第19話 最初に流したのは、ひとりの暮らしでした
パン屋の便所へ、異世界製便器第一号が設置されました。
しかし、設置直後に使用を始めることはできません。
運搬や固定によるひび、水漏れ、接続不良がないかを確かめるため、直人たちは一晩の水位保持試験を行います。
翌朝、陶山直人は日の出より早く目を覚ました。
銀月亭の客室はまだ暗い。
窓の外には薄い霧が漂い、町の屋根がぼんやりと沈んでいる。
直人は寝台から起き上がると、枕元に置いていた手帳を開いた。
パン屋水洗便所。
設置後水位保持試験。
開始時刻。
水位目印。
給水栓閉鎖。
使用停止表示。
仮設便所の設置。
確認すべき項目をもう一度読み直す。
「まだ空も明るくないわよ」
部屋の外から声がした。
扉を開けると、リリアが壁へもたれていた。
髪はまだ整えられておらず、薄い外套を寝間着の上から羽織っている。
「起こしましたか?」
「床を歩く音が聞こえたの」
「静かにしたつもりでした」
「あなたの静かは、普通の人より少しだけうるさい」
「申し訳ありません」
「パン屋へ行くのでしょう?」
「はい。水位を確認します」
「私も行くわ」
「まだ早いですよ」
「契約窓口は銀月亭よ。引き渡しには立ち会う」
「朝食の準備は?」
「マルタに頼んだわ」
「体調は?」
「あなたに言われるほど悪くない」
リリアはあくびをかみ殺した。
「ただし、今日こそ完成と言ってもらうから」
「問題がなければ」
「その言い方を聞き飽きたの」
「確認前に完成とは言えません」
「分かっているわよ」
リリアは階段へ向かいながら、振り返った。
「でも、ナーラさんはもっと早く起きて待っていると思う」
直人にも、その姿が想像できた。
何か月も膝の痛みに耐え、しゃがむ便所を使ってきた。
仮設便座で少しは楽になったとはいえ、昨日は完成した便器を目の前にしながら、もう一晩待ってもらった。
「急ぎましょう」
「だから、走って転ばないでね」
「分かっています」
「工具箱を持ったまま走りそうだから言っているの」
◇
パン屋の扉は、すでに開いていた。
店内から温かい光と、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
「来たね」
エッダが粉の付いた手を振った。
「まだ鐘も鳴っていないのに」
「こちらも早く来すぎたと思っていました」
「母さんは、もっと早く起きているよ」
店の奥では、ナーラが椅子に座っていた。
外出用の服を着て、白髪も整えている。
「おはようございます」
「おはよう、ナオトさん」
「昨夜、仮設便所に問題はありませんでしたか」
「大丈夫だったよ。ロッカが作り直してくれた便座も、前と同じように使えた」
「転倒や、手すりのぐらつきは?」
「何もなかった」
「それなら、まず水洗便器を確認します」
ナーラは杖を手に取った。
「私も行くよ」
「確認が終わるまで、入口で待ってください」
「中へ入っては駄目かい?」
「何か漏れていた場合、床が滑る可能性があります」
「分かったよ」
直人、リリア、エッダ、ナーラの四人で裏庭へ向かう。
便所の入口には、昨夜掛けた赤い使用停止板が残っていた。
扉の外側。
地面。
処理槽へ向かう排水管の埋設部分。
目立った異常はない。
「最初に、処理槽を確認します」
ボルグも少し遅れて到着した。
肩に道具を担ぎ、眠そうな顔をしている。
「朝一番に呼ばれるとは思わなかった」
「引き渡し前の最終確認です」
「水位を見るだけではなかったのか」
「処理槽側からの逆流や漏れも確認します」
「全部見なければ気が済まんらしい」
ボルグは処理槽の蓋を少し開けた。
「水位は昨日とほぼ同じだ」
「異常な泡や臭いは?」
「ない。壁からの染み出しも見えん」
「ポルンの痕跡は?」
「この家には連れてきていないだろう」
「清掃スライムが自然に入る可能性があります」
「青緑の跡はない」
「分かりました」
次に点検口。
