第七十一話 一緒
エルーナには祈る暇すら与えられなかった。
教会の入口近くから見える景色。
二人が繰り広げるのは、嵐のような攻防だ。
壁を駆け、斬り結び、弾き飛ばされ、姿勢を立て直して床を蹴る。ほとんどが目で追うことすら許されない世界。
教会の椅子や床が容赦なく蹂躙される。
それを見て、ようやくそこを通ったのだと理解できる速さだった。
そんな戦いを、どれほど続けているだろう。
初めは、二人とも疲れという言葉を知らないのかと思えるほどだった。
しかし、限界は確かにあった。
時折、距離を置いて互いは向かい合う。
次の一手を探るわずかな静止のたびに、違いが見えてしまう。
余裕をあふれさせるジェルダン。
対照的にマイコールは、ほんのわずかだが息を弾ませていた。
それは、まだわずかな不利かなのかもしれない。
けれど、この静止が、あと何度続くのだろう。
呼吸の乱れが、ほんの少しずつ重なっていくのなら。
時間は、あちらの味方になる。
それでもマイコールは、また影すら追わせない戦いに身を投じていく。
――私を助けるために。
「マイコールさん……」
エルーナは、きゅっと右手を握った。
何か、出来ることはないのだろうか。
使えそうなものは魅了と、精霊に助けてもらうこと。
だけど、どちらもこの戦場においては、意味を成さない。下手をすれば、マイコールにとって邪魔となってしまう。
エルーナはわずかにうつむいて、手に力を込めた。
また、だ。
誰かが傷つくことを、見ていることしか出来ない。
ミナも。
カイも。
バルカンも。
――私のために。
どうしていつも、守られる側なのだろう。
「はははっ! どうしたんだい、マイコール君。自慢の速さが鈍ってきているねっ!」
「そりゃ、おめえの目が節穴なんだろっ!」
マイコールが踏み込む。鋭い蹴り上げ。
しかし、ジェルダンが後方へ半歩引いた。それだけで空を切る。
「潔く認めたほうが美しいと思うよ。唯一の取り柄まで失って、どうやって僕に挑むつもりだい?」
「言ってろっ!」
マイコールが獣のしなやかさで飛び込んだ。
爪が閃く。ジェルダンは半身を捻って躱しざま光剣で返し、そこをマイコールの尻尾が剣の腹ごと弾いた。
目まぐるしく攻守が入れ替わる。
エルーナには、すべては見えない。
けれど、気づいてしまった。
さっきまでは影すら追えなかったのに。
虎柄の残像が、わずかに視界へ残る。
「ほらほらほらっ、手数が落ちてるじゃないか」
「ぐっ、うっ……」
光剣を爪で捌くマイコールの苦悶が伝わってくる。
ジェルダンが光剣を振るう姿から、必死さが消え、マイコールがじりじりと追いやられていく。
「ふっ!」
光剣の一閃。
爪での反応が、かすかに遅れ――
マイコールの身体は玩具のように弾き飛ばされる。
それをエルーナが理解したのは、突風がエルーナの髪を乱した後だった。
木を突き破る破砕音。
教会の扉を粉砕して、マイコールの姿が外へと消える。
「マイコールさんっ!」
エルーナは反射的に駆けた。
外気が頬を打つ。
広場に出た瞬間、目に飛び込んできたのは噴水の上部が、あらぬ方向へと傾いている光景だった。
石の破片が散らばり、水が無残に溢れ出している。
その残った支柱に背を預けるようにして、
マイコールは、動かなかった。
他に人はいない。
結婚式のために貸し切りにしていた大広場は、異様なほど静まり返っている。
「っ……!」
支柱にもたれ掛かったままの彼の元へ、駆け寄ろうとして、
「どこへ行こうと言うんだい? 僕のエルーナ」
右手首を掴まれ、引き戻されてしまう。
振り向くよりも早く、骨にまで響く冷たい指先が、力強く握り込んできた。
振り払おうとしても、びくともしない。
「くっ……、モロにもらっちまった……」
マイコールの声。
支柱から抜け出るようにして、地面に立っていた。だが、毛並みは乱れ、少しだけ足取りが揺れている。
「あれを見なよ」
ジェルダンが顎で示す。
「今にでも崩れそうな彼と――」
エルーナの身体を引き寄せ、無理やり視線を正面へと向けさせる。
「傷一つない僕」
吐息が掛かる距離。
「このまま戦い続ければ、どうなるか。……考えるまでもないだろう?」
掴まれたところから、冷たい何かが心の奥底まで染み込んでくるようだった。
「僕を選ぶんだ、エルーナ」
低くて、穏やかな声だった。
「そうすれば、彼もこれ以上、傷つかない。
君も、苦しまなくていい。
誰にとっても、素敵な明日が迎えられる」
ジェルダンは微笑み、掴んでいた力を緩めた。
「これが最後の機会だ。さあ、エルーナ。結婚式を続けよう」
ジェルダンが手を差し出してくる。
この手を取れば、本当にジェルダンを選んだことになる。
だけど、それであなたが助かるのなら。
震える手を伸ばそうとして、
「それでいいのか、エルーナ」
そこで止めてしまった。
――あなたは辛いのに、それでも暖かい声を届けてくれる。
マイコールが、ゆっくりと歩いてくる。
「酷い男だね、マイコール君。彼女の幸せを邪魔するだなんて」
「そんな風に縛って、エルーナが幸せになるって、本気で思ってんのか?」
マイコールが腕を回して動きを確かめながらも、一歩、また一歩、前へ進む。
「なるに決まってる。初めは分からないかもしれない。だけど、僕と共に歩むことが、何よりも素晴らしいことだと、気づくのに時間は掛からない。今までも、みんなそうだった!」
