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トイレ販売員、異世界で水洗便器を売る ~ウォシュレットを設置したら王妃と魔王から指名されました~  作者: たむ
第1章 異世界に、最初の便器を

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19/31

第19話 最初に流したのは、ひとりの暮らしでした

パン屋の便所へ、異世界製便器第一号が設置されました。


しかし、設置直後に使用を始めることはできません。


運搬や固定によるひび、水漏れ、接続不良がないかを確かめるため、直人たちは一晩の水位保持試験を行います。

 翌朝、陶山直人は日の出より早く目を覚ました。


 銀月亭の客室はまだ暗い。


 窓の外には薄い霧が漂い、町の屋根がぼんやりと沈んでいる。


 直人は寝台から起き上がると、枕元に置いていた手帳を開いた。


 パン屋水洗便所。


 設置後水位保持試験。


 開始時刻。


 水位目印。


 給水栓閉鎖。


 使用停止表示。


 仮設便所の設置。


 確認すべき項目をもう一度読み直す。


「まだ空も明るくないわよ」


 部屋の外から声がした。


 扉を開けると、リリアが壁へもたれていた。


 髪はまだ整えられておらず、薄い外套を寝間着の上から羽織っている。


「起こしましたか?」


「床を歩く音が聞こえたの」


「静かにしたつもりでした」


「あなたの静かは、普通の人より少しだけうるさい」


「申し訳ありません」


「パン屋へ行くのでしょう?」


「はい。水位を確認します」


「私も行くわ」


「まだ早いですよ」


「契約窓口は銀月亭よ。引き渡しには立ち会う」


「朝食の準備は?」


「マルタに頼んだわ」


「体調は?」


「あなたに言われるほど悪くない」


 リリアはあくびをかみ殺した。


「ただし、今日こそ完成と言ってもらうから」


「問題がなければ」


「その言い方を聞き飽きたの」


「確認前に完成とは言えません」


「分かっているわよ」


 リリアは階段へ向かいながら、振り返った。


「でも、ナーラさんはもっと早く起きて待っていると思う」


 直人にも、その姿が想像できた。


 何か月も膝の痛みに耐え、しゃがむ便所を使ってきた。


 仮設便座で少しは楽になったとはいえ、昨日は完成した便器を目の前にしながら、もう一晩待ってもらった。


「急ぎましょう」


「だから、走って転ばないでね」


「分かっています」


「工具箱を持ったまま走りそうだから言っているの」


          ◇


 パン屋の扉は、すでに開いていた。


 店内から温かい光と、焼きたてのパンの香りが流れてくる。


「来たね」


 エッダが粉の付いた手を振った。


「まだ鐘も鳴っていないのに」


「こちらも早く来すぎたと思っていました」


「母さんは、もっと早く起きているよ」


 店の奥では、ナーラが椅子に座っていた。


 外出用の服を着て、白髪も整えている。


「おはようございます」


「おはよう、ナオトさん」


「昨夜、仮設便所に問題はありませんでしたか」


「大丈夫だったよ。ロッカが作り直してくれた便座も、前と同じように使えた」


「転倒や、手すりのぐらつきは?」


「何もなかった」


「それなら、まず水洗便器を確認します」


 ナーラは杖を手に取った。


「私も行くよ」


「確認が終わるまで、入口で待ってください」


「中へ入っては駄目かい?」


「何か漏れていた場合、床が滑る可能性があります」


「分かったよ」


 直人、リリア、エッダ、ナーラの四人で裏庭へ向かう。


 便所の入口には、昨夜掛けた赤い使用停止板が残っていた。


 扉の外側。


 地面。


 処理槽へ向かう排水管の埋設部分。


 目立った異常はない。


「最初に、処理槽を確認します」


 ボルグも少し遅れて到着した。


 肩に道具を担ぎ、眠そうな顔をしている。


「朝一番に呼ばれるとは思わなかった」


「引き渡し前の最終確認です」


「水位を見るだけではなかったのか」


「処理槽側からの逆流や漏れも確認します」


「全部見なければ気が済まんらしい」


 ボルグは処理槽の蓋を少し開けた。


「水位は昨日とほぼ同じだ」


「異常な泡や臭いは?」


「ない。壁からの染み出しも見えん」


