第18話 便器を置く前に、床を壊します
異世界の土で作られた第一号便器は、通水、強度、座り心地の試験を通過しました。
いよいよパン屋のエッダ宅へ運びます。
しかし、便器が完成しても、置くだけで水洗便所になるわけではありません。
異世界製便器第一号を積んだ荷車は、人が歩くよりも遅く町を進んでいた。
「もう少し速くても大丈夫じゃない?」
荷車の横を歩くリリアが言った。
「駄目です」
陶山直人は前方の石を避けながら答えた。
「先ほどから、ほとんど揺れていないわ」
「ほとんどでは困ります」
「後ろに人が並び始めているわよ」
振り返ると、荷車の後ろには本当に人の列ができていた。
市場へ向かう商人。
荷物を抱えた町人。
水瓶を持った女性。
皆、青灰色の便器を積んだ荷車を避けきれず、ゆっくり歩いている。
「便器が通るぞ!」
「道を空けろ!」
「異世界の便器だ!」
誰かが面白がって叫んだ。
「異世界製です」
直人が訂正する。
「何が違うの?」
リリアが尋ねた。
「異世界から持ち込んだものではなく、この世界で作った便器です」
「今はここが異世界なのよね?」
「俺から見れば」
「町の人には、あなたの国の便器を真似した器でしょう?」
「そう言われると、少し複雑ですね」
荷車の中央には、厚い毛布と藁で包まれた第一号便器が載せられている。
左右には木枠。
前後には縄。
急に荷車が止まっても、便器が滑らないよう四方向から固定してあった。
ガルドは荷台のすぐ後ろを歩き、数歩進むたびに縄を確認している。
「右の結び目が緩んだ」
「まだ緩んでいません」
直人が言う。
「俺には緩んで見える」
「確認します」
荷車を止め、縄へ指を入れる。
結び目は固い。
「問題ありません」
「少し締めろ」
「締めすぎると、荷重が一か所にかかります」
「緩んで落ちるよりよい」
「落ちないよう木枠も付けています」
「縄も締めろ」
「ガルドさん」
「何だ」
「心配なんですね」
「違う!」
怒声に、後ろの町人たちが笑った。
ガルドはさらに不機嫌になったが、便器の横から離れなかった。
「町中が見物しているわね」
ミーナが周囲を見回す。
「便器を運ぶだけで、こんなに人が集まるとは思いませんでした」
「祭りの神輿みたいになっています」
「みこし?」
「皆で担いで運ぶ飾りです」
「便器を担ぐ祭りですか?」
「違います」
直人は即座に否定した。
だが、町人たちの様子は、確かに祭りを見物するようだった。
日本から持ち込まれた白い便器ではない。
この町の陶工が、この土地の土を使って作った最初の水洗便器。
その事実が、町の人々にも少しずつ理解され始めている。
「前を空けて!」
パン屋の前では、エッダが両手を振っていた。
その隣には、杖をついたナーラ。
ロッカとボルグも、すでに工事道具を広げている。
「本当に来たね」
ナーラが荷車を見て微笑んだ。
「運搬中の異常はありません」
直人は荷車を止め、最初に縄と木枠を確認した。
「すぐ降ろすのかい?」
エッダが尋ねる。
「まだです」
「家まで来たのに?」
「便所側の準備が終わるまで、荷車から降ろしません」
「先に置いて、大きさを見ればいいじゃないか」
「置く場所が安全でなければ、割れる可能性があります」
直人はパン屋の裏庭へ向かった。
「今日は床と排水から始めます」
◇
パン屋の古い便所は、前回の調査後に一度改修されていた。
入口の不安定な木箱は撤去。
代わりに、緩やかな傾斜路が取り付けられている。
内部には丈夫な手すり。
陶器の汲み取り壺の上には、座って使える仮設便座。
水洗便器が完成するまでの安全対策として、ロッカが作ったものだ。
「このままでも、前よりずっと楽だったよ」
ナーラが言う。
「なら、水洗へ変えなくてもいいのでは?」
