第六十話 強き者
「……エルーナ」
彼女の口からこぼれ落ちる名前。
ようやく彼女をこの手に収めた。
彼女の質感を楽しむのに、光の膜すら邪魔にしかならない。
解除してから、改めてこの腕にある柔らかさを確かめる。
ジェルダンは緩む口元をそのままに、エルーナへの抱擁をわずかに強めた。
しかし、焦ってはいけない。
今は身体に触れているだけ。
心を全て自分の色に染め上げるには、まだまだ時間が必要だ。
少しずつ、しかし確実に、侵食していくとしよう。
そのための第一歩。それは、
「さて、時間もないことだ。急いで準備をするとしようか」
「じゅん、び……」
エルーナが固い声音で呟いている。
ジェルダンは少しだけ距離をとる。
彼女の美しい顔から、わずかに生気が失われていた。
エルーナの両肩に手を添えて、言い聞かせるように話した。
「もちろん、僕たちの結婚式のことだよ」
「けっこん……、結婚?」
言葉の意味がようやく落ちてきたらしい彼女は、うつむいていた顔をわずかに上げた。
「結婚式が明日に迫っている。君も忙しくなるから、うかうかしていられないね。ああ、場所はすでに教会を押さえてあるから問題ない。君がするのは、僕の用意したドレスを着こなすことだけさ。それ以外は何も考えなくていい」
エルーナを安心させるために、満面の笑みを添えておく。
「招待客も牧師もいない。君と僕……、二人だけの、忘れられない秘め事にしたいからね。君もその方がいいだろう?」
「私が……結婚……、するというの?」
狐耳はわずかに垂れさせ、エルーナは呆然としていた。
なるほど、なるほど。
気高きありたい君は、怒るわけでもなく涙するわけでもなく、このような反応をするわけだ。
以前に会った時から、わかっていた。
彼女は気高いのではなく、気高くありたいと願っていることを。
感情を押し殺しているこの手の性格は、何かしらの辛い経験があることが多い。
その記憶に触れられた時、壊れるように泣き出す。
焦ってはいけないというのに、そんな一面を早く見せて欲しくなってしまう。
しかし、それは今ではない。
「披露宴は盛大に開こう。たくさんの人を呼んで、皆に幸せを祝ってもらおう。もちろん、マイコール君も呼ぶからね。君の幸せを、誰よりも祝福してくれるに違いない」
「マイコールさん……」
「でも、結婚式から出たかったと騒ぐかもしれないね。まあ、それは無理な話だけれども」
ジェルダンはエルーナの耳元でそっと囁いた。
「王都に向かった彼がどうあがいても、明日に間に合うはずもない」
瞳が揺れる彼女へ、
「彼が戻ってくるのは、結婚式が終えてから、だね」
そっと現実を渡してあげる。
エルーナは、すぐには言葉を返さなかった。
俯いたまま、ただ静かに立ち尽くしている。
「てめえ……、本当に腐ってやがんな。女を無理に自分のものにして、満足なのかよ……」
「ああ、いたのかい。大人しくなっていたから、すっかり存在を忘れていたよ」
絞り出した男の言葉を一蹴する。
「役目を果たした君に、もう用はない。そうだね、殺そうか」
あっさりと言ってのける。
「やめてっ! それだけはっ!」
「やめて? それは僕に命令をしているのかい?」
感情を揺らしたエルーナへ、ジェルダンが首をわずかに傾けて問う。
「彼を殺すのは、やめてください。どうか……、お願い……」
懇願するようなエルーナを、ジェルダンは見つめたまま答えない。張り詰めた空気。彼女の瞳が不安を滲ませている。
「よし、いいよ」
「え……」
本当に? と言いたげにエルーナが呟く。
空気がわずかに弛緩する。
「妻のいう言葉に耳を傾けるのは夫の務めだよ。君がとても良い子であれば、だけどね」
こうして刷り込んでいく。
愛しの君が常に見つめ続けるべきなのは、誰なのかを。
「良かったじゃないか。僕の妻のおかげで、君は生きながらえたわけだ。おめでとう」
「こ、この……」
