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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

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第24話 便所掃除を罰にしないでください

次の調査先は、一日に七十人近い客が訪れる食堂《赤鍋亭》です。


店主のバルドは、水洗便器を一台設置すれば臭いも汲み取りも解決すると考えていました。


しかし、飲食店の衛生を支えるのは、便器だけではありません。

 《赤鍋亭》は、昼前から満席だった。


 大鍋で煮込まれた赤いスープ。


 香辛料を塗って焼いた肉。


 厚く切った黒パン。


 店内には食欲を刺激する香りと、客たちの話し声が満ちている。


「繁盛していますね」


 陶山直人が言うと、店主のバルドは胸を張った。


「この町で腹いっぱい食いたければ、うちへ来る」


「一日に昼三十人、夜四十人ほどでしたね」


「多い日は、もっと来る」


「従業員は?」


「私を入れて七人だ」


「全員が、この便所を使いますか」


「ああ。客も従業員も同じだ」


 直人、リリア、ミーナ、ボルグの四人は、客席を横切って店の裏へ向かった。


 厨房の横には細い通路がある。


 食材を運ぶ者。


 皿を下げる者。


 薪を抱える者。


 便所へ向かう客。


 すべてが同じ通路を使っていた。


「危ない!」


 大皿を抱えた給仕が、便所から戻ってきた客とぶつかりかける。


 皿の上のスープが大きく揺れた。


「すまない」


「気をつけてください!」


 給仕は客を避け、そのまま厨房へ入った。


「この通路しかないのですか」


 直人が尋ねる。


「表の客席を通るより早い」


 バルドが答えた。


「食材も、この道から入れますか」


「裏口があるからな」


 通路の先には、食材搬入口。


 その隣に便所。


 さらに奥には、便壺を運び出すための小さな戸があった。


 清潔な食材。


 使用済みの食器。


 便所を利用した人。


 汚物を入れた壺。


 それらが同じ狭い通路を通っている。


「まず、動線を分ける必要があります」


「どうせ便所を水洗にするのだろう?」


 バルドが言う。


「便壺を運ばなくなれば、問題は消える」


「汚物の運搬は減ります。ただし、便所を使った人と食材が同じ道を通る問題は残ります」


「人が歩くだけだぞ」


「手を洗わずに厨房へ戻る人がいれば、汚れも戻ります」


「うちの従業員は手を洗っている」


「どこで?」


 バルドは厨房を指した。


「水桶がある」


 直人たちは厨房へ戻った。


 入口近くに、大きな水桶が一つ。


 その横には木製の柄杓。


 給仕が手をすすぐ。


 次に料理人が同じ柄杓で鍋へ水を足す。


 別の従業員が汚れた皿を洗う。


 飲み水、調理用水、手洗い、食器洗浄。


 すべて同じ桶が使われていた。


「この水は、どのくらいで交換しますか」


「汚れたらだ」


 バルドが答える。


「誰が判断します?」


「見れば分かる」


 桶の水は、すでに少し濁っている。


 底には野菜くずが沈んでいた。


「手洗い用と調理用は分けてください」


「水桶を増やせと言うのか」


「はい」


「便器を買う話だったはずだ」


「飲食店へ水洗便器を設置する調査です。厨房の衛生と切り離せません」


「便所の水が厨房へ流れ込むわけではない」


「人の手と道具が行き来しています」


 バルドは不満そうに眉を寄せた。


「また仕事を増やすつもりか」


「すでにある危険を減らします」


 リリアが小声で呟く。


「その言い方、本当に便利ね」


「事実です」


          ◇


 赤鍋亭の便所は、建物の裏側に増築された小屋だった。


 入口の前には、三人の客が並んでいる。


「昼はいつもこうですか」


 直人が尋ねた。


「食事の後はな」


 一人目の客が出る。


 二人目が入る。


 待っていた三人目の男性が腹を押さえた。


「まだか」


「一つしかないのだから待て」


「裏の壺を借りるぞ」


 男は厨房脇の物置へ向かおうとした。


 バルドが腕をつかむ。


「今日は調査中だ。待て」


「間に合わなかったら、店の床へするぞ」


「脅すな!」


 直人は利用が集中する時間を記録した。


 便所一室。


