第22話 その便壺を井戸で洗わないでください
次の緊急調査先は、町の治療院です。
歩けない患者が使った便壺は、飲み水を汲む井戸のすぐそばで洗われていました。
水洗便器が完成するまで待っていれば、病気を治す場所が別の病気を広げるかもしれません。
治療院の裏庭へ入った瞬間、陶山直人は足を止めた。
石造りの井戸。
水を汲むための滑車。
洗った布を干す縄。
薬草を煮た鍋。
患者の食事に使う水桶。
そして、そのすぐ横に便壺が並べられていた。
大きさの違う陶器の壺が、全部で七つ。
うち二つは中身が入ったまま、木蓋を載せただけの状態だった。
井戸と便壺の距離は、直人の歩幅で三歩ほどしかない。
「ここで洗うのですか」
直人が尋ねる。
案内していた助手のエレンが、申し訳なさそうにうなずいた。
「はい。使い終わった壺は中身を裏の溝へ捨て、その後、井戸水で洗います」
「洗った水も溝へ?」
「そうです」
「井戸へ水が跳ねることは?」
「気をつけています」
「井戸桶や縄へ触れた手で、便壺を持つことは?」
エレンは答えなかった。
「毎回、手を洗っていますか」
「洗える時は」
「洗えない時もある?」
「患者が続けて呼ぶことがあります。急いで壺を片づけなければ、次の患者へ持っていけません」
治療院には、患者用の便壺が足りていなかった。
使う。
運ぶ。
捨てる。
洗う。
次の患者へ渡す。
一つの壺が一日に何度も使い回されている。
「洗った後、どこへ置きますか」
「この棚です」
井戸の横にある木棚を指す。
上段には、洗浄済みの便壺。
下段には、まだ洗っていない壺。
棚板の間に仕切りはない。
汚れた壺から落ちた水が、下の地面へ染みていた。
「上が洗浄済みなら、分けられているのでは?」
治療院の院長、ラーダが言った。
四十代ほどの女性で、濃い藍色の長衣をまとっている。
腕には薬草の染みが付き、眠る時間も惜しんで働いているような顔だった。
「見た目では分かれています」
直人は棚の側面へ触れずに確認した。
「ですが、汚れた壺を持った手で、上の棚へ触れることがあります。洗った水も地面へ跳ねています」
「その程度で病気が広がると?」
「可能性があります」
「病気は、悪い空気や体内の魔力の乱れによって起きるものです」
「それだけとは限りません」
ラーダの表情が硬くなる。
「あなたは治療師なのですか」
「違います」
「なら、治療の原因を断定しないでもらいたい」
「断定はしていません」
直人は言葉を選んだ。
この世界の病気が、現代日本と完全に同じ仕組みだとは限らない。
魔力。
呪い。
魔物由来の毒。
未知の要因が存在する。
それでも、人の排泄物や汚れた手を通して体調不良が広がる危険まで消えるわけではない。
「俺の国では、人の目に見えないほど小さなものが、排泄物や汚れた水を通して病気を広げることがあります」
「目に見えない生物?」
「そう考えられています」
「魔物でも精霊でもなく?」
「少なくとも、普通の目では確認できません」
ラーダは疑うように直人を見た。
「見えないものを理由に、井戸が危険だと言うのですか」
「ここで井戸水が悪くなっているとは、まだ言えません」
直人は井戸の縁を見た。
「ただし、飲み水を扱う場所と、排泄物を扱う場所が近すぎます。病気の原因が何であっても、分ける方が安全です」
「離す場所がないから、ここで洗っているのです」
裏庭は狭かった。
井戸の反対側には薬草庫。
建物沿いには薪。
外便所へ向かう通路も、人一人が通れる幅しかない。
「溝の先を確認させてください」
◇
便壺の中身を捨てる溝は、治療院の裏手から細い路地へ続いていた。
石を並べただけの開放溝。
水はほとんど流れていない。
底には黒い泥がたまり、虫が集まっている。
「雨の日は流れます」
