第10話 その便器を一台売ってくれ
銀月亭の水洗便所は、町の人々から注目され始めました。
次に必要なのは、見物人を集めることではありません。
一台の便器を、責任を持って商品として販売することです。
異世界で初めての現場調査は、パンの香りに包まれて始まった。
「いい匂いですね」
陶山直人が店へ入ると、焼き上がったばかりの丸いパンが棚いっぱいに並んでいた。
小麦の香ばしさ。
酵母に似たわずかな酸味。
薪窯から伝わる熱。
銀月亭の床下や処理槽ばかり見ていた直人にとって、久しぶりに心から落ち着ける匂いだった。
「朝一番の焼き上がりだからね」
店主のエッダが、厚い布を使って窯から鉄板を取り出した。
「一つ食べるかい?」
「仕事が終わってからいただきます」
「真面目だねえ。パン一つ食べる間に、便所が逃げるわけでもないだろう?」
「食べた後に床下へ入る可能性があります」
「それは食欲がなくなる話だ」
エッダは豪快に笑った。
パン屋は銀月亭から歩いて十分ほどの場所にある。
一階が店舗と厨房。
二階が住居。
裏庭には薪小屋と井戸、そして古い便所小屋が建っていた。
現場調査には直人のほか、リリアとガルドも同行している。
ボルグは銀月亭の処理槽を点検中。
ミーナは町の給水所で仕事があるため、午後から合流する予定だった。
「母さん!」
エッダが店の奥へ呼びかける。
「便所の人が来たよ!」
「もう少し別の呼び方はありませんか」
直人が言うと、リリアが隣で笑いをこらえた。
「分かりやすくていいじゃない」
「設備職人か施工担当者でお願いします」
「町の人は、そんな長い呼び方を覚えないわ」
奥の扉から、小柄な老女がゆっくり姿を現した。
エッダの母親、ナーラである。
白髪を後ろでまとめ、木の杖へ両手を置いている。
右膝が曲がりにくいらしく、一歩ごとに体を左へ傾けていた。
「わざわざ悪いね」
ナーラは穏やかに言った。
「昨日、銀月亭で使っていただいたそうですね」
「ああ。あんな便所は初めてだよ」
「使いにくい部分はありませんでしたか?」
「座る時は楽だった。立つ時も、壁の棒につかまれたからね」
「手すりですね」
「ただ、あの足置きは少し高かった」
直人は手帳を開いた。
「どちらの足で乗りにくかったですか」
「右だね。膝を持ち上げるのがつらいんだ」
「銀月亭の便器は、元の高さがこちらの人には少し高いんです。それを足置きで補っています」
「では、うちではもっと低くできるのかい?」
エッダが尋ねた。
「新しく便器本体を作れれば可能です」
二人の視線がガルドへ向かう。
「だから俺を見るな」
ガルドは腕を組んだ。
「まだ焼けると決まったわけではない」
「見本と同じものは作れないの?」
エッダが聞く。
「形を似せるだけなら作れる。だが、水が同じように流れる保証はない」
「町一番の陶工でも?」
「町一番だから、簡単だと言わんのだ」
ガルドは不機嫌そうに答えた。
「器の中に水の道がある。入口の位置、穴の大きさ、曲がり方。そのどれかが違えば、うまく流れん可能性がある」
直人はうなずいた。
持ち込んだ便器は、見た目以上に複雑な構造を持っている。
鉢の内側を洗う水路。
汚物を排出するための曲がった通路。
臭いを止める封水。
陶器の厚みと強度。
一つずつ試作し、調整する必要がある。
「だから、ナーラさんの家へすぐ設置できるとは約束できません」
直人は正直に伝えた。
「便器が完成するまで、どれくらいかかる?」
エッダが尋ねる。
「試作しなければ分かりません」
「十日かい。一月かい」
「最初の一台なので、それ以上かかる可能性もあります」
「そんなに?」
「焼き物は、窯へ入れたらすぐ完成するものではない」
ガルドが言った。
「形を作る。乾かす。焼く。釉薬をかける。もう一度焼く。途中で割れれば最初からだ」
「その間、母さんは今の便所を使わなきゃならない」
エッダの声が沈んだ。
「まず、今の便所を見せてください」
直人は裏庭へ向かった。
◇
パン屋の便所小屋は、銀月亭のものより小さかった。
床板に穴を開け、その下に陶器の大壺を置く方式である。
満杯になる前に壺を引き出し、汲み取り人へ渡す。
銀月亭のように地面へ直接ためる方式ではないため、地下へ染み出す危険は少ない。
しかし、別の問題があった。
「入口に段差がありますね」
