第16話 窯を開けるまで分かりません
異世界製便器第一号を焼く窯から、鋭い破裂音が響きました。
しかし、高温の窯を途中で開けば、無事な陶器まで割れる危険があります。
直人たちは中を確認できないまま、火を守り続けます。
窯の奥から聞こえた破裂音は、一度きりだった。
ぱんっ。
その後は、薪が爆ぜる音だけが工房に響いている。
陶山直人は窯の扉を見つめた。
厚い煉瓦の向こう側に、異世界製便器第一号がある。
便器が割れたのか。
支えていた窯道具が壊れたのか。
それとも、窯壁の一部が剥がれただけなのか。
外から判断する方法はなかった。
「本当に開けなくていいんですか」
「開けん」
ガルドは炎の色を見たまま答えた。
「もし便器が傾いていたら?」
「今開ければ、冷たい空気が入る」
「でも――」
「焼き物は、火へ入れた後に助けられるものではない」
ガルドの声は低かった。
「割れたなら、すでに割れている。傾いたなら、今から扉を開けても直せん」
直人は口を閉じた。
水漏れなら元栓を閉められる。
配管が詰まれば、使用を止めて取り外せる。
だが、窯の中にある陶器へは手を出せない。
自分の経験だけでは対処できない領域だった。
「温度は予定どおりです」
弟子のテオが、窯の側面に取り付けた焼成用の色見穴を確認した。
「炎の色も、先ほどと変わりません」
「薪を二本足せ」
「はい」
ガルドの指示で、テオが薪をくべる。
直人は記録紙へ時刻を書いた。
破裂音がした時刻。
その時の炎の色。
直前に加えた薪の量。
煙の状態。
「それも書くのか」
「原因を調べるためです」
「便器が割れていなければ、関係ないかもしれんぞ」
「無事でも、音の正体は確認します」
「何もかも理由が分からなければ気が済まんのか」
「同じ音が次の焼成でもしたら、不安になるでしょう」
ガルドは返事をしなかった。
しかし、記録をやめろとも言わなかった。
◇
夜が明ける頃、窯へ入れる薪の量が減らされた。
焼成の山場は越えたらしい。
ガルドは火の状態を慎重に見ながら、空気口を少しずつ閉じていく。
「もう火を消すのですか」
「急に消しはせん。ゆっくり落とす」
「完全に冷めるまで、どれくらい?」
「明日の朝まで触るな」
「一日?」
「大物だ。中まで冷えるには時間がかかる」
直人は反射的に窯へ近づこうとした。
「触るな」
「外側の温度だけです」
「熱いに決まっておる」
「分かっています」
「なら触るな」
ガルドに追い払われ、直人は工房の椅子へ戻った。
ほとんど眠っていない。
それでも、気持ちは妙に冴えていた。
窯を開けるまで結果が分からない。
この待ち時間そのものが、陶器製造の一部なのだろう。
「銀月亭へ戻って寝ろ」
ガルドが言った。
「窯を開ける時に間に合わなくなるかもしれません」
「明日の朝だと言っただろう」
「予定より早く冷える可能性は?」
「ない」
「でも――」
「お前がここで窯を見ていても、早くは冷めん」
直人は反論できなかった。
そこへ工房の扉が開き、リリアが入ってきた。
片手に籠を下げている。
「やっぱり、まだいた」
「どうしてここへ?」
「朝食を持ってきたの。テオから、誰も帰っていないと聞いたから」
籠の中には、焼いたパン、ゆで卵、干し肉、薄いスープの入った蓋付き壺が入っていた。
「便器は?」
リリアが窯を見る。
「まだ分かりません」
「割れた音がしたのでしょう?」
「可能性はあります」
「そんな顔をしていても、窯の中は見えないわ」
「ガルドさんにも同じことを言われました」
「なら、食べて寝る」
「でも――」
「銀月亭の便器も点検してほしいのだけれど」
直人は立ち上がった。
「何か問題が?」
「問題がないか確認するのが、毎日の点検なのでしょう?」
完全に言い返された。
「分かりました。点検してから休みます」
「最初からそうしなさい」
リリアはガルドとテオにも食事を渡した。
ガルドは礼を言わず、パンを一つ受け取る。
「宿代へ付けておくわ」
「金を取るのか!」
「冗談よ」
「お前は商売の話をする時、冗談か本気か分からん」
「商売人としては褒め言葉ね」
「褒めておらん!」
工房に、少しだけ普段の空気が戻った。
◇
翌朝。
ガルドの工房前には、十人以上が集まっていた。
リリア。
ミーナ。
ボルグ。
ロッカ。
エッダとナーラ。
銀月亭の宿泊客。
