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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

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第21話 誰から先に便器を売るのか

異世界製便器第一号が完成した翌日、銀月亭には五件の相談者が集まりました。


しかし、ガルドの工房が一度に焼ける便器は一台だけです。


金を多く払う者から売るのか。


困っている者から助けるのか。


直人たちは、施工の順番を決める必要に迫られます。

 銀月亭の食堂は、便器を買いたい人々で埋まっていた。


 長机の片側には、相談者。


 反対側には、陶山直人、リリア、ミーナ、マルタが座っている。


 ガルドは工房へ戻った。


 仕立屋から注文を受ける可能性が高く、第二号便器の型を修正しなければならないためだ。


 ボルグも処理槽の汲み取り予定があり、相談内容を後で共有することになっている。


「先にお伝えします」


 直人は集まった人々を見回した。


「現時点で、すぐに便器を販売することはできません」


 食堂の空気が止まった。


「売るために人を集めたのではないのか?」


 紙を持った中年男性が尋ねる。


「相談を受けるためです」


「便器が欲しいと伝えに来た」


「ありがとうございます。ただ、工房で一度に作れる便器は一台です。設置前には現場調査も必要です」


「金なら払う」


 別の男が革袋を机へ置いた。


 町の小さな食堂《赤鍋亭》の主人、バルドである。


「銀貨なら用意した。うちを最初にしてくれ」


 硬貨の重い音に、ほかの相談者たちが視線を向けた。


「前金を多く払う人から、順番を決めるの?」


 杖を持った老女が不安そうに尋ねる。


 リリアが直人を見た。


 商売として考えれば、金を払える客を優先するのは自然だ。


 受け取った代金で土や薪を買い、次の便器を作れる。


 利益を確保できなければ、事業そのものが続かない。


 だが、直人はすぐには答えなかった。


「まず、それぞれの相談内容を確認します」


「金額を聞かないのか」


 バルドが言う。


「予算も聞きます。ただ、施工の優先順位を金額だけで決めるとは約束できません」


「商売なのに?」


「生活へ大きな危険がある現場を、後回しにできない場合があります」


「それでは、高い金を用意する意味がない」


「早く施工するための追加料金を、今は設定していません」


「今は?」


 リリアが言葉を拾った。


「将来、製造数が増えれば、急ぎ対応の条件を作る可能性はあります。ただし、ほかの客を不当に遅らせない仕組みが必要です」


「難しい話はいい」


 バルドは革袋を引き寄せた。


「うちは客が多い。便所がきれいになれば、町の評判も上がる。銀月亭にも悪い話ではないだろう」


 確かに、利用者の多い飲食店へ設置すれば、水洗便器を広く知ってもらえる。


 一台で多くの人へ価値を示せる。


 しかし、飲食店には給水、処理量、清掃、利用者教育など、仕立屋以上に多くの条件がある。


「順番にお話を伺います」


 直人は手帳を開いた。


「最初の方から、お名前と困っていることを教えてください」


          ◇


 一人目は、杖を持った老女だった。


 名はハンナ。


 夫と二人で町の北側に住んでいる。


「困っているのは、私ではなく夫なんだよ」


 ハンナは言った。


「昨年、荷車から落ちて腰を悪くした。外の便所まで歩くのが難しくてね」


「今は、どうしていますか」


「寝室に壺を置いている」


「誰が運んでいます?」


「私だよ」


 ハンナ自身も杖を使っている。


 腰を曲げ、重い便壺を毎日運ぶ。


「こぼしたことは?」


「何度かある」


「床は?」


「匂いが取れない。板も黒くなっている」


 銀月亭と同じ問題が、小さな家の寝室で起きている。


「水洗便器を寝室へ置きたいのですか」


「夫が外へ出なくても済むなら」


「寝室へ置く場合、床下へ排水管を通す必要があります。水も補充しなければなりません」


「井戸は家の前だ」


「処理槽を作れる土地は?」


「裏に小さな畑がある」


「現場を見なければ判断できません」


 直人は手帳へ記録した。


 寝たきりに近い男性。


 介助者も高齢。


 便壺運搬で転倒・汚染の危険。


