第12話 同じ水でも、流れ方は違う
異世界製便器の開発は、便器全体ではなく、内部の水路を再現することから始まりました。
穴を同じ大きさにした一号。
給水口から遠いほど穴を大きくした二号。
二つの試験片へ水を流し、洗浄力を比べます。
窯の扉が開いた瞬間、ガルドの工房に熱気が広がった。
「近づくな」
ガルドが弟子たちを手で制する。
火はすでに落としてある。
それでも、窯の中には肌を刺すほどの熱が残っていた。
奥には、二つの水路試験片が並んでいる。
一号。
二号。
どちらも焼成前より少し色が淡くなり、表面は硬く締まっていた。
「割れていませんか?」
陶山直人が尋ねる。
「外からは見えん」
「取り出せば分かりますか」
「冷めるまで待て」
「もう持てそうに見えますが」
「見た目で窯の温度が分かるなら、陶工はいらん」
ガルドに睨まれ、直人は一歩下がった。
異世界製便器を早く完成させたい。
パン屋のエッダから試作費を受け取っている以上、時間を無駄にはできない。
だが、焦って割れば、それこそ材料と時間を失う。
「昨日も三回、冷めたか聞いていましたね」
記録係となった弟子のテオが、小声で言った。
「三回でしたか」
「五回です」
「数えなくていいです」
「記録するように言ったのは直人さんです」
「窯を確認した回数まで記録しなくていいんですよ」
テオは紙に何かを書き込んだ。
「今、何を書きました?」
「開窯前、直人さんが六度目の確認」
「消してください」
「記録は残すものでは?」
「開発に必要なものだけです」
少し離れたところで、リリアが笑っていた。
「自分が記録される側になると困るのね」
「待ちきれないだけです」
「それを焦っていると言うのよ」
「依頼主を待たせていますから」
「エッダさんには昨日、進み具合を説明したわ」
「反応は?」
「時間がかかることは理解してくれた。ただ、お母様の膝が痛む日は早く使わせたいと思うそうよ」
直人は窯の中を見つめた。
今回の注文は、珍しい便器を欲しがる富裕層からのものではない。
しゃがむことが難しくなった一人の老女が、毎日安全に排泄するための設備だ。
急ぐ理由はある。
だからこそ、事故を起こすようなものを渡すわけにはいかなかった。
「もうよい」
ガルドが厚手の革手袋をはめた。
長い金属棒で一号を引き寄せ、慎重に台の上へ置く。
続いて二号。
直人はすぐに近づこうとしたが、ガルドの腕に止められた。
「まだ触るな」
「見るだけです」
「顔を近づけるな」
二つの試験片は、外形だけなら無事に見えた。
大きな割れはない。
しかし、焼き物の不具合は外から分からない場合もある。
内部にひびがあれば、水を通した時に漏れる。
水路が変形していれば、狙った位置から水が出ない。
「叩くぞ」
ガルドは小さな木槌を取り、一号の端を軽く叩いた。
こん。
澄んだ音が響く。
場所を変え、もう一度。
こん。
次に二号。
こん。
こん。
四つ目の音だけ、わずかに低かった。
ガルドの目つきが変わる。
「何かありますか」
「二号の端だ」
表面を注意深く調べる。
細いひびが一本、側面から洗浄穴の近くまで伸びていた。
乾燥中に割れた三号ほど深くはない。
だが、水を通せば漏れる可能性がある。
「失敗ですか?」
テオが尋ねた。
「まだ決めるな」
ガルドはひびの位置へ炭で印を付けた。
「水を通して確かめる」
「危険ではありませんか」
「壊れても試験片だ。どの程度まで使えるかも見ておく」
直人はうなずいた。
完成品として渡すなら、ひびがある時点で不合格だ。
しかし、試験用なら、ひびが水の流れへ与える影響も記録できる。
「まず一号から試しましょう」
◇
工房の中庭には、試験台が準備されていた。
頑丈な木枠の上へ水路試験片を固定する。
給水口には革管を接続。
