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第二十七話 ぬくもり

 村は頂上の祠まで一本道ということもあり、霊樹の周囲に敵の影はなかった。

 裏道の存在を知らなければ、入口だけ押さえれば袋小路になると考えるのが当然だ。


 ミナに手を引かれ、夜の森での逃亡は続く。


 霊樹から離れるにつれて、森は深くなっていく。

 月明かりすら届かない森は暗く、下手をすると同じ道に戻っていた、なんてこともあり得る。

 最初こそそんな心配していたが、やがてミナの背中を信じて進むことにした。


 ミナはためらう素振りがない。目的地に向かって進んでいるという自信にあふれていた。


 夜ということもあり、走ることはできない。それでも顔に触れそうな枝を避け、根を跨ぐ判断を次々こなしていく彼女のおかげで、見えない道がそこにあるような安心感に包まれる。

 おかげで早足ぐらいの速さで移動が出来ていた。


「ふう……」

「ルナ、そろそろつかれちゃった?」


 自然と漏れ出るため息に、ミナが立ち止まってくれた。


「大丈夫よ。少しでも遠くにいかないと……。だから歩きましょう」

「むりしすぎるのは、だめだよ。だいじなときに、うごけなくなっちゃう」


 何かを探すように周囲を見回しながら、ミナは耳を動かす。


「みずが、あればいいんだけど……」

「ミナ……、ごめんなさいね」


 自分の不甲斐なさに、耳が垂れる。

 水の精霊にお願いしたら、どうだろうか。

 そう思ったが、精霊たちも気まぐれなところがある。

 今は近くに気配も感じられない。


「わきみずのおとがするっ! こっちだよっ」


 連れられるままに移動すると、たしかに微かな水音が聞こえてきた。


「ちょっとやすもっ。ほら、みずをのんで」


 エルーナは促されるまま、水を口に含んだ。

 冷たくて美味しい。


 村での騒ぎから、ずっと気を張り詰めていたらしい。気付かなかったが、想像以上に身体が水を求めていたようだ。


「やすめるときには、やすむのがたいせつなんだよ」

「ミナは色々な事を知っているのね」


 エルーナの言葉に、ミナは少しだけ誇らしげに笑った。


「おにいちゃんが、おしえてくれたんだよ」


 村に残してたカイのことを思い出し、色々と嫌なことを考えそうになる。

 けれど、今は立ち止まっている暇はなかった。


 もしも追っ手が来るとして、夜のうちは追跡が困難だ。

 足跡や誰かが通過した痕跡は、闇が隠してくれる。

 敵との距離を稼ぐならば今しかないのだ。


 だけど、夜は永遠ではない。


 ミナとエルーナはお互いを気遣いながら、城の方向を目指して進み続けた。

 やがて空が白み始めた。

 木々の輪郭がはっきりして、地面の起伏も見分けやすくなる。

 足取りは自然と速くなり、時折、やや駆け足を交えられるようになった。


 だが、動きやすくなるのは、追う側も同じことだった。

 折れたばかりの枝、踏み荒らされた草、湿った土に残る微かな痕跡。夜の間は隠してくれていた闇は、もういない。


 陽が高く昇る頃、ミナの耳がぴくりと揺れ、急に足を止めた。

 しきりに動かされる耳は、何かの音を拾っているようだった。


「……ルナ」


 繋がれたミナの手に、力がこもるのがわかった。


「はしるよ」


 振り返らずに、小さな声で告げてくる。


 ミナは大地を思い切り蹴った。引かれるままにエルーナも全力で走る。


 横から、背後から、複数の何かが追ってくる気配がした。

 もはや音を隠そうともせず距離を詰めてくる。

 速い。

 それでもエルーナは走った。走るしかなかった。


 だが、次の瞬間。

 ミナとエルーナはその場に立ち止まった。


 相手の姿はまだ見えないが、異様に空気が重かった。恐怖が背筋を張っていく。

 エルーナは理解する。追いつかれてしまったのだと。


 木々の間から、ひとつの影が姿を現し、ゆっくりと進路に立ち塞がる。

 剣を持った大男。種族はわからないが獣人とひと目でわかる風貌。


 漂う血の匂いが、何人も切り捨ててきたのだと語っていた。


 獣人が鷹揚に一歩を踏み出した――その瞬間、ミナがエルーナの手を離す。


「ミナっ!」


 エルーナの制止を振り切って、ミナは両手を広げて立ち塞がる。


 小さな身体を震わせているのに、決して退くことはない。

 どうしてか彼女の背中は大きく見える。


「ミナっ、やめてっ!」


 エルーナは叫び、ミナへと駆け寄ろうとした。


 その刹那。


 獣人の剣が、無慈悲に振るわれた。


 音が何も聞こえなくなる。全てが異様に遅く感じられる世界。

 しかし、エルーナの伸ばされた手は、何も掴むことはできなかった。


 あまりにも、あっけなく。

 ミナの身体が、糸を切られたみたいに崩れ落ちた。


「……っ!」


 エルーナはミナに駆け寄り、名を呼ぶよりも早く身体が動いていた。


「お願いっ! 助けてっ!」


 返事はない。


 けれど風が一度だけ逆巻き、大地に水たまりが浮かんだ。土が意味もなく盛り上がる。精霊たちの気配が膨れ上がり、力は来ているのだけれども。


 風は癒してはくれない。

 水は流れ出るものを止められない。

 土は壊れた身体を戻せない。


 仰向けに倒れたミナから血が……、生命が流れ出ていってしまう。精霊は自然の力を貸してはくれても、失われていく命を引き戻すことはできない。


「あああっ、ミナっ! ミナっ! なんで、こんなっ! 私なんかを庇おうとしてっ!」


 ダメだ、ダメだ、ダメだっ!