拍手を送ると、男は今にも飛び掛ってきそうな目で睨みつけてくる。もっとも光の鎖が切れるはずもないが。
「お、俺はっ!」
「ああ、先に言っておくとだね。エルーナが一生懸命に頼んだその思いを、踏みにじるのだけは辞めてくれたまえよ」
「うっ……」
吐き出したい言葉も、他者への思いやりで強引に蓋をされると、何も言えなくなってしまう。
このような煩い男を黙らせるのは、この手に限る。
「せっかく長らえた命。僕が有効な使い方をしてあげようじゃないか。シェリル、彼の傷で深いものだけを治すんだ」
「わかりました」
流血している傷だけを、シェリルが回復魔術で治療していく。
悔しげな顔をする男も、この状況で逆らうほど馬鹿ではないのか、歯噛みするばかりだった。
誰かを思う気持ちほど、互いを縛る鎖になる。
「この男の使い道は決まった。人質としよう。離れたところで閉じ込め、何かあれば罰する。それでいこうか」
「そんな……」
やめて欲しいと訴えかけてくるエルーナ。
子供をあやすように、彼女の背中をさする。
「大丈夫。何もなければ罰することはないから。たとえば、君がうっかり、やましいことをしなければ、ね」
エルーナは何も言えずにうつむいた。
「もちろん、野獣の君も、余計なことは慎んでくれたまえよ? 君の罪を、エルーナに問わねばならないのは、僕も辛いことなんだ」
バルカンは強く噛み締めて、天を仰いだ。
感情がごちゃまぜなのか、吼えることさえも出来ないようだった。
先程までは、どうにかしようと足掻いていた二人。
だけど、今となってはどうだ。
戦う意志を持つことすら出来ない。
求めているのはこれだ。
跪いていく感覚が、たまらなく心地よい。
そんな時、かさり、と不快な音が耳に届いた。
浸っていた快感を妨げる何かは――。
「……なんだ、あの醜いものは?」
一瞬だけ視線を向ける。人ではない。獣でもない。
「ユキマルっ、どうして……。来てはいけないわっ。森へ戻りなさいっ!」
エルーナの叫びに一瞬怯えるが、それでも木の陰から様子をうかがい、かさかさとエルーナに近づいてくる。
ネイチュラ。
魔物の中でも最弱で、存在する価値すら見出せない小物。
唯一気になるのは、あのような白い姿は個体は見たことがない。ただ、それだけ。
「ジェルダン様。あのネイチュラは、エルーナが飼っていたものです」
「ほう……」
「大切にしていましたので、縛るための鎖の一つになるとは思われますが……」
ジェルダンは、ほんのわずかに首を傾けた。
確かに、エルーナの反応は興味深い。
だが――。
「鎖は一本あれば十分だよ、シェリル」
せっかくの快楽を邪魔した魔物など不要。見た目も美しくはない。
視線が、ネイチュラから離れる。
「虫けらは要らない。人質は二人も必要ないからね」
「はい。それでは燃やしておきます」
その言葉に、エルーナの肩がびくりと跳ねた。
「待って……! ユキマルは……!」
エルーナが思わず一歩踏み出そうとするが、ジェルダンは抱擁を強めて阻む。
「ダメだよ、エルーナ」
優しく諭すような声。だからこそ、残酷だった。
シェリルが手を掲げた。その直線上にはネイチュラがいる。
何も邪魔が入らなければ、炎の魔術が飛ぶや、すぐにでも消し炭になっていたことだろう。
「エルーナ」
低く、掠れた声が割って入った。
男は光の鎖に縛られたまま、ゆっくりと顔を上げる。
その視線は、エルーナだけを見ていた。
「……すまねえな」
男はすまなそうにぽつりと言った。
「せっかく、助けてくれたってのによ」
喉の奥で、言葉を噛み砕くように続ける。
「俺、頭よくねえからさ。こういう時、他にやり方が思いつかねえんだわ」
エルーナが、はっと息を呑む。
「バルカンさん……?」
その呼びかけに、彼は一度だけ、申し訳なさそうに目を伏せた。
ジェルダンはそんな彼を冷めた視線で見つめていた。
光の鎖で大木に縛られている。どうせ、なにも出来はしない。
男は短く息を吸い、
「アニキに、よろしくな」
