第六十九話 爆炎の魔術師
細々とした灯りを頼りに、リアノンは地下通路を駆け抜けた。
炎魔術が飛来した瞬間も何度かあったが、周囲が暗くて、走りながらでは扱いも雑になるようで、ここまではどうにか掻い潜ることが出来た。
階段を登りきって、重い扉を押し開け、転びそうになりながら廊下へ飛び出す。
地下とは違う、磨かれた床に伸びる絨毯。
高い天井、ジェルダンという男が描かれた絵画。
急に明るいところへ来たので、わずかにくらっとする。
後ろからは、相変わらず罵声が飛ぶ。
「逃げられると思ってるのっ! この泥棒猫っ!」
振り返ると、赤毛の女が階段を登り切るところだった。
右手を構えてくるが、魔術は飛んでこない。舌打ちをして、床を蹴った。
リアノンも廊下を駆け抜ける。
長い廊下を走り、勢いのままに角を曲がる。
シャンデリアが吊るされた、広い玄関ホールの空間。
両開きの大きな扉。マイコールが出て行くとき、その扉から教会へと向かった。
外へと繋がる光がそこにある。
あともう少し――。
ユキマルを抱え直し、リアノンは最後の直線を駆ける。
その瞬間。
頭上で何かが爆ぜた。
軋む音すら飛ばして、玄関天井が崩れ落ちてくる。
リアノンは咄嗟に身を翻して、転がるようにして逃れた。
背後で連続する轟音、そして舞い上がる石煙。
振り返り、そこにあったものは。
両開きの扉が、瓦礫で塞がれていた。
「はぁっ……、はぁっ……、逃さないわよ、泥棒猫……」
玄関ホールの入口。
息を切らせて左手を膝についた赤毛の女が、右手をどうにか天井へと向けていた。
パラパラと、小さな石片がこぼれ落ちてくる。
頭上にある豪奢なシャンデリアがわずかに揺れた。
「あんたのせいで屋敷を壊す羽目になったじゃない! あげく、人質まで奪われたって言ったら、ジェルダン様に何をされるか……っ!」
喚き散らしていた女は、ふと視線を上げる。
リアノンと目が合う。
「あら……、あんた」
一瞬だけ、声音が変わった。
「駄猫の連れじゃない。罠があったはずなのに……、王都から戻ってこれたの……」
「二人で、頑張ったから」
「じゃあ、本当にジェルダン様に傷をつけたのは……。いえ、今はどうでもいいわ」
息を整えながらも、赤毛の女は小さい希望を瞳に浮かべて、口元を歪ませた。
「駄猫の仲間。しかも、魔物よりも使えそう。捕まえたら、どうにか許してもらえそうね」
「ダメネコじゃない。マイコーだよ」
「そんなの、どうだっていいのよっ! あんたを縛り上げてやるわっ!」
赤毛の女が勢いよく右手をリアノンへ向けた。
魔術が来る。
リアノンはじっと見つめた。右か、左か。
どちらに跳ぶか、考えていると。
魔術はこない。赤毛の女の視線が、周囲へと向けられ、唇を噛み締めた。
「ふんっ、今なら酷いことはしないであげるわ。だから、無駄なことはやめて、大人しく捕まりなさいっ!」
「それはダメ。わたしは、マイコーのところへ行く」
提案をバッサリと切り捨てる。
「私の魔術の腕を見てから、泣いて後悔しても、遅いわよっ!」
赤毛の女が右手の人差し指だけを向けてくる。
指先に赤いものが灯った。
小さな火種。
次の瞬間、一直線に放たれた。
右手でユキマルを抱えたまま、リアノンは地面を蹴って、身体を横へ投げ出した。
目標を失った火。しかし、壁に当たる寸前、小さく萎み、そのまま消えた。
「ほらほらほらっ! じっとしてると燃えちゃうわよっ!」
一発、二発、三発――撃ち出される火種。
リアノンは横へ転がり、急制止して予測を外させ、倒れ込むように跳んで避けた。
ユキマルが小さく身を縮める。
苦しそうだった。でも、立ち止まる余裕はない。
女の指先をしっかりと捉え、撃つ方向、そして撃つ時に集まる火を見逃さない。
そこだけを、ひたすら見る。