見物人の一人が口を挟んだ。
エッダが振り返る。
「壺を運ぶ必要は残っている。臭いも消えていないよ」
「水洗にすれば、壺はいらなくなります」
直人は便所内へ入った。
「ただし、今の床は使えません」
「前に補強したでしょう?」
エッダが尋ねる。
「人が座るための補強です。便器を固定し、排水管を通す床とは条件が違います」
床板を軽く叩く。
表面は新しい。
しかし、中央部分は汲み取り壺を引き出すため、大きく開口できる構造のままだ。
「水洗便器は、床へ固定します。点検のたびに床全体を開ける必要はありません」
「壺を出す穴を塞ぐのかい?」
「はい」
「後から、また汲み取り式へ戻したくなったら?」
「一部を外せる構造にします。ただし、毎日開けるものではありません」
ロッカが床板を見下ろした。
「全部外して、組み直した方が早い」
「使える材料は残せませんか」
「外周の柱と壁は使える。中央の床板は、排水管の穴を開ける位置が合わん」
「古い板は、ほかへ再利用できますか」
「薪棚か、物置の補修なら使える」
リリアが帳簿へ書き込む。
「廃棄ではなく、再利用ね」
「床板まで数えるのか」
ロッカが呆れた。
「材料費を抑えるには必要よ」
「取り外す手間も工賃だぞ」
「もちろん払うわ」
「エッダがだろう」
「契約窓口は銀月亭よ」
「宿屋なのか、便器屋なのか、ますます分からんな」
「私も最近分からないわ」
リリアは真顔で答えた。
直人は便所内の寸法を再確認した。
ナーラ用の便器は、銀月亭の白い便器より低い。
床へ固定する接続部品の厚み。
木製便座。
前方の足元。
右側の手すり。
扉の開閉。
どれも干渉しない位置に設置しなければならない。
「便器の中心は、前回の図より少し左へ移します」
「なぜだ」
ロッカが尋ねる。
「右側の手すりとの距離を確保します。ナーラさんは右手でつかまりますから」
「左へ寄せれば、左の壁が近くなる」
「肩が当たらない幅は残っています」
「排水管は?」
「床下で少し曲げる必要があります」
ボルグが顔をしかめる。
「曲がりを増やすのか」
「できれば避けたいです」
「詰まりやすくなるぞ」
「手すりを少し外側へ移す方法は?」
ロッカが壁を見る。
「柱を一本追加すればできる」
「費用と時間は?」
「半日と木材一本」
直人は考えた。
便器の位置をずらし、排水管へ曲がりを増やす。
手すりを移し、便器と配管を直線に保つ。
前者は工事費が少ない。
しかし、将来の詰まりリスクが上がる。
「手すりを移します」
「追加費用が出るよ」
エッダが言う。
「契約時の予備費の範囲内です」
リリアが帳簿を確認する。
「木材一本と半日の工賃なら収まるわ」
「あとで勝手に増えたと言われないよう、変更内容を説明します」
直人はエッダとナーラへ向き直った。
「便器を使いやすい位置へ置くと、今の手すりが近すぎます。便器を移すと排水管が曲がり、詰まりやすくなる可能性があります。そのため、手すり側を移動します」
「使う時に遠くならないかい?」
ナーラが尋ねた。
「座った姿勢で手が届く距離へ取り付けます。工事後に、もう一度確認してもらいます」
「なら、そうしておくれ」
「費用は予備費から出るため、現時点で追加支払いはありません」
「そこまで説明するのね」
エッダが笑う。
「後で驚かせないためです」
「分かった。任せるよ」
◇
床板を外すと、便所の下から強い臭いが上がってきた。
汲み取り壺は前日にボルグたちが空にしている。
それでも、長年こぼれた汚れが土と木材へ染み込んでいた。
「ミーナさん、水膜をお願いします」
「はい」
ミーナが杖を掲げる。
直人、ロッカ、ボルグの周囲へ、薄い水の膜が広がった。
目にはほとんど見えない。