 待ち人数三人。


 代替用便壺あり。


 ただし、代替場所は物置で、正式な便所ではない。


「二台必要だと分かっただろう」


 バルドが言う。


「混雑については、可能性が高いです」


「まだ言い切らないのか」


「何分間、どの程度並ぶか測ります」


「見れば分かる」


「一日だけ混んでいる可能性もあります」


「毎日だ」


「では、記録でも確認できるはずです」


 直人は小さな計数板を入口へ取り付けた。


 仕立屋で使ったものを改良し、利用者が入る時に木玉を一つ動かす。


 朝。


 昼。


 夕方。


 時間帯ごとに列が分かれている。


「客に数えさせるのか」


「最初の三日間だけです」


「酔った客は忘れるぞ」


「給仕の方にも確認してもらいます」


「また従業員の仕事が増える」


「便器と処理槽の容量を決めるためです」


 直人は別の板も用意した。


 便所へ並んでいる人が三人以上になった場合、給仕が赤い印を一つ付ける。


 単なる利用回数だけでなく、混雑の発生回数を知るためだ。


「三日後に、この結果で一台か二台か判断します」


「二台に決まっている」


「バルドさんは先ほど、一台から始めたいと言っていました」


「お前が二台必要そうな顔をするからだ」


「俺の顔ではなく、記録で決めます」


          ◇


 便所内は暗く、床が湿っていた。


 中央には、しゃがんで使う穴。


 下には大型の便壺。


 壁際には、細く裂いた紙と、古布を入れる籠がある。


「布は流しませんね」


 直人が確認する。


「流すものなどないだろう」


 バルドが答えた。


 現在は汲み取り式なので、すべて便壺へ落ちる。


「水洗にした後、布を便器へ入れる客が出る可能性があります」


「銀月亭の失敗は聞いている」


「だから、捨てる場所を明確に分けます」


 籠には蓋がない。


 使用済みの布が見え、臭いも出ている。


「蓋付きにしてください」


「また箱を買うのか」


「厨房で余った木箱を使えませんか」


「油が染みているものならある」


「油の付いた箱は避けます。虫が寄ります」


 便所の床には、黒い染みが広がっていた。


 直人がしゃがみ、携帯用ライトを斜めから当てる。


「水だけではありません」


「何だ?」


「油のようなものが付いています」


 バルドは従業員を呼んだ。


「誰か、便所へ油を捨てているのか?」


 返事はない。


 厨房で鍋を洗っていた若い従業員が、目をそらした。


「あなたですね」


 直人が静かに言う。


「全部ではありません」


「何を捨てました?」


「鍋の底に残った脂と、細かい食べ物だけです」


「なぜ便所へ?」


「厨房の排水溝へ捨てると、ネズミが来るので」


「便壺なら、どうせ汚物と一緒に回収されると思った?」


 若い従業員はうなずいた。


 バルドが怒鳴る。


「勝手なことをするな!」


「でも、先輩もやっています!」


 別の従業員が反論する。


「洗い場に流すなと言われたから、便所へ捨てたんです!」


「誰が言った!」


「バルドさんです!」


 今度は店主が黙った。


 厨房の排水溝へ脂を流せば詰まる。


 だから流すなと命じた。


 しかし、代わりの処理方法を決めなかった。


 従業員は、便壺へ入れる方法を選んだ。


「水洗便器へ脂や食べ物を流すと、詰まりの原因になります」


 直人は言った。


「では、どこへ捨てる」


「厨房廃棄物として分けます」


「今も野菜くずは豚の餌へ回している」


「脂は?」


「捨てている」


「冷まして固め、別の蓋付き容器へ集めます。再利用できるか、処理方法を確認しましょう」


 ボルグが床の染みを見た。


「脂の多い汚物は、処理場でも扱いにくい」


「そうなのか?」


 バルドが聞く。


「表面へ膜ができる。虫も寄る。運搬桶の内側へ付いて落ちにくい」


「今まで何も言わなかっただろう」


「赤鍋亭の壺だけ、いつも洗いにくいとは思っていた」


「なら言え!」


「聞かなかっただろう」


 バルドとボルグが睨み合う。


「これからは、回収時に内容を確認してください」


 直人が間へ入った。


「食べ物や脂が混ざっていれば、店へ報告する」


「追加費用を取るぞ」


 ボルグが言う。


「なぜだ!」


「普通の汚物より洗浄に手間がかかる」


「従業員が勝手に捨てた!」


「処理方法を決めるのは店主だ」


 バルドは言い返せなかった。


