第七十二話 プニモフ拳
魔核で作り上げ、全身の毛に流し続けてきたマナ。
しなやかさと、柔らかさ。
すべては、リアのためだった。
最初は一日も持たなかった。
魔核から絞り出すマナは、すぐに枯渇寸前になった。
それでも毎日続けた。
眠っているときでさえ、彼女を癒せるように。
だが、今だけは。
全身のしなやかさも、柔らかさも削る。
その膨大なマナ量を。
目の動き。
肉球の反射と弾力。
そして全身のバネへ。
――出し惜しみは、なしだ。
再び肉薄する光の軍勢。
百だろうが、千だろうが、やることは同じだ。
角度も速度もばらけている。数は脅威。だが、理詰めではなく、数任せで圧殺するだけ。
マイコールの視線が、四方へと走る。
一本ずつを追うのではない。
光剣一つ一つの位置関係を、点ではなく、流れとして捉える。
確実に対処すべきは、あの五本。
この二本を右へ弾けば、多くの刃を崩せる。
次の瞬間には、もう身体が動いていた。
肉球が弾き、尻尾で撥ねる。
何度も何度も、叩き、弾き、跳ね上げ、打ち下ろし、投げ飛ばす。
千を超える光剣が、数本ずつ、容赦なく散らされていく。
だが、それでも終わらない。
崩しても、崩しても、次が来る。視界の端に映る光は、なお厚い。
遅い、と感じた。
光剣ではない。
読んで、選んで、弾いている自分の動きが、だ。
もう、見えつつある。どこを崩せば、より多くの流れそのものが潰れるか。
ならば、もういいはずだ。
抑えていたものを外す。
考えるよりも速い領域へ、踏み込む。
雷虎が、跳ねた。
迫る光剣を弾くのではない。
踏む。
刃の腹へ肉球を乗せ、反発を拾って、次の刃へ。
線上にある邪魔な光剣は、最小の動きで軌道をずらす。
わずかに角度が狂うだけで、刃と刃が噛み合い、ぶつかり、弾け、流れが自ら崩れていく。
マイコールの一撃で、数十の光剣が軌道を狂わせるようになっていく。
それは、瞬きにも満たない時間だった。
マイコールは止まらない。縦へ、横へ、斜めへ。
宙に舞う光剣そのものを足場に、縦横無尽に跳び回る。
初めはエルーナを背後に、守るための迎撃戦だったものが、いつの間にか攻勢へと変わっていた。
押し寄せる光刃の大波を、進撃で押し返す。
鋭く、疾く、音を置き去りにする雷のように。
前へ、前へ、前へ――。
刹那のうちに鋭角な軌道を描きながら、大波の一本たりとも背後へ通さない。
粉砕し続ける。
背後の気配は遠のく。
エルーナには届かせない。
眼前に残るのは、もはや半分を失った光の群れだけだ。
しかし、敵の攻勢が緩んだ。
ずっと光剣の軍勢から、息もつかせぬよう、襲いかかってきていたのに。
そして後続が、一度途切れた。
わずかな違和感に、マイコールがふと見下ろせば、
「なんなんだ、君は……」
そこには、顔を引きつらせたジェルダンがいた。
エルーナのことなど忘れてしまったかのように、ジェルダンの視線はただ一点、宙にいるマイコールへ注がれている。
マイコールは側の光剣を処理しつつ、最後の一本を踏み抜いた。勢いを利用して、落下していく。
地面の直前でくるりと身体を反転。
音もたてずに着地した。
互いの間に残された距離は、わずか十数歩。
どちらが一歩踏み込んでも、次の瞬間には喉元に届く距離。それほどに近い。
だが、どちらも動かず、視線だけが交わっている。
ジェルダンからは余裕が消えていた。
整っていたはずの呼吸がわずかに乱れ、胸元が上下している。
光を纏っていた男の顔には、初めて明確な戸惑いが浮かんでいた。
◇
ジェルダンには理解が出来なかった。
数で押しつぶすはずだった。理屈も策もいらない、圧倒的な物量を前に存在できるはずもない。そのはずだった。
だが、間違いなく、そこにあり続ける者がいる。
虎猫。
ちっぽけで戦いに向かない体躯は、その毛並みをわずかな血ですら濡らしてない。
ふわりと舞い降りてくる毛だけが、届いたところを教えてくれる。
万を超える光剣の進軍。それでも、削れたのは毛先のみ
。
これは、悪夢か?