「ポルンの痕跡は?」


「この家には連れてきていないだろう」


「清掃スライムが自然に入る可能性があります」


「青緑の跡はない」


「分かりました」


 次に点検口。


 地面へ固定した印石の横から、木栓を外す。


 臭いが少し上がる。


 しかし、管内にたまった水や異物は見えない。


「乾いています」


 接続部の外側へ漏れはない。


 木管の防水材にも、大きな変化はなかった。


「便所内を確認します」


 直人は扉を開けた。


 室内は昨日のまま。


 青灰色の便器。


 木製便座。


 右側の手すり。


 操作紐。


 小型貯水槽。


 手洗い壺。


 床には、昨夜リリアが置いた乾いた薄紙が数枚並べてある。


 水滴が落ちていれば、色が変わる仕掛けだ。


「紙は乾いています」


 リリアが一枚ずつ確認した。


「便器の周りも?」


「はい」


 直人は給水接続部へ指を当てる。


 乾いている。


 便器底部。


 乾いている。


 固定金具。


 緩みなし。


 手すり。


 ぐらつきなし。


「水位を見ます」


 便器の内側には、昨夜付けた小さな目印がある。


 青灰色の鉢に残った水面は、その印とほぼ一致していた。


 直人は目の高さを水面へ合わせる。


「減っていませんか」


 リリアが尋ねる。


「見た限りでは変化なしです」


「ほんの少しも?」


「気温で水面がわずかに変わることはあります。ですが、漏れと判断する低下はありません」


「なら合格?」


「固定部分を再確認します」


 便器の左右へ手を添え、軽く揺らす。


 動かない。


 水平器を縁へ置く。


 気泡は昨日と同じ位置。


 焼成時のわずかな歪みを調整片で補正した状態が保たれている。


「異常なしです」


 直人は手帳へ記録した。


 設置後水位保持。


 合格。


 外部漏水。


 なし。


 固定。


 異常なし。


 処理槽。


 異常なし。


「使用できます」


 直人が言った。


 便所の入口にいたナーラは、一瞬、聞き返さなかった。


「本当に?」


「はい」


「今度は、何か忘れていないかい?」


 エッダが半分笑いながら尋ねる。


 直人は手帳を見直した。


「利用説明と引き渡し確認が残っています」


「やっぱりあるのね」


 リリアがため息をつく。


「ですが、実際に使っていただけます」


 ナーラがゆっくりと便所の中へ入った。


 昨日まで掛かっていた赤い板を見つめる。


「これを外していいのかい?」


「はい」


 ナーラは自分の手で、使用停止板を外した。


 裏返す。


 白い使用可能の面が現れる。


 入口の掛け金へ、それを掛けた。


 異世界製水洗便器第一号が、正式に使用可能となった。


          ◇


「使う前に、説明をもう一度します」


 直人が言うと、ナーラは便器の横で笑った。


「工房でも、昨日も聞いたよ」


「実際の場所では初めてです」


「聞いておあげ、母さん」


 エッダが言った。


「聞かないと、ナオトさんは便所の前から動かないよ」


「では、お願いするよ」


 直人は説明板を指した。


「便器には座って使用します。排泄物と、ここに用意した薄い紙以外は流さないでください」


「布は横の箱だね」


「はい。落とし物をした場合、流さずに呼んでください」


「紐を引く前に確認する」


「その通りです」


「一度引いて流れなければ、もう一度引かない」


「使用を止め、入口へ赤い板を掛けてください」


「それから、誰かを呼ぶ」


「まずエッダさん。それでも直らなければ、銀月亭へ連絡してください」


「夜中なら?」


「緊急の場合は呼んでください。ただし、水があふれていなければ、赤い板を掛けて朝まで使用を止める方法もあります」


「代わりの壺は残しておくんだね」


 エッダが確認する。


「はい。故障時や水不足のために、すぐ処分しないでください」


「昨日、壊さずに残しておいてよかったよ」


「切替中の仮設設備を早く撤去しすぎた反省です」


 エッダは壁際を指した。


 ロッカが組み直した仮設便座は、今朝のうちに移動しやすい形へ作り替えられていた。


 普段は物置へ保管。


 水洗便器が使えない場合だけ、汲み取り壺と組み合わせる。


「次に、水です」


 直人は貯水槽を示した。


