第25話 見積書には、未来の二台目も書きます
九人が働く仕立屋《金糸の針》では、朝と昼に便所の利用が集中していました。
しかし、二台の水洗便器を同時に設置するには、予算が足りません。
直人たちは、一台目を先に設置しながら、将来の二台目で床や処理槽を壊し直さずに済む段階施工を提案します。
銀月亭の食堂に、紙が六枚並べられていた。
一枚目は、仕立屋《金糸の針》の現状図。
二枚目は、第一段階の工事図。
三枚目は、第二段階まで完成した時の図。
四枚目は、費用の内訳。
五枚目は、工事予定。
六枚目は、利用者が三日間動かした木玉の記録を写した集計表だった。
「見積書一つに、どうして六枚も必要なの?」
リリアが尋ねた。
「一枚へ詰め込むと、何にいくらかかるか分かりにくくなります」
「お客様が全部読むと思う?」
「説明しながら使います」
「オルドさんは、途中で眠るかもしれないわよ」
「重要な部分から話します」
陶山直人は、費用表をもう一度確認した。
便器本体。
木製便座。
室内物置の撤去と床改修。
扉と鍵。
防音用の二重壁。
換気口。
荷物棚。
蓋付き廃棄箱。
手洗い設備。
貯水槽。
予備水槽。
排水主管。
二台分を見込んだ処理槽。
屋外便所の安全改修。
将来の二台目へつなぐ分岐管。
試運転。
初期保守。
項目を減らしても、かなりの数になる。
「銀貨三枚を超えています」
直人が言った。
「分かっている」
リリアは腕を組んだ。
「第一段階だけでも、銀貨三枚と銅貨七枚」
「予算上限は銀貨三枚です」
「だから三つに分けたわ」
費用表には、色の違う印が付いている。
赤は、安全上削れない工事。
青は、将来の二台目を安くする先行工事。
白は、後から追加できる設備。
「赤だけなら、銀貨二枚と銅貨二十六枚」
「便器一台と最低限の個室改修ですね」
「ただし、処理槽は一台分。二台目を追加する時に作り直しになる」
「青まで含めれば?」
「銀貨三枚と銅貨七枚」
「予算超過は銅貨七枚」
「荷物棚と内装仕上げを後回しにすれば、銅貨四枚まで縮められる」
「荷物棚は利用者から要望がありました」
「簡易の木鉤だけなら、端材で作れる」
「服を床へ落とさない大きさが必要です」
「ロッカに確認済み。固定棚ではなく、折り畳み式の掛け板なら銅貨一枚減る」
「防音は?」
「削らない」
「扉の隙間も?」
「削らない」
「手洗いも?」
「当然」
リリアは見積書を指で叩いた。
「削るのは、見た目と後から追加できるものだけ」
「完璧です」
「あなたと仕事をすると、安全上削れませんという言葉が先に出るようになったわ」
「必要な区別です」
「それでも予算を超える」
「分割払いを提案しますか」
「材料費と職人の工賃は先に必要よ」
「第二号便器の製造開始金は?」
「契約時に銀貨一枚。工事開始前に銀貨一枚。引き渡し後に残りを分割」
「ガルドさんへの支払いは?」
「材料費と窯の薪代は、最初の銀貨一枚から出す。工賃の半分は焼成後」
「失敗して作り直す場合は?」
「製造側負担。ただし、客都合で寸法変更した場合は別」
直人はうなずいた。
「オルドさんへ説明しましょう」
「その前に、利用記録よ」
リリアが六枚目を持ち上げた。
三日間で動かされた木玉。
男性用。
女性用。
朝。
昼。
夕方。
混雑が起きた回数。
「予想より多いですね」
直人は数を確認した。
全従業員九人に対し、一日の利用回数は平均二十回を超えている。
昼前後の一刻には、女性側だけで五回から七回。
現在の便所一つでは、三人待ちが毎日発生していた。
「一台目を女性用にしても、混雑は残ります」
「でも、今よりは減る」
「男性側の汲み取り便所を残すので、同時に二人使えます」
「二台目を早める根拠にもなるわね」
「処理槽は、最初から二台分にした方がいいです」
「その説明を数字でできる」
リリアは満足そうに集計表を見た。
「あなたが記録を取りたがる理由が、少し分かった」
「少しですか」
「紙が多すぎるという考えは変わっていないわ」
◇
《金糸の針》では、昼休み前の作業が続いていた。
