第六十八話 地下通路
人気のない石造りの階段を、リアノンは降りていた。
手にした灯りが届かぬ先から、闇が寄り添うように迫る。
外の光が届かない匂い。
どこかでぴちょんと、水滴が落ちた。
音を抑えるために素肌をさらした足が、石床に触れるたび、冷えがじわりと染み上がってくる。
用意した灯りは、屋敷にあったものを拝借した蝋燭立てのみだった。銀髪の髪が少しでも闇に溶け込むように、猫耳付きの黒いフードを深く被っている。
階段が終わる。通路は左右に伸びていた。
その片方――左。
壁の窪みに、小さな油皿がぽつりと灯っていた。
弱い炎は石壁をかすかに照らすが、通路の中央には濃い影が落ちている。
灯り。
リアノンは、ほんの少しだけ首を傾げる。
――あっちに、誰かいるのかも。
少し考えてから、左を選んだ。
蝋燭立ての火に息を吹きかける。
炎が揺れ、消える。闇が一段、深まった。
リアノンは灯りの下を避け、影の中を選んで進んだ。
黒いローブの助けもあって、闇が身体を覆ってくれる。
胸の奥にある鼓動が、いつもよりわずかに早かった。
不安は、ある。
だけど、引き返すわけにはいかなかった。
入り組んだ通路を、壁の灯りを目印に追っていく。
マイコールと離れて動く。そう決めた瞬間を、リアノンは思い出していた。
鍛冶屋で声を掛けた時。
「虎猫のにいちゃん――」
「マイコー」
リアノンが名前を呼ぶと、マイコールが見上げてきた。
悩むときによくやる、尻尾の動きが止まる。
「ユキマルは、わたしに任せて」
その言葉の意味を、マイコールはうまく掴めていないようだった。
「マイコールはルナ、わたしはユキマル。二手に分かれる」
「……にゃんだって?」
言葉こそ小さく問い返してきたが、隠しきれない驚きが尻尾を跳ねさせていた。
「助けるのは、片方だけじゃダメ。時間を掛けすぎても、ダメ。なるべく一緒にやらないと。でも、マイコーの身体は一つしかない」
「そうだな……」
しょんぼりと背中を丸めるマイコーに、リアノンは胸に手を当てて言う。
「だけど、マイコーには、わたしがいる。一人じゃ出来ない。でも、二人なら出来る」
「リア……」
見つめ合う二人。ゆっくりと揺れる尻尾。
腕を組んで、やり取りを見守っていたドワーフが、膝をパシンと叩いた。
「そうとなれば、すぐ動くぞ。人質を隠していそうな場所を当たる。可能性が高いのはジェルダンの住処だ。そこを嬢ちゃんに頼む」
「わかった」
「あとでお日様の位置をみて、猶予がありそうなら、オイラが建物まで運ぶぞ」
「うん。マイコー、お願い」
二人の会話に、ドワーフが力強くうなずいた。
「だが、それも絶対ではない。ワシが鍛冶屋の繋がりで、他の情報を集めておく。何かあれば、その近くの鍛冶屋から煙を上げる。空を気にかけてくれ。見逃すな」
それがマイコールたちと交わした約束だった。
湿った石の匂いが、リアノンを現実へと引き戻す。
「マイコー、待ってて……」
ジェルダンの屋敷まで、なんとか付き合ってくれたマイコール。
――ユキマルの匂いが、繋がっているのは、ここだな。
貴族の御屋敷みたいに豪勢な建物だった。門を飛び越え、庭を抜け、屋敷の中へ入り込む。そうしてマイコールが嗅ぎ取った、ユキマルの匂い。
他の匂いに紛れているらしく、顔をしかめながらも丁寧に探り、地下へと続く入口を見つけてくれた。
だから、この地下のどこかにユキマルがいると、リアノンは信じていた。
石壁に指を這わせて進む。
時々見かける扉。
気にはなっていたが、今までは通り過ぎていた。
ぽつりとある灯りは、この先にもある。だけど側にある扉も気にはなった。
耳をそっと当てるが、人の気配はない。だけど、なにかあるかも。
扉をゆっくりと開ける。
手入れのされていない、古い扉が軋む。
驚いて声が漏れそうになり、慌てて口を押さえた。
そのとき。
「痛いっ!」
石壁に反響したその声。
『居た!』と聞こえてしまい、バレてしまったのかと息を呑む。
「誰よ、ジェルダン様に傷をつけたのはっ! 分け合ったって、こっちが痛いのよっ!」
怒鳴り声が、長い通路の先から響いてくる。
どこかで聞いたことのある声だった。
だが、足音は近づいてこない。
気づかれたわけではなさそうだった。
息を殺したまま、通路を進んで突き当たりの角を曲がった。
通路が伸びている。
今までと違うのは、長い通路の壁にある灯りがないこと。そして、扉から灯りが漏れ出ていること。
わずかに開いた隙間から、光が線となって伸びている。
リアノンは息を止め、隙間から中を覗き込んだ。
部屋の中央。粗末な木机の上に灯りがあって、自然と目線が吸い寄せられる。
そこには鍵らしきものがあった。すぐ脇には小さな持ち運び用の檻。中でユキマルが丸まっていた。
あちらを向いたまま、動かない。
一瞬、嫌な予感が胸を掠める。
「ジェルダン様に逆らうなんて、あの駄猫ぐらいしかいないわね。どうせ勝てないのに、無駄なことしてっ! こっちにとっては、いい迷惑なのよっ!」
赤毛の女の甲高い叫びに、ユキマルの身体がびくりと震えた。
生きている。リアノンは内心で安堵する。
すぐにでも駆け寄りたい。でも、その傍らには赤毛の女がいる。
頬に、どうしてか赤い線が走っていた。
浅く裂けたような傷。血が滲んでいる。
少し前にはダメネコと言っていた。だけど、マイコールはここにいない。
どういう事なのだろう?