「内側の線まで水を補充してください。線より少ない場合、正常に流れない可能性があります」


「線より多く入れれば、よく流れる?」


「必要以上に入れないでください。水が無駄になります」


「ミーナがいない日は、井戸から運ぶんだね」


「はい。満水にした桶何杯分か、後で分かる印も付けます」


「私が運ぶよ」


 エッダが言う。


「ナーラさんには、重い水を運ばせないでください」


「分かっている。母さんは使うだけだ」


「それと、使用後は手を洗ってください」


「もう覚えたよ」


「点検は、毎朝エッダさんが行います」


「私が?」


「契約時に説明しました」


「パンを焼く前から便器を見るのかい」


「最初の三十日は毎日です。その後、問題がなければ頻度を見直します」


「何を見るんだった?」


「床の濡れ、便器のぐらつき、便器内に水が残っているか、貯水槽と接続部の漏れ、処理槽の異常です」


「最後の処理槽は毎朝開けるのかい?」


 ボルグが口を挟む。


「蓋は毎日開けなくていい。外から水が染み出していないか、臭いが急に強くなっていないかを見るだけだ」


「中を見るのは?」


「最初の一月は、俺が十日に一度来る」


「費用は?」


 エッダが尋ねる。


「最初の三十日は、契約に含まれている」


 リリアが帳簿を開いて答えた。


「それ以後は、汲み取りと点検を合わせた保守費用を相談する予定よ」


「保守まで契約になっているんだね」


「売って終わりではないもの」


 リリアが自然に言う。


 直人は少しだけ笑った。


「何?」


「その言葉が定着したと思って」


「あなたが何度も言うからでしょう」


          ◇


 説明を終えると、ナーラは全員を便所から追い出した。


「ナオトさん」


「はい」


「外で待っているんだね?」


「異常があれば声をかけてください」


「扉のすぐ前ではなく、少し離れておくれ」


「分かりました」


「音も気にしない」


「洗浄音は確認したいですが――」


「ナオト」


 リリアが低い声で呼んだ。


「離れます」


 直人、リリア、エッダ、ボルグは、便所から十分に距離を取った。


 ミーナも少し遅れて到着し、パン屋の壁際へ立つ。


「間に合いましたか」


「今、ナーラさんが使用しています」


「最初の利用ですね」


「静かにしてください」


「すみません」


 全員が黙った。


 町は朝を迎え始めていた。


 遠くで鐘が鳴る。


 通りを荷車が進む。


 パン屋の窯から煙が上がる。


 生活の音の中に、今までなかった設備が一つ加わろうとしている。


 しばらくして。


 便所の中から、小さく紐が動く音がした。


 続いて。


 ごぼん。


 水が鉢を回り、排水路へ吸い込まれる音。


 銀月亭の白い便器とは少し違う。


 より低く、丸い音だった。


 排水管の中を水が走る。


 その音は床下から裏庭へ進み、処理槽の方向で消えた。


「流れた」


 ミーナが小声で言う。


「まだ確認前です」


 直人も声を抑えた。


「分かっています」


 扉の掛け金が外れた。


 ナーラが姿を現す。


 杖は使っているが、表情は穏やかだった。


「どうでした?」


 エッダが真っ先に駆け寄る。


「流れたよ」


「使いにくくなかった?」


「座るのも、立つのも楽だった」


 ナーラは手洗い壺の栓を開けた。


 細い水で手を洗う。


「臭いも残っていない。壺を運ぶ必要もないんだね」


「排泄物は処理槽へ流れています」


 直人が答える。


「そこはボルグさんが管理します」


「便器は動きませんでしたか」


「動かなかった」


「洗浄紐は重くありませんでしたか」


「少し力はいるけれど、引けたよ」


「水が飛び散ることは?」


「なかった」


「音は?」


「大きいね」


 直人は手帳へ書き込む。


「何でも記録するんだね」


「次の便器を改良するためです」


「でも、不快な音ではなかった」


 ナーラは便器を振り返った。


「全部、向こうへ行ったと分かる音だった」


 それは、直人にとって意外な感想だった。


 洗浄音を小さくすることだけが、必ずしも正解ではない。


 正常に流れたことを、利用者へ知らせる役割もある。


「洗浄確認音として残す考え方もありますね」


「また何か考え始めた顔をしている」


 リリアが言った。