店主のオルドは、長机の端へ直人たちを案内した。
「見積もりができたのか」
「三つの案があります」
「一番安いものだけ聞かせてくれ」
「違いを聞いてから選んでください」
「また長い説明か」
「先に結論を言います」
直人は三枚の小さな札を机へ置いた。
最低限案。
二台目準備案。
一括完成案。
「一括完成案は、予算を超えるだろう」
オルドが言う。
「大きく超えます」
「なら不要だ」
「比較のために残しています」
「二台目準備案はいくらだ」
リリアが答える。
「銀貨三枚と銅貨七枚」
「予算を超えている」
「後付け可能な設備を簡略化すれば、銀貨三枚と銅貨四枚」
「四枚でも超過だ」
「分割払いを利用できます」
「利息は?」
「最初の三回はなし。それ以後は、残額に応じて小さな管理費をいただく」
「最初から管理費を取らないのはなぜだ」
「完成後すぐに不具合が出た場合、こちらの修理費と支払いを混同しないためよ」
オルドは少し考えた。
「最低限案は?」
「銀貨二枚と銅貨二十六枚です」
「それなら予算内だ」
「ただし、二台目を設置する時、処理槽と排水管の一部を作り直します」
「どのくらい余計にかかる」
直人は比較表を示した。
「今、二台分の主管と処理槽を作る費用は銅貨十一枚です。後から作り直す場合、最初に作った部分の撤去と再工事を含め、銅貨十九枚から二十二枚かかる見込みです」
「差は八枚以上か」
「さらに、工事中は一台目の水洗便器も止める可能性があります」
「営業中に便所が使えなくなる?」
「半日から一日ほどです」
「それは困る」
「だから、最初から二台目へつなげられる構造を勧めます」
オルドは三つの札を見比べた。
「一台目だけなのに、二台分の穴と槽へ金を払う」
「未来の工事を先に一部済ませます」
「二台目を作らなければ無駄になる」
「その通りです」
「売り手なら、絶対に二台目が必要だと言うところではないのか」
「必要になる可能性は高いです。ただ、店の人数が減る、移転する、働き方が変わる可能性もあります」
「正直すぎるな」
「判断に必要な情報です」
オルドは利用記録へ目を向けた。
「この数は本当か?」
「従業員の皆さんが動かした木玉を、朝夕に確認しました」
「一日二十回以上も使っている?」
女性職人の一人が言った。
「九人いれば、一人二回ほどで十八回です」
直人が答える。
「体調や食事によって、それ以上になる日もあります」
「昼前後に七回?」
「同じ時間帯へ集中しています」
オルドが従業員たちを見る。
「仕事中に何度も便所へ行っている者がいるのではないか」
作業場の空気が硬くなった。
「個人別には記録していません」
直人がすぐに言った。
「なぜだ。怠けている者を確認できるだろう」
「そのための記録ではありません」
「店の時間を使っている」
「排泄を我慢させると、体調を崩す可能性があります」
「仕事中に何度も行くのは困る」
「体調が悪い人がいるなら、休ませるか治療院へ相談してください。利用記録を罰へ使えば、正確に記録されなくなります」
「記録を隠すようになる?」
リリアが補足する。
「そうなれば、貯水槽と処理槽の大きさを誤る。便器が詰まったり、槽が早く満杯になったりするわ」
「では、誰が使ったかは聞かない?」
「はい。設備設計に必要なのは合計と集中時間です」
オルドは納得しきれない様子だったが、記録板を従業員管理へ使わないことを認めた。
◇
「一台目は、室内の物置へ設置します」
直人は第一段階の図を広げた。
「女性用です」
「なぜ女用を先にする」
「利用者が六人と多く、現在の物置便壺ではプライバシーと衛生上の問題が大きいからです」
「男性側は外の古い便所を使い続ける?」
「安全改修します」
「水洗ではないが、費用はかかるのか」
「床、鍵、雨よけ、手洗い、清掃用具箱を整えます」
「古い便所へ金を使うのは無駄では?」
「二台目が完成するまで使います。一台目が故障した場合の予備にもなります」
「二台目を水洗にした後は?」
