第五十三話 陰りのある森で
バルカンの顎を直してやってから、あんまり無茶するなよと残し、マイコールは森の浅いところへ足を踏み入れた。
木々や葉の間を抜けて差し込んでくる光。
わずかな風が吹くと影が揺れる。昼間とはいえ、庭に比べると少しだけ暗い。
特別何かあったわけではない。
ただ、様子を見に行こうと思っただけだ。
赤毛の女の香りがする方へ、マイコールは向かう。
当然ながら、すぐに見つける事が出来た。
彼女は木に背を預けて、わずかに挙げた左手の甲を眺めていた。まぶしいというわけでもないだろうし、何をしているのかとマイコールは首を傾げる。
今は人形みたいだなあと、思った。
赤毛の女に何度か感じたことのある違和感だった。
マイコールは気配を殺しているわけではない。
落ち葉の上を踏んだりもしている。
それでも、気づく様子もなく、ぼんやりとし続ける赤毛の女。
改めて彼女の視線を追うと、もしかしたらという物にたどり着いた。
左手の薬指にはめられた、銀色の指輪。
そういえば聞いたことがある。人間は夫婦になる時に口付けをして、お互い指輪をはめるらしい。
唇同士をくっつけることに、どんな意味があるのかはわからない。
虎猫族だと夫婦になって、鼻同士をちょんとくっつけることはあるが、そんな感じなのだろうか?
ちなみに指輪みたいに夫婦で身につけるものは、虎猫族にはない風習だ。
「ぼーっとして、どうしたんだ? ここよりもあっちの方があったけーぞ?」
「そのかわり五月蝿いじゃない。そういうのは嫌いなのよ」
ハッとした様子で左手を下ろして、いつもの口調で返答をしてくる。
「そっか。静かなとこが好きなんだな」
「別に……。あっちより、こっちがマシってだけ。じゃなければ、こんな虫だらけのとこ来るわけないでしょ? そんなの駄猫かガキ、バカな大人ぐらいよ」
一言投げると、その数倍の言葉が押し寄せてくる。頭の回転が早いなあと、マイコールは感心する。
「マイコールだぞ」
「は?」
赤毛の女は眉毛を歪めた。
「いや、オイラの名前。ねえちゃんは駄猫って呼びやすいのかもしれねーけど、オイラはピンとこねえんだ」
「駄猫の名前なんて聞いてないわよ。呼ぶこともないし、勝手に教えないでくれる」
「でもよ、なんかあって助けを呼ぶ時、名前の方が反応しやすいんだ。すっげぇ距離があって、ほんのわずかしか聞こえなくても、マイコールとか、マイコーみたいな音なら、たぶん耳が拾ってくれるぞ」
この話題を出すと色々と思い出すのか、赤毛の女はわずかに怯む。
「なあ、ねえちゃんの名前は? そろそろ教えてくれよ」
ジェルダンが彼女の名前を呼んでいたことは、確かにあった。
直後はそんな名前かと思ったけど、自己紹介をされたわけでもなし、印象が薄れてしまった。
シェ……なんとかだったと思うが、間違えるのも悪い。
だからこそ何度か名前を聞いたのだが、その度に突っぱねられていた。
「何回も言ってるでしょ? バカなの? 教えないし、呼ばないわよ」
赤毛の女は、そう言って視線をそらした。
沈黙を続ける赤毛の女を、マイコールはしばらく眺めていた。
バカだなんだと話してからは、人形らしさは少し抜けている気がした。
長居をしても邪魔になりそうだと、マイコールは来た道を戻ろうとする。
「あんた……、いったいなんなの? どうして、そんなに能天気なのよ」
「のーてんき?」
どういう意味かわからなくて、うにゃ? と考え込む。
「なんにも考えてないバカってことよ」
「ひでえなあ。これでも色々と考えてるんだぞ?」
マイコールは苦笑する。
「考えてたら、もっと怒って言い返すでしょ」
「にゃんで?」
「そんなの決まってるでしょ? バカとか、駄猫とか……、そういうことを私が言ってるからじゃない。というかまさに、それっ! 私の言葉が響いてないじゃないっ! これじゃあスッキリしないっ! 他のヤツみたいに、イラついたりしなさいよっ!」
なんだが色々な感情が濁流みたいになっている赤毛の女。一気に話した後で、息を乱しながら睨みつけてくる。
赤毛の女の言葉は荒くて、刺々しい。
けれど、怒鳴り声の奥に混じっているものが、マイコールには少しだけ引っかかった。
「……うーん」
マイコールは、しばらく考えてから首を傾げた。
「バカにされてもさ、オイラが怒るかどうかは自由だろ?」
「は……?」
「オイラ、虎猫族だからなあ。初めての冒険者とか相手だと、バカにされたりすんだよ。だから、まあ慣れてる」
赤毛の女の眉が、ぴくりと動いた。
「それに、怒るのは疲れるんだよなあ。だから、ねえちゃんと違って、オイラには向かねえかな」
「怒るのが向いているって、あんたね――」
「だって、ねえちゃんは怒ってる時が、生きてるって感じがすんだよな。活き活きしてて、オイラは嫌いじゃねーぞ」
「な……」
赤毛の女は、言葉を探すみたいに口を開いたまま固まった。
すぐに怒鳴り返してくると思っていたマイコールは、少しだけ拍子抜けする。
さっきまでの勢いが、ふっと抜け落ちた。
「……意味、わかんない」
吐き捨てるように言って、視線を逸らす。
その声は、さっきより少しだけ低かった。
「そっか」
マイコールは、それ以上は何も言わなかった。
赤毛の女もそれきり口を開かなくなった。
「先に行ってるぞ」
今度こそ呼び止められることもなく、マイコールは森を抜けていった。