エレンが説明した。
「雨が降らない日は?」
「臭いが強くなるので、井戸水を桶一杯流します」
「その水は、どこへ行きますか」
「町の大きな排水溝へつながっているはずです」
ボルグがしゃがみ、溝の傾きを見た。
今日の調査には、汚物処理に詳しい彼も同行している。
「途中で低くなっている」
「低い?」
「この先に、泥がたまる場所がある。桶一杯では大溝まで届かん」
「では、どこへ?」
「路地の下へ染みている」
ボルグは棒を溝底へ差し込んだ。
少し押しただけで、先端が深く沈む。
黒い泥の下に、水を含んだ柔らかな土があった。
「井戸は向こうだ」
ボルグが振り返る。
治療院の井戸は、溝から完全に離れているわけではない。
地面の高さも、大きな差はない。
「地下でつながっている可能性は?」
直人が尋ねる。
「分からん」
「井戸の水へ染み込んでいるかもしれない?」
「かもしれん。違うかもしれん」
ボルグは慎重に答えた。
「土を掘らなければ、水の通り道までは分からん」
「井戸水に臭いや色の変化は?」
直人がエレンへ尋ねる。
「ありません」
「患者や職員に、同じ時期に腹痛や下痢が出たことは?」
エレンとラーダが顔を見合わせた。
「珍しいことではありません」
院長が答える。
「病人が集まる場所ですから」
「職員にも?」
「先月、助手が三人続けて腹を壊しました」
「同じものを食べましたか」
「治療院の食事を食べています」
「患者も同じ食事を?」
「歩ける者と、食事制限のない者は」
「同じ時期に腹痛が増えた?」
ラーダは黙った。
治療記録を思い返しているようだった。
「二週間ほど、腹を下す患者が多かった」
「井戸水が原因だと決めることはできません」
直人は先に断った。
「ですが、便壺の処理方法を変える理由としては十分です」
「原因を調べる方法は?」
ラーダが尋ねる。
直人は迷った。
現代なら水質検査を行う。
細菌検査。
濁度。
大腸菌群。
しかし、この世界には試薬も検査機器もない。
スマートフォンにも、その機能はない。
「今すぐ正確に調べる道具はありません」
「では、推測ではないか」
「はい。推測を含みます」
ラーダの眉が上がる。
直人は続けた。
「だから、井戸が汚染されていると断定はしません。ただ、危険な経路があることは確認できます」
便壺を洗う水が地面へ落ちる。
汚物を捨てる溝が途中で詰まる。
その近くに飲用井戸がある。
汚れた壺と洗浄済みの壺が同じ棚に置かれる。
便壺を運ぶ手と、井戸を使う手が分けられていない。
「原因が確定するまで何もしなければ、危険が続きます」
「だが、治療を止めるわけにはいかない」
「止めません。今日から変えられることを始めます」
◇
直人は治療院の裏庭へ戻り、床へ線を引いた。
井戸の周囲。
薬草庫。
便壺置き場。
溝へ向かう動線。
「まず、井戸の周囲を清潔な区域にします」
「きれいな場所と、汚れた場所を分けるのですね」
ミーナが言った。
「はい」
「線を引くだけで変わるのか?」
ラーダが尋ねる。
「線だけでは変わりません。物と人の動きを変えます」
井戸周辺には、飲み水を汲む桶だけを置く。
便壺を持った状態では、井戸へ近づかない。
便壺用の水は、清潔な桶で先に汲み、別の容器へ移してから運ぶ。
汚れた壺を触った者は、井戸の縄や桶へ触れない。
「誰か一人、井戸水を汲む係が必要なのですか」
エレンが尋ねる。
「忙しい時間帯は、水を先にためておく方法があります」
直人は空いている大壺を指した。
「この壺を洗い、蓋を付けて便壺洗浄用の水を入れます」
「飲み水ではなく、洗うための水をためる?」
「はい。井戸から直接洗わなければ、飛沫が井戸へ戻る危険を減らせます」
「洗う場所は?」
「今の場所から移します」
「どこへ?」