「非常時用として残すか、便壺を撤去して物置へ転用できます」
「壊して作り直さない?」
「なるべく転用できる構造にします」
直人は室内側の図を示した。
便器。
貯水槽。
手洗い。
折り畳み式の衣服掛け。
蓋付き廃棄箱。
換気口。
扉。
鍵。
二重壁の一部。
「壁を二重にする理由は音か」
「はい。完全には消せませんが、作業場へ直接響く音を減らします」
「便器の洗浄音は大きいと聞いた」
「正常に流れた確認にもなります。個室外へ響きすぎないよう壁と扉で調整します」
「水洗音を消したら、流れたか分からない?」
「利用者には聞こえ、作業場には小さくなる程度を目指します」
「そんな都合よくできるのか」
「実物で試します」
「完成後に駄目だったら?」
「壁へ布と空気層を追加できます」
「最初から付ければいい」
「費用が増えます」
オルドは黙った。
「安くしろと言えば性能が下がり、性能を上げろと言えば高くなる」
「はい」
「当たり前のことを、ずいぶん細かく説明するな」
「後から“聞いていない”を減らすためです」
リリアが契約書の一部を示す。
「防音は、作業場で通常会話がある状態なら、便所内の細かな音が聞き取りにくい程度。完全な無音は保証しない。洗浄音は残る」
「そこまで書くのか」
「聞こえた、聞こえないで争わないためよ」
◇
次は給水契約だった。
「ミーナが毎朝、通常貯水槽と予備槽へ水を入れます」
リリアが説明する。
「一日分すべてか?」
「最初の一月は、利用記録に基づく推定量を入れます」
ミーナが水量表を見せた。
「朝に通常槽を満たし、予備槽へ半日分を入れます。使い切った場合は、井戸水を補充してください」
「専属ではないのだな」
「治療院と給水所の仕事もあります」
「追加料金を払えば、昼にも来られるか?」
「毎日は難しいです」
「では、昼の水切れは職人が運ぶ?」
「最初の一月、どのくらい不足するか記録します」
「また記録か」
「水量を増やすにも、槽を大きくするにも、根拠が必要です」
オルドはミーナへ尋ねた。
「水魔法なら、今ここで満杯にできるのだろう?」
「できます」
「毎朝なら、すぐ終わる仕事ではないのか」
「水を出すことだけなら」
ミーナは落ち着いて答えた。
「ですが、決めた時刻に来ること。正しい量を入れること。槽や管から漏れがないか確認すること。来られない日の予備水を準備することも契約に含みます」
「給水だけではない?」
「設備を止めないための仕事です」
直人は何も補足しなかった。
以前なら、自分が代わりに説明していただろう。
今のミーナは、自分の仕事の価値を自分の言葉で伝えている。
「費用は、井戸から職人が運ぶ時間より安いのか」
オルドが尋ねる。
「一月試して比べてください」
ミーナは答えた。
「私の給水をやめる場合も、七日前に伝えてください。急に止めると便器が使えなくなります」
「契約のような話し方をするようになったな」
「仕事ですから」
オルドは少し笑った。
「分かった。一月契約する」
ミーナの顔にも、小さな笑みが浮かんだ。
◇
「残る問題は、予算です」
リリアが話を戻した。
「二台目準備案は銀貨三枚と銅貨四枚。オルドさんの上限を銅貨四枚超える」
「そこを安くしろ」
「値引きだけでは、誰かの工賃を削ることになる」
「二台まとめて注文するつもりだ」
「二台目の材料予約を、今回の契約に含めるなら割引できる」
「まだ一台目も動いていない」
「だから、便器本体ではなく土と薪の一部だけ予約する」
「取り消した場合は?」
「未使用材料は返す。ただし、購入済みの専用材料でほかに使えないものは買い取り」
「専用材料とは?」
「標準型の便器なら、ほかの注文にも使える土です。大きな損にはならない」
直人が補足した。
「第二号と第三号は、同じ標準型を使う予定です」
「ナーラの便器とは違う?」
「ナーラさん用は低い特注型です。仕立屋用は、複数人が使える標準高さにします」
「全員が座れるのか」
「木製模型で確認します」
直人は工房から借りた高さ調整台を示した。
「今から?」