地面から小屋の床まで、拳二つほどの高さがある。
上るための木箱が置かれているが、固定されていない。
直人が足を載せると、箱がわずかに傾いた。
「ナーラさんは、ここを上がるんですか」
「杖を突いてね」
エッダが答える。
「雨の日は滑りませんか」
「二度転びかけたことがある」
ナーラが言った。
「中では、穴の上へしゃがむ必要がある。立つ時が一番つらいね」
便所内には手すりがない。
壁板も薄く、体重をかければ外れる可能性がある。
直人は入口、床、壁、壺の位置を測った。
「便器が完成するまで待たなくても、改善できるところがあります」
「水洗にできるのかい?」
「それはすぐには無理です。ですが、段差を低い傾斜路に変える。小屋の中へ丈夫な手すりを付ける。しゃがむ姿勢を減らすため、壺の上へ座れる仮設便座を作る」
「水では流れない?」
「今までどおり、壺は汲み取ります」
エッダは少し残念そうな顔をした。
「銀月亭と同じものが欲しかったんだけどね」
「完成品を待つ間に怪我をしたら意味がありません」
直人は床板を軽く叩いた。
「それに、この床も補強が必要です。便器を設置する場合でも、先に直すことになります」
ガルドが穴の下に置かれた大壺を覗き込む。
「この壺は俺の工房で焼いたものだ」
「何年前ですか」
「十二、三年前か」
「漏れは?」
「今のところないよ」
エッダが答える。
「ただ、引き出すのが重くてね。最近はボルグたちを早めに呼んでいる」
「壺を小さくすると、汲み取り回数が増えます」
「大きいままでは、運べない」
「壺を固定して、上から中身をくみ出せる形にした方が安全かもしれません」
「蓋を付けて、管を通すのか?」
ガルドが尋ねた。
「はい。完全に密閉はできなくても、臭いを減らせます」
「水洗便器を売る話ではなかったの?」
リリアが指摘する。
「現場を見た結果、今すぐ必要なのは転倒防止です」
「お客様が欲しいものと、あなたが必要だと思うものが違うのね」
「両方説明して、選んでもらいます」
直人はエッダとナーラへ向き直った。
「選択肢は三つあります」
一本目の指を立てる。
「一つ目。今の便所をそのまま使う。費用はかかりませんが、段差と立ち座りの危険が残ります」
二本目。
「二つ目。段差、手すり、仮設便座を改修する。水洗ではありませんが、比較的早く安全にできます」
三本目。
「三つ目。現地製の水洗便器が完成するまで待ち、給水と処理槽を含めて設置する。快適になりますが、費用も時間も最もかかります」
「二つ目をやった後で、三つ目に変えることはできる?」
エッダが尋ねた。
「できます。手すりや入口の改修は、水洗便器へ交換しても使えます」
「無駄にならない?」
「仮設便座の一部は使わなくなりますが、できるだけ再利用できる構造にします」
ナーラが杖を握り直した。
「まず、転ばずに使えるようにしておくれ」
「母さん、水洗を待たなくていいの?」
「待っている間に膝が良くなるわけじゃないからね」
エッダはしばらく母親を見つめ、うなずいた。
「分かった。先に二つ目を頼むよ」
「ありがとうございます」
「それと、水洗便器の予約もしたい」
直人は目を瞬いた。
「まだ価格も完成時期も決まっていません」
「だから、予約だよ」
「前金を払うの?」
リリアの声が一段明るくなる。
エッダは懐から小さな革袋を取り出した。
「いくら必要だい?」
「待ってください」
直人は慌てて止めた。
「まだ必要な費用を計算していません。いくらになるか分からない商品に、先にお金を預かるわけにはいきません」
「作るためにも金が必要なんだろう?」
「必要ですが――」
「エッダさんの言う通りよ」
リリアが口を挟んだ。
「材料を買うお金がなければ、ガルドは試作できない。試作できなければ、価格も分からない」
「失敗して完成しない可能性もあります」
「その場合の条件を、先に決めればいいの」
「条件?」
「試作費として預かる部分と、商品代の前金を分けるのよ」
リリアはパン屋の作業台へ手帳を広げた。
「試作費は、試作が失敗しても返さない。その代わり、作業内容と使った材料は報告する。商品代の前金は、完成しなければ返す」
直人は考えた。
現実的ではある。
新製品の開発費を、最初の購入希望者が一部負担する。
ただし、失敗のリスクを顧客だけへ押しつけてはいけない。