ボルグが治療院の裏壁を指した。
「この先に、使っていない土地がある」
「うちの土地ではありません」
ラーダが答える。
「町の共同廃棄場へ続く空き地です」
「所有者は?」
「町だ」
「なら、町へ一時使用を申請できますか」
リリアが持ってきた帳簿を開く。
「便壺洗浄場として占有するなら、許可が必要ね」
「時間がかかりますか」
「正式な建物を作れば。でも、移動式の洗浄台なら、今日から置けるかもしれない」
「町の担当者へ確認してください」
「私が行くわ」
リリアはすぐに治療院を出ようとした。
「今から?」
「許可がなければ工事できないでしょう?」
「助かります」
「その代わり、勝手に大きな設備を決めないでね」
「応急改善だけにします」
「その“だけ”が大きくなるから言っているの」
◇
ロッカは半刻後に呼び出された。
「今日は別の棚を作る予定だったんだが」
「治療院の緊急改善です」
直人が説明する。
「便器は作らないんだな?」
「今日は作りません」
「なら、木工だけで済むか」
「洗浄台、汚れた便壺用の棚、洗浄済み便壺用の棚、手洗い台、蓋付き水槽の台をお願いします」
「多いではないか!」
「すべて簡易型です」
「簡易型が五つある!」
ロッカは文句を言いながらも、裏庭の寸法を測り始めた。
「清潔な棚と汚れた棚は、どのくらい離す」
「できれば手が届かない距離です」
「狭いぞ」
「棚の向きを変えられませんか」
「壁を使えば上下に置ける」
「上下は避けたいです」
「なぜだ」
「上から水が落ちます」
「では左右だ。だが、間に仕切りがいる」
「目印も付けてください」
「文字か?」
「色と形で分けます。汚れた側は黒い板。洗浄済み側は白い板」
「白い板は汚れが目立つぞ」
「だからです」
ロッカは少し考え、うなずいた。
「汚れたら清掃が必要だと分かる」
「はい」
「黒い側は?」
「触れる場所に汚れが残っていないか、毎回確認します」
「どちらも白では駄目なのか」
「利用者が急いでいる時、置き間違えないよう区別します」
治療院の助手たちは、患者に呼ばれながら便壺を処理する。
複雑な手順では続かない。
一目で分かる必要があった。
「汚れた壺には、赤い木札を載せましょう」
エレンが提案した。
「洗った後、札を外す?」
「はい」
「札自体も汚れます」
「では、壺へ触れない紐へ札を付けます」
「それなら運用できます」
現場の利用者から出た案を、手順へ加える。
◇
リリアが町の許可を取って戻るまでの間、直人たちは現在の便壺をすべて確認した。
ひび。
欠け。
蓋の状態。
持ち手。
底の安定性。
「これは使えません」
直人は、縁が欠けた壺を分けた。
「まだ漏れていません」
エレンが言う。
「欠けた部分で手を切る可能性があります」
「患者用ではなく、洗浄用の水桶にすれば?」
「汚物へ触れた陶器を清潔な水用へ転用しない方がいいです」
「捨てるしかない?」
ガルドがいれば、焼き物の修理が可能か判断できる。
だが、便壺の内側には長年の汚れが染みていた。
「便壺以外の用途にも使わないでください」
「もったいないですね」
「安全に洗える方法が確認できなければ、廃棄します」
五つの壺は使用継続。
二つは使用停止。
継続する壺も、内側がざらつき、臭いが残っている。
「便器と同じ釉薬をかけた壺を作れば、洗いやすくなる」
ミーナが言った。
「可能性はあります」
「またガルドさんの仕事が増えますね」
「今すぐ注文するとは言っていません」
「でも、考えていますよね」
「はい」
患者ごとの便壺。
洗浄しやすい表面。
蓋。
持ちやすい取っ手。
内容物をこぼしにくい形。
水洗便器が普及しても、歩けない患者には便壺が必要になる。
便器だけを作れば、すべて解決するわけではない。