地面へ固定した印石の横から、木栓を外す。
臭いが少し上がる。
しかし、管内にたまった水や異物は見えない。
「乾いています」
接続部の外側へ漏れはない。
木管の防水材にも、大きな変化はなかった。
「便所内を確認します」
直人は扉を開けた。
室内は昨日のまま。
青灰色の便器。
木製便座。
右側の手すり。
操作紐。
小型貯水槽。
手洗い壺。
床には、昨夜リリアが置いた乾いた薄紙が数枚並べてある。
水滴が落ちていれば、色が変わる仕掛けだ。
「紙は乾いています」
リリアが一枚ずつ確認した。
「便器の周りも?」
「はい」
直人は給水接続部へ指を当てる。
乾いている。
便器底部。
乾いている。
固定金具。
緩みなし。
手すり。
ぐらつきなし。
「水位を見ます」
便器の内側には、昨夜付けた小さな目印がある。
青灰色の鉢に残った水面は、その印とほぼ一致していた。
直人は目の高さを水面へ合わせる。
「減っていませんか」
リリアが尋ねる。
「見た限りでは変化なしです」
「ほんの少しも?」
「気温で水面がわずかに変わることはあります。ですが、漏れと判断する低下はありません」
「なら合格?」
「固定部分を再確認します」
便器の左右へ手を添え、軽く揺らす。
動かない。
水平器を縁へ置く。
気泡は昨日と同じ位置。
焼成時のわずかな歪みを調整片で補正した状態が保たれている。
「異常なしです」
直人は手帳へ記録した。
設置後水位保持。
合格。
外部漏水。
なし。
固定。
異常なし。
処理槽。
異常なし。
「使用できます」
直人が言った。
便所の入口にいたナーラは、一瞬、聞き返さなかった。
「本当に?」
「はい」
「今度は、何か忘れていないかい?」
エッダが半分笑いながら尋ねる。
直人は手帳を見直した。
「利用説明と引き渡し確認が残っています」
「やっぱりあるのね」
リリアがため息をつく。
「ですが、実際に使っていただけます」
ナーラがゆっくりと便所の中へ入った。
昨日まで掛かっていた赤い板を見つめる。
「これを外していいのかい?」
「はい」
ナーラは自分の手で、使用停止板を外した。
裏返す。
白い使用可能の面が現れる。
入口の掛け金へ、それを掛けた。
異世界製水洗便器第一号が、正式に使用可能となった。
◇
「使う前に、説明をもう一度します」
直人が言うと、ナーラは便器の横で笑った。
「工房でも、昨日も聞いたよ」
「実際の場所では初めてです」
「聞いておあげ、母さん」
エッダが言った。
「聞かないと、ナオトさんは便所の前から動かないよ」
「では、お願いするよ」
直人は説明板を指した。
「便器には座って使用します。排泄物と、ここに用意した薄い紙以外は流さないでください」
「布は横の箱だね」
「はい。落とし物をした場合、流さずに呼んでください」
「紐を引く前に確認する」
「その通りです」
「一度引いて流れなければ、もう一度引かない」
「使用を止め、入口へ赤い板を掛けてください」
「それから、誰かを呼ぶ」
「まずエッダさん。それでも直らなければ、銀月亭へ連絡してください」
「夜中なら?」
「緊急の場合は呼んでください。ただし、水があふれていなければ、赤い板を掛けて朝まで使用を止める方法もあります」
「代わりの壺は残しておくんだね」
エッダが確認する。
「はい。故障時や水不足のために、すぐ処分しないでください」
「昨日、壊さずに残しておいてよかったよ」
「切替中の仮設設備を早く撤去しすぎた反省です」
エッダは壁際を指した。
ロッカが組み直した仮設便座は、今朝のうちに移動しやすい形へ作り替えられていた。
普段は物置へ保管。
水洗便器が使えない場合だけ、汲み取り壺と組み合わせる。
「次に、水です」
直人は貯水槽を示した。
「内側の線まで水を補充してください。線より少ない場合、正常に流れない可能性があります」
「線より多く入れれば、よく流れる?」
「必要以上に入れないでください。水が無駄になります」
