第三十話 変革の兆し
季節を幾度となく越えて、久しく訪れた王座の間は、ひどく静かだ。
どこかで崩れた石が、からりと床を転がった。
復讐を誓ったあの日から、衝動で動いたことは一度もない。
民の話に耳を傾け、少しだけの後押しをする。
そんなことを積み重ねてきた。
玉座の間。かつてここは国の中心であった。
だが、その威光は見る影もない。
座るべき者を失ったまま、横倒しになったままの玉座。
権威も、意味も、すでにそこに残ってはいない。
破壊された扉。
壁に掛けられた魔獣の毛皮は破られ、壁から引きずり下ろされていた。
そして壁の一角は不自然に開けられている。有事の際に逃亡に使われる隠し通路。その入口だ。
今となっては、荒れ果てた空間で、二人の女性が対峙している。
一人はこの国の王妃、一人は全身を覆うローブに仮面を被った誰か。
「……あなた、エルーナでしょう。やはり生きていたのね」
王座が置かれていた場所に立つ女性――王妃ピュナが静寂を破る。
かつてと変わらない美しい装い。本当に十年前と何ひとつ変わってはいない。
巫女としての自分を捨てるための仮面、そしてフードを外し――エルーナは、玉座の間の中央で足を止めた。
天の巫女としての外套は羽織らず、妃としての立場も拒絶し、ただ一人の獣人として立っていた。
「あなたが、外にいる暴徒たちを、そそのかしたの?」
壊れた扉の向こうから、響いてくる人々の声。
ライオネル獣王国にいるほとんどの人々が立ち上がっていた。
たくさんの男が、女が、子供が、老人が、一丸となって進んでいる声。
それは怨みや負の感情からくるものではなく、自分たちが生きる未来を勝ち取ろうとする魂の輝きそのものだった。
「暴徒? それは誰のことでしょうか?」
「とぼけるのはよしなさい。乗り込んできた民たち……、今も王を撃たんと蛮勇を振るっている者たちのことよ」
声こそ荒げないが、かすかな苛立ちの混じった声。
「今までも城の中で不可解なことが、たくさんあって、徐々に何かがおかしくなっていったわ。精霊の力を使って、気でも狂わせたのかしら? 民たちのことも、同じでしょう。あなたが、何かしたのよっ!」
ピュナの叫びが、王座の間に虚しく響く。
「あなたが暴徒と呼んだ皆様……。ご自身の目で、耳で……。彼らのことを、少しでも見ようとされましたか?」
エルーナの静かな声が、ただ問いかける。
エルーナはここにくるまでに、その様子を目の当たりにしてきた。
怒号ではなく、略奪の狂気でもない。
お互いを助け合いながら、前に進む人たち。
武器を持っている相手に、皆で協力しながら挑む姿。
勢いの中で誰かが転べば、側にいる人たちが手を差し伸べ、「大丈夫か」と支え合う思いやりの形。
「何を言っているのよ」
「国のせいで……、子を失った夫婦がいます……。国のために尽くし続け……、それでも老いて……、居場所を追われた人たちがいます」
一人ずつのことを思い出し、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「そして……、国が仕掛けた戦争で兄妹を失い、それでも生き続ける子供たちがいます」
静かに、でも力強く、エルーナは言った。
エルーナの視線が、ピュナをまっすぐに捉え続ける。
「確かに、国を恨んでいた者たちもいたでしょう……。しかし、彼らが今、立ち上がった理由は……」
エルーナは、倒れた玉座へと一瞬だけ視線を向けた。
「大切だった人たちの犠牲を、無駄にしないため……。生きたいと思える明日を作っていきたいから……」
ピュナが奥歯を強く噛み締めた。
「……それをあなたが導いたというの?」
「いいえ」
きっぱりと否定する。
人や精霊を魅了するこの力。
ある時は心を落ち着かせるために、ある時は各々の思いに向き合ってもらうため、わずかばかりの後押しに使っただけ。