「試作した便器は、エッダさんだけのものにはなりません」
「どういう意味だい?」
「成功した形は、その後もほかの人へ販売します」
「同じものが町中に増えるということ?」
「はい」
「私は構わないよ」
エッダは笑った。
「母さんが楽になって、ほかの年寄りも楽になるならいい」
「ただし、最初の購入者として、価格面で優遇しましょう」
リリアが続ける。
「試作費を負担してもらう代わりに、完成品の代金から一部を引く。保守点検も最初の一定期間は無料にする」
「一定期間とは?」
直人が尋ねる。
「そこを今から決めるのよ」
「簡単に決めて大丈夫ですか」
「決めずに金を受け取る方が危ないわ」
リリアは当然のように答えた。
彼女は宿屋の主人だが、商売の交渉にも慣れている。
直人は工事と商品の条件を整理できても、この世界の契約慣習や相場までは知らない。
ここでも、役割分担が必要だった。
「ガルドさん。試作に必要な材料は?」
「まだ分からん」
「分かる範囲で」
「土。釉薬。薪。型を作る木と石膏に似た粉。それから弟子の手間だ」
「何回くらい失敗すると思いますか」
「そんなもの、やってみなければ分からん」
「最低三回分の材料を見込めますか」
「三回で済めば運がいい」
ガルドは白い便器を思い浮かべるように腕を組んだ。
「まず、小さな試験片を焼く。次に、水路だけを作る。それが通れば、便器全体だ」
「いきなり便器を作らないんですか」
エッダが尋ねる。
「最初から大きなものを焼けば、失敗した時の損が大きい」
ガルドは直人をちらりと見た。
「こいつが言っていた。小さく試せとな」
「俺が?」
「前の水洗試験で、いきなり本番にする必要はないと言っていただろう」
「覚えていたんですね」
「職人は、使える言葉は覚える」
直人は少し嬉しくなった。
ガルドは現代の便器をただ模倣しようとしているのではない。
自分の技術で、製造方法そのものを組み立て始めている。
「試作費は銀貨二枚だ」
ガルドが言った。
エッダの表情が固まった。
「高いね」
「これでも足りんかもしれん」
「銀貨二枚あれば、小麦をどれだけ買えると思っているんだい」
「なら、作らん」
「すぐに話を終わらせないで」
リリアが二人の間へ入った。
「材料費と工賃を分けて説明して」
「細かい計算などしておらん」
「これからは必要よ」
「俺の器は、見て値段を決める」
「完成品ならそれでいい。でも今回は、まだ存在しないものへお金を出してもらうの」
ガルドの眉間に皺が寄る。
「俺を信用できんと言うのか」
「信用するために、何にいくら使うかを決めるのよ」
リリアは一歩も引かなかった。
直人は、二人の言葉が激しくなる前に口を挟んだ。
「俺の世界では、工事前に見積書を作りました」
「昨日から言っていた、みつもりね」
リリアが言う。
「はい。材料、作業、運搬、処分など、必要な費用を項目ごとに示します」
「そんなものを毎回作るのか」
ガルドが呆れた。
「金額の大きい仕事では、特に必要です」
「客は細かい字を読むのか」
「読みます。読まない人もいますが、説明します」
「面倒だ」
「水漏れした後に、誰が払うか揉める方が面倒です」
ガルドは黙った。
前回の詰まり事故を思い出したのだろう。
「では、試作費の見積もりを作りましょう」
リリアが言った。
「今日中に?」
「ガルドは工房で材料を調べる。ナオトは必要な形と寸法をまとめる。私は費用と契約条件を書く」
「私は?」
エッダが尋ねる。
「いくらまでなら負担できるか決めて」
「値段を聞く前に?」
「無理のない上限を先に決めるの。払えない額の商品を作っても仕方がないでしょう」
リリアの言葉に、直人は大きくうなずいた。
技術的に最高のものを作っても、購入者が払えなければ商品にはならない。
今回必要なのは、王族向けの装飾便器ではない。
膝の悪いナーラが、日常的に使える便器だ。
「温かくなる便座や、体を水で洗う機能はいりません」
直人が言った。
「そのようなものまであるのか?」
ナーラが目を丸くする。
「いずれ作りたいとは思っています」
「今は普通に流れるものへ集中しなさい」
リリアが釘を刺した。
「分かっています」
「本当に?」
「本当です」
ミーナとエナのような機工士がいれば、将来的には魔導温水洗浄便座も可能になる。