「ミーナがいない日は、井戸から運ぶんだね」
「はい。満水にした桶何杯分か、後で分かる印も付けます」
「私が運ぶよ」
エッダが言う。
「ナーラさんには、重い水を運ばせないでください」
「分かっている。母さんは使うだけだ」
「それと、使用後は手を洗ってください」
「もう覚えたよ」
「点検は、毎朝エッダさんが行います」
「私が?」
「契約時に説明しました」
「パンを焼く前から便器を見るのかい」
「最初の三十日は毎日です。その後、問題がなければ頻度を見直します」
「何を見るんだった?」
「床の濡れ、便器のぐらつき、便器内に水が残っているか、貯水槽と接続部の漏れ、処理槽の異常です」
「最後の処理槽は毎朝開けるのかい?」
ボルグが口を挟む。
「蓋は毎日開けなくていい。外から水が染み出していないか、臭いが急に強くなっていないかを見るだけだ」
「中を見るのは?」
「最初の一月は、俺が十日に一度来る」
「費用は?」
エッダが尋ねる。
「最初の三十日は、契約に含まれている」
リリアが帳簿を開いて答えた。
「それ以後は、汲み取りと点検を合わせた保守費用を相談する予定よ」
「保守まで契約になっているんだね」
「売って終わりではないもの」
リリアが自然に言う。
直人は少しだけ笑った。
「何?」
「その言葉が定着したと思って」
「あなたが何度も言うからでしょう」
◇
説明を終えると、ナーラは全員を便所から追い出した。
「ナオトさん」
「はい」
「外で待っているんだね?」
「異常があれば声をかけてください」
「扉のすぐ前ではなく、少し離れておくれ」
「分かりました」
「音も気にしない」
「洗浄音は確認したいですが――」
「ナオト」
リリアが低い声で呼んだ。
「離れます」
直人、リリア、エッダ、ボルグは、便所から十分に距離を取った。
ミーナも少し遅れて到着し、パン屋の壁際へ立つ。
「間に合いましたか」
「今、ナーラさんが使用しています」
「最初の利用ですね」
「静かにしてください」
「すみません」
全員が黙った。
町は朝を迎え始めていた。
遠くで鐘が鳴る。
通りを荷車が進む。
パン屋の窯から煙が上がる。
生活の音の中に、今までなかった設備が一つ加わろうとしている。
しばらくして。
便所の中から、小さく紐が動く音がした。
続いて。
ごぼん。
水が鉢を回り、排水路へ吸い込まれる音。
銀月亭の白い便器とは少し違う。
より低く、丸い音だった。
排水管の中を水が走る。
その音は床下から裏庭へ進み、処理槽の方向で消えた。
「流れた」
ミーナが小声で言う。
「まだ確認前です」
直人も声を抑えた。
「分かっています」
扉の掛け金が外れた。
ナーラが姿を現す。
杖は使っているが、表情は穏やかだった。
「どうでした?」
エッダが真っ先に駆け寄る。
「流れたよ」
「使いにくくなかった?」
「座るのも、立つのも楽だった」
ナーラは手洗い壺の栓を開けた。
細い水で手を洗う。
「臭いも残っていない。壺を運ぶ必要もないんだね」
「排泄物は処理槽へ流れています」
直人が答える。
「そこはボルグさんが管理します」
「便器は動きませんでしたか」
「動かなかった」
「洗浄紐は重くありませんでしたか」
「少し力はいるけれど、引けたよ」
「水が飛び散ることは?」
「なかった」
「音は?」
「大きいね」
直人は手帳へ書き込む。
「何でも記録するんだね」
「次の便器を改良するためです」
「でも、不快な音ではなかった」
ナーラは便器を振り返った。
「全部、向こうへ行ったと分かる音だった」
それは、直人にとって意外な感想だった。
洗浄音を小さくすることだけが、必ずしも正解ではない。
正常に流れたことを、利用者へ知らせる役割もある。
「洗浄確認音として残す考え方もありますね」
「また何か考え始めた顔をしている」
リリアが言った。
「静音性とのバランスです」
「今は完成を祝いなさい」
「まだ便器を確認します」
「ナーラさんが問題ないと言っているでしょう?」