 緊急度は高い。


「費用は、どのくらい出せますか」


 リリアが尋ねた。


 ハンナは小さな布袋を机へ置いた。


 中には、銅貨が十数枚。


 銀貨はない。


「これが今出せる全部だよ」


 バルドが鼻を鳴らした。


「それでは、便器一台も買えない」


「分かっているよ」


 ハンナは布袋を握りしめた。


「だから、話を聞くだけでもと思って来たんだ」


 直人はバルドを見た。


「支払える金額で、相談の価値は変わりません」


「だが、材料は金で買う」


「その通りです。だから、別の支払い方法も検討します」


「分割かい?」


 ハンナが尋ねる。


「分割、労働、ほかの支援制度が使えないか確認します」


「支援制度など、この町にあるの?」


 リリアが首を傾げた。


「高齢者や怪我人への公的な補助は?」


「治療院の一部負担なら、神殿が助けることはある。でも、便所工事は聞いたことがないわ」


「では、神殿へ相談する余地があります」


「神官が、便器の金を出すと思うか?」


 バルドが笑った。


「病気や怪我を防ぐ設備として説明します」


「便所を神殿へ売り込むつもりか」


「必要なら」


 ハンナは驚いた顔で直人を見た。


「そこまでしてくれるのかい?」


「まず現場を見ます。水洗が最適とは限りません」


「水洗でない場合もある?」


「今すぐ必要なのは、便壺を安全に扱える仕組みかもしれません。寝室の近くへ座って使える仮設便所を作り、密閉壺を交換しやすくする方法もあります」


 ナーラ宅と同じように、完成品を待つ間の改善ができる。


「一番高い設備を売ることが、正解ではありません」


 直人は言った。


「今の危険を早く減らす方法から考えます」


 ハンナは何度もうなずいた。


          ◇


 二人目は、《赤鍋亭》の主人バルドだった。


「うちは昼に三十人、夜に四十人ほど客が来る」


「便所は何か所ですか」


「一つ」


「客と従業員が共用?」


「ああ」


「利用が集中する時間は?」


「食事を終えた後だろう」


「汲み取りは?」


「毎日だ」


「毎日?」


「大壺が一日で半分以上たまる。臭いが店まで来る前に運ばせている」


「井戸と厨房は近いですか」


「井戸は裏。便所は反対側」


「床の状態は?」


「古いが、壊れてはいない」


「便器を何台希望しますか」


「最初は一台でいい」


「一台では、待ち時間が増える可能性があります」


「今も一台だ」


「水洗便器では、初めて使う客への説明も必要です。故障時に便所がなくなる問題もあります」


「なら二台売りたいのか?」


「必要性を調べます」


 バルドは直人を疑うように見た。


「仕立屋にも二台を勧めたそうだな」


「利用人数と集中時間から判断しました」


「どこへ行っても二台必要と言うのではないか」


「家庭には一台で十分な場合が多いです」


「飲食店は二台?」


「現場によります」


「結局、見ないと分からないばかりだな」


「見ずに決めるより安全です」


 赤鍋亭は利用者が多く、宣伝効果も大きい。


 その一方で、一日に何十回も洗浄すれば、水量と処理槽容量が大きくなる。


 現在の家庭用便器をそのまま置くのは難しい。


「飲食店用には、家庭より大きな貯水槽と処理槽が必要です」


「費用は払う」


「清掃担当は?」


「従業員にやらせる」


「誰が?」


「手の空いた者だ」


「決まっていないと、誰もやらなくなる可能性があります」


「店主の命令だ」


「罰として押しつければ、確認が雑になります」


「では、清掃だけの人間を雇えと言うのか」


「当番制か、担当手当を付ける方法があります」


 バルドの顔が険しくなる。


「便所掃除に追加の金を払えと?」


「設備を清潔に保つ仕事です」


「今までの便所は、従業員が無償で掃除している」


「その結果は?」


 バルドは答えなかった。


 直人は赤鍋亭の前を通ったことがある。


 店から少し離れた通りまで、便所の臭いが漂っていた。


「清掃と保守の仕組みがなければ、便器だけ新しくしても、すぐ汚れます」


「金なら払うと言っている」


「設置費だけでは足りません」


 バルドは不満そうに腕を組んだ。


「面倒な便器だ」


「設備ではなく、運用の話です」


「便器を買えば、臭いが消えると思っていた」


「水洗にすれば減らせます。ただし、清掃しなければ別の臭いが出ます」


