第23話 その壺を一人で運ばせないでください
次の緊急調査先は、腰を痛めた夫と暮らすハンナの家です。
夫は外の便所まで歩けず、寝室で便壺を使用しています。
その重い壺を毎日運んでいるのは、杖をつく高齢のハンナ一人でした。
ハンナの家は、町の北門に近い静かな場所にあった。
石壁と木材で造られた小さな平屋。
正面には古い井戸。
裏には野菜を育てる畑と、傾きかけた便所小屋がある。
「足元に気をつけておくれ」
杖をついたハンナが、直人たちを家へ案内した。
玄関前の石段は二段。
どちらも角が欠け、表面には苔が生えている。
「雨の日は滑りませんか」
陶山直人が尋ねる。
「滑るよ」
「転んだことは?」
「私はまだない」
「まだ?」
「夫は二度転んだ」
直人は玄関へ入る前に手帳を開いた。
玄関段差。苔。転倒歴二回。
「今日は便所の調査ですよね?」
同行しているリリアが言った。
「便所へ行くまでの道も設備の一部です」
「水洗便器を寝室へ置くなら、玄関は関係ないでしょう?」
「水、汲み取り、清掃、介助者の出入りに使います」
「家へ入る前から仕事が増えたわね」
「問題が先にあっただけです」
リリアはもう反論しなかった。
この数日で、直人が同じ答えを返すことを覚えている。
◇
寝室には、薬草と湿った木の匂いがこもっていた。
窓は一つ。
閉じられた木戸の隙間から、細い光が入っている。
部屋の奥にある寝台では、一人の老人が上半身を起こしていた。
「夫のヨルクだよ」
ハンナが紹介する。
ヨルクは痩せていた。
灰色の髪と深い皺。
腰から下には厚い毛布が掛けられている。
「便器屋だそうだな」
「施工を担当している陶山直人です」
「同じことではないのか」
「最近は、同じように扱われています」
ヨルクは小さく笑った。
寝台の横には木製の椅子。
その下に、蓋のない陶器壺が置かれている。
椅子の座面中央には丸い穴が開いていた。
簡易的な腰掛け便所だ。
「これを使っていますか」
「ああ」
「寝台から一人で移ります?」
「調子のいい日はな」
「悪い日は?」
「私が支えるよ」
ハンナが答える。
直人は寝台と椅子の距離を測った。
わずか三歩。
しかし、床板の一部が沈み、椅子の脚も少しぐらついている。
「実際に移るところを見せてもらえますか」
ヨルクの顔が曇った。
「今、便所を使えというのか」
「排泄する必要はありません。服を着たまま、寝台から椅子へ座れるか確認したいです」
「見世物ではないぞ」
「分かっています」
直人はすぐに頭を下げた。
「無理にお願いはしません。普段どこへ手を置き、どちらの足から動かすかだけ、言葉で教えていただいても構いません」
ヨルクは黙った。
リリアが直人の袖を引く。
「外へ出た方がいい?」
「男性の俺がいた方が話しやすい場合もあります」
「本人に聞きなさい」
直人はヨルクへ向き直った。
「調査に立ち会う人を選んでください。俺、リリア、ハンナさん。必要な人だけ残ります」
ヨルクはしばらく考えた。
「妻は残ってくれ」
「もちろんだよ」
「便器屋も残れ」
「分かりました」
「若い娘は外で待っていてくれ」
「承知しました」
リリアは不満を見せず、部屋を出た。
利用者本人が、誰に何を見せるかを決める。
当たり前のことだ。
だが、直人は施工条件を確認することへ集中しすぎて、その当たり前を忘れかけていた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
ヨルクは寝台の端へ体を寄せた。
両腕で上半身を支える。
右足を床へ下ろす。
続いて左足。
その瞬間、顔が歪んだ。
「腰が痛みますか」
「いつものことだ」
「無理をしないでください」
「見なければ分からんのだろう」
ヨルクは寝台の柱を右手でつかみ、左手を椅子の背へ伸ばした。
椅子が揺れる。
「待ってください」
直人が椅子を押さえた。
「普段も動きますか」
「動く」
ハンナが答えた。
「壁へ寄せても、使う時には少し前へ出さなければならないんだ」