 ミナを失いたくないっ。誰か助けてっ!


 エルーナは腹部から流れ出る血を、両手で抑えようと必死だった。


「……ルナ」


 ミナの声に、エルーナはハッとした。彼女の声は、驚くほどに穏やかだった。


「だいじょうぶ……」


 泣きそうなエルーナの顔を見て、ミナはそう言った。


「ね……」


 小さな手が、エルーナの服をぎゅっと掴む。

 ミナの瞳が、ほんの少しだけ遠くを見た。


「おにいちゃんと……、はなしてたの」


 きえいりそうな声なのに、なぜかはっきりと聞き取ることができる。


「わたしたちを……まもってくれた、ルナ……」


 息が、浅くなっていく。


「もしも……、もしも、ルナに……、なにかあったら……こんどは……わたしたちが、まもるんだ、って……」


 エルーナの指に力が込められる。一度だけ、ミナが握り返してくれた。

 けれど――。

 彼女の力は、ゆっくりと、確かに抜けていった。


「ミナ……?」


 握り締めたままの小さな手はまだ温かい。

 きっと返事をしてくれると、彼女を見つめたけれど、すでに瞳から光は抜け落ちていて。

 喉の奥がひどく渇いて、エルーナは声を形にできない。


 背後で小枝が折れた。近づいてくる足音に、逃げようとも振り返ろうともせず、エルーナはミナの身体に覆いかぶさるように抱きついた。


 陽光の光を遮るほどの大きな影がエルーナの上に落ちてきた。

 無言のまま立つ獣人。しかし、言葉がなくても何をされるのかはわかる。


 ――連れて行かれてしまう。


 来るな。来ないで。ミナと離れるわけにはいかない。なにかきっとミナを救う方法があるはず。だから、邪魔をしないで。


 獣人の手が伸びて、その指先がエルーナの肩に触れようとした刹那のこと。

 獣人が森の奥へ、ゆっくりと顔を向けた。


 木々がざわめき、低い振動が押し寄せてくる。

 規則正しく地面を叩く音は、次第に圧を強めていき、次いで風を切る音が空気を裂いた。

 一本の矢が木の幹に刺さる。


「天の巫女様を守れっ! 敵を蹴散らせっ!」


 馬に乗った兵隊があらゆる方向から姿を見せる。

 獣王国の紋章を刻んだ装備が目に付いた。


 あと一歩のところで目的を果たせたはずの獣人も、こうなれば自身の命を優先するしかない。舌打ちを残して、森の影へと下がっていく。


「深追いはするなっ! エルーナの安全が最優先だっ!」


 聞き覚えのある声。


 身体の芯に響く命令が、追跡に向かおうとした兵たちの足を止めた。


 エルーナの周囲を固めている兵隊の輪。その一部が自然と崩れ、主のための道を開けていく。


 毛並みの豊かなたてがみに、金糸を散らした外套が特徴的な獣王――ライオネル三世がゆっくりと歩み寄ってきた。


「無事なようだな、エルーナよ」


 エルーナの胸の奥がぎゅっとする。何が無事なのか?

 何を指して無事だというのか?


「しかし、それは……」


 ライオネル三世の視線がエルーナの腕の中へと落とされた。


 抱えられた小さな身体。ぴくりとも動かないミナの姿。

 エルーナは思わず腕に力を込めた。


 なにか思うところがあったのか、ライオネル三世は片手を静かに上げた。


「……衛生兵」


 ライオネル三世の一声で、兵が駆け寄ってくる。


 衛生兵が状況を診てくれる間も、エルーナは決してミナからは離れない。祈るような気持ちで相手の言葉を待つ。

 やがて衛生兵はライオネル三世へと向き直り、沈黙を持って答えた。


「残念だ」


 ライオネル三世がエルーナの肩に触れ、ただそれだけを言う。


「悲しいことだと思う。しかし、お前は守られた。それが何よりであろう」


 なにも守れてなんかいない。

 腕の中のぬくもりは、もう二度と戻らない。


「……エルーナよ。城へと戻るぞ。またお前を狙ってこないとも言えぬ。ここも危険には違いないのだ」


 ライオネル三世の声が、どうにも遠くに聞こえる。エルーナは、ミナを抱き直した。


「離せ。その者の遺体は、兵に運ばせよう」


 その命令に、エルーナの唇がわずかに動く。


「……」


 ぎゅっと力を込める。

 無言の拒絶に、わずかな沈黙が落ち、ライオネル三世が短く息を吐いた。


「ならば、そのままでも良い。斥候を出し、周囲への警戒を怠るな。歩みは遅くなるが、これよりエルーナを護衛しながら城を目指すぞ」


 ミナを抱いたままのエルーナは腕を引かれ、守られながら連れて行かれる。


 ミナの元気な声は、二度と森に響かない。


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