「国によって歪められてきた事実を、明らかにしてきただけです……。民たちは誰かに命じられたわけではない。自分たちの意思で選び、歩いています」
沈黙が落ちる。エルーナとピュナの視線が交錯する。
国が崩壊しようとしているピュナは、追い込まれているはずだった。
しかし、言葉の端々に怒りは込められていても、焦りはまだないようだった。
ピュナがゆっくりと右手を上げた。
誰かに向けられた、声にならない合図。ピュナの口角がわずかに釣り上がる。
この場における勝者を確信した仕草。
それは影として人生を捧げた者へ、敵となるものへ刃を差し込めという命令であった。
だが……、何も起こらなかった。重たい沈黙だけが残った。
ピュナがもう一度、わずかに強めて同じ仕草を繰り返すも、誰も姿を現さない。
「何をしているのっ! この女狐を殺しなさいっ!」
ピュナの声には明らかな焦りがある。
「フェイさんも、その部下の人たちも……、ここには、誰もきません」
「フェイ? 誰のことかしら?」
「王族の影として生きていた人たち。そのまとめ役だった人の、本当の名前です」
ピュナが、はっとしてエルーナを見つめた。
「フェイさんだけじゃない。王国軍の大将軍であるグラコスさんも、軍師であるレイアノさんも……。話をしてみれば、心の奥底では今のままではいけない。そう思っている人たちは、あなたが思う以上に多かった」
強大な魅了の力の前に、隠し事など出来るはずもない。
「どうして、こんなことをっ! わ、私があなたにしたことへの、恨みかしらっ!?」
「恨み?」
「どうせわかってるんでしょ? 十年前に私がしたこともっ! だから、私を殺しにきたんでしょうっ!」
「殺す? 私が、あなたを?」
エルーナが静かに問い返す。
「あなたの罪を決めるのは、私ではありません。――皆様、お時間をありがとうございました。もう入ってきてよろしいですよ」
エルーナの声掛けに、玉座の間に繋がる扉から数人の民、フェイやグラコスが入ってきた。
「私の我が儘で、皆様にはピュナ様とお話する時間を頂いておりました。……あなたの行く末を決めるのは、民の皆様です」
「なんですって……」
民たちはピュナを取り囲んで拘束をしていく。その場に跪かされたピュナは「触るな、下賤の者たちがっ」と罵声を浴びせていた。
「ピュナ様」
エルーナの冷たい声に、ピュナは身体を震わせる。
「最後にお話に付き合っていただき、ありがとうございました。もう二度と、お会いすることもないでしょう。それでは」
エルーナはその一言だけを残し、ピュナへと背を向ける。
「な、なんなの……。あなたは、いったいなんなのっ!?」
吐き捨てる言葉は強さがある。
だが、虚勢の裏には、明らかな恐怖が混じっていた。
ピュナの言葉に立ち止まり、エルーナはふと遠くをみながら、昔のことを思い出す。
ミナが眠そうに目をこすりながら「おはよう」と言ってきたこと。朝ごはんを一緒に食べるために待っていて、お腹が空きすぎてしまったことがあった。
カイが身体のことを考えて、作ってくれた食事の数々。エルーナたちの好みを把握して、振舞われた食事は心温まるものばかりだった。
三人で楽しく過ごした日々。ミナとカイの笑い声が、今でも耳に残っている。
「……私はね」
一言一言、噛み締めるように。
「カイとミナと……、
ただ穏やかに、生きたかっただけです」
それ以上でも、それ以下でもない。
特別でもなんでもない、明日が欲しかった。
そして国に住む人たちの多くも、同じようなことを望んでいた。
それだけのことだった。
玉座の間を出たとき、背後から騒いでいる女性の声が届いたが、エルーナが振り返ることはなかった。
*´꒳`ฅ読んでくれてありがとな。
何かを変えるって大変なのに
エルーナは頑張ったんだなあ。
良かったらまた明日も読みに来てくれよな。