その先には、銀月亭で使っているものより小さな水壺が置かれている。
試験片の洗浄穴の下には、白く塗った木板を斜めに設置した。
穴から出た水がどこへ当たり、どの範囲まで広がるかを見やすくするためだ。
「水の量は、毎回同じにします」
直人は木壺の内側へ、一定の高さを示す線を引いた。
「この線まで入れるのですね」
ミーナが杖を構える。
「お願いします」
水魔法で作られた水が、壺へ注がれる。
水面が線へ達したところで、ミーナはぴたりと止めた。
「正確ですね」
「毎日練習しましたから」
「給水所の仕事で?」
「それもあります。でも、水洗便器の試験で毎回違う量を出したら比較できないと言われたので」
「俺が言いましたか」
「言いました」
ミーナは少し誇らしそうだった。
以前は、水魔法を生活に使うことを軽く見られていた。
今は、試験条件をそろえる重要な役割を担っている。
「一号の条件を確認します」
テオが紙を読み上げた。
「洗浄穴は八つ。すべて同じ太さ。水路の左右の長さも同じ。貯水量は前回の試験と同じ目盛り」
「栓を開けます」
直人が紐を引いた。
水が革管を駆け下り、試験片へ流れ込む。
最初に給水口へ近い二つの穴から水が噴き出した。
勢いが強い。
白い木板へ当たり、大きく跳ね返る。
その一方で、先端に近い穴から出る水は細く、最後の二つは少し遅れて流れ始めた。
「止めろ」
ガルドが言った。
壺の水がなくなり、流れが止まる。
木板を見ると、給水口側は広く濡れているが、先端側には乾いた部分が残っていた。
「均等ではありませんね」
直人が言う。
「入口側へ水が偏っている」
ガルドが答える。
「穴を同じ大きさにしても、同じ量は出ない」
「水が近い穴へ先に逃げるからです」
ミーナが試験片を覗き込んだ。
「遠い穴まで届く前に、近いところから出てしまうのですね」
「そう考えられます」
直人は木板の濡れた範囲を炭で囲んだ。
次に、穴ごとに流れ出た水量を測る。
すべてを正確に分ける器具はないため、洗浄穴の下へ小さな杯を置き、短時間だけ水を流す方法を使った。
一番近い穴の杯は、ほぼ満杯。
一番遠い穴は、半分にも届いていない。
「倍近く違うな」
ガルドが杯を見比べる。
「便器全体を洗うなら、前側に汚れが残ります」
直人は結果をテオへ伝えた。
一号。
入口側は強すぎる。
遠方側は弱い。
水の偏りが大きい。
「次は二号です」
二号は、給水口に近い穴を小さくし、遠い穴ほど大きくしてある。
一号と同じ量の水を壺へ入れる。
同じ高さ。
同じ革管。
同じ角度。
「開けます」
栓を引く。
水が流れ込む。
今度は、入口側の水勢が少し弱い。
その代わり、遠い穴から出る水が一号より明らかに太くなっていた。
白い木板は、前回より広い範囲が均等に濡れていく。
「こちらの方が近いですね」
直人が言った直後だった。
二号の側面から、細い水が飛び出した。
「漏れている!」
テオが声を上げる。
焼成後に見つかったひびから、水が糸のように噴き出している。
ガルドは慌てなかった。
「そのまま最後まで流せ」
「壊れませんか」
「壊れるなら、それも結果だ」
水壺が空になる。
試験片は割れなかった。
だが、側面のひびは少し長くなっている。
「完成品なら不合格です」
直人が言った。
「言われんでも分かる」
「でも、水路の穴配置は一号より良かった」
「完全に均等ではない」
ガルドは濡れた木板を見た。
給水口から最も遠い穴は、今度は逆に少し強すぎた。
穴を大きくしすぎたようだ。
「二号を基準に調整しましょう」
直人は一号と二号の杯を並べた。
「近い穴を少し大きく戻して、遠い穴を少し小さくする」
「三号は、白い便器に近い穴配置だった」
テオが棚に残した失敗作を指す。
「ただし、形が複雑で乾燥中に割れました」
「穴の配置と、水路の曲がりを分けて試した方がいいですね」