そして、噂を聞きつけた町人たち。
「なぜ、こんなに人がいる」
工房の扉を開けたガルドが、低い声で尋ねた。
「異世界で最初の便器が窯から出る日だからでしょう?」
リリアが当然のように答える。
「見世物ではない!」
「でも、購入者には確認してもらう必要があるわ」
「エッダとナーラだけで十分だ!」
「私は誰にも話していないよ」
エッダが周囲を見回した。
「パンを買いに来た客が、勝手に聞きつけただけさ」
「十分に話しておるではないか!」
ガルドは工房前に木の棒を置いた。
「ここから中へ入るな。騒ぐな。触るな」
「割れていたら?」
町人の一人が尋ねる。
「帰れ!」
「無事だったら、見せてくれるのか?」
「帰れと言っておる!」
見物人をリリアとロッカへ任せ、直人たちは工房へ入った。
窯の外壁は、わずかに温かい程度まで冷えている。
ガルドが扉の留め具へ手をかけた。
「開けるぞ」
全員の視線が窯へ集まる。
煉瓦の扉が、少しずつ動く。
隙間から、乾いた熱気と灰の匂いが流れ出した。
内部は暗い。
テオが灯りを掲げる。
最初に見えたのは、床へ落ちた陶器の破片だった。
「あ……」
ミーナが小さく声を漏らす。
白に近い灰色の破片。
手のひらより大きい。
「便器ですか」
直人が尋ねる。
「待て」
ガルドは長い棒で破片を引き寄せた。
表面に釉薬はない。
厚さは、便器本体より薄い。
ガルドが裏側を見る。
「支え板だ」
「支え板?」
「便器の下へ敷いた窯道具の端が割れた」
破裂音の正体だった。
「便器は?」
ガルドが灯りを奥へ向ける。
窯の中央。
異世界製便器第一号は、そこに立っていた。
大きく割れてはいない。
鉢も残っている。
縁の水路も崩れていない。
排水路も外形を保っている。
「無事……ですか?」
テオが呟く。
「まだ分からん」
ガルドは喜ばなかった。
窯の中へ手を入れられる温度まで冷えていることを確認し、専用の棒を使って便器を少しずつ手前へ動かす。
四人で台ごと持ち上げる。
「ゆっくりです」
「言われなくても分かっておる」
「右側が少し重い」
「テオ、下げるな!」
「はい!」
窯の外へ運び出し、作業台へ置く。
全員が一歩下がった。
異世界製便器第一号。
粘土の灰色から、焼き締まった淡い青灰色へ変わっている。
成形時より一回り小さい。
見本の白い便器より背が低く、横幅も少し狭い。
形だけを見れば、間違いなく洋式便器だった。
「できた……」
リリアが息を呑む。
「まだ完成ではありません」
直人が答える。
「こういう時くらい、素直に喜べないの?」
「外から見えない割れや、水路の詰まりを確認する必要があります」
「直人の言う通りだ」
ガルドが便器の側面へ耳を近づけた。
小さな木槌で、場所を変えながら叩く。
こん。
こん。
こん。
縁。
鉢。
排水路。
給水口。
ほとんどが澄んだ音だった。
だが、鉢と排水路を接合した近くで、少し低い音がした。
「ここだ」
乾燥中にひびを補修した場所だった。
「割れていますか」
「表面には見えん」
「内部に空洞がある?」
「可能性はある」
直人は携帯用ライトを鉢の中へ向けた。
表面に大きな亀裂はない。
排水口へ細い鏡を入れる。
曲がり部分は暗く、すべては見えない。
「水を入れて確認しましょう」
「その前に寸法だ」
ガルドが言った。
焼成前の記録と、焼成後の高さ、幅、排水口の位置を比べる。
全体は予測した範囲内で縮んでいた。
便座を載せた時の高さも、ナーラの木製模型で決めた寸法に近い。
「右側だけ、少し低いですね」
直人は便器の縁へ水平器を置いた。
気泡がわずかに右へ寄る。
「どのくらい?」
ナーラが尋ねる。
「このまま床へ置くと、少し傾きます。ただ、設置時の台座で調整できる範囲です」
「便器自体が歪んでいるの?」
エッダの表情が曇る。
「焼き物なので、完全に同じ高さにはなりません。ただし、水が偏るほどかは通水試験で確認します」
次に便座固定穴。
予定位置から少し内側へ縮んでいた。
「このままでは、ガルドさんが作った便座の金具が合いません」
「便座側を合わせる」
「交換する時に困りませんか」
「最初の一台だぞ」
「今後も同じ位置で作れるよう、型を修正しましょう」
「もう二台目の話か」
「一台目の結果を二台目へ反映するためです」
ガルドは言い返さず、テオへ寸法を書かせた。
予測より縮んだ部分。