だが、ジェルダンはこの目で、この肌で、この耳で、確かに感じてしまった。
あの虎猫の動きが、次第に速くなる。
エルーナにすら光剣を届かせない守りは、やがて攻勢へと転じ、光の群れを逆流させていった。
追えない。
自分の瞳が、追えない。
視界に映るのは、弾ける白光と、断ち切られる軌道だけ。
そして気づいた時には――
前へと放っていた光剣の軍勢が、跡形もなく消えていた。
「なんなんだ、君は……」
違う。そうじゃない。ただの数の暴力に、相手の速さが勝っただけのことだ。
数で潰すなど美しくない。
それは本来のものではない。細分化ではなく、圧倒的な一点集中こそが、至高のはず。
ジェルダンの呼吸が、ゆっくりと整い始める。
「……まだだ」
冷たく、告げるように呟く。
「まだ、僕の全力ではない」
背後に残していた光が、ざわりと震えた。
空気が重くなり、石畳がきしりと鳴った。
無数の光剣が揺らいで、その形を崩し、粒子となる。螺旋を描きながら、全てジェルダンの元へ。
ジェルダンの手元に生まれたのは一振りの光刃。
始めこそ、ただの輝きであった。
だが、次第に光の密度を増していく。刀身からの輝きだけで世界を白く覆い、そして収束した。
「君は、許されない」
陽光すら霞む、極光の剣。
「存在そのものが、あっていいはずがない」
ジェルダンは極光剣を上段へ、石畳が割れるほどに踏みしめた。
「……来いよ。全力でな」
マイコールはわずかに腰をおとして、構える。
「そうでもしなきゃ、もう止まれねえだろ」
静寂がおちる。
次の瞬間――石畳が爆ぜた。
上段に掲げた極光剣を携え、一直線に迫る。
十数歩の距離が、存在しなかったように、一瞬で潰れる。
再び視線が絡む。
小さな虎猫は揺るがず、その瞳にジェルダンを映していた。
そんな彼へ、極光剣を振り下ろす。
――絶対に、殺す。
◇
マイコールは魔核を唸らせた。
体内に渦巻く膨大なマナを、さらに跳ねさせる。
他に回し続けていた分まで、全てを一つのために注いでいく。
脚、背、肩、そして腕の筋力へ。そして剣を受けるモフ――その一本一本に、しなやかさと強靱さを叩き込む。
逃げない。
折れない。
今だけは、絶対に。
押し潰されない。
――来る。
マイコールは腰をさらに沈め、両腕を頭上で交差した。
極光が叩きつけられた。
光とモフが正面からぶつかる。
衝撃が凄まじい圧となり、身体を駆け抜ける。
膝がわずかに沈み、足元の石畳が砕けた。
食いしばった歯が、わずかに欠けた。
地面を揺るがすほどの振動が響き、剣圧が暴風となって吹き荒れる。
大地を深く抉る斬撃痕は、大広場の半分まで至る。それほどの一撃。
「ふぅ……」
「ば、かな……」
ジェルダンの剣を持つ手が、震えた。
だが、虎猫の両腕が揺るぐことはない。
砕けたのは大地だけだ。
◇
ジェルダンは虎猫から、目が離せない。
唇を噛み締め、固唾を飲んだ。
ありえない。間違いなく直撃した。
極限まで集めた光が、自分の全てを注ぎ込んだものが、どうして……、どうしてこんな……。
小さな体躯。強力な装備で受け止めたわけでもない。
極光が触れているのは、交差した両腕。
そこにあるのは柔らかそうな、ただの毛並みだ。特別なんて、どこにも見当たらない。
それなのに、身体を両断するどころか、毛の一本すら切り裂けないなんて。
極光はこの手に、確かにある。
剣圧だって大地に大きな傷跡を残した。
今だって剣を通じて、彼の実体が間違いなくあるとわかる。
ぐぐぐっと剣を押し返してきた。
わずかに丸まった彼の背中が伸びる。
交差した腕の向こうにある瞳で、こちらを射抜いてきた。
「ひっ……」
ジェルダンの喉から、引き攣るような声が漏れた。
彼の瞳に宿る生命の輝き。そのあまりの強さに、思わず一歩退いてしまう。
剣を握る指先が震えた。いや、震えているのは腕……、違う。身体そのものだ。
喉の奥がひりついて、息が浅くなった。
一歩、また退こうとした。
だが、何かに躓き、極光剣から手を離し、尻餅をついてしまう。手元を離れた極光が、幻想であったかのように霧散した。
虎猫が静かに見下ろしてくる。
ジェルダンは左手を握り込んだ。親指で薬指にあるそれをなぞる。王の指輪の感触は、確かにある。
盾になる命は、六つ。
こんな無防備であっても、普通の一撃なら臣下に分散され、王には届かない。
だが、そんなものは虎猫にとって、塵芥にも等しい。爪を振るえば一突きで全てを貫き、王へと届く。そういう化物だ。
――死ぬ。
初めて、その言葉が形を持った。
違う。
違う、違う。
自分は指輪に選ばれた王なんだ。こんなところで終わっていいはずがない。何か、手があるはず。
虎猫は待ってはくれない。わずかに重心を前に移そうとする。喉元に冷たいものが触れた気がした。
「待て……!」