次の瞬間。
男の全身に、異様なまでの力が込められた。
「がああああああああっ!」
大地を踏みしめ、血を吐き出しそうなほどの雄叫び。
眉間の血管が目視できるほどに、ハッキリと浮かんでいる。
「無駄なことをするものだね」
ジェルダンは、男が光の鎖を破壊しようとしてる。
初めはそう思っていた。
光の鎖。その拘束を今さら気合だけでどうこうできるはずもない。
確かに鎖に関して、ジェルダンは間違っていなかった。
そう。鎖に関しては。
ぎし、と。鈍く嫌な音が響いた。
決して鎖が壊れかけている音ではない。
しかし、間違いなく男の近くから生まれている。
ジェルダンは、ほんのわずかに眉をひそめた。
男の背後にあるそれが、わずかに動いた、……気がした。
光の鎖、男の巨体の向こう側。
不動であるはずの大木。
男が縛り付けられているそれから、確かに軋む音が聞こえてくる。
「……そんなはずは」
切るだけなら容易い。
だが、大地に根を張り巡らせた大木を、引き抜くなんて不可能――。
次の瞬間。
大木が揺れた。
根が悲鳴をあげ、土が盛り上がってくる。
信じられないが見上げる先には、地面からわずかに浮かんだ大木。
そしてそれを成しているのは、先程まで心が折れていたはずの男。
「ば、馬鹿なっ……!」
男へ向けるジェルダンの感情が、わずかばかりに揺れる。
しかし、それも一瞬のこと。
大木が抜けた。それだけではないか。
光の鎖に拘束をされたまま。何が出来るわけでもない。
彼の指一つでさえ、届くことはありえない。
満身創痍の男は笑みを浮かべた。
大木が傾く。ジェルダンの方へ。明らかな作為を持って。
重量による加速。大木の質量は人を押しつぶすには十分。
しかし、たかだか木ならば刻むことは容易。
そこで気付く。腕の中にある愛しの君、身にまとう結婚式の衣装。
光の膜での保護と、光剣の同時生成は間に合わない。
だが、どちらも傷一つですら、与えるなど許されなかった。
「ふん……」
ジェルダンは鼻をならす。問題はない。
ならば避けるだけのこと。
エルーナを抱え、わずかな跳躍を持って後退する。
大仰ではいけない。そんな無様な姿は晒せない。
激しい地響き。
大木が意味もない場所へ、叩きつけられる。
草木は揺れ、土埃がわずかに舞い、ジェルダンに届いたのはわずかな風圧のみ。
「やれやれ、本当に無駄なことをするものだね。おっと、エルーナ。大丈夫かい? 怖かっただろう?」
手の内にある秘宝に意識を向け――。
「ジェルダン様っ!」
シェリルの悲鳴が飛ぶ。
背後に生まれた気配。
地面に映る影が、両腕を振りあげた何かの存在を示していた。
エルーナを残し、即座に反転。
野獣と視線が交わされる。
ジェルダンを捕らえて腕力で押しつぶさんと、あとわずかまで迫っている男。
「ふっ!」
高速の三連撃。
両腕の付け根、そして顎へ。拳をたたき込む。
打ち据えた箇所の骨は、間違いなく逝っただろう。
音と感触が生々しく教えてくれた。
男は倒れこそしないが、一歩も踏み出せずにいた。
彼の両腕から力が失われ、瞳の焦点も定まっていない。
そんな彼を前に、無駄な努力だったと鼻で笑ってやる。
大木が割れ、緩んだ鎖の拘束を抜け出たところで、届かなければ意味などない。
未だに身体を支えているのは、わずかに残った意思なのだろうか。
そう思っていると、わずかに巨体が揺れた。
これで終わりだ。
「君ごときが僕を倒せるとでも――」
瞬間、男の瞳に生気が戻る。
「がああああぁぁぁぁ!」
「ぐぅ!?」
声というより、もはや衝撃だった。
理性も、恐怖も、痛みも、すべてを捨て去り、魂を燃やし尽くす獣の咆哮が耳を貫く。
ジェルダンの意識がわずかに乱された。
瞬き一つの刹那。いつもならば問題にもならない、たったそれだけの隙。
男はそこへ、己の全てをねじ込んできた。
破壊された腕は役に立たないはずなのに、それでも前へと足を踏み込んでくる。
何を狙っている?