歪みが出た方向。
固定穴のずれ。
支え板が割れた位置。
一つずつ記録する。
「次は水路を確認します」
直人は便器後部の給水口へ革管をつないだ。
試験用の水壺を、工房の中庭へ設置する。
便器はまだ釉薬をかけていない。
表面はざらつき、水を吸いやすい。
大量の水を長く流すことは避け、まず少量で内部漏れを調べる。
「ミーナさん。水を壺の線までお願いします」
「分かりました」
水が満たされる。
便器の排水口下には、空の桶。
床へ漏れた場合に見つけやすいよう、便器の下へ乾いた白布を敷いた。
「最初は、栓を少しだけ開けます」
直人が紐をゆっくり引く。
細い水が給水口へ入る。
縁の洗浄穴から、少しずつ水が流れ始めた。
「出た!」
テオが声を上げる。
「まだ触らないでください」
最初の穴。
二番目。
反対側。
前方。
三号改水路で調整した穴すべてから、水が出ている。
完全に同時ではないが、大きな偏りはない。
水は鉢の内側を伝い、底へ集まった。
焼成前より穴が少し縮んだためか、水勢は強くなっている。
「水路は通っています」
「漏れは?」
ガルドが便器の外側を見る。
今のところ、水滴はない。
直人は栓を閉じた。
「白布を確認します」
便器を動かさず、下へ敷いた布の端を引く。
乾いている。
「外側への漏れはありません」
「では成功だな」
「次は、鉢へ水をためます」
直人は桶から少量の水をすくい、便器へ直接注いだ。
水位が上がる。
底の曲がった排水路へ水が入り、一定量が便器内に残る。
「臭いを止める水だね」
ナーラが言う。
「はい。これが残らなければ、排水先から臭いが上がります」
水位を示すため、鉢の内側へ目印を置く。
一分待つ。
水位は変わらない。
「漏れていない?」
リリアが尋ねる。
「目に見える範囲では」
五分。
水位が、わずかに下がったように見えた。
「減っていませんか」
ミーナが気づく。
直人は目盛りを確認した。
確かに、指先ほどではないが下がっている。
便器の下の白布には、水がない。
外側にも漏れは見えない。
「陶器が水を吸っている可能性があります」
ガルドが答えた。
「まだ釉薬をかけていないからですか」
「そうだ」
「では、内部の割れとは限らない?」
「今は分からん」
便器へさらに水を足す。
しばらく待つと、水位の低下は小さくなった。
素焼きの陶器が最初に水を吸収した可能性が高い。
「釉薬をかけて、もう一度焼いた後に再試験します」
「二度焼くのかい?」
エッダが尋ねる。
「表面を滑らかにし、水や汚れを染み込みにくくするためです」
「今のままでは使えない?」
「汚れと臭いが陶器へ染み込みます。清掃もしにくい」
ガルドは便器の鉢へ指を滑らせた。
焼き締まってはいるが、白い便器よりはるかに粗い。
「釉薬は青灰色にする」
「白くしないんですか」
直人が尋ねる。
「白い釉薬は高い。しかも、この土では色が安定せん」
「ナーラさんは、色より安全性を優先すると言っていました」
「青灰色なら汚れが見えにくくならない?」
リリアが口を挟む。
「濃すぎる色は避けたいです」
便器は、汚れが見えることも大切だった。
汚れが目立たないということは、清掃の必要性にも気づきにくくなる。
「薄い青灰色なら、汚れも確認できます」
直人は試験用の釉薬片を見比べた。
「表面の滑らかさを優先してください」
「分かっておる」
「水路の穴へ釉薬が入って塞がらないように」
「それも分かっておる!」
「排水路の内側にも均一に――」
「お前が塗るか?」
「ガルドさんにお願いします」
「なら黙っていろ!」
怒声に、周囲から笑いが起きた。
◇
便器へ釉薬をかける前に、最初の強度確認が行われた。
本格的な荷重試験は、二度目の焼成が終わってから行う。
今回は、素焼きの段階で大きな構造欠陥がないかを見るための予備試験だった。
「まず、砂袋一つ」
ロッカが乾いた砂を詰めた袋を便座部分へ載せる。
人が座る位置へ、板を渡して荷重を分散させた。
「異常なし」
「二つ目」
さらに砂袋。
便器は動かない。
ひびが広がる音もない。
三つ目。
四つ目。
ナーラの体重を十分に超える重さが載せられた。
「もういいでしょう」
リリアが心配そうに言う。
「予備試験としては、ここまでです」
直人は便器の側面と接合部を確認した。
鉢と排水路の接合部分。
低い音がした場所。