「静音性とのバランスです」


「今は完成を祝いなさい」


「まだ便器を確認します」


「ナーラさんが問題ないと言っているでしょう?」


「実使用後の状態を見る必要があります」


 直人は便所内へ入った。


 利用直後の便器。


 鉢の内側。


 排水口。


 残った水位。


 汚れはほとんどない。


 後方に、細い筋が少しだけ残っている。


「泥の試験では落ちましたが、実際の汚れでは残る場合がありますね」


 ガルドが来ていれば、すぐ洗浄穴の角度を調整しようとしただろう。


 だが、焼成後の陶器を現場で不用意に削るべきではない。


「清掃用の柄付き布で落ちますか」


 エッダが尋ねる。


「まず水だけで軽く流してみます。ただし、通常の洗浄を何度も繰り返すのではなく、少量の清掃水を使います」


 手洗い用とは別の小桶から、水をゆっくり便器内へかける。


 柔らかい柄付き布で、一度だけ表面をなぞる。


 筋は簡単に落ちた。


「表面の釉薬は機能しています」


「毎回、私が拭くのかい?」


「汚れが残った時だけです。通常清掃は一日に一度を目安にしてください」


「何で洗う?」


「今は湯と柔らかい布です。灰や砂を強くこすると、表面へ傷が付く可能性があります」


「銀月亭では、磨き砂を使っていたわ」


 リリアが言う。


「白い便器も、粗い砂は避けたいです」


「では、専用の洗い粉が必要?」


「釉薬を傷めず、汚れを落とせるものを探します」


「また商品が増えるわね」


「便器を販売するなら、清掃方法も必要です」


「便器用の洗い粉まで売るつもり?」


「安全なものが作れれば」


 リリアの目が商売人のものへ変わった。


「ガルドの釉薬片で試せるわね」


「いきなり便器へ使うより、試験片で確認した方がいいです」


「灰、石けん草、細かい粘土粉……何種類か比べられる」


「リリアさんの方が仕事を増やしていますよ」


「必要なのでしょう?」


「はい」


「なら、あとで考える」


 直人は初回使用後の状態を記録し終えた。


 固定に異常なし。


 漏れなし。


 排水正常。


 封水正常。


 清掃可能。


「初回実使用試験、合格です」


 その言葉を聞いた瞬間、エッダが大きく息を吐いた。


「これで本当に完成かい?」


 直人は、反射的に「現時点では」と言いかけた。


 リリアが横から睨む。


「完成です」


 直人は言い直した。


「ただし、定期点検と保守は続きます」


「やっぱり続きがある」


「設備ですから」


 エッダは笑い、直人の肩を強く叩いた。


「ありがとう」


「契約どおりの仕事です」


「それでも、ありがとうだよ」


 エッダは母親を見た。


「母さん。もう、あの壺を運ばなくていい」


「運んでいたのは、ほとんどお前だろう」


「だから言っているんだよ」


「私が自分で運べなくなってから、ずっと苦労をかけたね」


「そんなことはいい」


 エッダは顔をそらした。


 その目元は少し赤くなっていた。


 ナーラは青灰色の便器を見た。


「便所が変わっただけなのに、不思議だね」


「だけ、ではありません」


 直人が言った。


「毎日必ずすることが、安全にできるようになりました」


 排泄は、特別な行動ではない。


 誰もが行う。


 だからこそ、できなくなった時の負担は大きい。


 膝が痛む。


 しゃがめない。


 立ち上がれない。


 転ぶのが怖い。


 誰かに壺を運んでもらわなければならない。


 それらは一つ一つ小さく見えても、毎日繰り返されれば、暮らし全体を狭くしていく。


 水洗便器が流したのは、汚物だけではなかった。


 ナーラが便所へ行くたび感じていた不安。


 エッダが母親の転倒を心配する時間。


 重い壺を運ぶ作業。


 家の中へ残る臭い。


 そうした負担の一部も、水とともに遠ざけた。


          ◇


 パン屋の店内へ戻ると、大きな丸パンと温かいスープが机へ並べられていた。


「約束の朝食だよ」


 エッダが言う。


「工事費とは別ですか」


「祝いだ」


「受け取っていいんですか」


「食べないなら、代金を請求するよ」


「いただきます」


 直人、リリア、ミーナ、ボルグ、ナーラが机を囲む。


 少し遅れて、ガルドとテオも工房からやってきた。


「終わったのか」


 ガルドは店へ入るなり尋ねた。