「契約前に、主要寸法を決めます」
「また全員を座らせるつもりか」
「身長の違う三人ほどで十分です」
女性職人たちから、背の高い者。
小柄な者。
平均的な体格の者。
三人が選ばれた。
仮便座の高さを変えながら、足裏、膝、立ち上がりを確認する。
「一番低い方が、小柄な人には楽ですね」
オルドが言う。
しかし、小柄な職人は首を振った。
「座る時は楽ですが、立ち上がる時に力が要ります」
「高い方は?」
「足が少し浮きます」
中間の高さ。
足裏が床へつく。
膝が曲がりすぎない。
「これがいいです」
背の高い職人も座る。
「少し低いが、問題はない」
「背の高い利用者には、低く感じる可能性があります」
直人が言う。
「ただ、便器本体を高くすると、小柄な人の足が浮きます」
「足置きを付ければ?」
オルドが尋ねる。
「小柄な人だけ、移動式の足置きを使う方法があります」
「固定しないのか」
「多くの人が使うので、固定すると背の高い人の邪魔になります」
「動かした後、戻さない者がいるぞ」
「壁へ収納位置を作ります」
また設備が一つ増える。
オルドは額を押さえた。
「便器は座るだけの器ではなかったのか」
「最初は、俺もそう説明していました」
「今は違う?」
「多くの人が安全に使う設備です」
◇
試座を終えると、テオがガルドの工房から到着した。
手には木型の一部と、親方からの伝言がある。
「親方からです」
「何と言っていました?」
直人が尋ねる。
「標準型の寸法を今日中に持ってこい。何度も変えるなら工房へ入れるな、と」
「契約前に最終寸法まで決めるのか?」
オルドが驚く。
「便器本体の高さと、排水接続位置は決めます」
「契約しなければ?」
「記録は次の標準便器へ使えます」
「うちの職人が座った結果を、ほかの客へ使うのか」
「個人名は出しません。体格差に対応するための設計値として使います」
「その分、安くなる?」
リリアが笑った。
「試座協力分として、銅貨一枚値引きするわ」
「一枚だけか」
「三人が一度座っただけで、銀貨一枚は出せない」
「では、あと銅貨三枚だ」
オルドは見積書を見つめる。
「古い型紙と壊れた椅子を処分する費用は?」
「現在、見積もりへ入っています」
「私たちで処分すれば?」
「銅貨一枚減ります」
「壁の内側に使う布は、店の端布を出す」
「防音材として使える厚さなら、銅貨一枚減らせます」
「残り一枚」
「廃棄箱を、店で作る?」
「木箱は作れん」
女性職人の一人が手を挙げた。
「布を張った袋では駄目ですか」
「使用済みの布を入れるので、染み出しと臭いが問題です」
直人は答えた。
「内側に交換できる防水袋を入れる方法なら可能です」
「袋なら縫えます」
「弾樹を薄く塗った布は作れますか」
リリアが尋ねる。
「防水外套を作る時の端布がある」
「蓋付き木箱より安くなる?」
テオが簡単な計算をする。
「銅貨一枚以上、下げられます」
オルドが机を叩いた。
「これで銀貨三枚だ」
「必要な性能が確認できれば」
直人は防水布の見本を確認した。
液体を垂らす。
すぐには染みない。
縫い目から少しずつ水が出た。
「縫い目へ防水材を追加してください」
「自分たちでできます」
「交換用を二枚作る?」
「洗って乾かしている間に必要です」
「分かった」
オルドは革袋から銀貨を一枚取り出した。
「二台目準備案を、銀貨三枚で頼む」
食堂の空気が変わった。
「契約条件を、最後まで確認してください」
リリアはすぐに銀貨へ手を伸ばさなかった。
「まだあるのか」
「工事内容、支払い、納期、保証、保守、利用者側の役割」
「説明を聞けば、今日中に契約できるのだな?」
「双方が合意すれば」
オルドは椅子へ座り直した。
「聞こう」
◇
契約書は、項目ごとに読み上げられた。
第一号では、エッダと話し合いながら作った条件。
その経験を基に、今回は最初から紙へ整理してある。
「便器本体は、異世界製標準型第二号」
リリアが読む。
「試作品であるため、形や色にわずかな差が生じる可能性がある。ただし、強度、漏水、洗浄、水位保持の試験に合格しないものは引き渡さない」