          ◇


「清掃の担当者を教えてください」


 直人が尋ねた。


「その日に失敗した者だ」


「失敗?」


「皿を割った。遅刻した。注文を間違えた。そういう者に便所を掃除させる」


 直人は手帳へ書こうとして、手を止めた。


「便所掃除を罰にしているのですか」


「仕事の失敗には罰が必要だ」


「では、今日は誰が担当です?」


「まだ決まっていない」


「昨日は?」


 バルドは従業員たちを見た。


「誰だった?」


 返事はなかった。


「一昨日は?」


 誰も答えない。


 床が湿り、使用済み布の籠が満杯に近い理由が見えた。


 清掃担当は、仕事を失敗した者。


 失敗者がいなければ、担当者もいない。


 あるいは、誰かが失敗しても、罰を避けるため黙っている。


「便所掃除を罰にしないでください」


 直人は言った。


 バルドの顔が険しくなる。


「店のやり方へ口を出すのか」


「水洗便器を設置する条件です」


「便器を買うのは私だ」


「管理する人が決まらなければ、販売できません」


「金は払う」


「金を払っても、清掃されない便器は汚れます」


「誰でも掃除できる」


「誰でもできる仕事は、誰も担当しない仕事になりやすいです」


 若い給仕が、小さくうなずいた。


 バルドはそれを見逃さなかった。


「お前たちは、掃除が嫌なのか?」


 誰も答えない。


「嫌だと言って構いません」


 リリアが従業員たちへ言った。


「店主の前で言えるわけがないだろう」


 バルドが返す。


「だから、あなたは厨房へ戻って」


「私の店だぞ」


「実際に掃除する人から話を聞くの」


「私も聞く権利がある」


「あなたがいると本音が出ない」


「なぜ分かる!」


「今、誰も話さないからよ」


 バルドは反論しようとしたが、直人とボルグまで自分を見ていることに気づいた。


「半刻だけだ」


 そう言い残し、厨房へ戻った。


          ◇


 バルドがいなくなると、従業員たちは少しずつ話し始めた。


「掃除をしたくないわけではありません」


 最年長の給仕、マーヤが言った。


「でも、罰としてやらされるから、恥ずかしいんです」


「ほかの人から、失敗した者だと見られる?」


「はい」


「清掃道具は?」


「古い布と、灰と、水桶です」


「手袋は?」


「ありません」


「清掃後、着替えますか」


「そのまま仕事へ戻ります」


「手洗いは?」


「厨房の桶で」


 調理用水と同じ桶。


 直人は手帳へ書き込んだ。


「便壺を外へ出すのは誰ですか」


「掃除を命じられた人です」


「一人で?」


「はい」


「重くありませんか」


「重いです」


「こぼしたことは?」


 マーヤは答えなかった。


 若い従業員が代わりに言う。


「先月、私は通路でこぼしました」


「その後は?」


「水を流して、布で拭きました」


「使った布は?」


「厨房の洗い場で洗いました」


 便所の汚れを拭いた布が、皿や調理器具を洗う場所へ持ち込まれている。


「清掃道具を厨房へ入れないようにしましょう」


「どこへ置けば?」


「便所の外に専用箱を作ります」


「洗う場所は?」


「食器洗いとは分けます」


「また新しい水場が必要になるわ」


 リリアが言う。


「小型の清掃用水槽と排水受けを設けます」


「水洗便器へ流せばいいのでは?」


 給仕の一人が尋ねた。


「清掃で使った布や大きな汚れを便器へ入れないでください。水だけなら、量を確認した上で流せます」


「水洗になっても、何でも流せるわけではないのですね」


「はい」


「それを客全員へ説明するの?」


「絵の掲示を付けます。ただし、酔った客もいます」


 直人は少し考えた。


「布入れの位置を、便器より使いやすい場所へ置きます」


「説明より、間違えにくい配置にする?」


 リリアが尋ねる。


「はい。利用者が迷わない構造にします」


 水洗便器の横へ蓋付きの布入れ。


 壁には、便器へ入れてよいものと、悪いものの絵。


 操作紐は一回だけ。


 詰まり時の赤い板。


 清掃担当者の名札。


「清掃担当は、どうしたいですか」


 直人が従業員たちへ尋ねる。


「交代制なら」


 マーヤが答えた。


「ただし、料理を作る者が掃除した直後に厨房へ戻るのは嫌です」


「勤務の最後に担当する方法は?」


「夜は疲れています」


「開店前と閉店後に分ける?」