だが、空気中の細かな埃や飛沫が直接顔へ当たるのを減らしてくれる。
「便利だな」
ロッカが言った。
「雨の日の作業にも使えるか?」
「長時間は難しいです」
ミーナが答える。
「それでも、風で木くずが目へ入るのを防げそうだ」
「水魔法を木工へ使いたいのですか」
「役に立つならな」
以前なら、水魔法を生活や作業へ使うことを低く見る者もいた。
今は、職人の側から利用方法を尋ねている。
ミーナの表情が少し明るくなった。
「土をどこまで入れ替えますか」
ボルグが尋ねる。
直人は床下へ棒を差し、汚染の範囲を調べた。
表面だけではない。
壺の周囲から入口側へ、黒く湿った土が広がっている。
「臭いと湿りがある部分は取り除きます」
「全部やれば、穴が深くなるぞ」
「新しい土と砂利を入れます」
「排水管の周りは?」
「将来漏れた時に見つけやすいよう、管の下へ明るい色の砂を敷きたいです」
「漏れがあれば色が変わるのか」
「はい」
ボルグは少し考えた。
「白い川砂なら手に入る」
「価格は?」
「荷車一台で銅貨二枚」
「必要量は半分以下です」
「残りは処理槽の周囲へ使える」
「お願いします」
汚染土を掘り出す。
蓋付きの桶へ入れ、ボルグの管理する処理場へ運ぶ。
素手では触らない。
作業に使った道具は、清掃前と清掃後で分ける。
直人が手順を説明するたび、ロッカが顔をしかめた。
「土を掘るだけで、道具まで分けるのか」
「汚れた鋤で新しい床材を触れば、汚れを広げます」
「見えない汚れだろう」
「見えなくてもあります」
「銀月亭でも同じことを言っていたな」
「一度覚えてもらえれば、次から説明が短くなります」
「次も便所工事をする前提か」
「注文が入れば」
「俺は木工職人だぞ」
「便所にも木工は必要です」
「最近、便器屋の一員にされている気がする」
「報酬は支払います」
「なら構わん」
ロッカは割り切るのが早かった。
◇
昼頃。
床下の土を入れ替え、排水管を通す溝が掘られた。
パン屋の裏庭には、新しい簡易処理槽も作られている。
銀月亭のものより小型。
利用者はエッダとナーラを中心に、家族と従業員を合わせて数人。
宿泊施設ほど大きな容量は必要ない。
「処理槽を小さくしすぎていませんか」
直人は穴の寸法を確認した。
「お前が計算した量より少し大きい」
ボルグが答える。
「汲み取り間隔は?」
「最初は一月ごとに確認する。たまり方を見て変える」
「雨水は入りませんか」
「蓋を二重にする。地面も周囲より高くした」
「井戸からの距離は?」
「銀月亭より遠い。土地も井戸側へ下っていない」
直人は水平器と長い板を使い、地面の傾きを確認した。
処理槽は井戸より低い位置ではある。
ただし、漏れを前提にしてよいわけではない。
内壁は粘土と石で固め、直接地中へ染み込みにくくする。
「排水管は、この線です」
床下から処理槽まで、なるべくまっすぐ。
水が流れる程度の勾配を付ける。
急すぎない。
緩すぎない。
ロッカとボルグが木管を地面へ並べた。
「一本ずつ水を通してから接続します」
直人が言う。
「作った時に確認したぞ」
ロッカが答える。
「運んでいる途中に木くずが入ったかもしれません」
「また木くずか」
「銀月亭の詰まりを忘れましたか」
「忘れたくても忘れられん」
木管へ少量の水を流す。
最初の一本。
異常なし。
二本目。
水と一緒に、細い木片が一つ出てきた。
ロッカが黙る。
「確認してよかったですね」
「何も言うな」
三本目。
今度は木片はないが、継ぎ目用の防水材が内側へ少しはみ出している。
「ここへ紙や汚れが引っかかる可能性があります」
「削るか」
「表面だけ滑らかにしてください。削りすぎると接続部が弱くなります」
「分かっておる」
四本目まで確認し、管を接続する。