なんの傷だろうと、もう一度よく見ようとしたが、その前に赤毛の女が頬に手をかざした。
薄っすらと白く発光すると、ゆっくりと傷跡が消えていった。
何かが引っかかる。
だけど、考えている時間はない。ユキマルを助け出すのが先決だった。
リアノンは改めて聞き耳をたてる。他に誰かいれば赤毛の女へ声を掛けるなり、物音がしてもよさそうなものだ。
檻の鍵は、たぶん机の上にあるやつだ。ユキマルに近づくのに邪魔なのは、赤毛の女だけ。
リアノンは、扉の開く方向を確かめた。
廊下側へと開いてくる。これなら、隠れられそうだ。
一歩だけ引き、手に持った蝋燭立てを、通路の奥へ向けて放る。石に当たり、甲高い金属音が響いた。
からん、と転がる。
「誰っ……」
わずかに緊張のこもった声。
扉の向こう側から、足音が近づいてくる。
ぎぃ、とゆっくり開いた扉が、リアノンの鼻先まで迫った。
扉の向こうに感じる、慎重に探っている気配。
小さな呼吸音が、灯りのある方――リアノンが歩いてきた通路へと遠ざかった。
――今。
リアノンは影から滑り出て、焦らず、でも少しでも速く、部屋の中へと入り込んだ。
すぐに戻ってくるかもしれない。迷ってる暇はない。
机上の鍵を掴んで、檻の鍵穴を探す。
いきなりのことに、ユキマルがまん丸の目が、わずかに揺れた。だが、リアノンと視線が合うと、小さく「キュイ……」と鳴く。
かちゃ。檻は、空いた。
リアノンはユキマルを抱き上げ、胸に引き寄せる。小さな身体が、震えるように動いた。
「しー」
口元に人差し指を当てる。どこかの絵本で見た仕草だった。
伝わったのかはわからない。けれど、胸元でかさりと動くだけで、もう鳴かなかった。
ユキマルを連れて逃げないといけない。
だけど、赤毛の女は、リアノンが通ってきた道へ向かった。
逆側に延びている灯りのない通路は、どこへ繋がるかもわからない。
通ってきた階段へたどり着かなければ、屋敷には戻れない。
そして。
戻る前に階段を塞がれたら、終わる。
どうする? どうやって、赤毛の女と入れ替わるように、通路を突破できる?
二度も音で誘うのは、無理だ。警戒される。
リアノンは部屋からそっと顔を出した。
足音は、まだ角の向こう側。だが、徐々にこちらへ近づいている。
迷う時間はない。
すぐさま廊下へ滑り出て、扉の影に身を潜めた。
ユキマルを安心させるために、優しく撫でる。
赤毛の女とすれ違う機会は、一度しかない。
足音が、すぐそこまで来る。
部屋の灯りで、女の影が長く伸びた。
彼女が部屋へと踏み込んでいき……。
「……えっ、魔物がいない?」
驚きの声と同時に、リアノンは扉の影から滑り出た。
少しでも速く、あの角を曲がらなければ。
「……誰っ!」
素足が駆け抜ける音が反響する。
リアノンは、もう走っている。
「こそこそとっ、ネズミめっ! 待ちなさいっ!」
瞬間、背後で熱が生まれる。揺らめく赤い光。
何かはわからない。でも、避けないと。
リアノンは角の先へ転がるように飛び込んだ。直後、先程までいた空間を、炎の塊が貫いた。
壁に激突し、石を焦がして砕け散った。舞い散る炎の欠片が、宙で淡く消えていく。
足を止めている暇はない。
地下に、もはや隠れる場所はない。
ユキマルを抱きしめたまま、走る。