「実使用後の状態を見る必要があります」
直人は便所内へ入った。
利用直後の便器。
鉢の内側。
排水口。
残った水位。
汚れはほとんどない。
後方に、細い筋が少しだけ残っている。
「泥の試験では落ちましたが、実際の汚れでは残る場合がありますね」
ガルドが来ていれば、すぐ洗浄穴の角度を調整しようとしただろう。
だが、焼成後の陶器を現場で不用意に削るべきではない。
「清掃用の柄付き布で落ちますか」
エッダが尋ねる。
「まず水だけで軽く流してみます。ただし、通常の洗浄を何度も繰り返すのではなく、少量の清掃水を使います」
手洗い用とは別の小桶から、水をゆっくり便器内へかける。
柔らかい柄付き布で、一度だけ表面をなぞる。
筋は簡単に落ちた。
「表面の釉薬は機能しています」
「毎回、私が拭くのかい?」
「汚れが残った時だけです。通常清掃は一日に一度を目安にしてください」
「何で洗う?」
「今は湯と柔らかい布です。灰や砂を強くこすると、表面へ傷が付く可能性があります」
「銀月亭では、磨き砂を使っていたわ」
リリアが言う。
「白い便器も、粗い砂は避けたいです」
「では、専用の洗い粉が必要?」
「釉薬を傷めず、汚れを落とせるものを探します」
「また商品が増えるわね」
「便器を販売するなら、清掃方法も必要です」
「便器用の洗い粉まで売るつもり?」
「安全なものが作れれば」
リリアの目が商売人のものへ変わった。
「ガルドの釉薬片で試せるわね」
「いきなり便器へ使うより、試験片で確認した方がいいです」
「灰、石けん草、細かい粘土粉……何種類か比べられる」
「リリアさんの方が仕事を増やしていますよ」
「必要なのでしょう?」
「はい」
「なら、あとで考える」
直人は初回使用後の状態を記録し終えた。
固定に異常なし。
漏れなし。
排水正常。
封水正常。
清掃可能。
「初回実使用試験、合格です」
その言葉を聞いた瞬間、エッダが大きく息を吐いた。
「これで本当に完成かい?」
直人は、反射的に「現時点では」と言いかけた。
リリアが横から睨む。
「完成です」
直人は言い直した。
「ただし、定期点検と保守は続きます」
「やっぱり続きがある」
「設備ですから」
エッダは笑い、直人の肩を強く叩いた。
「ありがとう」
「契約どおりの仕事です」
「それでも、ありがとうだよ」
エッダは母親を見た。
「母さん。もう、あの壺を運ばなくていい」
「運んでいたのは、ほとんどお前だろう」
「だから言っているんだよ」
「私が自分で運べなくなってから、ずっと苦労をかけたね」
「そんなことはいい」
エッダは顔をそらした。
その目元は少し赤くなっていた。
ナーラは青灰色の便器を見た。
「便所が変わっただけなのに、不思議だね」
「だけ、ではありません」
直人が言った。
「毎日必ずすることが、安全にできるようになりました」
排泄は、特別な行動ではない。
誰もが行う。
だからこそ、できなくなった時の負担は大きい。
膝が痛む。
しゃがめない。
立ち上がれない。
転ぶのが怖い。
誰かに壺を運んでもらわなければならない。
それらは一つ一つ小さく見えても、毎日繰り返されれば、暮らし全体を狭くしていく。
水洗便器が流したのは、汚物だけではなかった。
ナーラが便所へ行くたび感じていた不安。
エッダが母親の転倒を心配する時間。
重い壺を運ぶ作業。
家の中へ残る臭い。
そうした負担の一部も、水とともに遠ざけた。
◇
パン屋の店内へ戻ると、大きな丸パンと温かいスープが机へ並べられていた。
「約束の朝食だよ」
エッダが言う。
「工事費とは別ですか」
「祝いだ」
「受け取っていいんですか」
「食べないなら、代金を請求するよ」
「いただきます」
直人、リリア、ミーナ、ボルグ、ナーラが机を囲む。
少し遅れて、ガルドとテオも工房からやってきた。
「終わったのか」
ガルドは店へ入るなり尋ねた。
「初回使用まで合格しました」
「便器は?」