掠れた声が、裏返る。
情けないが、それでも生を掴もうとする。
「僕を殺せば……、六人の妻も死ぬぞ」
かろうじて繋いだ一言に、自身でも驚くほどの理があった。
守るだのなんだの言う奴らは、甘い。誰かの大切さを知るからこそ、命を摘み取る決断が出来ない。
出来るか。
この虎猫に。
六人を、殺せるか。
彼は守る者だ。
そういう眼をしている。
だから――出来ない。
この命に届くには、六つを超えなければならない。
命を踏み潰す決断が出来ないなら、それを盾にして、やりようはある。
逃げてシェリルのところにいる魔物を使って、脅してもいい。どうにかエルーナを押さえてもいい。
指輪の仕組みがわからなければ、軽々に手を出せないはず。
虎猫の動きが――、止まる。
空気が、わずかに緩む。これならば行ける、そう思った。
「マイコー」
遠くからそんな声が聞こえた。初めはエルーナかと思ったが、違っていた。彼女は動いていない。
ジェルダンは内心で歯噛みした。迂闊に側までくれば、隙をみて人質にする可能性もあったのに。
たったったっと、緊張感の欠片もない足音が近づいてくる。
「リア」
虎猫の声に、わずかな安堵が滲む。
「ほら、ユキマル」
白銀の髪が視界の端に入り、小柄な少女が虎猫の隣に並んだ。
その腕には、いつかの白いネイチュラがいる。
そこで初めて気づく。シェリルの指輪を感じとってみれば、少し前と違う温かいものが混じっていた。
シェリルは失敗……、いや、裏切って少女に魔物を渡したというのか?
いやそれよりも……、これは良い機会だ。この距離なら虎猫の不意をつけば、いける。
「……まだ、危ねえから」
虎猫は横目で、ジェルダンへと視線を送る。
「エルーナのとこで待てるか?」
「うん、わかった」
少女がこくりと頷く。
駄目だ。行ってはいけない。そんな思いでジェルダンが見つめていると、
「金髪の人……」
じっと見つめて返してくる。その視線はジェルダンの左手へと向けられ、
「指輪……、大切なんだね」
少女にぽつりと言われて、気づく。
無意識のうちに親指で指輪をなぞっていた。表情はとりつくろい、その動きを止める。
「そういやあ……」
虎猫が顎に手を添えて、わずかに思考に入る。
何を思い出したのか、何を繋げたのか。不気味だ。化け物がなにを考えているのか。
ジェルダンは喉を鳴らす。
少女が背を向けて、一歩を踏み出す。まずい。
この距離。この状況。
この少女を奪うには、この瞬間しかない。そうすれば、まだ形勢は揺らぐ。
六人の命だけではなく、目の前の少女も盾になる。そうすれば、あの虎猫でも踏み切れない。
身体が、先に動いた。
前のめりに姿勢を変える。四つ這いになりかけながら、地を蹴る。伸ばした手は少女へ。
掴める。
指先が布に触れる、その直前。
伸ばした手が空へと跳ねられ、身体も仰け反る。痛みはないが、軌道がずらされた。
風が身体に絡みついてくる。
服に鋭い線が走った。一本ではなく、粉微塵になるほどの量。
黒衣の礼服だけが、跡形もなく弾けた。
服の欠片に紛れ、煌めくものが宙にあった。丁寧にしまい込んでいたはずのもの。
臣下の指輪が、陽光を受けていた。
刹那、視界に影が掠める。指輪が、ない。
そして右手の薬指に触れる、冷たい何か。
――臣下の指輪が、はまっている。
「これで、おめえも繋がったんじゃねえか」
低く唸るような虎猫の声。
振り向けば、突き出された虎猫の手が、視界いっぱいに広がるところだった。
身を固くする。今度こそ爪で八つ裂きにされる。
六枚の盾を貫いて、この命まで届いてしまう。
だが、想像していた衝撃はこなかった。
かわりに何かが触れた。
ぷにん、と。
ありえないほど柔らかい――肉球。
ただ、触れている。
何を、と理解するより前に、じわりと胸に異物が入り込んでくる。圧でもなく、痛みでもない。
穏やかな温かさ。
「うにゃああああああっ!」
虎猫の雄叫び。次の瞬間、視界が肉球で埋まった。
目にも止まらぬ速さで、拳を連続で振るってくる。
数発……、数十。――いや、数百。
顔へ叩き込まれているはずなのに、衝撃がない。
身体は吹き飛ばされず、骨も折れない。
だが、ぷにぷにぷに――、と。無数の肉球の感触だけが残る。
包みこまれるような感覚が、胸の内側へ押し広げられていく。
気持ち悪い。なんだ、これは。傷つけるものである方が、まだ理解できる。だが、これは毛色が違いすぎる。
それがなおさら不快だった。
あったはずの焦燥がほどかれていく。
怒りが鈍り、思考がゆるんでいく。
「やめろ……」
吐き気がこみ上げた。
理解したくない、感じたくない。
優しいもので、勝手に包み込もうとするな。
誰かいないのか。
怖気の走る感覚に耐えながら探す。六人もいる妻は、王の危機に何をしている。助けにこないのかっ!