「分かった。現場へ来て、必要なものを出せ」


「その上で、契約するか決めてください」


「金を用意した私が、最初ではないのか」


「まだ決めていません」


 バルドは納得していない。


 それでも、相談を取り下げるとは言わなかった。


          ◇


 三人目は、杖ではなく長い木箱を持っていた。


 町の治療院で働く助手、エレンである。


「治療院の便所を変えたいのです」


「患者用ですか」


「患者と職員、両方です」


「今の便所は?」


「建物の外に一つ。歩けない患者は、寝台の横で壺を使っています」


「誰が運んでいます?」


「助手です」


「一日に何個くらい?」


「多い日は十二個ほど」


 銀月亭と同じ規模に近い。


 しかし、治療院では病気や怪我を抱えた人が使う。


 排泄物に病気の原因が含まれる可能性も高い。


「壺を洗う場所は?」


「井戸の横です」


 直人の表情が変わった。


「飲み水を汲む井戸ですか」


「はい」


「洗浄水は、どこへ捨てています?」


「裏の溝へ」


「厨房や薬草を扱う場所は?」


「井戸の反対側です」


「距離を確認したいです」


 緊急度は非常に高い。


 治療院で汚物を扱う設備が不十分なら、病気を広げる可能性がある。


「便器は何台必要ですか」


「院長は、一台でいいと言っています」


「利用人数は?」


「患者は十人前後。職員が六人。日帰りで治療へ来る方もいます」


「一台では足りない可能性が高いです」


「費用がないのです」


 エレンは木箱を机へ置いた。


 中には、薬草、乾燥した布、軟膏の壺が入っている。


「治療院で作っている薬です。現金の代わりに、工事する人たちの治療を無償にする条件は使えないでしょうか」


 リリアの目が少し動いた。


「期間は?」


「便器一台分の代金になるまで」


「それでは曖昧ね」


「院長と正式に決めます」


 直人は考えた。


 施工者や職人にとって、治療を受けられる契約は価値がある。


 火傷や切り傷の多いガルドの工房。


 土木作業をするボルグ。


 木工を担うロッカ。


 直人自身も、異世界で治療費の相場を知らない。


「物々交換だけでなく、保守契約と組み合わせられるかもしれません」


「保守?」


「治療院へ優先的に点検と修理を提供する代わりに、施工班の怪我や病気を一定範囲で診てもらう」


 リリアが紙へ書き始める。


「薬代は別。重い治療は上限を決める。期間は一年。利用しなかった場合も返金はなし」


「もう契約を作っているんですか」


 エレンが驚く。


「案よ。院長と相談して」


「治療院の設備は、優先度が高いと思います」


 直人が言うと、バルドが不満そうに口を挟んだ。


「金を払わない相手を先にするのか?」


「まだ順番は決めていません」


「治療院だけ特別扱いではないか」


「病気を広げる危険があるなら、町全体へ影響します」


「うちの食堂も町中の人間が使う」


「だから現場を確認します」


 話が再び金額と優先順位へ戻りかける。


 リリアが机を指で叩いた。


「全員の相談が終わるまで、順番の話はしない」


 宿屋の主人らしい強い声に、食堂が静かになった。


          ◇


 四人目は、町外れの小さな宿《渡り鳥亭》の主人だった。


 名はケイン。


「銀月亭ほど立派な水洗便所はいらない」


 最初からそう言った。


 リリアの眉がわずかに動く。


「立派というほどではありません」


「見せてもらった。手すり、灯り、手洗いまで付いていた」


「宿の設備として必要だと判断しました」


 直人が答える。


「うちは旅人が一晩寝るだけだ。安い便器でいい」


「何を省きたいですか」


「手すり。足置き。室内の飾り。手洗い壺も、井戸が近いからいらない」


「手洗い設備は省けません」


「井戸で洗えばいい」


「便所から井戸へ移動する間に、扉や荷物へ触れます」


「今まで誰も気にしていない」


「今まで気にしていなかったことと、安全であることは別です」


「では、手洗いは付ける。ほかは削れるか?」


「利用者の体格によります。段差と床の安全、鍵、換気、給水、排水は必要です」


「一番安く作ってくれ」


「安全基準を下げる依頼は受けません」


 ケインは露骨に顔をしかめた。


「客が安い宿代しか払わないんだ」


「だから、工事費の回収方法を考えましょう」


 リリアが言う。