外見上の変化はない。
「座っても大丈夫なのかい?」
ナーラが尋ねる。
「まだです」
「これだけ重い砂を載せたのに?」
「釉薬をかけて、もう一度焼くと状態が変わる可能性があります」
「いつ座れる?」
「二度目の焼成後に、さらに強い試験をします。それが終わってからです」
「待ち遠しいね」
ナーラは便器を見つめた。
灰色の陶器。
まだ艶はない。
少し歪んでいる。
白い見本ほど整った形でもない。
それでも、自分のために作られた最初の便器だった。
「ここまで作ってくれて、ありがとう」
ナーラがガルドへ言った。
ガルドは顔をそらす。
「まだ完成しておらん」
「完成する前に言っておくよ。完成した後では、親方がもっと偉そうにするだろうからね」
「誰が偉そうだ!」
「今も十分だよ」
エッダが笑う。
ガルドは怒鳴ろうとしたが、最後には諦めたように鼻を鳴らした。
◇
見物人が帰った後、直人、ガルド、テオ、リリアは試作記録を整理した。
「破裂音の原因は、支え板でした」
直人が言う。
「便器の重さが、端へ偏った可能性があります」
「便器の底が歪んでいたからだ」
ガルドが答える。
「窯へ入れた時は?」
「柔らかい台へ載せたが、焼いて縮む途中で片側へ荷重が寄った」
「次回は支える面を広げる?」
「便器の底に合わせた専用台を作る」
「また作るものが増えましたね」
「割れた板を使い続けるつもりか」
「必要な改良です」
テオが記録する。
専用焼成台。
型の右側をわずかに修正。
便座固定穴の位置を外側へ移動。
洗浄穴は焼成後に縮むため、成形時は少し大きくする。
「排水路の接合部分は、二度目の焼成後まで注意して確認します」
直人は続けた。
「内部に目に見えないひびがある可能性は、まだ消えていません」
「釉薬をかけた後、音を聞く」
「水位の保持試験も長時間行います」
「どれくらいだ」
「最低でも一晩」
「完成した便器を、一晩水に漬けるのか」
「毎日水が残る部分ですから」
「お前の試験は、いつも長い」
「壊れるなら、引き渡す前に壊れてほしいんです」
ガルドは一瞬、黙った。
そして、低く答えた。
「それは俺も同じだ」
職人と施工担当者。
方法は違っても、渡す相手へ不良品を届けたくない気持ちは同じだった。
「釉薬をかけるのは、明日ですか」
リリアが尋ねる。
「素焼きが十分冷え、表面の粉を落としてからだ」
「二度目の焼成は?」
「明後日」
「完成確認は、その翌日以降」
「順調ならな」
リリアは帳簿へ日程を書いた。
「エッダさんへ伝えておくわ」
「まだ完成日とは言わないでください」
「分かっている。“順調なら次の試験へ進む”と伝える」
「完璧です」
「あなたと仕事をしていると、言葉が慎重になるのよ」
リリアは呆れたように笑った。
直人は作業台の上にある便器を見た。
異世界製便器第一号は、窯を生き残った。
まだ完成していない。
水を流しただけ。
素焼きの状態。
内部のひびも完全には否定できない。
それでも、大きな前進だった。
一枚の図面しかなかったものが、現地の土と職人の手で形になった。
「ガルドさん」
「何だ」
「窯から出ましたね」
「見れば分かる」
「最初の便器が」
「だから何だ」
「少しは喜んでもいいでしょう」
ガルドは便器へ目を向けた。
しばらく黙ってから、表面を軽く叩く。
こん。
澄んだ音が工房へ響いた。
「釉薬を焼き終えるまで待て」
「分かりました」
「その後、流れるまでだ」
「はい」
「ナーラが座って壊れぬことも確認する」
「もちろんです」
「家へ設置して、毎日使えるようになるまで――」
ガルドは言葉を止めた。
直人が笑う。
「売って終わりではありません」
「お前の口癖を言うつもりはない!」
怒声が工房に響いた。
だが、今度は弟子たちだけでなく、ガルド自身もわずかに笑っていた。
異世界製便器第一号は、まだ完成していない。
それでも、窯の火を越えた。
次は、水と人の暮らしに耐えられるかを確かめる番だった。
窯の中で割れたのは、便器を支えていた陶製の板でした。
異世界製便器第一号は素焼きを終え、水路の通水と予備強度試験にも耐えます。
ただし、わずかな歪みや水位低下があり、内部のひびの可能性も残っています。
次回は薄い青灰色の釉薬をかけて二度目の焼成を行い、完成後の本格的な洗浄試験と強度試験へ進みます。