ヨルクは腕の力で立ち上がろうとした。
腰が伸びない。
膝も震えている。
直人とハンナが左右から支えた。
一歩。
半歩。
体の向きを変える。
椅子へ腰を下ろす直前、ヨルクの右足が床板のくぼみに引っかかった。
「危ない!」
直人が胴を支える。
椅子へ座ることはできた。
しかし、直人がいなければ転んでいた可能性がある。
「いつも、この床を通りますか」
「ほかに道はない」
「夜は?」
「ランプをつけるよ」
ハンナが壁の小さな油灯を指した。
寝台から手を伸ばしても届かない位置だった。
「ランプをつけるのは誰ですか」
「私だ」
「ハンナさんが別の部屋にいる時は?」
「呼ぶ」
「間に合わなければ?」
ヨルクは答えなかった。
便所へ行きたいと感じてから、毎回妻を呼ぶ。
夜中でも。
ハンナが眠っていても。
一人で行こうとすれば、転ぶ危険がある。
「戻るところも見せますか」
ヨルクが言う。
「今は休んでください」
「調査だろう?」
「危険は十分に確認できました」
直人はヨルクを支え、寝台へ戻した。
◇
椅子の下にある便壺は、半分ほど中身が入っていた。
蓋はない。
持ち手もない。
丸い胴を両腕で抱えるしかない形だった。
「これを毎朝運びますか」
「朝と夕方だよ」
ハンナが答える。
「一日二回?」
「量が少なくても、臭いが部屋へ残るからね」
「外のどこへ運びます?」
「裏の便所小屋にある大壺へ移す」
「そこまでの道を見せてください」
直人、リリア、ハンナの三人で家の裏へ回った。
寝室から便所小屋までは、二十歩ほど。
途中に狭い戸口。
一段の高い敷居。
土の通路。
畑の縁。
最後に、便所小屋の石段。
「この壺を抱えて歩くのですか」
「そうだよ」
「杖は?」
「持てない」
便壺を両腕で抱えれば、杖を使えない。
ハンナは何かへつかまることもできず、重い壺を持って歩いていた。
「こぼした場所は?」
「ここだね」
寝室の戸口近く。
「それから、この畑の角」
「転んだことは?」
「一度だけ膝をついた」
「怪我は?」
「少し擦りむいたくらいだよ」
直人は足を止めた。
「今日から、一人で運ばないでください」
「では、誰が運ぶんだい?」
「方法を変えます」
「便器ができるまで、何か月も部屋へ置いておけないよ」
「置いたままにはしません」
直人は便所小屋を確認した。
中には、地面へ半分埋められた大型の陶器壺。
ハンナは寝室の小壺をここへ運び、中身を移している。
縁が高く、小柄なハンナの腰付近まである。
「この中へ持ち上げる時も危険です」
「前へ傾けるだけだよ」
「便壺の底が高い縁へ当たります。中身が跳ね返る可能性もある」
「今までは何とかなった」
「今まで何とかなったことは、次も安全という意味ではありません」
ハンナは困った顔をした。
「でも、お金はない」
「水洗便器ではなく、緊急改善の話です」
「それも金がかかるだろう?」
「材料と作業は必要です。ただ、全部を新品で作らず、使えるものを利用します」
リリアが家と便所小屋を見比べた。
「銀月亭の利益から出すの?」
「それだけでは続きません」
「では、どうする?」
「費用を分けます」
直人は手帳に書いた。
便壺そのもの。
移動用の台車。
床補修。
手すり。
照明。
回収作業。
「一番急ぐのは、便壺を運ばせないことです」
「台車で運ぶの?」
リリアが尋ねる。
「ハンナさんが押すなら、敷居と段差が問題です。それに、転倒の危険は残ります」
「では、誰かに頼む?」
「定期回収を考えます」
◇
ボルグを呼ぶと、彼は便所小屋の大壺を見てすぐに顔をしかめた。
「満杯に近い」
「次の汲み取り予定は?」
「ハンナから依頼が来なければ、まだ先だと思っていた」
「費用が払えなくてね」
ハンナが小さく言った。
「前回から、どれくらい経っていますか」
「二月近い」
「二人暮らしなら、量は少ない」
ボルグは棒を入れ、内部を確認した。
「だが、雨水が入っている」
小屋の屋根には穴がある。