直人は新しい図を描いた。
三号改。
水路の外形は、割れなかった二号と同じ。
穴の大きさだけ、白い便器に近づける。
「完成品を丸ごと真似しようとすると、何が原因で失敗したか分かりません」
「一つずつ変えるということか」
ガルドが言う。
「はい。水路の形、穴の大きさ、陶器の厚みを同時に変えたら、成功しても失敗しても理由が分からない」
「時間がかかるぞ」
「遠回りに見えても、結果的には早いです」
「本当にそうか?」
「元の世界でも、複数の原因を一度に直そうとして余計に分からなくなることがありました」
水漏れ修理でも同じだ。
パッキン、接続部、給水圧。
すべてを一度に交換すれば直るかもしれない。
だが、原因が分からなければ次に応用できない。
「三号改を作る」
ガルドが宣言した。
「二号を基準に、穴だけ変える」
「厚さは二号と同じですね」
「同じにする」
「乾燥時間も」
「同じだ」
「土の量も」
「同じにする!」
ガルドの声が大きくなる。
テオが急いで記録した。
「それと、二号が割れた原因を調べます」
直人は試験片側面のひびへ目を向けた。
「焼成前には、ここまで大きなひびはありませんでした」
「乾燥中にはなかった」
「窯の中で入った?」
「可能性はある」
ガルドはひびの断面を観察する。
「この辺りだけ厚い」
「水路の壁ですか」
「穴を大きくした時、周りへ土を足した。そこだけ乾き方と縮み方が変わったのかもしれん」
「では、穴を大きくする時も外側の厚みは変えない」
「内側を削る」
「記録してください」
テオがうなずいた。
失敗が、一つの改善条件へ変わる。
ひびは無駄ではなかった。
◇
試験が終わった後、エッダとナーラが工房を訪れた。
五日ごとの進捗報告の日だった。
「これが便器になるのかい?」
エッダは二つの細長い試験片を見て、首を傾げた。
「便器の中に隠れている水路です」
直人は白い便器の図を見せた。
「この部分を先に試しています」
「一つは割れているね」
「二号は焼いた時にひびが入りました」
「失敗したのかい?」
「製品としては失敗です。ただ、水の流れ方は一号より良かった」
直人は二枚の白い木板を並べた。
濡れた範囲を炭で囲み、違いを見せる。
「一号は入口側だけ強く、先まで水が届きにくかった。二号は全体に広がりましたが、遠い穴が少し強すぎました」
エッダは木板と水路を交互に見た。
「私には、どちらも濡れているようにしか見えないよ」
「それでも構いません」
「構わないのかい?」
「大切なのは、何を確認し、次に何を直すかを伝えることです」
「次は?」
「二号の穴の大きさを少し調整した三号改を作ります。ひびが入らないよう、陶器の厚みもそろえます」
「便器全体は、まだ先なんだね」
「はい」
直人は曖昧にせず答えた。
「予定より遅れているのかい?」
「最初から完成時期は約束できないとお伝えしました。ただ、俺が考えていたより、水路だけでも調整が必要です」
「追加の金は?」
「今の試作費の範囲で進めます」
「ガルド親方は、それでいいのかい?」
エッダが尋ねると、ガルドは不機嫌そうに腕を組んだ。
「最初の見積もりに、失敗分も入れてある」
「十回失敗しても?」
「十回も失敗せん!」
「では安心だね」
「何がだ!」
エッダは笑った。
その隣で、ナーラが一号試験片へ触れようとした。
「まだ縁が鋭いです」
直人が止める。
「完成した便器は、もっと滑らかになるのかい?」
「はい。表面へ釉薬をかけ、汚れを落としやすくします」
「銀月亭のように、白くなる?」
ガルドが答えた。
「同じ白は難しい。この土地の土と釉薬では、少し灰色か青みが出る」
「私は白でなくても構わないよ」
ナーラは穏やかに言った。
「毎日、安全に使えるならね」
直人はその言葉を手帳へ書いた。