継ぎ目には弾樹の防水材。
さらに外側を革帯で補強。
点検できる場所には、小さな取り外し式の蓋を一か所だけ設けた。
「点検口を付けるのね」
リリアが言った。
「ポルンの試験で作ったものを改良しました」
「ポルンを入れるため?」
「今は入れません」
「まだ駄目なの?」
「実際の配管で使うには、戻す方法と大きさの管理が不十分です」
「点検口は何に使うの?」
「詰まりの位置確認や、清掃用の棒を入れるためです」
ボルグが蓋を開閉した。
「臭いは漏れないか」
「防水材と木栓で密閉します。毎朝開けるものではありません」
「土をかぶせると、場所が分からなくなるぞ」
直人は点検口の位置へ石柱を立てた。
「この印の下です」
「子どもが動かしたら?」
「地面へ固定します」
「お前と話すと、質問するたび仕事が増えるな」
「問題が見つかる前に対策しているだけです」
「それを仕事が増えると言う」
◇
夕方。
新しい床組みが完成した。
床下には排水管。
便器を設置する位置には、厚い補強材。
固定金具を通す穴。
排水接続部品。
周囲には清掃しやすいよう、隙間の少ない板が使われている。
「便器を降ろします」
ようやく、その時が来た。
荷車から便器を下ろすため、直人、ガルド、ロッカ、テオの四人が位置につく。
「持つ場所を確認します」
直人が言う。
「縁だけを持たない。給水口へ手をかけない。排水路側をぶつけない」
「何度聞いたと思っている」
ガルドが答える。
「本番では、確認します」
「お前が落とすなよ」
「ガルドさんこそ」
「始める前から喧嘩しないで!」
リリアの声が飛ぶ。
縄を外す。
木枠を開く。
毛布を取る。
青灰色の便器が、夕方の光を受けて現れた。
町人たちから小さな声が上がる。
「持ち上げます」
一、二、三。
四人でゆっくり荷台から下ろす。
便所の入口までは、厚い板で作った仮設通路が敷かれている。
一歩。
もう一歩。
傾斜路を上がる。
入口を通る。
「右が壁へ近い」
「少し左」
「テオ、下げるな」
「下げていません!」
「前を見てください」
少しずつ運ぶ。
そして便器は、床の排水接続部品の真上へ置かれた。
「まだ手を離さないでください」
直人は位置を確認する。
排水口。
接続部。
固定穴。
左右の壁との距離。
手すり。
扉。
「少し後ろです」
指一本分。
「今度は左へ」
ほんのわずか。
「ここです」
便器を下ろす。
青灰色の底部が、接続部品へ収まった。
直人は水平器を縁へ置く。
気泡は左へ寄っていた。
「傾いています」
「床は水平だ」
ロッカが言う。
「便器本体の右側が少し低いことは、工房で確認しています」
「下へ板を入れるのか」
「板だと腐る可能性があります」
「では何を使う」
ガルドが用意していた、薄い焼き物の調整片を取り出した。
第一号便器の歪みに合わせ、工房で焼いたものだ。
「最初から用意していたんですね」
「必要になると分かっていた」
「便器本体を作った人ですからね」
「余計なことを言うな」
便器を少し持ち上げ、右側へ調整片を入れる。
再び水平器。
気泡が中央へ近づいた。
前後方向も確認。
「水平です」
固定金具を通す。
ナットを少しずつ締める。
左右交互に。
締めすぎない。
便器を軽く揺らす。
動かない。
「固定完了です」
ナーラが入口から中を覗いた。
「もう座れるかい?」
「まだです」
工房で何度も繰り返した返答に、全員が笑った。
「次は給水と排水の接続です」
貯水槽は便器背後の壁上部へ設置する。
銀月亭で使っている大壺より小さく、ガルドが新しく作ったものだ。
必要量だけ水が入る。
過剰な水を使わずに済むよう、内部には目盛りが付いている。
貯水槽から便器までは革管。
接続部には弾樹製のパッキン。