「正常です」
「水路は?」
「汚れが一筋残りましたが、清掃で簡単に落ちました」
「どの位置だ」
「後方です」
「穴の角度を――」
「今すぐ削りません」
直人が先に止めた。
「通常清掃で対応できる範囲です。次の便器では穴の角度を調整します」
「第一号を不完全なまま渡すのか」
「完全に汚れが残らない便器は難しいです。必要以上に削って穴を大きくする方が危険です」
「だが――」
「親方」
テオが記録紙を開いた。
「第二号の型修正項目へ入れましょう」
ガルドは弟子を見る。
しばらくして、椅子へ腰を下ろした。
「後方の穴を、ほんの少し下へ向ける」
「記録します」
「釉薬がたまる分も計算しろ」
「はい」
ガルドは差し出されたパンを受け取る。
「ナーラ」
「何だい、親方」
「座って壊れなかったか」
「壊れなかったよ」
「流れたか」
「きれいに流れた」
「高さは?」
「ちょうどよかった」
「そうか」
ガルドはそれだけ言い、パンをかじった。
ナーラが微笑む。
「ありがとう、ガルド親方」
「試作費をもらっている」
「代金をもらっても、いい仕事には礼を言うものだよ」
「まだ本体代はもらっておらん」
その言葉に、リリアが帳簿を開いた。
「そうね。最終精算をしましょう」
食事の席が、一瞬で商談の場へ変わった。
「今か?」
ガルドが顔をしかめる。
「引き渡しが終わったから、今よ」
「パンを食わせろ」
「食べながら聞いて」
リリアは費用を読み上げた。
便器本体の材料。
釉薬。
焼成用の薪。
専用便座。
木工改修。
床補強。
手すり移設。
貯水槽。
給水管。
排水管。
簡易処理槽。
工事中の仮設便所再設置。
施工費。
初期保守。
試作費から差し引く分。
「当初の概算より、銅貨五枚多くなりました」
リリアが説明する。
「手すり移設は予備費内。仮設便所の再設置は、こちらの説明不足なので請求しない。増えたのは主に排水管の点検口と、処理槽周囲の白い砂です」
「追加する時に聞いたね」
エッダが言う。
「はい。承認を記録しています」
「なら払うよ」
エッダは革袋から硬貨を取り出した。
「一度に全部は難しい。契約どおり、残りは三回に分けてもいいかい?」
「問題ありません」
リリアが硬貨を確認する。
「本日分を受領しました」
「正式に、うちのものになったのかい?」
「便器と設備はエッダさんたちの所有です。ただし、無断で移設や改造をしないでください」
直人が答える。
「便器を持って引っ越すつもりはないよ」
「家を改築する場合も、先に連絡してください」
「分かった、分かった」
「それと、三十日間は――」
「点検に来る」
「はい」
「毎日記録する」
「はい」
「変な音、水漏れ、臭い、ぐらつきがあれば使用停止」
「完璧です」
エッダは笑った。
「便器を一台買ったというより、ナオトさんの説明まで買ったみたいだね」
「説明と保守も商品の一部です」
「なら、ずいぶん長持ちしそうだ」
◇
朝食を終える頃には、パン屋の外へ人が集まり始めていた。
設置が終わったという噂が、すでに広がっている。
「見せてくれ!」
「本当にこの町の土で作ったのか?」
「銀月亭の便器より低いって本当?」
「一回だけ座らせてくれ!」
エッダが店の扉を半分閉めた。
「今日は見学させないよ!」
外から不満の声が上がる。
「宣伝になるのでは?」
リリアが尋ねる。
「これは母さんの家の便所だ。銀月亭みたいに町中へ開放はしない」
エッダはきっぱり答えた。
「それに、知らない人が布を落として詰まらせたら困る」
「正しい判断です」
直人がうなずく。
「購入検討者への見学は、銀月亭で受けましょう」
「でも、異世界製の青灰色便器を見たい人もいるわ」
リリアが言う。
「工房に展示用を作る?」
全員がガルドを見る。
「作らんぞ」
「第二号を作る予定でしょう?」
「注文があればだ」
店の外から、大きな声が聞こえた。
「注文したい!」
ガルドの動きが止まった。