「治療院用の便壺も、標準化できるかもしれません」
「ひょうじゅんか、ですか」
「同じ形なら、蓋や運搬台を共通にできます」
「便器の次は便壺まで売るの?」
戻ってきたリリアが会話を聞いていた。
「必要な可能性があります」
「ガルドが倒れるわよ」
「別の陶工へ依頼することも考えます」
「それをガルドに言ったら、別の意味で倒れそうね」
◇
町から許可されたのは、治療院の裏手にある空き地の一角だった。
条件は三つ。
通行を妨げないこと。
汚水を地面へ直接捨てないこと。
問題があれば撤去すること。
「汚水を地面へ捨てないなら、どこへ持っていく?」
ロッカが尋ねる。
「密閉桶へ集めます」
直人は蓋付きの大型木桶を用意させた。
内側には、弾樹の防水材を塗る。
「洗浄水まで全部ためるのか」
ボルグが言う。
「量が多くなるぞ」
「一日に何桶分ですか」
「便壺十二個を洗えば、かなりだ」
「最初に汚れを拭き取ってから、少量の水で洗う方法は?」
「拭いた布をどうする」
「使い捨てにはできません」
「煮て洗う必要がある」
治療院では布が貴重だった。
毎回捨てることはできない。
「木製のへらで、壺の内側へ残ったものを落とす」
ボルグが提案した。
「その後、少量の水で二回洗う。最初の濃い汚水と、仕上げの水を分ける」
「二つの桶へ?」
「濃い方は汲み取り処理へ回す。薄い方も、今の溝へは流さん」
「処理場で受け入れられますか」
「量と費用を決めればな」
「町の治療院なので、町にも一部負担を求めましょう」
リリアが言う。
「また交渉?」
「公衆衛生の問題でしょう」
「こうしゅうえいせい?」
「町全体の健康を守る話です」
リリアは直人が使った言葉を、そのまま覚えていた。
「治療院だけへ費用を押しつければ、続かない。町の共同廃棄費として認めてもらう」
「町が払うと思いますか」
「患者が増えて治療費を支援するより、安いと説明する」
「その比較をどう出します?」
「ラーダ院長に、腹痛患者の人数と治療費を出してもらう」
ラーダは少し驚いた。
「治療記録を見せろと?」
「個人名はいりません。人数と、薬や作業の費用だけです」
「町へ病人の数を知られるのは問題だ」
「なら、治療院からの集計として出す。誰が病気かは分からない形にします」
直人は、リリアの交渉力に感心した。
設備を作るだけでは、維持費を払えない。
費用を誰が負担するかまで決めなければ、数週間で元の方法へ戻る。
◇
夕方までに、移動式の便壺洗浄場が完成した。
屋根付きの簡易作業台。
汚れた壺を置く黒印の棚。
洗浄済みの壺を置く白印の棚。
洗浄用水をためる蓋付き槽。
濃い汚水と、すすぎ水を分ける二つの密閉桶。
手洗い用の小型水槽。
作業用の長い革前掛け。
壺を持つための厚手の手袋。
「手袋は、直人さんのものと違いますね」
エレンが言った。
「俺のゴム手袋は数が限られています」
日本から持ち込んだ手袋を全員へ配ることはできない。
代わりに、油を染み込ませた薄い革の手袋を作ってもらった。
完全に水を通さないわけではない。
それでも、素手よりは良い。
「使用後は、手袋自体を洗って乾かしてください」
「破れた場合は?」
「使用停止。修理できなければ交換です」
「手袋を洗った水も汚水桶へ?」
「はい」
直人は作業手順を実演した。
一、便壺へ蓋をする。
二、専用の運搬台へ載せる。
三、清潔な区域を通らず、裏口から洗浄場へ運ぶ。
四、内容物を濃汚水桶へ移す。
五、木べらで残った汚れを落とす。
六、少量の水で一次洗浄。
七、すすぎ。
八、外側と持ち手を洗う。
九、白印の棚で乾燥。
十、手袋と手を洗う。
「十もあるのですか」
助手の一人が不安そうに言った。
「全部覚えられません」
「絵の説明板を作ります」
「今夜から必要です」
「簡易版を今作ります」