壁を伝った雨水も、大壺へ入っていた。
汲み取り量が増え、費用も高くなる。
「屋根を直せば、余計な水を減らせます」
「また工事が増えたわ」
リリアが言う。
「汲み取り費用を減らすための工事です」
ボルグは寝室用の便壺を確認した。
「この壺は運びにくい」
「取っ手付きへ交換できますか」
「小さい密閉壺なら、処理場に予備がある」
「中古ですか」
「以前、薬屋が使っていた。中身は油だった」
「洗浄と安全確認が必要です」
「汚物用なら問題ないだろう」
「油が残って滑る可能性があります。蓋の密閉にも影響します」
「細かいな」
「抱えて運ばずに済む形が必要です」
ボルグが考える。
「壺を二つ用意する」
「交換式?」
「一つを寝室で使う。回収する時に蓋をして、新しい壺と入れ替える」
「ハンナさんが運ばないなら、誰が交換します?」
「俺の回収人が、この辺りを五日に一度通る」
「五日間、寝室に同じ壺を置くのは長すぎます」
「量は入る」
「臭いと衛生の問題です」
「では二日に一度」
「費用が上がる」
ハンナが不安そうに言う。
現金がない。
毎日の回収は続けられない。
「密閉できれば、回収間隔を延ばせます」
直人は便壺の構造を考えた。
使用時は椅子の下へ設置。
使用後に蓋を閉める。
壺の口と蓋の間へ、弾樹の柔らかな輪を入れる。
臭いを完全には止められなくても、減らせる。
壺は二つ。
回収時に交換。
運ぶのは回収担当者。
「壺を椅子から外す時、中身が見えないようにできますか」
リリアが尋ねた。
「蓋を閉じてから引き出せる構造にします」
「ヨルクさん本人が閉める?」
「手が届く位置へ蓋の操作棒を付けられます」
「複雑ではない?」
「まず簡単な方式を試します」
「また試作品ね」
「水洗便器だけが試作品ではありません」
ボルグが腕を組んだ。
「回収は俺たちがやる。ただし、無料では無理だ」
「いくら必要ですか」
「二日に一度なら、一月で銅貨十二枚」
ハンナの持ってきた全財産に近い。
「払えないよ」
「回収人にも生活がある」
「分かっている」
ハンナはうつむいた。
直人は、無料にしてほしいとは言えなかった。
汚物回収は危険で、重く、嫌がられる仕事だ。
ボルグたちへ善意だけで負担させれば、続かない。
「町の福祉や神殿の支援を使えないか、相談します」
「便所へ神殿が金を出すか?」
ボルグが尋ねる。
「治療院の件もあります。転倒防止と介護負担の軽減として説明します」
「かいご?」
「生活を一人で行うのが難しい人を助ける仕事です」
「妻が夫を助けるのは、家の仕事ではないのか」
「家族だけに、すべてを背負わせる必要はありません」
直人はハンナを見た。
「特に、その家族自身も杖を使っているなら」
◇
午後。
ロッカが到着し、寝室の床と椅子を調べた。
「椅子の脚は一本が短い」
「直せますか」
「脚を継ぐより、下の枠を作り直す」
「壺を前から引き出せるようにしてください」
「今は後ろからだな」
「後ろへ回る場所がありません」
「前へ扉を付ける。座っている間は開かないよう留め金も要る」
「利用者の体重で歪みませんか」
「横に補強を入れる」
「便座の高さは?」
ヨルクを再び無理に動かすのではなく、寝台で膝下の長さを測った。
今の椅子は少し低い。
立ち上がる時、腰と膝へ負担がかかっている。
「指二本分ほど高くする」
ロッカが言った。
「手すりも付けたいです」
「寝台側と、椅子の横か」
「右手で寝台の柱、左手で椅子をつかんでいました。椅子が動くので、壁側へ固定手すりを付けます」
「壁の柱が細い」
「床と天井の梁を使って、縦の支柱を立てられませんか」
「できる。取り外しも可能だ」
「夜の灯りは?」
「寝台から操作できる仕組みにするの?」
リリアが尋ねる。
油灯を寝台の近くへ置けば、火災の危険がある。
「紐で戸を開ける灯り箱を作る」
ロッカが壁を見た。
「灯り自体は今の場所。反射板を付け、紐を引けば光が寝台側へ向く」
「火へ直接触れずに済みますね」