「宿泊料を少し上げる。水洗便所利用料を分ける。共同出資で近隣の宿と共用便所を作る」


「便所のために宿代を上げたら客が逃げる」


「銀月亭は、利用者が増えています」


「珍しいからだ」


「清潔だから選ぶ客も出ています」


「銀月亭の主人が言っても、宣伝にしか聞こえない」


 リリアの表情が硬くなった。


 直人が間へ入る。


「一番安い案は現場を見て出します。ただし、安く見せるために、必要な費用を後から追加することはしません」


「最初の金額で完成する?」


「調査時に見えない腐食などがあれば、追加の可能性はあります。その場合も、勝手に進めず説明します」


「結局、高くなるかもしれない」


「何も調べず固定額を約束する方が危険です」


 ケインは納得した様子ではなかった。


「見積もりまでは無料か?」


「町の中であれば、初回調査は無料です」


「なら、見に来てくれ」


「その後、ほかの職人の見積もりと比べても構いません」


「便器を作れる陶工は、ガルドしかいないだろう」


「今はそうです」


「なら競争にならない」


 そこは直人たちにも課題だった。


 一つの工房しか作れない商品は、価格も納期も安定しにくい。


「将来的には、ほかの陶工も作れる手順にします」


「ガルドが教えると思うか?」


「そこは、これから相談します」


 ガルドの怒声が頭の中で聞こえた気がした。


          ◇


 最後の相談者は、別の宿の従業員だった。


 リリアが警戒していた《金鹿亭》から来た男である。


 名はサイル。


 整った制服を着ており、言葉遣いも丁寧だった。


「当宿にも、水洗便所を設置したく存じます」


「見学だけではなかったのね」


 リリアの声が低い。


「銀月亭の設備は、主人も高く評価しております」


「うちのお客様を取るために?」


「宿同士が競うのは当然でしょう」


 サイルは動じない。


「ですが、便器を作る皆様にとって、大口の契約になるはずです」


「何台ですか」


 直人が尋ねる。


「まず三台」


 食堂がざわついた。


「三台?」


 リリアが聞き返す。


「一階に一台。二階に二台。将来的には客室ごとの設置も検討します」


「二階へ設置する場合、床補強と排水縦管が必要です」


「費用は問題ありません」


「処理槽は?」


「敷地が広いため、必要な大きさを作れます」


「給水は?」


「水魔術師を専属で雇うことも可能です」


 条件だけ見れば、魅力的な案件だった。


 十分な資金。


 広い土地。


 複数台注文。


 成功すれば事業を一気に成長させられる。


 ガルドの工房へ製造設備を増やす資金も得られるかもしれない。


「納期は?」


 直人が尋ねる。


「一月以内に、最低一台」


「保証できません」


「第一号は、もっと短い期間で完成したと聞いています」


「水路試験から数えれば、それ以上かかっています」


「型は完成したのでしょう?」


「修正が必要です。さらに、仕立屋からも注文相談を受けています」


「当宿は前金として銀貨五枚を用意できます」


 ほかの相談者たちが息を呑んだ。


 ハンナが持ってきた銅貨とは、比較にならない。


 リリアも一瞬、言葉を失った。


 銀貨五枚。


 事業登録費。


 材料費。


 工房の窯改修。


 職人への報酬。


 多くの問題を解決できる金額だった。


「条件があります」


 サイルが続けた。


「金鹿亭への第一号設置後、三十日間は、ほかの宿へ同型便器を販売しないこと」


「独占契約?」


 リリアの目が鋭くなる。


「新しい設備へ投資する以上、短期間でも優位性が必要です」


「銀月亭は?」


「すでに白い便器をお持ちです」


「異世界製の便器は設置できなくなる」


「三十日だけです」


「その間、渡り鳥亭にも売れない」


「宿以外の家庭や店舗は構いません」


 よく考えられた条件だった。


 金鹿亭は、銀月亭が水洗便所で得た注目を奪いたい。


 ただし、完全な独占ではなく、宿泊業に限定している。


「三十日で銀貨五枚なら、悪くない条件だ」


 バルドが言う。


「お前は宿屋ではないから関係ないだろう」


 ケインが不満そうに返す。


「私たちには大問題だ。三十日も待てと言うのか」


「その間に、工房の製造数を増やせるかもしれません」


 サイルは穏やかに答える。


「皆様にとっても利益になる契約です」


 直人はリリアを見た。


 リリアの表情は固い。