直人は木板へ絵を描いた。
蓋。
運搬台。
二つの桶。
黒い棚。
白い棚。
手洗い。
文字が読めなくても、順番が分かるよう矢印でつなぐ。
「矢印の意味は?」
助手が尋ねる。
「こちらから、こちらへ進む印です」
「道の印みたいなものですね」
「はい」
「逆に戻っては駄目?」
「洗浄後の壺を汚れた棚へ戻さないでください」
「人が逆に歩くのも?」
直人は考えた。
狭い洗浄場では、作業中に行き来すると、清潔な側へ汚れを持ち込む。
「原則は、一方向です」
「入口と出口を分けるのね」
ミーナが水の膜を使い、作業台を洗い流しながら言った。
「はい。難しい場合でも、汚れた作業を終えて手を洗う前に白い棚へ触れないでください」
「私の水魔法で、毎回洗えば早いです」
「ミーナさんがいない日にも続く方法が必要です」
「水槽へ水をためておきます」
「それならお願いします」
魔法を使えば便利になる。
しかし、魔法使い本人がいなければ止まる仕組みでは困る。
ミーナは以前より、その考えを理解していた。
「毎朝、水槽を満たします」
「治療院との給水契約を作りましょう」
リリアが言った。
「仕立屋より先に?」
「緊急衛生用。量も時間も違うから、別の条件にする」
「私が引き受けていいのですか」
「あなたができる仕事なら」
ミーナは洗浄用水槽を見た。
「やります」
その声には、以前のような迷いが少なかった。
◇
新しい洗浄場を使った最初の作業は、エレンが担当した。
汚れた便壺へ蓋をする。
運搬台へ載せる。
裏口から運ぶ。
黒印の棚へ置く。
「ここで手袋を着けます」
「運ぶ前ではなく?」
「便壺の外側も汚れている可能性があります。運搬前から着けた方が安全ですね」
直人は手順を修正した。
「では、手袋は裏口に置きます」
「清潔な手で着けられる場所が必要です」
ロッカが小さな専用箱を壁へ付けた。
また一つ、現場で手順が変わる。
エレンが便壺の中身を桶へ移す。
飛び散らないよう、低い位置でゆっくり。
木べらで汚れを落とす。
一次洗浄。
すすぎ。
白い棚へ。
最後に手袋を洗い、外す。
手洗い。
「今までより時間がかかります」
作業を終えたエレンが言った。
「どのくらいですか」
「倍近く」
「患者が多い時間には難しい?」
「一人では」
直人は院長を見た。
「便壺処理中に、ほかの患者へ呼ばれたらどうしますか」
「途中で作業を止める」
「その場合、どの状態か分からなくなります」
「札を置く方法は?」
助手が提案した。
「洗浄途中の札?」
「はい。作業を引き継ぐ人が分かるように」
赤。
黄。
白。
赤は未洗浄。
黄は洗浄途中。
白は完了。
「良いと思います」
直人はすぐに採用した。
「ただし、できるだけ一人が最後まで担当してください」
「人手を増やす必要があるな」
ラーダ院長が言った。
「今の人数では無理ですか」
「患者が少ない日はできる。多い日は、治療を優先する」
「便壺処理も、治療を支える仕事です」
「分かっている」
ラーダは疲れた表情で答えた。
「だが、金がない。助手を増やせば、その分だけ薬を買えなくなる」
便器を一台設置しても、人手不足は解決しない。
清掃設備を作っても、作業する人がいなければ使われない。
「水洗便器があれば、便壺の数は減らせます」
「歩ける患者だけでも使える」
「はい。ただ、一台で全員を処理するのは無理です」
「二台必要と言うのだろう?」
「最終的には」
ラーダは苦笑した。
「便器屋は、どこでも二台と言うらしいな」
「その噂を広めないでください」
「冗談だ」
「まず一台を、歩ける患者と職員用に設置します。歩けない患者には便壺が残ります」
「それでも、十二個が半分になるかもしれない」
「利用記録を取れば、必要な便壺数も見直せます」