確かに早い。だが、マイコールの背中にいる時の、景色の流れには及ばない。
しかし、見えても、身体は簡単に追いつかない。
何度目かの一撃。身体は避けても、ひらりと翻ったローブに火が絡みつく。
「ほーら、燃えていくわよ。早くしないと大変なことになるわねっ」
意地の悪い言葉が振りかかる。
熱い。焦げる臭いがする。
リアノンは咄嗟にローブを脱いで、足で火種を揉み消した。
「熱いでしょ? 怖いでしょ? もっと大きくて、爆発するような炎だって、作れるのよ?」
赤毛の女が、愉快そうな視線を向けてくる。
「もう一度だけ、機会をあげるわ! 大人しく捕まりなさいっ!」
「……ヤダ」
リアノンは、ぽつりとこぼした。
「あんたの手、震えてるじゃない! 怖いのに、なんでそうなるのよ!」
言われて気づく。
左手も、ユキマルを抱える右手も、自分でわかるほどに震えていた。
見上げてくるユキマルの瞳が揺れていた。
痛いのも、熱いのも、嫌だ。
でも――。
「マイコーが、待ってる」
「あんな駄猫っ、最後はジェルダン様にやられて、おしまいよ!」
強い言葉で圧を掛けてくる。
早く折れろ、と。
リアノンは、赤毛の女を見つめた。
「待ってる」
静かなのに、どうしてか良く通る声。
手は、もう震えてはいなかった。
「……なんなのよ」
赤毛の女はうつむく。両手が怒りで震え始める。
「あの時も……、そう。駄猫と一緒で幸せだのなんだの……。本気でそう思ってる顔をして……。私を……」
わずかな間をおいて。
赤い発光が、指の隙間から滲み出る。
「私を、否定するなぁぁぁ!」
両手を振り上げた。
炎が左右へと分かれて地面を走り、絨毯を裂いた。
焦げた臭いが鼻を突く。そして炎は行く手を遮るように消えない。
「逃さない、絶対に。あんたは丸焦げにして、駄猫に晒す! 絶望する駄猫を見れば、ジェルダン様はきっと満足して、全てを許してくれるわっ!」
赤毛の女が両手を真上へと掲げた。
初めは小さな球体。
だが、両手から立ち昇る赤い光の線を吸う度に、徐々に膨らんでいく。
完成までに猶予はまだありそうだが。
横へ――無理。
さっきの炎が、逃げ道を縫い止めている。
踏み込めば、焼ける。
道は前にしかないが……。
前に出たら、たぶん途中でも撃ってくる。
炎の魔術は確かに強力。
でも、撃つのはあの女の人。
手の届かない距離にいるけど。
この距離をどうにか出来れば。
「……キュイ」
ユキマルが腕の中でもぞりと動いた。
逃げたいのかな。そう思ったが、違うと気づいた。小さな口元をもぞもぞと動かし、赤毛の女を見据えている。
何度か見たことがある。
餌になる虫を前にしたときの、あの目。
「……やるの?」
返事はない。それでも――。
「ユキマル」
名を呼べば、ちらりと見上げてくる。
いつかの陽だまりの下。
マイコールの頬を借りて試した、あのことを思い出す。
あの時は確かに失敗した。でも、その後だって何度もやってみた。まだ、ちゃんと上手くいったことは、数回しかないけど。
「のびーる……きれない……」
リアノンは、自分の左頬を引っ張り、ぱっと離した。
それを見たユキマル。
その口元で糸を練る動きが、確かに変わった。
ユキマルの視線を、自分のものと合わせる。
「わたしが示すとこ。良く見て」
炎はなおも膨らみ続けている。熱が頬を刺す。
赤毛の女の両手は高く掲げられたまま。視線は、もうリアノンしか見ていない。
――今じゃない。
まだ。
炎球が、さらに一回り大きくなる。
「ちょっと大きくしすぎたかしらねっ!」
赤い光が揺らぐ。
獲物を仕留めようとする時が、一番隙だって。マイコールが、笑って言っていた。
リアノンは、あえて一歩、後ずさる。
逃げ場がないように見せるために。
赤毛の女の口元が、勝ち誇ったように歪んだ。