「小さな金属板が必要だ」
「鍛冶屋へ頼みます」
「また職人が増えるな」
「必要な部分だけです」
床板を外すと、黒い染みが広がっていた。
便壺をこぼした場所。
木材の表面だけでなく、継ぎ目へ汚れが入り込んでいる。
「この二枚は交換だ」
ロッカが言う。
「乾かして使えませんか」
ハンナが尋ねた。
「強度も落ちている。椅子の下だ。残せん」
「費用が……」
「古い物置板を削って使える」
「中古材?」
「便所に使っていない、乾いた板だ。新しい板より安い」
「表面を滑らかにして、清掃しやすくできますか」
直人が尋ねる。
「鉋をかけ、油を薄く塗る。ただし、火の近くは避ける」
「灯り箱と距離を取ります」
できるだけ安く。
しかし、安全に関わる部分は削らない。
◇
夕方までに、応急改善の形が見えてきた。
一、ぐらつく椅子を固定式の座位便器へ作り替える。
二、前面から密閉便壺を交換できるようにする。
三、便壺は二個用意し、回収時に交換する。
四、床板二枚を交換し、段差とくぼみをなくす。
五、寝台と座位便器の間へ固定手すりを設置する。
六、寝台から操作できる灯りを作る。
七、ハンナは便壺を運ばない。
八、回収費用の支援を神殿と町へ申請する。
「水洗便器は?」
ハンナが尋ねた。
「将来の選択肢として残します」
「寝室に置けそうかい?」
「調べる必要があります」
直人は家の床下を確認した。
寝室から裏庭までは距離がある。
途中に家の基礎石。
排水管を通すには、床を広く外すか、外壁へ新しい穴を開けなければならない。
畑には処理槽を置ける空間がある。
しかし、井戸との距離と地面の傾きを詳しく調べる必要がある。
「技術的には可能かもしれません。ただ、工事費は高くなります」
「今の銅貨では無理だね」
「はい」
直人はごまかさなかった。
「ただし、今すぐ水洗にできないことと、安全にできないことは同じではありません」
「この椅子を直せば、夫は少し楽になる?」
「立ち座りと移動の危険は減らせます。密閉壺と回収が続けば、臭いと運搬負担も減らせます」
「水で流れなくても?」
「はい」
ハンナは長く息を吐いた。
「私は、水洗便器を買わなければ、何も変えられないと思っていたよ」
「便器は一つの方法です」
「便器屋が、便器を売らなくてもいいと言うのかい?」
「必要のないものを売るつもりはありません」
「必要ではない?」
「今すぐ最優先なのは、ハンナさんが重い壺を持って歩かないことです」
水洗便器が完成するまで、危険を放置してよいわけではない。
高価な完成品だけが、生活改善ではなかった。
◇
問題は費用だった。
ロッカの工賃。
中古板。
手すり用木材。
密閉壺二つ。
弾樹の密閉輪。
回収費。
灯り箱。
最低限に絞っても、ハンナの持つ銅貨では足りない。
「銀月亭から、一部を立て替えます」
リリアが言った。
「全部は駄目です」
直人が答える。
「分かっているわ。事業の資金がなくなるもの」
「では?」
「ハンナさんが払える銅貨は、便壺と材料費の一部へ充てる。ロッカの工賃は、今後の緊急改善の試作費として銀月亭が半分負担する」
「残りは?」
「神殿へ申請する」
「断られた場合は?」
「町の高齢者支援を作れないか交渉する」
「今までない制度でしょう?」
「最初の一件がなければ、永遠にできない」
リリアの言葉に、直人は少し驚いた。
「何?」
「俺が言いそうなことを言ったと思って」
「一緒に仕事をしているからよ」
ボルグが口を挟む。
「回収費は、最初の十日間だけ半額にする」
「いいんですか」
「二日に一度の回収で、本当に間に合うか試す必要がある」
「試験運用として?」
「そうだ。それに、回収人が安全に交換できるかも見たい」
「残り半分は?」
「俺たちの組合で負担する」
ハンナが慌てた。
「そこまでしてもらえないよ」
「無料ではない」
ボルグは答えた。
「十日後、量と手間を見て正式な費用を決める。回収の仕組みがほかの家にも使えるなら、俺たちにも仕事が増える」