依頼主の優先事項:色ではなく、安全性と使いやすさ。
技術者が完成品へ近づけようとするあまり、利用者が本当に必要としているものを見失ってはいけない。
「便器の高さも、ナーラさんに合わせます」
「銀月亭より低くしておくれ」
「立ち上がりやすさも確認します。試作品ができたら、服を着たまま座る試験に協力していただけますか」
「もちろんだよ」
「座って割れないものを持ってこい」
エッダが釘を刺した。
「その前に重りで試します」
「重り?」
「人が座る前に、想定より重い荷物を載せて強度を確認します」
ガルドの眉が上がる。
「陶器へ石を載せるのか」
「いきなり人へ試してもらうより安全です」
「壊れたら、また作り直しだぞ」
「壊れるものをナーラさんへ渡すわけにはいきません」
「それも記録するのですね」
テオが尋ねる。
「もちろんです」
テオは少し楽しそうに紙へ項目を加えた。
完成後強度試験。
ガルドは、その文字を見て重いため息をついた。
「便器一台に、何枚紙を使うつもりだ」
「事故を減らせるなら、必要な枚数だけ」
「紙代まで見積もりに入れるぞ」
「必要経費です」
リリアが即答した。
エッダが笑い、ナーラも小さく肩を揺らした。
工房の空気が少しだけ和らぐ。
進捗は遅い。
完成品はまだない。
それでも、依頼主は何が行われているかを知り、職人たちは次に何を直すか理解している。
見えない水路の開発は、確かに前へ進んでいた。
◇
夕方。
銀月亭へ戻った直人は、裏庭の処理槽を確認した。
水洗便所の利用者は、この数日で増えている。
処理槽の水位も少しずつ上がっていた。
ボルグは毎日、沈殿物と上澄みの状態を記録している。
「今日は流れに問題なし」
ボルグが言った。
「臭いは?」
「蓋を開ければ臭う。閉じていれば、前の穴よりましだ」
「虫は?」
「少ない。ただ、変な跡がある」
「跡?」
ボルグが処理槽の横を指した。
湿った土の上に、細い筋が伸びている。
何かが這ったような跡。
処理槽の蓋の隙間から始まり、銀月亭の床下通気口へ続いていた。
「ネズミでしょうか」
「足跡がない」
「蛇?」
「もっと幅が広い。柔らかいものが這った跡だ」
直人はしゃがみ込み、ライトで地面を照らした。
筋の表面には、わずかに青緑色の粘液が残っている。
見覚えがあった。
銀月亭の床下。
汚染された土の上で、汚れを食べていた小さなスライム。
「あいつかもしれません」
「床下にいた魔物か」
「処理槽の臭いか汚物に引き寄せられた可能性があります」
「中へ入ったなら、面倒だぞ」
「処理槽を壊しますか?」
「分からん。汚物を食うだけなら、むしろ量が減るかもしれない」
「安全が確認できるまでは利用できません」
「便所を止めるのか」
直人は処理槽の蓋を見た。
今すぐ異常はない。
流れも止まっていない。
水位も急に変化していない。
だが、正体不明の魔物が内部へ入った可能性を無視できない。
「少なくとも、今夜は新しい利用を止めます」
「また赤い板か」
「何が起きているか確認してから再開します」
銀月亭の水洗便所は、ようやく安定してきたと思ったばかりだった。
今度は、排水の先に異世界特有の問題が現れた。
便器本体の開発。
給水。
利用説明。
保守。
そして、汚水へ集まる魔物。
現代の施工経験だけでは判断できない問題だった。
直人は処理槽の向こうにある通気口を見た。
暗い隙間の奥で、一瞬だけ青緑色の光が揺れた。
一号と二号の比較により、洗浄穴を同じ大きさにするだけでは、水が均等に流れないことが分かりました。
二号は改善しましたが、厚みの偏りによって焼成中にひびが入っています。
次回は、銀月亭の処理槽へ入り込んだ可能性のある小型スライムを調査します。汚物を食べるその生物が、設備の味方になるのか、新たな故障原因になるのかを確かめます。




