第四十三話 静かな怒り
「あの酔っぱらのせいで、散々な目にあったぜ」
「食べたものを吹き出した時は、焦ったよなあ」
しょうかんで起きた小さな事件を収束させたマイコールたちは、お礼をしたいという女たちを振り切って、帰路についていた。
横並びだが、少し離れた距離にいるバルカンが愚痴る
。
「アニキはいいじゃねえか。すげえ速さで避けたんだからよ。俺なんか、真正面から浴びちまったんだぞ」
「一応、水で洗い流させてもらえたんだから、よかったじゃねーか」
「そう言いながら、鼻つまんで離れてんのは、なんなんだよ……」
それにしても。
マイコールは自らの身体を嗅いでみた。
甘さで頭をぶん殴られた気分になり、マイコールは顔をしかめた。
エルーナの洗尾剤は、ほのかな甘さの香りで心地よいというのに……。
甘い匂いにも、ここまで差があるものなのか。
いったい、今夜は何のためにあったのだろう。疲労感だけが身体に覆いかぶさってくる。
……少しでも早く帰って、リアノンの元で添い寝をしたい。
とぼとぼ歩き、あの角を曲がれば細い路地、そして孤児院が見える。
そこまでたどり着いたところで、ふいにバルカンが足を止めた。
どうしたのかと、マイコールが振り返ると、
「……悪かったな、アニキ」
「気にすんなって……。思い返すとバルカンが言ってたこと、やっぱり良くわかんなかったけど……。オイラのために、色々考えてくれたってのは、伝わったからさ」
「そう言ってもらえると、救われるぜ……」
「今日はぐっすり寝て、また明日から、楽しくやろうなっ」
「おうよっ!」
マイコールとバルカンは、がっしりと握手をかわした。
まあ、なんやかんやバルカンと仲良くなれたので、これはこれで良かったのかもしれない。
マイコールがそんなことを思っていると――。
「あー! よーやく、見つけたですのっ!」
静かな夜を切り裂く甲高い声に、バルカンの大きな図体がびくりっと跳ねた。
バルカンの背後に見える人影。
両手を腰にあてたマリアが、鋭い瞳に安堵を浮かべていた。
その隣にいるエルーナは、少しだけ困ったように頬に手を当てていた。
「二人とも、外出するなら一声を掛けてくれると助かるわ。……夜遅いのに姿がみえないから、とても心配していたのよ」
「にゃあ……、エルーナ、ごめんなあ」
「でも、何もなかったのかしらね。……良かったわ」
「それなんだけどよー、聞いてくれよな。色々大変だったんだぞ……」
バルカンの横を通り抜け、エルーナへと説明を始めようとして――、
ぐわしっとマイコールの尻尾を、何かが掴んできた。
もちろんバルカンだった。痛くはないのだが、なんだろうと彼の顔を眺める。
なぜだろう。
この世が終わりそうな表情をしていた。
汗まみれのバルカンが、小さく首を横へと振る。
マイコールは、にゃんだあ? と首を傾げた。
「なにが大変……、んぷっ……、バルさん……。なんか甘いのと酸っぱい臭いが混ざってますの……」
「マイコールさん、なにがあったのかしら?」
エルーナはしゃがみ込んで、マイコールの視線へとあわせてくれる。
「それがさあ、しょうかんってところに行って来たんだけど――」
「しょうかん……、娼館?」
エルーナの表情が硬くなる。
「娼館、ですの?」
マリアの目尻が、わずかに上向いた。
「にゃ……、にゃにゃにゃ? ど、どーしたんだ、二人とも……」
マイコールは空気がぴしりと割れる音を聞いた。
いや、正確にはそんな音は存在しないが、間違いなくそれらしいものを耳にした。
マリアは握り拳をぷるぷるとふるわせ、エルーナは優しい表情のまま動かない。
バルカンの顎から滴る汗。その量が尋常ではない。
「マイコールさん」
「にゃ、にゃんでしょうか?」
エルーナが微笑みながら、妙に冷える声で話しかけてくる。
「娼館に、どうして行ったのかしら?」
「ええっと……、バルカンに案内されて……、なんか一流のマッサージ技があるって言われて……、リアノンに使ったら喜んでくれるかな、と」