 銀月亭の競争相手へ最新の便器を売る。


 しかも、ほかの宿への販売を止める条件。


 宿の主人としては受け入れがたい。


 便器事業の契約窓口としては、魅力的な提案だった。


「今すぐ答えません」


 直人が言った。


「なぜです?」


「製造能力と、すでに受けている相談への影響を確認します」


「前金を増やすこともできます」


「金額だけの問題ではありません」


「商売である以上、金額は重要でしょう」


「重要です。ただし、今後の信用も重要です」


 仕立屋には、すでに見積もりを出す約束をしている。


 ナーラの便器完成を見て相談へ来た人々もいる。


 後から来た金鹿亭が高額を払うからと、すべての順番を変えれば、最初に相談した人々から信頼を失う。


「正式な回答は、三日以内にします」


「承知しました」


 サイルは契約条件を書いた紙を机へ置いた。


「良い返事を期待しております」


 丁寧に頭を下げ、銀月亭を出ていった。


          ◇


 五件の相談が終わった後、食堂には重い空気が残った。


 直人の手帳には、相談内容が並んでいる。


 一、ハンナ宅。


 寝たきりに近い夫。


 高齢の妻が便壺を運搬。


 資金不足。


 二、赤鍋亭。


 利用者多数。


 資金あり。


 清掃運用が未整備。


 三、治療院。


 患者と職員。


 井戸近くで便壺を洗浄。


 現金不足だが、治療契約を提案。


 四、渡り鳥亭。


 低価格希望。


 安全設備を削りたい意向。


 五、金鹿亭。


 三台希望。


 高額前金。


 宿泊業への三十日独占条件。


 さらに、先に調査した仕立屋がある。


「全部は受けられません」


 直人が言った。


「断るの?」


 マルタが尋ねる。


「受ける時期を分けます。現場調査はできますが、完成時期を約束できない案件があります」


「金鹿亭を最初にすれば、工房を広げられるわ」


 リリアが言った。


 感情を抑え、事業側の利点を口にしている。


「銀貨五枚の前金があれば、新しい型、乾燥棚、焼成台、材料を用意できる。弟子の工賃も払える」


「独占条件は?」


「受けたくない」


 リリアは即答した。


「銀月亭の主人としてはね」


「契約窓口としては?」


「条件を変えられるなら検討する」


「たとえば?」


「三十日間の販売禁止ではなく、金鹿亭だけの内装やサービスを作る。便器本体はほかへ売れるようにする」


「銀月亭と同じ考え方ですね」


「便器だけで競うのではなく、宿の使い方で差を付ける」


「サイルさんが受け入れるでしょうか」


「交渉する」


 リリアは少し疲れた顔で椅子へ座った。


「本音を言えば、金鹿亭へ売りたくない」


「分かります」


「あの宿ができてから、銀月亭のお客様は減った。新しい便器まで渡したら、また負けるかもしれない」


「でも、断れば別の方法で真似するかもしれません」


「そうなのよ」


「販売する側として、競争相手だから断るのは公平ではない」


「分かっている」


 リリアは自分へ言い聞かせるように答えた。


「だから、感情だけでは決めない」


 直人はほかの案件へ目を移した。


「優先順位の基準を作りましょう」


「基準?」


「誰かの気分で順番を変えないためです」


「何を見るの?」


「危険度。利用人数。代替手段の有無。施工の難易度。支払い能力。社会への影響。申し込み順」


「多いわね」


「すべて同じ重さにはしません」


 直人は紙へ項目を書いた。


 第一優先:生命・健康に関わる危険。


 便所の床が崩れる。


 井戸の汚染が疑われる。


 歩行困難者が転倒する。


 感染が広がる可能性。


 第二優先:代替手段がない。


 便所が一つしかない。


 便壺を運べる人がいない。


 故障すれば生活や業務が止まる。


 第三優先:多くの利用者へ効果がある。


 治療院。


 飲食店。


 職場。


 宿。


 第四優先:製造・施工準備が整っている。


 図面。


 土地。


 資金。


 材料。


 職人。


 第五優先:申し込み順。


「支払い能力が第四なの?」


 リリアが尋ねる。


「事業を続けるには必要です。ただ、金がないから危険な人を永遠に後回しにはできません」


「その不足分を、誰が払うの?」


「利益のある案件から、一定分を支援枠へ回す方法があります」


「便器を買う客が、ほかの家の工事費まで払うの?」


