だ」
「ガルドさんの製造方法を、金鹿亭が無断でほかの陶工へ渡さない条件です」
「当然だ」
「ただし、将来ガルドさん自身が弟子や別工房へ教えることは妨げない」
「誰へ教えるかは俺が決める」
「その権利を守る条件です」
ガルドは紙を作業台へ置いた。
「乾燥小屋の設計を見てからだ」
「交渉を続けていい?」
「まだ契約するな」
「現場調査と試験室一台の見積もりは?」
「標準型第二号の結果を見てからだ」
「金鹿亭の一台は第三号か第四号になります」
「先に仕立屋だ」
「正式契約済みですから」
「順番を変えるなよ」
「変えません」
ガルドは満足したように鼻を鳴らした。
「第二号の鉢は?」
「テオさんが作っています」
「昼から乾燥に入った」
「ひびは?」
「今のところない」
「厚みは?」
「記録どおりだ」
「洗浄穴の型は?」
「お前は帰ってきた瞬間から質問ばかりだな!」
いつもの怒声が戻った。
◇
その夜。
銀月亭の相談受付表へ、新しい札が加えられた。
金鹿亭――大規模導入調査中。試験室一室。
十台ではない。
一台から始める。
ただし、その一台は、将来の十台を支える給水、排水、処理、保守の試験になる。
「十室に便器を置くだけだと思っていたわ」
リリアが言った。
「実際には、小さな上下水道を宿の中へ作るようなものです」
「上下水道?」
「水を配り、汚水を集める仕組みです」
「町全体で、それを作ることもできるの?」
直人は答える前に、銀月亭の窓から町を見た。
井戸。
排水溝。
便所小屋。
処理場。
それぞれが、家や店ごとに別々に存在している。
「技術的には、いつか」
「便器十台どころではなくなるわね」
「はい」
「今は考えないで」
「まだ何も言っていません」
「顔が考えている」
直人は手帳を閉じた。
金鹿亭の十室計画。
共通給水槽。
縦排水管。
二系統の処理槽。
大規模保守。
一つずつ試験しなければならない。
便器が十台必要だから、十台作る。
それだけでは、設備は動かない。
十台の便器を毎日使えるようにするには、十台分の水と、十台分の汚れと、十台分の責任を受け止める仕組みが必要だった。
翌朝。
金鹿亭から、追加の使者が銀月亭へやってきた。
「支配人ラグナーより、試験室についての質問です」
「何でしょう」
「便器へ温かい水を使うことはできますか」
直人は瞬きをした。
「洗浄水を温かく?」
「いいえ」
使者は真剣な顔で答えた。
「寒い季節でも、座った時に冷たくない便座を作れないかとのことです」
食堂の奥で、リリアの手から帳簿が滑り落ちた。
「今度は便座?」
「高級宿向けの付加価値だそうです」
直人の頭に、日本の暖房便座が浮かぶ。
電気はない。
だが、温水。
湯たんぽ。
熱を保つ素材。
魔石。
方法がないとは言い切れない。
「ナオト」
リリアが先に釘を刺した。
「できそうな顔をしないで」
「まだ何も答えていません」
「目が光っている」
異世界製便器第二号が、まだ乾燥に入ったばかりの朝。
水洗便器の次の注文は、便座を温めろというものだった。
金鹿亭の十室計画を調査した結果、客室ごとの便器よりも、共通給水、縦排水管、床補強、処理槽、漏水対策が大きな工事になると判明しました。
十台を一括導入せず、一階の一室へ試験設置し、三十日間の運用結果を見て拡張を判断します。
また、金鹿亭はガルドの工房へ乾燥小屋や窯の増設費を投資する案を提示しました。
次回は、寒い季節にも冷たくない便座を求める金鹿亭の要望を受け、電気を使わない異世界式暖房便座の可能性を検討します。