「初回使用まで合格しました」


「便器は?」


「正常です」


「水路は?」


「汚れが一筋残りましたが、清掃で簡単に落ちました」


「どの位置だ」


「後方です」


「穴の角度を――」


「今すぐ削りません」


 直人が先に止めた。


「通常清掃で対応できる範囲です。次の便器では穴の角度を調整します」


「第一号を不完全なまま渡すのか」


「完全に汚れが残らない便器は難しいです。必要以上に削って穴を大きくする方が危険です」


「だが――」


「親方」


 テオが記録紙を開いた。


「第二号の型修正項目へ入れましょう」


 ガルドは弟子を見る。


 しばらくして、椅子へ腰を下ろした。


「後方の穴を、ほんの少し下へ向ける」


「記録します」


「釉薬がたまる分も計算しろ」


「はい」


 ガルドは差し出されたパンを受け取る。


「ナーラ」


「何だい、親方」


「座って壊れなかったか」


「壊れなかったよ」


「流れたか」


「きれいに流れた」


「高さは?」


「ちょうどよかった」


「そうか」


 ガルドはそれだけ言い、パンをかじった。


 ナーラが微笑む。


「ありがとう、ガルド親方」


「試作費をもらっている」


「代金をもらっても、いい仕事には礼を言うものだよ」


「まだ本体代はもらっておらん」


 その言葉に、リリアが帳簿を開いた。


「そうね。最終精算をしましょう」


 食事の席が、一瞬で商談の場へ変わった。


「今か?」


 ガルドが顔をしかめる。


「引き渡しが終わったから、今よ」


「パンを食わせろ」


「食べながら聞いて」


 リリアは費用を読み上げた。


 便器本体の材料。


 釉薬。


 焼成用の薪。


 専用便座。


 木工改修。


 床補強。


 手すり移設。


 貯水槽。


 給水管。


 排水管。


 簡易処理槽。


 工事中の仮設便所再設置。


 施工費。


 初期保守。


 試作費から差し引く分。


「当初の概算より、銅貨五枚多くなりました」


 リリアが説明する。


「手すり移設は予備費内。仮設便所の再設置は、こちらの説明不足なので請求しない。増えたのは主に排水管の点検口と、処理槽周囲の白い砂です」


「追加する時に聞いたね」


 エッダが言う。


「はい。承認を記録しています」


「なら払うよ」


 エッダは革袋から硬貨を取り出した。


「一度に全部は難しい。契約どおり、残りは三回に分けてもいいかい?」


「問題ありません」


 リリアが硬貨を確認する。


「本日分を受領しました」


「正式に、うちのものになったのかい?」


「便器と設備はエッダさんたちの所有です。ただし、無断で移設や改造をしないでください」


 直人が答える。


「便器を持って引っ越すつもりはないよ」


「家を改築する場合も、先に連絡してください」


「分かった、分かった」


「それと、三十日間は――」


「点検に来る」


「はい」


「毎日記録する」


「はい」


「変な音、水漏れ、臭い、ぐらつきがあれば使用停止」


「完璧です」


 エッダは笑った。


「便器を一台買ったというより、ナオトさんの説明まで買ったみたいだね」


「説明と保守も商品の一部です」


「なら、ずいぶん長持ちしそうだ」


          ◇


 朝食を終える頃には、パン屋の外へ人が集まり始めていた。


 設置が終わったという噂が、すでに広がっている。


「見せてくれ!」


「本当にこの町の土で作ったのか?」


「銀月亭の便器より低いって本当?」


「一回だけ座らせてくれ!」


 エッダが店の扉を半分閉めた。


「今日は見学させないよ!」


 外から不満の声が上がる。


「宣伝になるのでは?」


 リリアが尋ねる。


「これは母さんの家の便所だ。銀月亭みたいに町中へ開放はしない」


 エッダはきっぱり答えた。


「それに、知らない人が布を落として詰まらせたら困る」


「正しい判断です」


 直人がうなずく。


「購入検討者への見学は、銀月亭で受けましょう」


「でも、異世界製の青灰色便器を見たい人もいるわ」


 リリアが言う。


「工房に展示用を作る?」


 全員がガルドを見る。


「作らんぞ」


「第二号を作る予定でしょう?」


「注文があればだ」


 店の外から、大きな声が聞こえた。


「注文したい!」


