第七十話 糸
初めは自分らしく、強くあろうとした。
遠い記憶のこと。
ジェルダン様に妻になれと言われ、断われた自分が確かにいた。
将来を約束した幼馴染がいた。
一緒に冒険者として村を出て、いくつもの街を巡った。
危ない依頼もあった。
でも、二人なら笑い飛ばせた。
彼と結婚して、小さな家を持って、子供にこんな冒険をしたんだよって、話せるような未来。
あの時の私は、本気でそんな日々が来ると信じていた。
だから断った。
嫌な感じはしたけど、間違っていないと思っていた。
――あの日までは。
ジェルダン様には、全てがあった。
権力も、財力も、武力も。
誰も逆らえない立場で、笑っていた。
幼馴染は、事故で死んだ。
依頼中の不運だと聞かされた。運が悪かっただけだと。
でも、胸の奥では理解していた。
私の選択の結果だと。
それでも、まだ歯を食いしばれた。あの人への思いだけを胸に、生きていこうと誓った。
だが、追い打ちが来た。
両親の営んでいた家業が、突然潰れた。
契約が打ち切られ、資金の流れが止まり、取引先が一斉に手を引いた。
理由はない。そういうことに、なっていた。
追い詰められて、家は傾き、借金だけが残った。両親は命を絶つ直前までになっていた。
私がいくつになっても甘やかしてくる父親。
「いつでも帰ってらっしゃい」と送り出してくれた母親。
放っておけるわけがなかった。
そのとき。ジェルダン様が、そっと告げた。
君の全てを僕だけに捧げれば、手を差し伸べようと。
そうして、潰れかけた商会は立て直され、借金は肩代わりされた。
家は守られ、両親は何も失なわずにすんだ。
私を除いては。
私は――死んだことになった。
そしてジェルダン様に身体を捧げた。
やっぱり嫌だと逃げ出した。
けれど、その先でもすべては彼の手の上だった。
そして、心まで奪われた。
大事だった人の顔が――
少しずつ思い出せなくなっていった。
私は理解した。
力のない側にいれば、奪われる。夢は壊れる。
強い側に立てば、奪われない。生き残れる。
弱いものは、強いものに従うことでしか、幸せを掴んでいられない。
それが現実だと。
それを理解できない者は、愚かな夢想家だと。
だからこそ、あの子は折れなければならない。
折れてくれなければ、私の選択が間違いになる。
◇
「ちょっと大きくしすぎたかしらねっ!」
銀髪の子が一歩後ずさる。
今さらになって後悔していることだろう。でも、すでに遅い。
シェリルは掲げた腕をわずかに後ろへ下げ、炎球を前方へ解き放とうとして――
「発射」
左手の人差し指。彼女はそれをシェリルの足へ向け、そう言った。
白いネイチュラの口元から鋭く、素早く、糸が飛来する。
いつもなら、反応くらいは出来たはず。
だけど、爆炎魔術の投擲を制御しているまさに今、そんな余力はなかった。
完全に不意を突かれた。
粘着性の糸が右足に絡みつく。
「えいっ」
銀髪の子が糸を掴んで、思いっきり引き寄せようとする。
シェリルはひっくり返りそうになるところを、踏ん張って耐えた。しかし、炎球を掲げており、上手く力が入らない。
下手をして、この真上にある魔術を自分の近くに落としたら。背筋を冷たいものが走る。
だが、力の天秤は、シェリルに傾きつつあった。
銀髪の子が糸で引っ張る足。
それへの抵抗も徐々に慣れてくる。
踏ん張りにくい状況ではある。だが、これまでにも魔術を扱う上で、邪魔が入るのは何度も通ってきた道だ。
気は抜けないが、これなら頭上にあるこれを、投げつけられる。そこまでに戻ってきた。
やはりどう足掻いても、弱いものは強いものに――勝てない。
次の瞬間。
右頬を削られるような鋭い痛みが走った。気のせいではない。
血が舞っている。何が起こった!?