「記録が増えるな」
「治療記録よりは簡単です」
「お前は紙があれば何でも解決すると思っていないか?」
「記録だけでは解決しません。ただ、何が減ったかは分かります」
◇
日没前。
直人は井戸の横に並んでいた便壺がなくなったことを確認した。
井戸周囲には清潔な水桶だけ。
汚れた便壺は、裏口の専用場所へ。
洗浄は離れた簡易施設で行う。
開放溝へ便壺の中身を捨てる作業も停止した。
「今日から、濃い汚水はボルグの処理場へ運びます」
リリアが契約内容を読み上げた。
「最初の十日間は試験運用。治療院が運搬費の半分。残りは町の緊急衛生費から出る」
「町が認めたのですか」
直人が驚く。
「十日だけね」
「その後は?」
「腹痛患者の記録、汚水量、作業時間を出して、継続するか判断する」
「町も試験運用をするんですね」
「あなたの影響よ」
リリアは少し得意そうだった。
「数字がなければ、町も金を出さないと言われたから」
「必要な記録です」
「そう言うと思った」
院長ラーダは、井戸の蓋を見つめていた。
「飲み水は、しばらく煮る」
「患者だけでなく、職員もお願いします」
「井戸水が悪いと決まったわけではないのだろう?」
「決まっていません。ですが、今までの処理方法を考えると、念のためです」
「薬草を煮る水は元から沸かしている。飲み水と食事用も徹底する」
「井戸桶と縄も洗浄したいです」
「何で洗う?」
強い消毒剤はない。
直人は簡単に「煮沸」と言いかけ、縄や大きな桶を煮る設備がないことに気づいた。
「まず新しい井戸桶へ交換します」
「古いものは?」
「便壺洗浄用には使いません。汚れのない別用途へ回せるか確認します」
「縄は?」
ロッカが新しい縄を持ち上げた。
「町の倉庫に予備があった」
「費用は?」
「緊急衛生費だ」
「そこまで認められたの?」
リリアが胸を張る。
「井戸の近くで便壺を洗っていたと伝えたら、担当者の顔色が変わったわ」
「誰でも危険だと思うのですね」
ミーナが言った。
「目に見えない病気の話を信じなくても、飲み水へ汚物が入るのは嫌でしょう?」
理屈のすべてが理解されなくても、行動を変えることはできる。
◇
調査を終える前に、直人は治療院の便所を確認した。
建物の外。
段差が二段。
扉は狭い。
床は濡れている。
手すりはない。
しゃがみ式の穴。
治療中の患者が使うには、明らかに厳しい。
「昨日、患者がここで転びました」
エレンが言った。
「怪我は?」
「軽い打撲です」
「報告はありましたか」
「院長には」
「設備事故として記録しましたか」
「治療記録には書きました」
直人は便所の入口へ赤い印を付けた。
「水洗便器を待つ前に、段差と手すりを改善します」
「今日の洗浄場とは別に?」
「転倒の危険があります」
「費用は?」
ラーダが尋ねる。
「最低限の仮設改修案を出します。ロッカさん、手すりと傾斜板は作れますか」
「明日の午後なら」
「床の濡れは?」
「屋根の端から雨水が入っている。樋を付ければ減る」
「便所の改修だけでも、複数ありますね」
エレンが言った。
「便器一台を待っていたら、間に合いません」
直人は手帳へ書いた。
治療院緊急改善。
一、井戸と便壺処理の分離。
二、便壺洗浄場。
三、汚水回収。
四、井戸桶と縄の交換。
五、飲み水の煮沸。
六、外便所の段差、手すり、雨水対策。
七、便壺作業記録。
八、水洗便器一台の設置調査。
「今日一日で、便器以外の仕事が八つ増えました」
リリアが覗き込む。
「八つの問題が見つかったということです」
「料金は、どうするの?」
「そこを決めなければ続きません」
治療院の現金は少ない。
町の補助は十日間だけ。
物々交換と治療契約の案はある。
「緊急改善分は、町、治療院、便器事業の三者で負担する案を作りましょう」