「色はナーラの便器と同じか」
「薄い青灰色の予定です」
直人が答える。
「店の布に合わせ、緑にはできないか」
「釉薬試験から必要です」
「追加費用は?」
「色指定は別料金です」
「青灰色でいい」
決断が早い。
「納期は、契約後二十五日から四十日の間」
「幅が広い」
「乾燥と窯の状態で変わります」
「四十日を超えたら?」
「進捗と理由を報告し、契約継続か一部返金かを協議します」
「全額返せ」
「便器が完成している場合は、材料と製造分を差し引きます」
「では、早く作れ」
「急がせて割れたら、さらに遅れます」
オルドは唸ったが、条件を受け入れた。
「支払いは、契約時に銀貨一枚」
リリアが続ける。
「便器の素焼き合格と工事材料搬入時に銀貨一枚。設置後の引き渡し時に銀貨一枚」
「二台目の材料予約は?」
「最初の銀貨一枚の一部を充てます。二台目を取り消す場合は、未使用分を精算」
「保証は?」
「通常使用による不具合は三十日。施工不良は、それ以後も無償対応。布、食べ物、針、はさみなどを流した場合は有償」
「針を流す者がいるか?」
仕立屋の職人たちが、一斉に目をそらした。
オルドが気づく。
「いるのか?」
「衣服へ挿したまま、落とすことはあるかもしれません」
小柄な職人が答えた。
「便所へ針を持ち込まないでください」
直人が言う。
「仕事着に付いている時は?」
「入口へ針置き箱を作りましょう」
「また箱か!」
オルドが叫ぶ。
「小さな蓋付き箱で十分です」
「端材で作れば費用内に入る」
テオが言った。
「なぜ、お前まで費用を決める」
「親方から、余計な赤字を出すなと言われています」
「ガルドの弟子まで商売を覚え始めたわね」
リリアが笑った。
「管理者は、店主オルド。または指名した担当者」
「私が毎朝見るのか」
「担当者を決めても構いません。ただし、最終責任は店主です」
「清掃は?」
「従業員全員で当番制。勤務時間内に行う。女性用便所の清掃は、営業時間外に担当者二名で実施」
「二名必要?」
「一人が体調を崩した場合や、便器を動かす必要がある異常時の安全のためです」
「毎回二人で床を拭く必要はありません。通常清掃は一人、週一回の詳細点検は二人でもよいです」
直人は運用を調整した。
利用者の要望と、店の負担。
安全と継続性。
すべてを最大にするのではなく、続けられる線を探す。
「給水は、ミーナと一月契約」
「はい」
ミーナが自分の契約書を差し出した。
「毎朝、通常槽と予備槽へ決めた量を入れます。異常を見つけた場合は、使用停止板を掛け、銀月亭へ報告します」
「水切れは保証する?」
「私が契約どおり給水せず水切れした場合は、その日の給水費を返します。ただし、予定以上に使用した場合や、水を別の用途へ使った場合は対象外です」
「厳しいな」
「正確に決めておく方が、お互いに安心です」
オルドは契約書を見た。
そして、自分の名を記入した。
「これでいい」
リリアも銀月亭側の署名をする。
直人は施工担当者。
ガルドは製造責任者として、工房へ持ち帰って署名する。
ミーナは給水契約。
「契約成立です」
リリアが銀貨を受け取った。
異世界製便器第二号の、正式な注文だった。
◇
契約成立後、テオはすぐに工房へ走った。
「親方へ伝えてきます!」
「転ばないでください!」
「はい!」
返事だけが遠ざかる。
オルドは第一段階の完成図を見ていた。
「水洗便所一つに、これだけの者が関わるのだな」
「便器製造、木工、排水、給水、汲み取り、清掃があります」
「以前の便所も同じだったのか?」
「見えにくかっただけです」
便壺を作る陶工。
便所小屋を建てる大工。
毎日掃除する人。
壺を運ぶ人。
汲み取る人。
水を用意する人。
設備が簡素でも、誰かの労働が消えるわけではない。
「水洗にすれば、楽になると思っていた」
「減る仕事はあります」
「新しい仕事も増える」
「はい」
「それでも、作る価値はある?」
直人は作業場を見た。
物置便壺を使う時、外へ見張りを立てる女性職人。