「価格へ隠して上乗せするのではなく、事業利益の使い道として決めます」


「寄付のようなもの?」


「一部はそうです。町や神殿から支援を受ける方法も探します」


「始まったばかりの事業で、そこまでできる?」


「最初から大きな額は無理です」


 直人は正直に答えた。


「だから、ハンナさん宅には水洗以外の低価格な緊急改善を先に行う。治療院は町や神殿を巻き込む。利益が取れる赤鍋亭や金鹿亭の契約で、製造能力を増やす」


「全部を組み合わせるのね」


「一件だけ見れば、どれを選んでも別の人が困ります」


 リリアは紙を見つめた。


「では、最初は?」


「現場調査をしていない案件の順番は、まだ確定できません」


「それでは相談者へ答えられない」


「緊急調査の順番だけ決めます」


 直人は手帳を開いた。


「明日の朝、治療院。午後、ハンナさん宅」


「赤鍋亭は?」


「翌日。利用回数が多いので、処理量を確認します」


「渡り鳥亭と金鹿亭は?」


「その次です。宿泊業への販売条件は、リリアさんと一緒に整理します」


「仕立屋は?」


「すでに調査済みなので、明日見積もりを出します。製造開始の順番は、契約成立時点で確定します」


「申し込みが早い仕立屋を、金鹿亭より先にする?」


「原則はそうします。ただし、第一号設置後に緊急事故が見つかった現場は別です」


 リリアはゆっくりうなずいた。


「順番を売らないのね」


「今は」


「また“今は”?」


「将来、急ぎ対応の枠を作ることはできます。ただし、一日でも待てない危険な現場の枠は、金額に関係なく確保します」


「緊急枠と通常枠を分ける?」


「はい」


 病院の救急対応のように、すべてを申し込み順にはできない。


 だが、金を多く払う者がすべて割り込める仕組みにもしてはいけない。


「相談受付表も作りましょう」


「また表が増える」


「必要です」


 リリアは笑った。


「分かったわ。名前、現場、困りごと、危険度、調査日、見積もり、契約、製造順、施工予定」


「保守開始日も」


「まだ増えるの?」


「売って終わりではありませんから」


「それはもう覚えている」


          ◇


 夕方、ガルドの工房へ相談内容を伝えると、予想どおり怒鳴られた。


「何台作らせるつもりだ!」


「まだ契約は仕立屋だけです」


「それも正式契約前だろう」


「見積もり次第です」


「なら、なぜ三台だ五台だという話が出ている!」


「相談者が増えました」


「俺の窯は一つだぞ!」


「だから製造能力を確認しています」


「月に二台だ」


 ガルドは即答した。


「順調なら、ですね」


「何も壊れず、弟子も病気にならず、窯も止まらなければだ」


「一台目よりは早くなりますか」


「型が使える。水路試験も不要だ。乾燥中に次を成形できる」


「三台は無理?」


「無理に作れば、乾燥が甘くなる。品質を落とすつもりはない」


「では、月二台を上限として約束します」


「勝手に約束するな」


「ガルドさんが言いました」


「上限だ。必ず二台とは言っておらん」


「最低保証は一台?」


「窯が壊れればゼロだ」


「では、納期には余裕を持たせます」


「最初からそうしろ」


 テオが横で、製造計画を書いていた。


「親方。乾燥棚を増やせば、成形済み便器を二台置けます」


「置く場所がない」


「裏の物置を片づければ」


「あそこには古い型がある」


「使っていない型も多いです」


「勝手に捨てるな」


「金鹿亭の前金で、別の乾燥小屋を作る案があります」


 直人が言う。


「まだ契約しておらんだろう」


「独占条件を外せれば、検討できます」


「金鹿亭の金で工房を広げ、ほかの宿へ便器を売るのか」


「設備投資の対価として、価格割引や優先保守を付けます」


 ガルドは考え込んだ。


「乾燥小屋があれば、月三台にできるかもしれん」


「三台?」


「かもしれん、だ」


「記録しました」


 テオが嬉しそうに言う。


「勝手に書くな!」


「記録係ですから」


 ガルドの怒声が工房へ響く。


 直人は、棚の上に置かれた失敗試験片を見た。


 一台目を作るだけだった頃、製造順など考える必要はなかった。


 今は違う。


 限られた窯。


 限られた土。


 限られた職人。


 便器を必要とする人は、すでに作れる数を超えている。


 作れるものを増やす。