「新しいサービスになりますね」
直人が言う。
「さーびす?」
「定期的に便壺を交換し、処理する仕事です」
「今も汲み取りはしている」
「家の大壺が満杯になってからではなく、小さな密閉壺を定期交換する」
「歩けない者の家には必要かもしれんな」
ボルグの目が変わった。
汚物回収者は町で低く見られている。
だが、彼らの仕事がなければ、寝室の便壺も町の便所も安全に使えない。
「回収契約にも、記録を付けます」
「やはり紙か」
「交換日、量、漏れ、蓋の状態、臭い、壺の破損」
「俺の回収人は文字を書けん者もいる」
「木札で記録できる方法を作ります」
色と切り込みで状態を示す。
文字が読めなくても使える点検札。
「またロッカへ頼むの?」
リリアが尋ねる。
「小さな札なら、端材で作れます」
「本人の仕事を勝手に増やさないで」
「後で見積もりを聞きます」
◇
その夜。
銀月亭では、ハンナ宅の緊急改善見積もりが作られた。
紙の上には、三つの区分がある。
利用者負担。
便壺材料の一部。
中古床板。
可能な範囲での分割支払い。
事業試作負担。
交換式座位便器の設計。
初回点検。
回収記録札。
支援申請。
手すり。
床補修工賃。
定期回収費の一部。
「申請が通る前に工事を始めますか」
マルタが尋ねた。
「床と椅子は危険です」
直人が答えた。
「明日、最低限の工事を始めます」
「神殿が払わなかったら?」
「銀月亭側の負担が増えます」
「それでよいのですか」
「よくはありません」
リリアが帳簿を閉じた。
「だから、明日の朝一番に神殿へ行く」
「俺も説明に行きます」
「いいえ。あなたはハンナ宅の工事を進めて」
「衛生設備として説明する必要があります」
「私ができる」
「転倒事故と回収負担についても――」
「ナオト」
リリアは真剣な目で直人を見た。
「全部、自分でやろうとしないで」
直人は言葉を止めた。
「現場はあなた。契約と交渉は私。便器はガルド。処理はボルグ。木工はロッカ。水はミーナ」
「まだ正式な商会でもないのに、役割ができていますね」
「だから名前と組織が必要なの」
「登録費が――」
「それも交渉してくる」
「神殿へ事業登録費を出してもらうつもりですか」
「そこまでは言っていないわよ」
リリアは少し笑った。
「でも、緊急改善を続けるなら、寄付や支援金を受け取れる形も必要になる」
「銀月亭の売上と混ぜない方がいいですね」
「そういうこと」
水洗便器事業は、単に商品を売る仕事ではなくなっていた。
高額な設備を買える人。
今すぐ危険を減らさなければならない人。
設備を作る職人。
回収する人。
費用を支援する町や神殿。
すべてをつなぐ仕組みが必要になる。
◇
翌朝。
ロッカが床板を外し、固定式の座位便器を組み立て始めた。
ボルグは洗浄済みの密閉壺を二つ運んできた。
ミーナは壺と手洗い用の水を用意した。
直人は寝台から便器までの動線へ、仮の手すりを立てた。
「ヨルクさん。高さを確認します」
「また座るのか」
「今度は、完成前の確認です」
「便器を作る者は、何度も人を座らせるのだな」
「一度も座らせずに作るより安全です」
ヨルクはハンナと直人の支えで寝台を離れた。
新しい手すりを握る。
前より体が安定している。
床のくぼみは新しい板で埋められ、足が引っかからない。
座位便器は寝台とほぼ同じ高さ。
深く腰を落とさずに座ることができた。
「どうですか」
「前より楽だ」
「手すりは近すぎませんか」
「ちょうどいい」
「便座の縁は脚へ当たります?」
「当たらん」
「壺の蓋を閉める棒は届きますか」
座位便器の横には、短い木の取っ手がある。
使用後に引けば、便壺の蓋が横から滑り、口を覆う簡単な仕組みだ。
ヨルクが取っ手を引く。
かたん。
椅子の下で蓋が閉まった。
「少し重い」
「滑りを調整します」
ロッカが木枠の一部を削る。
もう一度。
今度は軽い力で動いた。
「これならできる」
「蓋が閉まっていることを確認する窓も付けます」