昼の便所待ち。
雨の日の濡れた通路。
重い大壺。
臭い。
「安全と安心のための仕事へ変えられます」
「汚物を抱えて運ぶ代わりに、水を補充し、点検する?」
「清掃も、今よりしやすくなります」
「故障すれば、また面倒だ」
「だから、屋外便所を予備として残します」
「全部なくなるわけではないのだな」
「一度にすべてを変えなくていいんです」
オルドはゆっくりうなずいた。
「段階施工という言葉の意味が、少し分かった」
◇
その日の夕方。
ガルドの工房では、標準型便器第二号の木型が作業台へ載せられていた。
「遅い!」
工房へ入った直人を、ガルドの怒声が迎えた。
「契約条件の確認に時間がかかりました」
「寸法は?」
「こちらです」
直人は試座結果を渡した。
完成時の便座高さ。
鉢の幅。
前後長。
便座固定穴。
給水口。
排水口。
床との接続寸法。
「ナーラ用より高い」
「標準型です」
「後方の洗浄穴は一号より下へ向ける」
「釉薬がたまる分も見込んでください」
「分かっておる」
「固定穴は、焼成後に標準金具が合うよう外側へ」
「それも分かっておる!」
「右側の歪み対策は?」
「専用台の形を変えた」
ガルドは新しい焼成台を指した。
第一号の底形状を写し、収縮時に荷重が偏りにくいよう中央の支えを広くしている。
「乾燥中の重量記録も続けます」
「テオがやる」
「鉢の成形も?」
「テオがやる」
直人は驚いた。
「任せるんですか」
「俺が横で見る」
工房の隅では、テオが緊張した顔で粘土を練っている。
第一号では、ガルドがほとんどの成形を行った。
第二号では、弟子が鉢を担当する。
「失敗したら?」
直人が尋ねた。
「作り直す」
ガルドは短く答えた。
「記録して?」
「当たり前だ!」
言葉は怒鳴り声だったが、内容は以前と変わっている。
感覚だけでなく、記録を残す。
弟子へ作らせる。
失敗を次へ使う。
「土を入れます」
テオが木型へ最初の粘土を置いた。
手が少し震えている。
「力を入れすぎるな」
ガルドが言う。
「厚みが変わる」
「はい」
「外側だけ見ず、中の曲線を意識しろ」
「はい」
「返事より手を動かせ!」
テオは息を整え、粘土を押し広げる。
直人は厚み測定用の木針を用意した。
「測りますか」
「まだ早い!」
「どの段階で?」
「形が半分できてからだ」
「記録します」
「お前もテオも、すぐ紙へ書く!」
工房に、怒声と木べらの音が響いた。
異世界製便器第二号。
それは第一号の単なる複製ではない。
多くの人が使える標準寸法。
交換可能な接続部。
修正された洗浄穴。
弟子へ受け継がれる製造方法。
そして、二台目の設置を見据えた現場設計。
一つの特注品から、繰り返し作れる製品へ。
便器作りは、次の段階へ進み始めていた。
「ナオト」
リリアが工房の入口から呼んだ。
「何ですか」
「金鹿亭から使いが来ている」
「回答期限は明日では?」
「条件を変えるそうよ」
「独占販売を外す?」
「まだ分からない」
リリアは手にした封書を見た。
「代わりに、銀月亭では受けられない要求を追加してきた」
「何を?」
「客室ごとに、便所を置きたいそうよ」
直人は言葉を失った。
「最初は三台では?」
「将来の話ではなく、最初から十室分を見積もってほしいらしい」
工房の中で、ガルドの木べらが止まった。
「十台?」
「はい」
「俺を殺す気か!」
怒声が窯まで震わせた。
異世界製便器第二号が、まだ柔らかな土の状態であるにもかかわらず。
注文の話だけは、すでに十台先へ進もうとしていた。
仕立屋《金糸の針》には、最低限案、二台目準備案、一括完成案の三種類を提示しました。
利用記録から将来的に二台必要となる可能性が高いと判断し、処理槽と排水主管を先に二台分施工する契約が成立します。
第二号便器は、ナーラ専用の特注型ではなく、多くの人が使える標準型として製造を開始しました。
次回は、金鹿亭が提示した客室十室への便所設置要求を検討します。しかし、単に便器が十台必要という話では済みません。