「なななっ、なんてこと、教えようとしてるんですのっ!」
さすがに近所迷惑になりそうな怒声が反響する。
次の瞬間、マリアの手が伸びて、バルカンの耳をぐわしっと掴んだ。
「いだだだだっ!? ちょ、ちょっと待て、マリアっ!」
「待てませんのっ! 待てるわけがありませんのっ! こんないたいけな猫さんに、なにを吹き込もうとしてましたのっ!」
「誤解だっ! 誤解っ! アニキの考えるマッサージは、マリアが考えてるのと違くてっ! そもそもやましい気持ちなんざ、一つもねえんだよ!」
「娼館に連れて行ってる時点でっ、やましくないはずがっ、ありませんのっ!」
マリアが耳を引っ張る手に、さらなる力をくわえていた。
バルカンの図体が、情けなく前屈みになる。
「いだっ! いだいっでっ! アニキに変なこと吹き込むつもりじゃなくてっ! 大人のあれこれを知らないアニキをっ、守ろうとしてっ!」
「なにを、とんちんかんなことを言ってますのっ!」
目の前に現れた怒りの化身に、マイコールは喉がひりついて言葉を掛けられなかった。
しかし、この時の自分はまだ甘かったことを知る。
「……マリアさん」
冷たい声が、二人の間に落ちた。マリアの動きがぴたりと止まる。
いつものエルーナからは想像も出来ない声だった。
「離してあげて……。バルカンさん……。少し、お話があるわ……」
彼女は口元に、笑み貼り付けていた。
だが、スッと細くなった視線は凍てついている。
そんな彼女をみていると思い出す。
北を旅していた時に襲いかかってきた猛吹雪。
この毛皮すら意味をなさず、身体の芯まで凍えたあの感覚を。
「なんとなくだけれど……、あなたがやりたかったことは理解したわ……。知識を、渡してあげたかったのよね?」
エルーナがゆらりと立ち上がるのを、マイコールは見上げた。
「生物は命を繋いでいく……。そういう行為を……、否定するつもりはないわ」
その立ち姿はよどみがなく、相変わらず美しい。
「純粋なマイコールさんは……、確かに、色々と知らないことがある。それは私も感じるところよ」
「そ、そうだよなっ! そこをつけ込まれたら、マズイと思って俺は――」
「だけれど、それを知ることが、本当に今でいいのか、真剣に考えてみたのかしら?」
わずかに勢いを取り戻したバルカンが、再びしぼんでいく。
「知識は毒にも薬にもなるの。あなたが渡そうとしたものは、勢いで押しつけていいものではない……。誰かを異性として愛したときに、自分のタイミングで学んでいくのが良い」
冷たく鋭い氷柱が、バルカンに振り注いでいく。マイコールには、そう見えてしまった。
「……少なくとも、私の知っているマイコールさんには、その方が向いている。私は、そう思うのよ」
エルーナは、ふう、と小さく息を吐いた。
それは呆れではなく、自らを落ち着かせるための一息のようだった。
「……ごめんなさい。少し、言い過ぎてしまったわね」
エルーナの声音が、少しだけいつものように戻りつつある。
冷たい空気が、静かに去っていく。
「でも……、考えて欲しかったの。それだけよ」
そんな一連のやりとりを、間近で見ていたマリアが、ぽつりと呟いた。
「エルーナ、お姉さま……」
マリアの瞳は、先ほどまでの怒りとは違う輝きを宿していた。
その言葉の意味はマイコールにはよくわからない。
だけど、バルカンがマイコールをアニキと呼ぶことに、とても近い匂いがした。
◇
「ほら、さっさと来るですのっ!」
「わ、分かったから、強く引っ張るなって!」
ずるずると引きずられていくバルカンの姿が、角を曲がって見えなくなった。
あまりの賑やかさに夜もさぞ迷惑だったろうが、ようやく静けさが戻った。
「……ふう」
エルーナの肩から力が抜けるのを、マイコールは感じた。
しかし、先程までの空気感を思い出すと、気安く話しかけていいものか、少しだけ躊躇われる。