だが今は一台目。
必要な機能へ絞らなければならない。
「では、まず今の便所を安全に直します」
直人はナーラに確認した。
「入口の傾斜路、手すり、座って使える仮設便座。これでよろしいですか」
「ああ、頼むよ」
「水洗便器については、試作費の見積もりを出します。内容を確認して、納得した場合だけ契約してください」
エッダは革袋をしまった。
「今日は払わなくていいのかい?」
「金額も条件も決まっていませんから」
「変わった商人だね。普通は先に取れるだけ取るものだよ」
「商人ではなく、施工担当者です」
「売るなら商人でもあるでしょう」
直人は返答できなかった。
元の世界でも、販売と施工の両方を担当していた。
客の要望を聞き、商品を選び、見積もりを出し、工事し、引き渡す。
確かに商売でもある。
「なら、信用できる商人になっておくれ」
ナーラが穏やかに言った。
「便所は、毎日使うものだからね」
「はい」
直人は深くうなずいた。
◇
その日の夕方。
銀月亭の食堂で、異世界最初の便器販売見積もりが作られた。
机の中央には、ガルドが調べてきた材料の一覧。
隣には、ロッカが算出したパン屋の便所改修費。
リリアはそれらを一枚の紙へ整理している。
「まず、仮設改修」
リリアが読み上げる。
「木材、手すり、傾斜路、仮設便座、ロッカの作業費。合計で銀貨一枚と銅貨六枚」
「高すぎませんか」
直人が尋ねる。
「木材が値上がりしているの。古材を一部使えば、銅貨四枚ほど下げられる」
「強度は大丈夫ですか」
「ロッカが確認した材料だけ使うわ」
「なら、選択肢として出しましょう」
次は水洗便器の試作費。
ガルドは銀貨二枚と主張していたが、材料を細かく計算すると、最低限必要な現金は銀貨一枚と銅貨八枚だった。
残りは、弟子の工賃と工房使用料である。
「ガルドさんの工賃を削るつもりはありません」
直人は言った。
「当然だ」
「ただし、試作品が完成した後は、清流設備商会――」
直人は途中で止まった。
「まだ商会はありませんね」
「作る必要があるかもしれないわね」
リリアが呟く。
「誰が便器を売り、誰が代金を受け取るのか。今のままでは曖昧だもの」
「銀月亭が売るのでは?」
「宿屋の帳簿と便器の帳簿を一緒にはできないわ」
「では、別の事業として管理しますか」
「名前だけでも決めておく?」
「まだ早いです」
「注文が来たのに?」
リリアは紙を指で叩いた。
「エッダさんは、買いたいと言ったのよ」
「正式な契約はこれからです」
「だからこそ、売る側の名前が必要でしょう」
直人は考えた。
商品として責任を持つ主体。
施工保証。
代金の受け取り。
材料の購入。
職人への支払い。
保守契約。
個人の口約束だけでは、今後必ず混乱する。
「商会を作るなら、登録が必要ですか」
「小規模なら、町の商人組合へ届けるだけ。取引が大きくなれば税も変わるわ」
「登録費は?」
「銀貨一枚」
「高いですね」
「今の私たちにはね」
リリアは少し考えた。
「最初は、銀月亭の新規事業として始める。売上が一定額を超えたら、別商会にするのが現実的かもしれない」
「宿が便器を売るのか?」
ガルドが笑った。
「珍しくて宣伝になるでしょう?」
「宿の看板に便器を描くつもりか」
「それは嫌ね」
リリアは真剣な顔で答えた。
「ともかく、今回は銀月亭が契約窓口になります」
直人はうなずいた。
「施工責任は俺。陶器部分はガルドさん。木工部分はロッカさん。処理槽はボルグさん」
「給水は?」
「井戸の位置を確認してからです。日常の補充はエッダさんたちでも可能ですが、ミーナさんにも相談します」
リリアが紙へ書き加える。
「保証はどうする?」
「施工部分は、完成後三十日間」
「短くない?」
「この世界で部品が安定供給できるか分かりません。一年を約束して修理できない方が問題です」
「三十日を過ぎたら全部有料?」
「施工不良が原因なら、それ以後も対応します。通常の摩耗や利用者が壊した場合は有料です」
「原因を誰が決めるの?」
「俺が調査します」
「あなたが売る側なら、自分たちに都合よく判断したと思われるかもしれない」
直人は考え込んだ。
確かにその通りだ。
「意見が分かれた場合は、商人組合か職人組合に確認してもらいましょう」
「手数料がかかるけれど、それが公平ね」