 ガルドの動きが止まった。


 エッダが扉を少し開ける。


 外に立っていたのは、町の仕立屋を営む中年の男だった。


「誰のためですか」


 直人が尋ねる。


「うちの工房だ。職人が八人いる。裏の便所は狭く、いつも混んでいる」


「一台では足りない可能性があります」


「では二台だ」


 今度は、ガルドだけでなく全員が黙った。


「二台?」


 リリアが聞き返す。


「ああ。男用と女用で一台ずつ。銀月亭の便所を使った者が、立ち座りが楽だと言っていた」


「現場を見なければ、設置できるか判断できません」


 直人が答える。


「今日の午後に見に来てくれ」


「今日は、引き渡し後の記録整理が――」


 リリアが直人の腕をつかんだ。


「伺います」


「リリアさん」


「正式な注文候補よ」


「銀月亭の点検もあります」


「午前中に終わらせる。午後に現場調査」


「ガルドさんの製造能力も確認しないと」


「二台くらい作れるでしょう?」


 視線がガルドへ向かう。


「同時に二台は窯へ入らん」


「一台ずつ?」


「乾燥中に次を成形することはできる」


「では、納期を分けて提案しましょう」


 リリアはもう商談を始めていた。


「試作は成功したから、一台目ほど時間はかからないわね?」


「型の修正があります」


 ガルドが答える。


「後方の洗浄穴。固定穴。焼成時の歪み。専用台も改良する」


「それでも、最初からではないでしょう?」


「そうだが……」


 テオが記録紙を抱え、期待に満ちた顔で親方を見ている。


「親方。第二号を作りましょう」


「お前まで簡単に言うな」


「第一号の記録が全部あります」


 ガルドはテオの紙を見た。


 失敗した水路。


 ひびの位置。


 縮み方。


 焼成温度。


 釉薬。


 塞がった穴。


 修正点。


 第一号を作るために積み上げた記録が、二台目の地図になっている。


「二台目は、俺にも一部を作らせてください」


 テオが言った。


「早い」


「水路試験片は作りました」


「便器全体は別だ」


「親方が確認してください」


「失敗したら?」


「記録して、作り直します」


 その答えは、直人が何度も言ってきたものだった。


 ガルドは深く息を吐く。


「鉢の成形だけだ」


「はい!」


「水路と接合は俺がやる」


「分かりました!」


「勝手に進めるな」


「はい!」


 テオの返事は、どれも嬉しさを隠せていなかった。


 直人はパン屋の奥にある青灰色の便器を見た。


 一台目が完成した。


 それは、一つの家の暮らしを少しだけ楽にした。


 同時に、職人の技術を次へ渡し、新しい注文を生み出した。


 便器一台で世界が変わるわけではない。


 だが、一台がなければ、二台目は始まらない。


「午後、仕立屋を調査します」


 直人が言う。


「その前に銀月亭へ戻って、第一号の引き渡し記録を完成させます」


「やっぱり紙なのね」


 リリアが呆れる。


「今回の記録が、次の施工を早くします」


「分かっているわ」


 エッダが二人へ、包みに入れたパンを差し出した。


「昼に食べな。今度は忘れないように」


「ありがとうございます」


「次の便器を作る時も、食事は忘れないこと」


「努力します」


「そこは約束するところでしょう?」


 リリアが言う。


「分かりました。昼に食べます」


 店の外では、まだ町人たちが新しい便器の話をしている。


 ナーラは騒ぎから少し離れ、自分の便所の白い使用可能板を見つめていた。


 これからは、誰かへ壺を運んでもらうことを気にせず、自分の足で便所へ行ける。


 その変化は、町の歴史書には残らないかもしれない。


 けれど、一人の暮らしにとっては、何より大きな改革だった。

一晩の水位保持試験を終え、ナーラが異世界製水洗便器第一号の最初の利用者となりました。


便器は正常に洗浄し、ナーラは膝への負担を抑えて立ち座りできました。


引き渡しと精算も完了し、一台目は正式に家庭用設備として稼働を始めます。


その直後、八人が働く仕立屋から二台の設置相談が入りました。


次回は、複数人が使う職場便所の現場調査を行い、一家庭用とは異なる水量、混雑、男女別利用の問題へ向き合います。

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