そしてその意識のズレは致命的だった。
身体がぐらつき、糸がここだと言わんばかりに右足を引いた。姿勢が崩れる。
あらぬ方向へ放たれてしまった、炎球。
シェリルが背中を地面に打ちつける。真上にシャンデリアが見えた。その視界の端で、炎球が天井の角へ吸い込まれるように迫り――。
爆発。
屋敷全体を揺るがせた。
その衝撃で、自分のなかで張りつめていたものが、音もなく切れた。
天井で、金属が軋んだ。
シャンデリアが左右に大きく揺れ、わずかに沈む。
息が詰まる。
あれが完全に外れれば、下にいる自分は。
避けようと、身体へ力を入れかけて……、止まる。
身体が動かない。
痛みがあるわけではない。だが、どうしてか反応をしてくれなかった。
死ぬ。
そうわかっても、動かなくなった身体。
ふと、過ぎる。
……それで、いいのかもしれない。
もういいよって、言っているのかもしれない。
受け入れようとした、その瞬間。
「それは、ダメっ」
右足をぐいっと引き寄せられる。
背中が床の上を引きずられた。何が起こったのか。一瞬、わからなかった。
理解など、シャンデリアは待ってくれない。
鎖の輪っかが、限界を超えた。
容赦なく迫ってくるシャンデリア。
「んっ、んんんっ……!」
右足が、さらに強く引かれる。身体が引きずられ、視界が思いっきりずれた。
直後、頭上を重たい影が、掠めて落ちる。
破砕音と同時に、シェリルは目を閉じた。細かな衝撃が顔に振り注ぎ、熱い感覚が遅れて広がった。
静かだった。目を閉じたシェリルのすぐそばで、誰かの息を切らした音だけが届く。
「ふぅ……。潰れてない。良かった」
そう言う声は近かったが、それ以上に近寄ってくる気配はない。
「なんで、あんたが私を助けるのよ……」
シェリルは目を開けて、天井をぼんやり眺めながら、ぽつりと呟いた。
「危ないから」
「何よ、それ。敵同士だってのに……。おこちゃまのやることは、ホントわからないわ」
シェリルは身体を動かした。今度は思い通りに起き上がれた。
銀髪の子を真っすぐに見つめる。苛立ちも、憎しみも、どこかにいってしまった。
「あんたと私は敵なの。生かしておいたら、また何かするかもしれないでしょ? だから、放っておけば良かったじゃない」
諭すように、一つずつを丁寧に伝えてあげる。
それを聞いた彼女は、ふるふると首を横に振った。
「敵でも、それは出来ない……」
「甘すぎるわ。そんなんじゃいつか――」
「だって、死んじゃうのは辛いから」
シェリルの言葉を遮った彼女の言葉。
一滴の雫となり、記憶に波紋を広げていく。
聞き覚えが、あった。
でも、一体どこで……。
意識が、暗転する直前。視界の端で、世界が崩れていったあの時。
魔物の爪。血の匂い。身体が地面に叩きつけられ、動かなくなった感覚。
――そうだ。
あの時も、自分は終わりだと思っていた。死を覚悟して、次に目を開けることもない。すべてが終わっているはずだと。
それなのに生きていた。助けられていた。理由も、意味も、分からないまま。
そして今、また同じ言葉を聞いた。
同じように、命を拾われている。
二度目、だ。
この子に、助けられたのは。
「どうかした?」
銀髪の子が、こてん、と首を傾げた。
「その……、あり……」
そこまで言いかけて、口をつぐんだ。敵に対して、何を言おうとしているのか。
「アリ? 虫がいたの?」
「なんでもないわ」
「えっと……。どうする? 続き、やるの?」
銀髪の子が両手で抱えるネイチュラを、ぎゅっと抱きしめた。
何のことかと思ったが、すぐに思い当たって、シェリルはため息をついた。ぞんざいに手で払う。
銀髪の子がホッとしたように息を吐き、周囲を見回した。
黒いローブに目をやると駆け寄って、ごそごそする。どうやらポケットしまっていた靴を、取り出しているようだった。
靴を履き、少し焦げたローブを纏って、彼女は瓦礫で塞がれた玄関扉の前に立った。周囲をきょろきょろと見回している。
「どうしたのよ」
「マイコーのとこに、行かないと。待ってるから」
「あの……、虎猫のところにね……」
深く考えることなく、シェリルは指で示した。
「……あっちよ。廊下を曲がって、厨房の先。裏口があるわ」
言葉がすらすらと口から溢れていく。
銀髪の子は、きょとんとした後、
「ありがと」
その言葉だけを置いて、たたたっと走っていく。彼女の背中が角の先に消えたところで、ぽつりとこぼす。
「あーあ、負けちゃった」
そのはずなのに、どこか少しだけ、息をするのが楽だった。