「ホント、すくえねえヤツだな」
マイコールがこぼした言葉を、ジェルダンが嘲笑する。
「君こそわかっているのかい? 僕には勝てない。君じゃあ、彼女を幸せにするどころか、守ることすら出来ないっ! どんな言葉を吐こうが無意味――」
「ルナ」
その声は雫のように小さかった。ジェルダンの暴言に押しつぶされそうなほどに。
「どんなことを、したいんだ?」
だけど、どうしてだろう。不思議と世界が静まった。
「オイラはな」
そこにあるのは、優しさを帯びた視線。
「誰かを幸せにしてやるとか、そんな立派なことは、よくわからねえ」
しっかりと見つめてくる。
「でもな」
ふらつきながら、一歩前へ。
「ルナが、自分で選んだ道なら」
真っすぐに、近づいてきて。
「一緒に行ってみてえなって、そう思う」
手を伸ばせば届く距離で、
右手を差し出す。
そして問いかけてきた。
「ルナは、どんな明日が見たいんだ?」
いつもの、陽だまりのような暖かさで。
彼の右手を見つめる。
埃と水でしんなりした毛並み。ふらついていた歩みとは違う。両足が地面をしっかり踏みしめていた。
肉球が、目に留まる。
いつか手を繋いだ時。
そこには、やさしさが詰まっていた。
ミナとカイ、ユキマル、バルカン、そしてリアノン。
みんなのことが、胸を締める。
守るためだけに命をかける。そうじゃない。
立ち塞がる相手が怖くても、離れたくない人がいる。
明日も並んで食卓を囲みたい人がいる。
そして、一人だけじゃ、どうにもならなくなっても。
手を、繋いでくれる人がいる。
「マイコー」
その呼び名は、自然とこぼれた。
「おう」
「ありがとう」
その手を、取った。
マイコールが、ふんわりと微笑んでくれる。
次の瞬間、ぐいっと腰を引き寄せられる。
少し驚いたけど、彼に身を任せた。小さな体躯のどこにそんな力があるのか、両手で丁寧に抱え、マイコールは跳んだ。
地面が遠ざかる。
ジェルダンと距離が開く。彼は手を差し伸べたままの姿で、その場にあり続けた。
大広場の中央。噴水近くに着地する。
「離れんな」
マイコールの低い声。
「ええっ」
短く返す。
エルーナは自分の足で立つ。腕は離れても、互いが近くにある。二人は油断なくジェルダンを見据えた。
ようやくジェルダンの時が動き出す。
右手で髪をかき上げ、肩をわずかに震わせ始める。それは徐々に大きいものとなっていき。
「ははははははははっ!」
甲高い笑い声が、広場に響き渡る。
何かを発散するように、心底おかしいとでも言うように。
「なるほど、なるほど! 人は、ここまで愚かになれるのかっ!」
ひとしきり笑い、そして表情がすっと消える。
瞳から、光が抜け落ちる。
「僕のものにならないというなら……」
刃のような冷たい声を、突きつける。
「もう、いらないよ」
ジェルダンが右手を掲げた。
光の鎧が霧散。
地面から湧き上がる光の胞子が、宙を舞う。
そうして彼の背後に生み出されるのは――。
地面を起点にそびえ立つ、城壁。
白く、輝き、視界を塞ぐ。
いや、壁ではない。
それは隙間なく敷き詰められた、無数の光剣。
マイコールがエルーナの前に立ち、目の前の光景を見上げていた。
「でっけえなあ」
わずかな感動すら滲ませている。
だけど、焦りは微塵も感じられない。
そんな彼の背中が、とても大きいものに見えた。
「ジェルダン! これで、全部か?」
「なんだって?」
ジェルダンが眉根を寄せる。
「オイラをやっつけんのにさ……」
マイコールが耳の付け根をかく。
「これで、足りんのか?」
マイコールの問いかけ。
ジェルダンの口角が、一瞬だけ歪む。
「僕は決めたよ」
ジェルダンが左手までを、天へ掲げる。
「君は肉片すら残さない。……エルーナは、力で奪い尽くす」
光剣の壁。その高さは倍に膨れ上がり、
「味わうがいい。この僕の、全てをっ!」
切っ先は全て、マイコールへ向けられていた。
ジェルダンが、右手を強く握り込んだ瞬間。
光剣の壁。その一角が崩れ、蠢いた。
数十……、いや、数百はあろうかという光剣の群れ。
それらが全て、殺到してくる。
光が、視界を埋め尽くした。
どうしてか、世界の動きがゆっくりに見えた。
もしも――、あなたがそこにいなかったら。
きっと目を閉じて、終わると感じていただろう。
だけど、そんな今は存在しない。あなたは、そこにいる。
押し寄せる津波のような数百の光剣。
あなたの背中が消えた直後、
見えない何かに触れたかのように、
近いものから次々と軌道を乱した。
弾かれ、逸れ、互いにぶつかり、砕け散る。
轟音が地面を揺るがした。倒れないようにと身体を支える。
次にあなたを見たのは、宙でくるりと回って、着地をする姿。
少し遅れて、いくつもの毛がふわふわと舞い落ちてくる。
周囲は無残だった。
突き刺さった何本かの光剣が、淡く消えていく。
石畳は抉れ、噴水は跡形もない。
だが、それでも二人を包むように、無傷の地面がある。
マイコールを中心とした円。そこだけが荒れていない。
「なにを……した……」
傷一つないマイコールに、呆然としたジェルダンがぽつりとこぼす。
「おめえと同じだよ、ジェルダン」
マイコールが舞い落ちる毛に、息を吹きかけた。
「オイラも、全力だ」