「朝は簡単な点検。夜に本清掃ならできると思います」


「手当は必要ですか」


 リリアが尋ねた。


 従業員たちは顔を見合わせる。


「付くなら助かります」


「便所掃除に金を払う店は聞いたことがありません」


 若い料理人が言った。


「だからこそ、仕事として扱えます」


 直人は答えた。


「罰ではなく、店の衛生を守る担当です」


「店主が払うでしょうか」


「交渉します」


          ◇


 バルドが戻ると、リリアがまとめた案を読み上げた。


「清掃は罰ではなく、交代制の正式業務にする」


「手当を付けろと言うのか」


「一回ごとに銅貨一枚では高すぎるから、月の担当手当として決める」


「なぜ追加で払う」


「便所が汚れれば客が減る。詰まれば営業できない。店の利益を守る仕事だから」


「今までも仕事の一部だった」


「なら、担当を決めて、時間を確保するだけでもいいわ」


「手当なし?」


 マーヤが小さく言う。


 バルドが従業員を見る。


 リリアが先に続けた。


「手当を付けないなら、ほかの仕事を減らす。料理と給仕を終えた後に、無償で追加作業を押しつけるのは駄目」


「私の店の働き方まで決める気か」


「便器の保守条件として、必要な作業時間を確保してもらうだけ」


「断ったら?」


 直人が答えた。


「水洗便器の設置契約は受けられません」


「またそれか」


「一日に多くの人が使う設備です。管理者不在では、故障の可能性が高すぎます」


 バルドは長い間黙っていた。


 厨房では鍋が煮え、客席から注文の声が飛んでくる。


 忙しい店だ。


 余裕がないことも事実だった。


「朝は開店前に床と水を確認する」


 バルドが言った。


「夜は二人一組で掃除する」


「一人ではなく?」


「便壺が重い。水洗になっても、床や布箱を運ぶ仕事はあるのだろう」


「はい」


「担当日は、厨房の片づけから外す」


「手当は?」


 リリアが聞く。


「月に銅貨二枚」


 従業員たちが驚いた顔をした。


「少ない?」


 バルドが尋ねる。


「最初の一月、それで試しましょう」


 マーヤが答えた。


「作業時間と負担を記録し、見直します」


 直人が言う。


「また記録か」


「続けられるか確認するためです」


「分かった。だが、便所掃除を怠けた者は罰するぞ」


「正式な担当業務を怠った場合は、別の話です」


「何が違う」


「便所掃除そのものを、恥ずかしい罰にしないことが大切です」


 バルドは完全には納得していない。


 それでも、従業員の前で清掃を正式な仕事として扱うと約束した。


          ◇


 次に、処理量を確認した。


 大型便壺は、前日に空にしたばかりだった。


 それでも、昼営業が終わった時点で、すでに底から指四本ほどの高さまでたまっている。


 便所の利用分だけではない。


 脂。


 食べ残し。


 清掃水。


 それらも混ざっていた。


「今日から、厨房のものを便壺へ捨てるのは禁止です」


 直人が言う。


「脂用の容器を用意します」


「誰が回収する」


「食用へ戻せるものと、廃棄するものを分けましょう」


 バルドが首を傾げる。


「一度使った脂を、また使うのか?」


「食べられる状態かは料理人に判断してもらいます。廃棄する脂も、灯りや石けんの材料になる可能性があります」


「石けん?」


 ミーナが反応する。


「元の世界では、油と灰から作る方法があります」


「作れるのですか」


「正確な配合は試す必要があります」


「便器の次は石けんまで作るつもり?」


 リリアが呆れた。


「手洗いに必要です」


「すぐに仕事を増やす」


「今は、町で手に入る石けん草を使います」


 赤鍋亭では、香りの強い石けん草を煮出した液を、洗濯に使っている。


 手洗い用には刺激が強くない濃さを試す必要がある。


「治療院で相談しましょう」


「治療契約が、もう役に立つわね」


 リリアが言った。


 便器事業。


 治療院。


 水魔術師。


 汚物回収者。


 一つの現場が、別の現場とつながり始めている。


          ◇


 裏庭には、処理槽を作れる土地があった。


 ただし、一台用なら十分でも、二台を一日何十回も使うには余裕が少ない。


「店の後ろは町の道だ」


 ボルグが言う。


「横は隣の倉庫。広げられるのは、この角だけだ」


「深くすれば?」


 バルドが尋ねる。


