☽第10話 突きつけられた現実
「お兄ちゃん、気分はどう? 朝食持ってきたよー!」
勢いよく扉を開けて、先ほどの少女――エトナが満面の笑みを浮かべて入ってきた。
両手には木製のお盆のようなものを持ち、その上の木製皿にはスープのようなもの、さらにその横には、茶色っぽくて丸い物体が載っている。
「体調悪いみたいだから麦粥にしようかとも思ったんだけど……。あたし、そろそろ行かなきゃいけないから。悪いけどこれで我慢してね」
そう言うと、エトナはティアの膝の上にお盆を置いた。
「え?……あの、これは……?」
「もう! まだ寝ぼけてるの? 朝食に決まってるでしょ!」
「……朝……食……」
ティアは戸惑っていた。
貴族には朝食をとる習慣がない。せいぜい薄い麦酒や、ワインとハチミツを少々入れたハーブティーを栄養補給として流し込む程度だ。
ティアも同様、朝は飲み物以外を口にしたことがなかった。
貴族以外の人たちは朝食をとるのが普通なのだろうかと考えながら、ティアはしばらくじっとしていた。
〈おいっ。どーしたんだよ、王女さん?〉
リオの声が脳内で響き、ティアはハッと我に返った。
すると今度はエトナが、
「なに? やっぱり食欲ないの、お兄ちゃん?」
心配そうに顔を覗き込んできて、ティアは慌てて首を横に振った。
「そう? ならいいけど……」
僅かに顔を曇らせた次の瞬間、エトナは「いっけない!」と大声を出し、素早く扉の前まで移動した。
取っ手を掴んで扉を開けると、
「ごめんね、もう時間だから行くね! なるべく早く帰ってくるから、今日はおとなしく寝てるんだよ? 親方さんにはちゃんと伝えてあるから心配しないで!」
早口で告げ、エトナは慌ただしく部屋を飛び出していった。
それを見送ってから、ティアは再びお盆の上に視線を落とす。
(この茶色いものは……もしかして、パン……?)
ティアはこわごわ手を伸ばし、茶色い物体をそっと掴んだ。
――硬い。
これでお盆を叩いたらコツコツと音がするに違いない、と思えるほどに硬い。
(このようなもの、いったいどう食せばよいのか……)
噛んだら歯が欠けてしまうのでは? そんな恐怖を抱きつつ、ティアが再びためらっていると、
〈王女さん、もしかして食い方わかんねーのか?〉
彼女が困っていることに気づいたのか、リオが声をかけてきた。
「あ、はい。このパン……のようなもの、とても硬くて……」
〈ハハッ! だよなぁ? 王女さんがこんなパン食うわけねーもんなぁ?〉
リオは愉快そうに笑い声を上げてから、ティアに説明し始めた。
〈その茶色いパンは、俺らみてーな貧しー奴らの主食だよ。主食っても、まだ良い方だな。普段はさっきエトナも言ってた麦粥。オーツ麦の粥を食ってんだ。これからほぼ毎日、王女さんも食うことになるんだから覚悟しといた方がいいぜ?〉
「ま……毎日……」
思わず絶句すると、リオは吹き出すようにククッと笑った。
〈まあ、とにかく食ってみろよ。見た目ほど悪くねーかもしんねーぜ?〉
「あ……はい」
〈そのパンを、まずスープに浸すんだよ。浸して柔らかくしてから、かぶりつくんだ〉
「は、はい。では――」
ティアはパンを一口大にちぎろうとしたが、なかなか上手くいかない。
普段彼女が食しているパンはもっと白くて柔らかいものだ。手で簡単にちぎれるのだが――。
〈おいおい、いつまでパンと格闘してんだよ? ちぎれねーんだったら、丸ごと一気に浸けちまえって〉
「そ、そんな。丸ごとだなんて……あ、ちぎれましたわ!」
〈それをスープに浸す! で、口ん中に放り込む!〉
「はっ、はい! 浸して……放り、込む」
〈で、噛む! ひたすら噛む!〉
「ん……ん、むぐ……」
多少は柔らかくなったものの、白パンと比べるとまだまだ硬い。
ティアは何十回と咀嚼を繰り返してから、ようやくパンを飲み込んだ。
……正直言って、とても「美味しい」とは言えない。
スープもほとんど味がせず、ティアは少なからず衝撃を受けていた。
貴族は朝食はとらないが、その分昼食は豪勢だ。
ティアももちろん例外ではなかった。
たとえば、ある日の昼食はこうだ。
牛肉と野菜のハーブ煮込み
ベリーソースのかかった鹿肉のロースト
フレッシュチーズとハーブの和え物
溶かしたチーズをたっぷりかけた薄焼きパン
水で割ったワイン
これらを毎日、少し離れたところにある城から塔まで、カティが少しずつ運んでくれる。
冷めてしまったものは、火を入れることができるものだけ塔の暖炉で温め直し、配膳してくれるのだ。
目の前の食事に比べれば、充分すぎるほどのご馳走だ。
それなのにティアは、「こんなに食べられない」と残すことも多く――。
「……あ」
気がつくと、ティアの両目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
〈は!? もしかして王女さん……泣いてんのか!?〉
ギョッとしたようなリオの声が脳内に響く。
ティアは涙を両手で必死に拭った。
「ご……ごめんなさい。……申し訳ございません。涙が、勝手に……」
何に対して謝っているのか意識することなく、彼女は涙を流し続ける。
リオは慌てている様子で、
〈うぇえ!? マジかよ!?〉
〈そこまで不味かったのか、そのパン!?〉
〈そりゃ、貴族様の食うもんと比べたら粗末なもんなんだろーけど……泣くほどかぁ!?〉
などと大騒ぎしている。
ティアはとめどなく流れる涙を拭い続けながら、
「ち、違うのです。これは……」
どうにかしてごまかさなければと、重い口を開いた。
「ごめんなさい。あの……あまりに、美味しくて……」
……当然、嘘だった。
どんなに「美味しい」と思い込もうとしても、長年贅沢に慣れてきてしまった舌は、味覚は正直すぎて――。
ティアは五感に逆らいながら、「美味しいです」「美味しいです」と、自らに言い聞かせるようにつぶやき続けた。