「私たちも払うの?」
「開発と調査費として、一部負担する価値があります。治療院で作った手順は、ほかの施設にも使えます」
「将来の仕事のための投資?」
「はい。ただし、全額を無料にはできません」
「治療契約も入れる?」
「ガルドさんたちに意見を聞きます」
「親方が薬を飲むとは思えません」
ミーナが言った。
「火傷をしても唾を付けて終わりそう」
「だからこそ治療契約が必要です」
◇
銀月亭へ戻る途中。
直人たちは、町の共同井戸の前を通った。
人々が水を汲んでいる。
子どもが桶を運ぶ。
女性が野菜を洗う。
職人が手をすすぐ。
一つの井戸が、多くの暮らしにつながっている。
「治療院の井戸が本当に汚れていたら、どうするの?」
リリアが尋ねた。
「使うのを止める必要があります」
「治療院全体が困る」
「共同井戸から運ぶか、ミーナさんの給水を増やします」
「私一人では、すべての水を出し続けられません」
ミーナが言った。
「だから代替手段を複数用意します」
「水魔法があっても、水の問題は消えないのね」
「量、運搬、保管、管理があります」
「便利だけれど、万能ではない」
「便器も同じです」
水洗便器を一台置けば、治療院の問題が消えると思っていた。
実際には、便壺を必要とする患者が残る。
洗う場所が必要。
汚水を運ぶ人が必要。
清潔な水と汚れた水を分ける必要。
費用を払い続ける仕組みが必要。
「ナオト」
「何ですか」
「治療院の優先度は?」
「高いです」
「仕立屋より先に便器を作る?」
直人はすぐには答えなかった。
仕立屋は、先に相談を受けている。
現場調査も済み、見積もりを出す段階。
治療院は衛生上の危険が大きい。
しかし、緊急改善によって一部の危険は今すぐ減らせる。
「今日の改善が続けば、水洗便器の緊急度は少し下げられます」
「後回しにするの?」
「危険が完全に消えたわけではありません。ただ、便器がなくても変えられる部分を先に変えました」
「では、製造順は仕立屋が先?」
「正式契約が成立すれば」
「治療院は、その次?」
「ハンナさん宅を見てから決めます」
「また決めない」
「まだ必要な情報が足りません」
リリアは呆れたように息を吐いた。
「でも、昨日よりは分かるようになった」
「何がですか」
「あなたが順番をすぐ決めない理由」
高い金を払う者。
先に申し込んだ者。
利用者が多い施設。
今すぐ危険な家。
一つの基準だけでは、決められない。
「明日の午後は、ハンナさん宅ですね」
「はい」
「午前中は?」
「仕立屋の見積もりを完成させます」
「休む時間は?」
「あります」
「いつ?」
「移動中に――」
「それは休みではない」
リリアが即座に否定した。
銀月亭の前へ着く。
受付表には、新しい木札が追加されていた。
治療院――緊急改善開始。
まだ便器はない。
それでも、井戸の横から便壺は消えた。
飲み水と汚物の道を分けた。
危険を完全になくせなくても、今日より明日を安全にすることはできる。
その夜。
治療院では新しい洗浄場が使われ、便壺の汚水が初めて開放溝へ捨てられず、蓋付き桶へ回収された。
同じ頃。
井戸の横に残された古い棚の下で、黒く湿った土がわずかに崩れた。
その奥から、細い空洞が現れる。
空洞は、井戸の石積みの方向へ続いていた。
治療院では、飲み水を汲む井戸のすぐそばで便壺を洗い、汚水を流した溝も途中で地中へ染み込んでいました。
井戸の汚染は断定できませんが、危険な経路を減らすため、便壺洗浄場、汚水回収、清潔区域と汚染区域の分離を即日で始めます。
また、水洗便器を待たず、外便所の段差や手すりも改善する方針となりました。
次回はハンナ宅を訪れ、寝室で便壺を使う夫と、毎日それを運ぶ高齢の妻に必要な緊急改善を検討します。