「深い槽は、汲み取りが難しくなる。崩れた時も危険だ」


「では二台は置けないのか」


「一つの処理槽へ二台つなぐことはできます。ただし、容量と汲み取り回数を考える必要があります」


 直人は利用回数を仮に計算した。


 客が一日七十人。


 全員が便所を使うわけではない。


 従業員七人。


 昼と夜に集中。


 一回の洗浄水量。


 清掃水。


 処理槽の有効容量。


「現在の試作便器と同じ水量では、かなり多くなります」


「水を減らせないのか」


「少なすぎると流れません」


「一回の量を調整した便器を作る?」


 ミーナが尋ねる。


「将来的には必要です」


「赤鍋亭用の便器を別に作るのか?」


 バルドが期待する。


「まだ約束できません。まず、今の便器で必要な水量を正確に確認します」


「銀月亭の記録では足りない?」


「利用回数が違います」


「貯水槽を大きくすればよいのでは」


「大きな水槽は、床や壁へ負担をかけます。水を補充する人も必要です」


「ミーナを雇う」


「私は仕立屋と治療院の給水もあります」


 ミーナは以前よりはっきり答えた。


「毎日すべての店を回るには、時間と魔力の上限があります」


「金を多く払う」


「金額だけで水の量は増えません」


 バルドが言葉を失う。


 直人は少し感心した。


 水魔法を安く見ていたミーナが、自分の能力と限界を仕事の条件として説明している。


「井戸水とミーナさんの給水を組み合わせます」


「従業員も水を運ぶのか」


「予備水槽を満たす当番が必要です」


「便所のために、水運びまで増える」


「今は便壺を毎日運んでいます」


 ボルグが言った。


「どちらが重いか比べればいい」


 便壺の運搬。


 水の運搬。


 清掃。


 汲み取り。


 水洗にして減る仕事と、新しく増える仕事がある。


 それを隠して、「便利になります」とだけ説明してはいけない。


          ◇


 調査の結果、直人たちは三つの案を出すことにした。


 第一案。緊急衛生改善のみ。


 現在の汲み取り便所を使い続ける。


 ただし、厨房廃棄物の投入を禁止。


 清掃担当を正式業務化。


 手洗い用水を調理用水から分離。


 便壺運搬路と食材搬入の時間を分ける。


 蓋付き布箱と清掃用具箱を設置。


 第二案。水洗便器一台。


 現在の便所を水洗化。


 混雑時は、改修した仮設便所を予備として残す。


 家庭用より大きな貯水槽。


 処理槽を可能な範囲で拡張。


 利用回数と水量を一月記録。


 第三案。水洗便器二台。


 客用と従業員用、または男女別。


 二つ目の個室を物置部分へ設置。


 二台分の処理槽、給水、清掃担当を整える。


 最も費用が高い。


「私は第二案を選ぶ」


 バルドが即答した。


「まだ見積もりを出していません」


「一台で始める。混むなら、二台目を追加する」


「将来二台目を入れるなら、配管と処理槽は最初から二台分を考えた方が安くなる場合があります」


「仕立屋と同じ話だな」


「条件が似ています」


「どこへ行っても、将来二台と言うではないか」


「一日に七十人来る店で、一台だけが永遠に十分だとは言い切れません」


「まず一台だ」


「分かりました。二台目を追加できる構造で見積もります」


「施工の順番は?」


 バルドは革袋を叩いた。


「銀貨は用意してある」


「現場調査の結果を、受付基準へ反映します」


「治療院や金のない家より後か?」


「赤鍋亭にも、食事を提供する場所として衛生上の重要性があります」


「では先か?」


「仕立屋の契約状況、ガルドさんの製造予定、ほかの現場の危険度を確認して決めます」


「また決めないのか!」


 バルドの声が店内まで響いた。


 客たちが振り返る。


 リリアが静かに言った。


「大声を出しても、窯は一つしかないわ」


「金を払えるのだぞ」


「だから、事業を続けるためには重要なお客様よ。でも、先に約束した人を押しのけてよい理由にはならない」


「一日七十人が使う店だ」


「その数字も重要。今日の問題も重要。全部を見て決める」


 バルドは不満そうだった。


 それでも、以前のように革袋だけを見せて順番を買おうとはしなかった。


「三日後に利用記録を見に来い」


「伺います」


「それまでに見積もりも出せ」


「必要な職人へ確認してからです」


「遅い」


「間違った金額を早く出すよりいいです」