排水側は、床下の木管へつながっている。
「水を入れる前に、乾いた状態を記録します」
直人は便器の下、排水管の点検口、処理槽の入口を確認した。
「異常なし」
「ミーナさん、貯水槽を半分までお願いします」
「満杯ではないのですか」
「最初は接続部の漏れを見るため、少量にします」
ミーナが水を注ぐ。
水位が上がる。
革管へ圧力がかかる。
接続部。
乾いている。
貯水槽の栓。
漏れていない。
「少量だけ流します」
直人が洗浄紐をわずかに引く。
水が便器へ入る。
洗浄穴から細い流れ。
鉢へ集まり、排水口へ消える。
床下の木管を水が進む音。
処理槽側で待機していたボルグが声を上げた。
「来たぞ!」
「漏れは?」
「見える範囲にはない!」
「点検口は?」
ロッカが床板の一部を開け、確認する。
「乾いている」
「次は満水で試します」
貯水槽へ、決めた線まで水を入れる。
便器へ試験用の薄い紙と泥を少量置く。
「流します」
直人が紐を引いた。
水が勢いよく流れる。
青灰色の鉢を回る。
紙と泥が底へ集まる。
水位が上がり――。
ごぼん。
低い音とともに、すべてが排水口へ吸い込まれた。
水は木管を通り、処理槽へ到達する。
「全部来た!」
ボルグの声が裏庭から響いた。
便器内には、新しい水が残っている。
床に漏れはない。
給水管も乾いている。
固定部も動いていない。
「成功?」
エッダが恐る恐る尋ねる。
「一回目の設置後洗浄試験は成功です」
「一回目……」
「あと数回流し、排水管と処理槽を確認します」
「今日中に終わるのかい?」
「異常がなければ」
直人は再び貯水槽を満たした。
二回目。
異常なし。
三回目。
流れに問題なし。
四回目。
点検口からの漏れなし。
五回目。
処理槽の水位も正常。
「水だけ流して、処理槽が満杯にならないの?」
エッダが心配する。
「試験分は見込んでいます。ただし、毎日無駄に流さないでください」
「紐を一回だけ、だね」
「はい。流れない場合は追加で流さず、使用を止めます」
「銀月亭で詰まった話は聞いたよ」
「町中に広がっていますね」
「水があふれた話の方が、便器が完成した話より有名かもしれない」
「困ります」
「失敗したけれど直した、と皆が話している。悪い噂ばかりではないよ」
直人は少しだけ安心した。
◇
日が沈む頃、設置作業はほぼ完了した。
便座。
手すり。
操作紐。
手洗い用の小型水壺。
使用方法の説明板。
赤い使用停止板。
清掃用具を置く蓋付き箱。
夜間の灯り。
すべてが所定の位置へ収まった。
「最後に、ナーラさんの立ち座りを確認します」
直人が言う。
「今度こそ座っていいんだね」
「服を着たままです」
「分かっているよ」
ナーラは傾斜路を上がり、便所へ入った。
新しい手すりへ右手を置く。
便器へ背を向ける。
ゆっくり腰を下ろした。
足裏は床へついている。
手すりも遠すぎない。
「どうですか」
「工房で座った時と同じだね」
「便器は動きませんか」
「大丈夫」
「立ってみてください」
ナーラが体を前へ傾け、手すりへ力をかける。
一度で立ち上がった。
「前より、ずっと楽だよ」
エッダが目元を押さえた。
「母さん」
「泣くほどのことかい」
「前は、便所へ行くたびに転ばないか気になっていたんだ」
「まだ実際には使っていないよ」
「今夜から使えるんだろう?」
エッダが直人を見る。
直人は便器、貯水槽、排水管、処理槽の記録を確認した。
設置後の洗浄試験。
固定。
漏れ。
水位。
操作。
手すり。
現時点で大きな異常はない。
しかし、引き渡し前にもう一つ残っている。
「明日の朝まで、便器内の水位を確認します」
「今夜は使えないのかい?」
「一晩の漏れがないか、設置した状態で確認したいんです」