前面扉の小さな穴から、蓋の色が見える。
開いていれば黒。
閉じれば白。
「文字が読めなくても分かるわね」
ハンナが言った。
「白が見えたら、回収を頼む?」
「便壺が満杯になる前に、決めた日に交換します。白は使用後に蓋が閉じている印です」
「私が運ばなくていいんだね」
「はい」
「本当に、一度も?」
「緊急時以外は触らないでください。漏れや破損があれば、壺を動かさず赤い札を掛けます」
ハンナの目から、ゆっくり涙がこぼれた。
「どうしました?」
「何でもないよ」
彼女は目元を拭った。
「重いと思っていたんだ」
「便壺が?」
「それだけじゃない」
毎朝。
毎晩。
こぼさないように。
転ばないように。
夫へ嫌な顔を見せないように。
自分が倒れたらどうなるのか、考えないように。
壺の中身以上のものを、ハンナは抱えて歩いていた。
「もっと早く誰かへ頼めばよかったんだろうね」
「頼む先がなければ、頼めません」
直人は言った。
「今日からは、ボルグさんたちが回収します」
「まだ十日の試験だ」
ボルグが付け加えた。
「だが、続けられる形は考える」
「ありがとう」
ハンナは何度も頭を下げた。
「代金は、必ず払うよ」
「無理のない金額を決めます」
リリアの声が入口から聞こえた。
神殿から戻ってきたところだった。
「話はどうでしたか」
直人が尋ねる。
「転倒防止用の手すりと床補修について、神殿が費用の半分を負担する」
「認められた?」
「条件付きでね」
「条件は?」
「同じように困っている人へ使えるよう、工事内容と費用を報告すること」
「記録が必要ですね」
「あなたが喜ぶと思った」
「必要な条件です」
「それと、神官が一人、完成確認に来る」
「設備を理解してもらえるなら助かります」
「便所へ神官を呼ぶことになるけれど」
「清潔や健康を守る設備です」
「私もそう説明したわ」
リリアは受付用の紙を取り出した。
「もう一つ。神殿から、似た相談が三件あると言われた」
「三件?」
「歩けない人、高齢者、怪我人。寝室の便壺を家族が運んでいる」
ガルドの窯が足りないどころではない。
水洗便器を作る前の緊急改善だけでも、依頼が増え始めている。
「交換式座位便器を、同じ寸法で作れるようにしましょう」
直人が言った。
「標準化するのね」
「はい。便壺と蓋、椅子、回収台を共通にすれば、壊れた時の交換も早くなります」
「名前はどうする?」
「座位式交換便壺設備」
「長い」
「分かりやすいです」
「絶対に別の名前を考える」
リリアが即答した。
ヨルクが新しい座位便器へ座ったまま笑った。
「便器屋の名前の付け方は、商売向きではないな」
「設備内容は伝わります」
「それだけでは売れないのよ」
リリアの言葉に、部屋の空気が少し明るくなる。
水洗便器は、まだこの家にはない。
それでも、床は安全になった。
手すりが付いた。
便壺には蓋が付いた。
ハンナは、もう重い壺を抱えて畑の横を歩かなくてよい。
高価な完成品が届く前にも、暮らしは変えられる。
その日の夕方。
ボルグの回収人が、白い印の付いた密閉壺を専用台へ載せた。
新しい空の壺を座位便器へ入れる。
前面扉を閉じる。
作業は短時間で終わった。
ハンナは一度も便壺へ触れなかった。
「交換完了です」
直人が記録札を確認する。
漏れなし。
蓋の異常なし。
運搬時のこぼれなし。
回収時間。
使用量。
一つ目の記録が残された。
水で流さなくても、負担を流す方法はある。
直人は、そのことを新しい手帳の最初の頁へ書いた。
ハンナ宅では、水洗便器より先に、転倒と便壺運搬の危険を減らす緊急改善を行いました。
固定式の座位便器、密閉式交換壺、手すり、床補修、遠隔操作できる灯りを整え、便壺はボルグたちが定期回収します。
神殿も転倒防止工事への支援を認め、同じ問題を抱える家がほかにもあることが判明しました。
次回は一日に多くの客が利用する《赤鍋亭》を調査し、水洗便器一台で本当に足りるのか、飲食店特有の衛生と清掃の問題を確認します。