「本当に面倒な便器屋だ」


「設備は、買った後の方が長いですから」


          ◇


 調査を終え、店を出ようとした時だった。


 厨房から悲鳴が上がった。


「水桶が倒れた!」


 直人たちが駆け戻る。


 床には濁った水が広がり、野菜くずと脂が浮いている。


 水桶へぶつかった給仕が、転びかけて壁へつかまっていた。


 その横には、客席へ運ぶ予定の皿。


 水は皿の脚元まで届いている。


「料理を止めてください」


 直人が言う。


「床を拭けば使える!」


 バルドが叫ぶ。


「汚れた水が、食器へ跳ねています」


「全部ではない」


「どこまで跳ねたか分からないものは、客へ出せません」


「料理を捨てろと言うのか!」


 リリアが皿と床を確認した。


「少なくとも、床の近くにあったものは出さない方がいい」


「損が出る!」


「客が腹を壊すより小さい損です」


 治療院での調査が、すぐに別の現場へつながった。


 バルドは歯を食いしばった。


 やがて、料理人へ命じる。


「床へ近かった皿は下げろ。作り直せ」


 給仕たちが動く。


 直人は調理用の水桶と、手洗い・洗浄用の桶を分ける位置をその場で決めた。


「今日から分けます」


「水洗便器が来る前に?」


「今の危険は、今日から減らせます」


「桶を二つ増やせ」


 バルドが従業員へ言った。


「調理用には白い札。手洗い用には青い札。皿洗いは別だ」


「三つ必要です」


「三つだ!」


 つい先ほどまで水桶を増やすことへ反対していた店主が、自分から指示している。


「便所の清掃当番も、今日決める」


「罰ではなく?」


 マーヤが確認した。


「正式な仕事だ」


「手当は?」


 バルドは顔をしかめた。


「一月試すと言っただろう!」


 従業員たちの表情が少し明るくなった。


          ◇


 銀月亭へ戻った直人は、相談受付表の《赤鍋亭》の札を黄色から赤と青の中間へ移した。


「その色は何?」


 マルタが尋ねる。


「緊急改善を開始。水洗便器は見積もり中です」


「印が足りなくなってきましたね」


「状態を増やしすぎると分かりにくくなります」


 リリアが隣で新しい札を作りながら言う。


「赤鍋亭は、便器を待つ間に厨房の水と清掃運用を改善。治療院は洗浄場。ハンナ宅は交換式便壺」


「どの現場も、便器以外の仕事が先になっていますね」


「便器を売る話から始まったのに」


「便器だけでは、衛生は変わりません」


 直人は赤鍋亭の記録をまとめた。


 客と食材の動線。


 厨房の水桶。


 脂と食べ残し。


 清掃の罰制度。


 手袋なし。


 汚れた布を厨房で洗浄。


 一台の便所へ利用集中。


 限られた処理槽。


 水供給。


 問題は多い。


 だが、今日だけでも変わったことがある。


 調理用水と手洗い水を分けた。


 厨房廃棄物を便所へ捨てることを止めた。


 清掃を罰ではなく仕事にした。


「次は渡り鳥亭ですか」


 マルタが尋ねる。


「その前に、仕立屋の正式見積もりと金鹿亭への回答期限があります」


 リリアが言った。


「金鹿亭との交渉は、私が進める」


「独占条件は外してください」


「分かっている」


「便器本体の販売制限だけでなく、修理部品や施工方法も――」


「ナオト」


「何ですか」


「任せて」


 直人は少し迷い、うなずいた。


「お願いします」


「珍しく素直ね」


「役割分担です」


 受付台の奥から、銀月亭の洗浄音が響いた。


 ごぼん。


 一台の便器を動かすだけなら、紐を引けばいい。


 しかし、多くの人が安全に使い続けるには、人の働き方まで変える必要がある。


 便所掃除は、失敗した者への罰ではない。


 食堂の信用と、客の健康を守る仕事だ。


 直人は、その一文を赤鍋亭の管理説明書の最初へ書き加えた。

赤鍋亭では、一つの便所を一日多くの客と従業員が共用し、厨房の食べ残しや脂まで便壺へ捨てられていました。


さらに、便所掃除が失敗した従業員への罰とされ、担当者も作業時間も定まっていませんでした。


直人たちは、水洗便器を待たず、厨房用水と手洗い水の分離、廃棄物の分別、清掃の正式業務化を始めます。


次回は仕立屋《金糸の針》へ正式見積もりを提示し、異世界製便器第二号の製造契約を結べるかを検討します。

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