「工房でも一晩試したでしょう?」
「運搬と設置で状態が変わった可能性があります」
「ナオト」
リリアが低い声で呼んだ。
「何ですか」
「ナーラさんは、今日から使えると思っていたのよ」
「安全確認が――」
「それは分かっている。でも、使える日をどう説明した?」
直人は思い返した。
順調なら三日。
今日は三日目。
設置後の一晩試験まで含めることを、明確には伝えていなかった。
「俺の説明不足です」
直人はエッダとナーラへ頭を下げた。
「今日中に設置できれば使えるように聞こえる説明をしました。申し訳ありません」
「明日の朝まで待てばいいのだろう?」
ナーラが穏やかに言う。
「はい」
「なら待つよ。何か月も待ったんだ。一晩くらい変わらない」
「ありがとうございます」
「その代わり、明日の朝一番に来ておくれ」
「必ず来ます」
「朝食のパンも用意しておくよ」
エッダが付け加えた。
「それなら、絶対に忘れないでしょう」
「食べ物がなくても来ます」
「前に、うちのパンを食べ忘れただろう?」
「今回は忘れません」
便器内へ一定の高さまで水を入れ、目印を付ける。
給水栓を閉じる。
入口へ赤い使用停止板を掛ける。
明朝まで誰も使わない。
「今夜は仮設便座を使ってください」
「さっき外したでしょう?」
エッダが尋ねる。
全員がロッカを見る。
古い仮設便座は、すでに解体され、使える板材と金具へ分けられていた。
「外したぞ」
「予備を残していなかったんですか」
直人が言う。
「水洗便器を今日から使うと思っていた」
「俺も一晩試験を説明していませんでした」
「では、どうするの?」
リリアが尋ねる。
ナーラは杖をつき、青灰色の便器を見た。
「水を流さなければ、座るだけなら使えるんじゃないのかい?」
「排泄物を入れれば、水位保持試験ができません」
「では、壺を別の場所へ置くしかないね」
エッダが古い汲み取り壺を指した。
「厨房裏の物置に、今夜だけ仮の便所を作るよ」
「安全な床と手すりが必要です」
「また工事を始めるつもり?」
リリアが止める。
ロッカは解体した仮設便座の板を見た。
「一刻あれば、簡易型を組み直せる」
「追加工賃は?」
エッダが尋ねる。
「今回の予定変更は俺たちの説明不足が原因です」
直人が答えた。
「こちらで負担します」
「お前の工賃から出すのか」
ロッカが聞く。
「俺と銀月亭側で調整します」
リリアがうなずいた。
「妥当ね」
「俺は一刻分、きちんともらうぞ」
「もちろんよ」
予定外の仮設便所を、今夜だけ再び組み立てる。
無駄に見える作業だった。
だが、利用者へ我慢を押しつけて安全試験を行うわけにはいかない。
設備を止めるなら、代替手段も用意する。
直人は手帳へ新しい項目を書き加えた。
切替工事時の仮設便所を、撤去前に確認すること。
「また手順が増えたわね」
リリアが言う。
「今回の失敗を、次へ残します」
「二台目では、同じことをしない?」
「はい」
「三台目では?」
「二台目で別の失敗をするかもしれません」
「正直ね」
「完全に失敗をなくすとは言えません。でも、同じ失敗は減らせます」
夜の空気の中、青灰色の便器は静かに水をたたえていた。
明日の朝。
水位が変わっていなければ、正式に引き渡せる。
異世界で作られた最初の水洗便器が、初めて一般家庭の日常へ入る。
その最後の一晩が始まった。
パン屋の便所では、床、手すり、排水管、処理槽を改修し、異世界製便器第一号が設置されました。
設置後の洗浄試験は成功しましたが、直人が一晩の水位保持試験を工程として明確に説明していなかったため、利用開始が一日遅れます。
次回は一晩後の最終確認を行い、ナーラが異世界製水洗便器の最初の利用者となります。