ジェルダンは彼の動きから読み解こうとして、やはり答えは出なかった。それは無理もないことだった。
もはや彼自身ですら、何をしているか理解していないだろう。
命を燃やす野獣。
その牙が、顔へと迫る。
理解が、一拍遅れた。
なんだそれは。およそ人が放つ技ではない。
「っ!?」
それでもジェルダンの反応は早い。かろうじて身体を反らせた。
顔は、免れた。
だが。
完全ではない。
頭から突っ込んできた野獣の軌道が、胸元へと吸い込まれていく。
鋭い衝撃が、マントの留め金を直撃する。
それを与えたものは――。
野獣の牙だ。
留め金は、そんなことで壊れるはずもない。
君が命を掛けて作ったこの瞬間は、何にもならない。
ジェルダンは口元を愉悦に歪めようとした。
胸元で何かが軋む。ぎしり、と。
わずかな間を経て、ジェルダンの喉が無意識に鳴った。
殴り、蹴り、一度は心に鎖をつけたはずだった。
男がどう足掻いても届かない圧倒的な実力の差。
男の行く先は、地に這うのみだ。
それは決められた未来なのに。
視界の隅で、野獣の瞳が光る。
定まっていなかった焦点が、一点に集中し、ジェルダンを射抜いた。顎の圧力が増していく。
一角獣の角が、たかだか野獣の牙で傷つけられるはずはない。そのはずなのに。
パキンと、乾いた音がこぼれた。
それは絶対に鳴るはずのない……、鳴ってはいけない音。
ジェルダンの思考が、ほんの一瞬、空白になる。
だが、それは現実であると。
留め金を失ったマントが、背中から流れ落ちていく。
「――鬱陶しい」
吐き捨てるような一言。
次の瞬間、衝撃が走った。
バルカンの身体が宙を舞い、鈍い音を立てて木に打ち付けられる。
「……くだらない」
ジェルダンは視線を伏せたまま言った。
「たかが留め金一つだ。壊れたところで、何が変わる? こんなもの直してしまえば、君の必死さなど、なかったも同然だね」
ジェルダンはバルカンへと一歩を踏み出そうとした。
そこで、ふと後ろから手を掴まれる。エルーナだった。
「……もう、そんな人に構わないで。
結婚式、するんでしょう?」
エルーナの手にきゅっと力がこもった。
「……そうだ」
ジェルダンは息を整えた。
「君との結婚式だ。こんなところで時間を使う理由はないね。落ち着かせてくれて、感謝するよ。エルーナ」
わずかに吹いた風は、すでに凪いでいる。
「シェリル、戻るよ。マントの留め金をすぐに直すよう手配だ。それが済み次第、結婚式を行う。教会と調整を行うようにね」
「はい」
マントを丁寧に拾い上げたシェリルが、短く返事をする。
「人質はどのようにいたしますか?」
ジェルダンは男をしばらく眺め、答えた。
「魔物を人質とは美しくないが……、そこの獣よりはマシだね」
「では、この男は……」
「放っておくんだ。この様子では魔物に襲われても、なにも出来ないだろう。死ぬまでの時間は、少しでも長い方がいい。万が一、生き延びても、何もできはしない。せいぜい、遅れて戻ってきたマイコール君への伝達ぐらいだね。……そもそもマイコールが帰ってこれればの話だけれども」
ジェルダンはマイコールが向かった王都の方へ、視線を向けた。
「子供一人を抱えて、閉じられた王都で生き残れるといいね」
エルーナがハッと見上げてくるのを、ジェルダンは笑顔で受け止める。
「僕からの贈り物。十分に楽しんでくれたまえ、マイコール君」




