☀第3話 鏡に映った王女
セルランティア王女が少年の体で目覚めた日の朝。
別の場所では、もう一人も目を覚まそうとしていた。
その者は極上の寝具に包まれ、それまで感じたことがないほどの快適さの中にいた。
自然と頬が緩む中、次第に意識が浮上してきて……その者はうっとりと目を開いた。
妙に体が軽い。どこにも痛みは感じない。
確か、後方から何らかの凶器が飛んできて、胸を貫かれたはずではなかったか?
(……なんだ? なんでこんなに気持ちいいんだ?……俺……生きてる、のか?)
ボンヤリと思いながら半身を起こす。
何気なく周囲を見回すと、その者はギョッとして目を瞬いた。
明らかに自分の家ではない。
天蓋付きの寝台。見るからに豪華そうな、透けて真っ白な布のカーテン。
丹念に磨き上げられているかのような、艶のある高級そうな家具。
それらはどれも白地でできており、繊細な金の装飾までが施されていた。ひと目で特注品とわかる。
壁には豪華な額縁に収められた数枚の絵画が飾られていた。
「金持ちの……家?」
声を出したとたん、ゾクリとした感覚が背中を駆け上る。
妙に高くて細い声。まるで女のようだった。
声の異質さに薄気味悪さを感じながらも、何気なく自分の体に目を落とした時。その者は、今度こそ目を疑った。
自分の体ではないとすぐに察せられる、華奢な白い腕。細い指。胸元には膨らみまである。
自分の体が変質した違和感と激しい嫌悪感に襲われ、その者は思わず目をそらした。
すると今度は、長く美しい髪が目に入ってきた。
光を放つかのようにきらめく、淡い金色の髪。それが腰の辺りまで流れている。
「嘘……だろ……」
震える手で、顔のあちこちに触れる。
柔らかくすべらかな頬。小ぶりで形の良さそうな高い鼻。ふっくらとして、カサつきひとつ感じられない唇。
これは俺の顔でも体でもないと、彼は思った。
そうだ、これは女の……。
寝台から這い出し、裸足のまま厚みのある絨毯の上を歩いて、部屋の隅にある大きな鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、一人の少女。
長くつややかな金色の髪、美しく整った顔立ち。
――彼が殺したはずの王女、セルランティアだった。
「なんだ……これ……。なんで俺が……?」
愕然と鏡を見つめ、震え声でつぶやく。
「ふざ……けんなっ! どーして俺が、よりにもよってあの女に――!」
鏡の中の絶世の美少女――自分が殺したはずの王女が、憎しみに歪んだ顔で自分を見つめ返している。
その皮肉すぎる現実に、彼――王女を刺殺した少年は、鏡を叩き割りたい衝動を必死に堪えて立ち尽くした。
「……ん?」
ふと、違和感を抱いた。
この顔は〝王女セルランティア〟の顔。それは間違いない。
だが、どこかがおかしい。
あの時見たセルランティア王女とは、少しばかり違う気がするのだ。
彼はじぃっと鏡を見つめてから、違和感の正体に気づいて息を呑んだ。
「そうか、髪だ。髪の色が違うんだ」
それに気づいた時、扉を数回叩く音がした。
「セルランティア様、お目覚めになりましたか? 失礼してもよろしいでしょうか?」
落ち着いた女性の声だった。
扉が開き、侍女らしき少女が入ってきた。
片手には大きな陶器製の水差しを持ち、やはり陶器製の鉢のようなものを小脇に抱えている。
「おはようございます、セルランティア様。今朝は、ご加減の方はいかがですか?」
彼――王女の体に入った少年は、とっさに答えた。
「あ、あぁ……おはよう。ご加減は……まあ、悪くはない……かな」
侍女は僅かに眉をひそめた。いつもの王女でないことにすぐさま気づいたのだろうかと、ヒヤリとする。
だが、そのことについて言及するような気配は感じられず、侍女は淡々と続けた。
「さようでございますか。ご加減がよろしいようで安心いたしました。――それでは至急、清めの水をご用意いたしますね」
「えっ? 『清めの水』……?」
意味がわからずポカンとしていると、侍女は小脇に抱えていた陶器製の鉢をサイドテーブルに置き、水差しの水を慎重に注ぎ始めた。
(……ああ。この水で顔を洗えってことか?)