「エルーナ……、その……」
うつむいたマイコールは、肉球同士をぷにぷに合わせながら、上目遣いにエルーナの様子をうかがった。
「怒らせちゃって……、ごめんな……。だけど、オイラ……、なにがそんなにエルーナが嫌だったのか……、よく分からなくてよ……」
謝罪の言葉そのものに、意味があるわけではない。
同じことで傷つけないように、気をつけたいとは思うのだけれど、話が難しすぎてついていけなかったのだ。
エルーナは、少しだけ困ったように笑った。
「マイコールさんが悪いわけじゃないの。バルカンさんだって、あなたのためを思ってやったことだった。同じようなことは、きっと起きないから、気にしないでも大丈夫よ」
「それならいいんだけどよう」
エルーナの雰囲気が穏やかになる。
マイコールは、ほっと胸をなでおろした。
「それにしても……」
エルーナが胸元に手を当て、ぽつりと言った。
「誰かのために、こんな風に言葉で怒れたのね。自分でも少し意外だったわ」
「怒ったこと、今までなかったのか?」
マイコールは首を傾げた。
「そうね……。昔、とても許せない相手を前にした時も、こんなに感情をあらわにしなかったわ」
「そーなのか」
二人は並んで歩き始める。孤児院の入口。控えめな明かりが灯されていた。
ふと立ち止まったエルーナは、夜空の星を見上げていた。
「マイコールさん。森から連れ出してくれて、ありがとう」
エルーナがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「たった一日だけでも、本当に色々なことがあったわ。素敵なことも……、ちょっと変なことも……。そのどれもが、心に残っているわ」
そんなエルーナの言葉に、にゃふっと喜びをこぼすマイコール。
「なんか、オイラだけで聞くのがもったいねえなあ。リアも、ここにいれば喜んでたろうなあ」
マイコールとエルーナは顔を見合わせ、二人揃って笑みをこぼした。
孤児院の廊下。
静かに歩いても床がかすかに軋む。そうして借りていた部屋へとたどり着いた。
「それじゃあ、また明日ね」
「そーだな。また明日だな」
エルーナと別れて、部屋に入ろうとドアノブを回そうとした。
そこでふと思い出す。リアノンは子供たちと寝ているのだと。
迎えに行こうかと考えた、次の瞬間。
勝手に扉が開いて、白銀の髪がぴょこんと揺れた。
「リア? いつの間にこっちの部屋に戻ってたんだ?」
寝ぼけまなこを、ごしごしと擦るリアノンへと声をかける。
しかし、ぼんやりした様子で返答がない。マイコールが彼女からの言葉を待っていると、
リアノンが鼻を小さく動かした。
すん……すんすん……。
なにかの違和感を覚えたらしい彼女が、鼻をすんすんさせながら、徐々にマイコールへと近づいて来る。
次の瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「……マイコー」
「にゃ、にゃんだ?」
リアノンがじっとりと見つめてくる。
「……くさい」
「にゃにゃにゃ!?」
「甘いのが、いくつもある……。そんなマイコーは……、ヤダ」
リアノンは、きっぱりと言った。
迷いも、容赦もなかった。
そして、なぜかエルーナに抱きついている。
「ルナ……。ほのかに甘い……、ほっとする匂い……」
「リアちゃん? 私の部屋は隣なのだけれど……」
「一緒に寝て欲しい。お願い」
「私は構わないけれど……、マイコールさんは?」
「ダメ」
エルーナだけを引き入れ、扉がすっと閉まる。
廊下に取り残されたマイコールは、呆然と立ち尽くす。
「マイコー、臭いをちゃんと落として……。おやすみ……」
扉の向こうから届いた言葉は、それが最後だった。
マイコールは自分の身体の匂いを、もう一度嗅いでみた。
たった一枚の扉が、どうしようもなく分厚く思えた。
その夜、マイコールは一人寂しく身体を洗うことになった。