だが、こない。
それどころか指輪越しに伝わるのは、危機感などではない。
妻たちが、一人残らず同じ感覚を抱き始めている。
焦燥でも恐慌でもない。六つが、ゆるやかに整っているのがわかる。
従順に作り替えたはずの人形たちが、一人残らず、緊張がほどけていく。
心が穏やかなものへ、色を染めていく。
その変化が、繋がりを通じてこちらへと流れ込んでくる。
あり得ない。
王が崩れかけているのに、なぜ動揺しない。何もしなければ、どう扱われるかなんて、嫌というほど知ってるだろう。
支配が届かない。
喉の奥がひくりと鳴った。
肉球から注がれるものが、六人を変えてしまった。
こんなにも短い時間で。柔らかいものに触れただけで。
恐怖は、時間をかけて刻み込んだ。逆らえばどうなるかを教え、逃げ場を潰し、選択肢を削り、従順という形へ削り上げた。その積み重ねが、支配だ。
王は支配するからこそ、王である。それを崩されてしまえば、ただの人間だ。
それを、たった一度の接触で……、たった一人の虎猫に、塗り替えられてしまった。
崩れていく。
揺るがなかった王座が、足元から消えていく感覚があった。
肉球が止まった。
だが、もはや肉球がどうなろうと、ジェルダンには関係がなかった。
立つという意思が、うまく形にならない。
膝から崩れ落ち、どうにか両手を地面に付いた。
「マイコーっ!」
視界の隅に、影が差した。駆け寄る足音。
エルーナだった。
あれだけのことをしてきたのだから、初めは嫌悪の感情が、向けられるかとジェルダンは思った。だが、こちらへは見向きもしない。
虎猫と少女はエルーナの姿を見て、顔をほころばせる。
エルーナは少しだけ心配そうな様子で、虎猫の腕を見る。次いで、少女のことも見る。
どこか傷ついてないかと確かめるように、視線が行き来する。
虎猫は毛が乱れているだけだ。少女も小さな擦り傷がある程度。
しばらくして大きな怪我がないと分かったのだろう。
エルーナはほっと息を吐き、瞳を潤ませながら微笑んだ。そして二人をまとめて、ぎゅっと抱きしめる。
「二人とも、私のために……ありがとう」
謝罪でも、安堵でもなく、感謝。
虎猫の尻尾が、嬉しそうに揺れる。少女はきゅっと抱きしめ返す。
命令もない。
指輪もない。
支配もない。
それでも、互いを想う。
その光景を、ジェルダンは地面に手をついたまま見上げていた。
胸の奥が、ひどく空いた。
左手にある王の指輪を見る。金属は、いつもと同じ重さのはずだった。だが、いまは妙に冷たい。
いつから奪う側になったのかは、覚えていない。
どんなに深い関係になっても、権力に脅されれば、財力で惑わされれば、命の危険があれば、人は裏切る。
そう思っていた。実際にそうだった。
それは世界の真理のはずだった。
だから奪った。だから縛った。だから削った。
そうしなければ繋がりなど存在しないと、信じていた。
だが、目の前にあるものは違う。脅しても、惑わしても、命を危険にさらしても、乗り越えて今もなお輝いている。
胸の奥に残っていた最後の理屈が、静かに崩れる。
指輪が、重い。
もはや王などに、意味はない。
ゆっくりと指を動かす。
金属が皮膚から離れた。
小さな音を立てて、石畳に落ちた。