 同時に、誰へ先に届けるかを公平に決める。


 それもまた、設備を広める仕事の一部だった。


          ◇


 夜。


 銀月亭の受付台に、新しい木板が掛けられた。


 ロッカが急いで作った相談受付表である。


 上から順に、木札を差し込める溝がある。


 仕立屋。


 治療院。


 ハンナ宅。


 赤鍋亭。


 渡り鳥亭。


 金鹿亭。


 それぞれの札の横には、色の違う小さな印。


 赤は、緊急調査。


 黄は、通常調査。


 青は、見積もり中。


 白は、製造待ち。


「町の人にも見せるの?」


 マルタが尋ねた。


「個人の事情は書きません」


 直人が答える。


「名前の公開に同意した人だけ表示します。嫌な人は番号にします」


「何のため?」


「自分の相談が忘れられていないと分かるようにするためです」


「順番が見えれば、待てる人もいるわね」


 リリアが木札を動かした。


 仕立屋は青。


 見積もり中。


 治療院とハンナ宅は赤。


 緊急調査。


 ほかは黄。


「金鹿亭が、金を積んでも順番が変わらないと怒らない?」


「交渉内容と製造枠は別です」


「大口枠を作る可能性は?」


「製造能力が増えた後なら」


「利益案件を受けないと、能力も増えない」


「だから、緊急案件と利益案件を並行させます」


 直人は二本の線を木板へ引いた。


 一つは、緊急改善。


 水洗便器が完成する前に、床、手すり、密閉壺、洗浄場所を改修する枠。


 もう一つは、正式な水洗便器製造枠。


「ハンナさん宅は、緊急改善を先にできます」


「便器を待たなくても?」


「はい。治療院も、便壺の洗浄場所を井戸から離す工事は、すぐ始められるかもしれません」


「便器の順番だけ考えていたら、危険を減らすのが遅れるのね」


「そうです」


「では、“便器待ち”と“改善待ち”を分けましょう」


 リリアが新しい札を用意する。


 相談が、施工計画へ変わっていく。


「ナオト」


「何ですか」


「この事業、名前が必要だと思う」


「また商会の話ですか」


「銀月亭の新規事業では、もう管理しきれなくなる」


「登録費が必要です」


「金鹿亭の契約が決まれば払える」


「独占条件は受けません」


「分かっている。交渉して外す」


「名前は、どうしますか」


 リリアは少し考えた。


「今すぐは決めない」


「珍しいですね」


「あなたが先に、変な名前を付けないように考えておくの」


「俺は何も言っていません」


「“異世界便器販売所”とか考えていたでしょう?」


「分かりやすいと思います」


「絶対に駄目」


 マルタが小さく笑った。


 食堂の奥では、水洗便所の洗浄音が響いた。


 ごぼん。


 銀月亭の一台。


 ナーラ宅の一台。


 まだ、町には二台しかない。


 だが、その二台を見た人々が、自分の家、自分の店、自分の治療院へ同じ変化を求め始めている。


 直人は受付表を見上げた。


 誰から先に便器を売るのか。


 正解は一つではない。


 金が必要だ。


 危険も減らしたい。


 公平でなければならない。


 事業を続けられなければ、次の人を助けられない。


「明日は治療院です」


 直人は手帳を閉じた。


「井戸と便壺の洗浄場所を、最初に確認します」


「病気を治す場所が、病気を広げていたら大変ね」


「その可能性を調べます」


「また大きな仕事になりそう」


「現場を見る前から決めません」


「でも、顔はもう仕事を始めているわ」


 リリアの指摘に、直人は否定できなかった。


 異世界の衛生改革は、便器を作るだけでは進まない。


 限られた一台を、必要な場所へ届ける仕組み。


 そして、便器を待つ間にも危険を減らす方法。


 それらを作る仕事が、新たに始まっていた。

銀月亭へ集まった五件の相談には、高齢者宅、飲食店、治療院、低価格宿、大型宿と、それぞれ異なる事情がありました。


直人たちは、高額を払える順ではなく、危険度、代替手段、利用人数、準備状況、申し込み順を基準にする方針を決めます。


また、水洗便器の完成を待つだけでなく、手すり、床、密閉壺、洗浄場所などを先に改修する「緊急改善枠」を設けました。


次回は治療院を調査し、飲み水を汲む井戸のそばで便壺を洗っている現状と、病人の排泄物を扱う危険へ向き合います。

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