「契約書に入れてください」
項目が増えていく。
価格。
支払時期。
試作が失敗した場合。
完成時期を保証できないこと。
設置前に現場調査を行うこと。
安全上、追加工事が必要になる可能性。
使用説明を守ること。
保守と修理。
「便器を一台売るだけで、こんなに決めることがあるのね」
リリアが手を止めた。
「売った後に問題が起きる商品ほど、先に決める必要があります」
「パンなら、食べたら終わりなのに」
「硬かった、焦げていた、腹を壊したという問題はありませんか」
「あるわね」
「商売は何を売っても難しいんです」
「それを異世界へ来たばかりの人に言われるとは思わなかったわ」
リリアは完成した紙を持ち上げた。
「明日、エッダさんへ説明しましょう」
◇
翌日。
パン屋の作業台で、リリアが見積もりと契約条件を読み上げた。
エッダとナーラは、途中で何度も質問した。
試作が十回失敗したらどうなるのか。
追加費用は勝手に増えないか。
便器が完成しても家へ置けない場合はどうするか。
水が足りない日は使えるか。
壊れた時、どれほどで来てもらえるか。
直人たちは、一つずつ答えた。
「試作費は銀貨一枚と銅貨八枚」
リリアが最後に言う。
「ただし、最初に支払うのは半分。残りは、最初の試作品が水を流せる状態になった時点」
「完成しなかったら?」
エッダが聞く。
「前半分は試作材料と作業に使うため返金しません。後半分は請求しません」
「水洗便器本体と設置工事の代金は?」
「試作が成功した後、現場に合わせて別途見積もります」
「全部で銀貨何枚になるか分からないんだね」
「現時点では約束できません」
直人が答えた。
「支払えない額になった場合、試作便器を購入する義務はありません」
「試作費だけ払って、便器を買わないこともできるの?」
「はい」
「それでは、そっちが損をするんじゃないかい?」
「成功した便器は、ほかの人へ販売できます」
エッダは契約書を見下ろした。
ナーラが娘へ声をかける。
「無理をしなくてもいいんだよ」
「無理じゃない」
「銀貨一枚は大金だ」
「母さんが便所で転んで治療院へ行く方が、もっと金がかかる」
エッダは革袋を開いた。
銀貨一枚と銅貨数枚を机へ並べる。
「払うよ」
リリアが硬貨を確認した。
「本当にいいの?」
「毎日使うものだと言っただろう?」
エッダは直人を見た。
「銀月亭と同じものではなく、母さんが使いやすい便器を作っておくれ」
「分かりました」
「安いだけのものはいらない。でも、払えないほど高いものも困る」
「予算内で必要な安全性を確保します」
「壊れたら?」
「直します」
「使い方が分からなければ?」
「説明します」
「売った後に、いなくならないね?」
直人は一瞬、答えを失った。
いつか元の世界へ戻るかもしれない。
異世界に留まり続ける保証はない。
だが、今この場で受けた仕事から逃げるつもりはなかった。
「少なくとも、この便器を安心して使えるようになるまで、責任を持ちます」
「それでいい」
エッダは手を差し出した。
直人はその手を握る。
パンを作る太い手だった。
「その便器を一台、売ってくれ」
正式な注文だった。
銀月亭の仮設便器とは違う。
日本から持ち込んだ便器でもない。
この世界の土と技術で作り、客の家へ設置し、代金を受け取る。
異世界で最初の水洗便器販売が、今始まった。
「ガルドさん」
直人が振り返る。
工房へ戻ろうとしていたガルドが、足を止めた。
「何だ」
「注文が入りました」
「聞いていた」
「作ってください」
「失敗しても知らんぞ」
「失敗した理由を一緒に調べます」
「簡単に言うな」
ガルドは大きく息を吐いた。
「明日、型を作る。白い便器を工房へ運べ」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うな」
ガルドは不機嫌そうに歩き出した。
その足取りは、これまでより少しだけ速かった。
新しい器を作る職人の歩き方だった。
パン屋のエッダから、膝の悪い母ナーラのための水洗便器を正式に注文されました。
直人たちは、試作費、商品代、保証、追加工事、修理条件を定め、初めて販売契約を結びます。
次回からは、異世界で作る最初の便器の開発が始まります。ガルドは現代便器の内部構造を調べ、試験用の小型模型に挑みます。