エッダが扉を少し開ける。
外に立っていたのは、町の仕立屋を営む中年の男だった。
「誰のためですか」
直人が尋ねる。
「うちの工房だ。職人が八人いる。裏の便所は狭く、いつも混んでいる」
「一台では足りない可能性があります」
「では二台だ」
今度は、ガルドだけでなく全員が黙った。
「二台?」
リリアが聞き返す。
「ああ。男用と女用で一台ずつ。銀月亭の便所を使った者が、立ち座りが楽だと言っていた」
「現場を見なければ、設置できるか判断できません」
直人が答える。
「今日の午後に見に来てくれ」
「今日は、引き渡し後の記録整理が――」
リリアが直人の腕をつかんだ。
「伺います」
「リリアさん」
「正式な注文候補よ」
「銀月亭の点検もあります」
「午前中に終わらせる。午後に現場調査」
「ガルドさんの製造能力も確認しないと」
「二台くらい作れるでしょう?」
視線がガルドへ向かう。
「同時に二台は窯へ入らん」
「一台ずつ?」
「乾燥中に次を成形することはできる」
「では、納期を分けて提案しましょう」
リリアはもう商談を始めていた。
「試作は成功したから、一台目ほど時間はかからないわね?」
「型の修正があります」
ガルドが答える。
「後方の洗浄穴。固定穴。焼成時の歪み。専用台も改良する」
「それでも、最初からではないでしょう?」
「そうだが……」
テオが記録紙を抱え、期待に満ちた顔で親方を見ている。
「親方。第二号を作りましょう」
「お前まで簡単に言うな」
「第一号の記録が全部あります」
ガルドはテオの紙を見た。
失敗した水路。
ひびの位置。
縮み方。
焼成温度。
釉薬。
塞がった穴。
修正点。
第一号を作るために積み上げた記録が、二台目の地図になっている。
「二台目は、俺にも一部を作らせてください」
テオが言った。
「早い」
「水路試験片は作りました」
「便器全体は別だ」
「親方が確認してください」
「失敗したら?」
「記録して、作り直します」
その答えは、直人が何度も言ってきたものだった。
ガルドは深く息を吐く。
「鉢の成形だけだ」
「はい!」
「水路と接合は俺がやる」
「分かりました!」
「勝手に進めるな」
「はい!」
テオの返事は、どれも嬉しさを隠せていなかった。
直人はパン屋の奥にある青灰色の便器を見た。
一台目が完成した。
それは、一つの家の暮らしを少しだけ楽にした。
同時に、職人の技術を次へ渡し、新しい注文を生み出した。
便器一台で世界が変わるわけではない。
だが、一台がなければ、二台目は始まらない。
「午後、仕立屋を調査します」
直人が言う。
「その前に銀月亭へ戻って、第一号の引き渡し記録を完成させます」
「やっぱり紙なのね」
リリアが呆れる。
「今回の記録が、次の施工を早くします」
「分かっているわ」
エッダが二人へ、包みに入れたパンを差し出した。
「昼に食べな。今度は忘れないように」
「ありがとうございます」
「次の便器を作る時も、食事は忘れないこと」
「努力します」
「そこは約束するところでしょう?」
リリアが言う。
「分かりました。昼に食べます」
店の外では、まだ町人たちが新しい便器の話をしている。
ナーラは騒ぎから少し離れ、自分の便所の白い使用可能板を見つめていた。
これからは、誰かへ壺を運んでもらうことを気にせず、自分の足で便所へ行ける。
その変化は、町の歴史書には残らないかもしれない。
けれど、一人の暮らしにとっては、何より大きな改革だった。
一晩の水位保持試験を終え、ナーラが異世界製水洗便器第一号の最初の利用者となりました。
便器は正常に洗浄し、ナーラは膝への負担を抑えて立ち座りできました。
引き渡しと精算も完了し、一台目は正式に家庭用設備として稼働を始めます。
その直後、八人が働く仕立屋から二台の設置相談が入りました。
次回は、複数人が使う職場便所の現場調査を行い、一家庭用とは異なる水量、混雑、男女別利用の問題へ向き合います。