少年は曖昧にうなずき、鉢の前に立った。
だが、顔を洗うという行為ひとつすら緊張する。彼は恐る恐る手を伸ばし、両手で水をすくって頬に当てた。
少しばかりお湯が加えられているのか、冷たさはあまり感じなかった。凍てつくような井戸水の汲み置きとは、まるで違った。
(……本当に、俺は生きてるのか)
いや、それ以前に。
(俺は、どうしてこんな体になってる)
手についた水を払い、差し出された布で顔を拭う。
布は柔らかく、シミひとつなかった。
「髪をお整えいたします」
背後から侍女が髪に触れた瞬間、少年の全身が強張った。
触るな、と叫びそうになる。
だがそんなことをすれば、今の自分がセルランティア王女ではないと悟られてしまう。
少年は唇を噛み、黙って慣れない感覚に耐えた。
侍女は鏡越しに彼を見つめたが、問い詰めるようなことはしなかった。
代わりに静かな声で訊ねる。
「セルランティア様。今朝は少し、顔色がお悪いようにお見受けいたしますが……。悪夢でもご覧になりましたか?」
「えっ?……そ、そーかな? べつになにも……」
ヒヤリとしながら答えると、侍女はほんの少し目を細めた後、再び無表情になって一礼した。
「さようでございますか。ならばよろしいのですが……。では、お飲み物をお持ちいたしますね。もうしばらくお待ちくださいませ」
彼女にとって、ここまでが朝の務めなのだろう。淡々と告げてから、侍女は部屋を出ていった。
扉が閉まり、辺りはしんと静まり返る。
少年はその場に立ち尽くし、ぎこちなく自分の両手を見下ろした。
細い指に白い肌。……やはり女の手だ。
先ほど目にした鏡の中の姿が、頭から離れない。
金色の髪。美しい顔立ち。
たった一度目にしただけだが、忘れられるはずもなかった。
あれは、セルランティア王女の顔だ。
(……けど、変だ。俺が殺した王女の髪は、もっと赤みがかった金色だったはず……)
少年は鏡の前に戻り、もう一度、今度は髪の色を中心に確認してみた。
――やはり、ただの金色だ。殺しの場で感じた、淡く赤みがかった金色とは違う。
(どういうことだ? 鏡の中のこの女は、王女じゃないってことなのか? それとも……)
さらに考えようとしたが、馬鹿らしくなってやめた。
今は王女の髪の色のことなどどうでもいい。自分が置かれているこの状況を、どうにかすることを考えねば。
……昨夜、確かに胸を貫かれた。
息が詰まり、視界が暗くなって――それで全てが終わったはず。
(なのに今、俺はあの王女になって……生きてる?)
理解が追いつかない。
頭の中がぐらぐらと揺れて、吐き気すら込み上げてくる。
自分の手が、微かに震えているのがわかった。
恐怖からか、それとも、怒りからなのか……。
少年が測りかねていた、その時だった。
〈あ……あの……〉
おずおずといった感じの何者かの声が、頭で響いた。
瞬間、少年は凍りつく。
すると再び、
〈あなた様は……どなた、なのでしょう?〉
戸惑っているような、恐れているような、か細い女の声だった。
少年はゴクリと唾を呑み込み、激しく暴れる鼓動を押さえつけるようにして、ドレスの胸元をギュッと掴んだ。
「おまえこそ……誰だ?」
返事はすぐに来た。
〈わ、わたくしはセルランティア。……セルランティアと申します〉
その名を告げられることは、当然予想はしていたが。
実際に名乗られたとたん、少年の全身から血の気が引いた。




