第二十六話 崩壊する日常
巡礼での忙しさが嘘のような穏やかな日々が続いていた。
空は高く澄み、霊樹を撫でていく風は心地よい。
「おひさまぽかぽか、きもちがいいよっ! 三人だけで、おそとにあそびにいこーよ!」
秘密の外出をする切っ掛けは、ミナの期待に満ちた声だった。
両手を胸の前で組み、尻尾をパタパタと揺らしている。
「……外ですか」
カイが口元に手を当てながら、考える素振りを見せた。ちらっと、エルーナの顔色をうかがってくる。
「軽食ならすぐに作れますので、たまには外で昼食をとるのも、いいかもしれませんね」
「やったー! ルナとおそとで、ごはんだー!」
ぱっと顔を輝かせたミナを前にして、エルーナは少しばかり迷っていた。
天の巫女として、護衛を連れずに村を離れることは本来許されない。
ライオネル獣王国のためにも、万が一があっては困るからだ。
少なくとも今までに、そんなことをしたことはなかった。
「エルーナ様」
カイの優しい声に、エルーナはハッとする。
「たまには、息抜きもいいのではないですか?」
その一言でカイが誰を思って提案をしてくれたのか、気づくことができた。
天の巫女に接するのではなく、カイもミナも、エルーナとして扱ってくれる。
そんな気遣いが、重荷をわずかに軽くしてくれた。
「せっかくのお誘いだし、少しだけ行きましょうか」
ミナが喜びのあまりエルーナの周りをぐるぐると走り回り、カイが体を張って受け止めるまでそれは続くのであった。
しかし、とエルーナは思う。
そもそも村の外へと続く坂道は、基本的に一つしかない。入口には門番がいるはず。
村から抜け出すのに、どのようにして皆の目を欺くというのか?
その答えはエルーナの想像の及ばないところにあった。
霊樹を削って作られた祠。入口のちょうど真後ろまで回り込む。
カイが霊樹の端から下を覗き込み、何かを確認している。
エルーナの眼には特別なものは映らなくて、あるのは霊樹から伸びる大小様々な枝ばかりだ。
確かに祠の裏は、門番から見えない霊樹の影だけれども。
「この程度の風なら問題なさそうですね。……ミナ、いつも通りできるな?」
「もっちろん、まかせて!」
言うが早いがミナは躊躇なく宙へと踏み出した。
その一歩で、足の裏がふっと宙に浮いた。
——落ちる
と思った次の瞬間には、ミナは次の枝の上で笑っていた。
「よっ、ほっ、はっ!」
階段を下りていく気楽さで、次々と枝を飛び移っていく。
賢狼族の身体機能は高いと聞いていたが、とても現実のものとは思えない動きだった。
「……ここを降りるの? ミナがしているみたいに?」
見下ろした先。
枝同士の高低差がそれなりにあって、ひとつ間違えれば落ちてしまいそうだ。
「ミナは慣れているので……」
「慣れているって……」
嘘でしょう? と聞き返したくなる。
「もちろん、エルーナ様に、あそこまでのことはさせられません」
苦笑したカイは、割と近い枝に降りてから手を差し出してくれた。
「足はこのあたりが良いです。左手は幹に添え、右手を伸ばしてください。ゆっくりで大丈夫です。……そう、上手ですよ」
エルーナは躊躇いながらも、カイを信じてひとつずつ降りていった。
カイに急かす様子はない。繋がれた手から伝わるのは、しっかりとした力で支えられている感覚だ。
ミナも途中からは近くで、励ましてくれていた。
永遠に続くのではないかと思う道のり。
それでも二人のおかげで、段々楽しくなって、気づけば一番下までたどり着いていた。
地面にたどり着いてからは、待ってましたとばかりにミナが、森をずんずん進んでいく。カイに手を引かれて後を追う。
二人の足取りに、迷いはない。
「ついたー!」
ミナが声を弾ませる。村からそれなりに歩いた場所。
森を抜けると、高台から見下ろせる草原が風にそよそよとなびいていた。
三人で腰を下ろして、簡素な包みを広げる。
パンに肉と野菜を挟み込んだもの、それと果実。
特別なことなど何もない、ただ三人が寄り添うだけの時間だ。
それなのに、どうしてこんなにも心が温かくなるのだろう。
民に感謝された時も。
天狐族の皆に崇められる時も。
王に褒められた時も。
感じられなかったことだった。
「ルナ。えほんもってきたんだ。よんで〜」
どこから取り出したのか、ミナが絵本を両手で抱きしめていた。小さな身体をエルーナの膝へ、すとんと下ろしてくる。
「おい、ミナ……。エルーナ様に休んで頂くために来たのに……」
「こんな気持ちの良いところで絵本を読む。素敵だと思うわ」
エルーナが穏やかに言うと、カイは小さくため息をついた。
「エルーナ様が、そうおっしゃるなら……」
エルーナの読み聞かせが、風に乗って草原へと流れていく。
ミナは瞳を輝かせて絵本を見つめ、隣に腰を下ろしているカイは耳をぴくぴくとさせていた。
一冊読み終えたところで、エルーナの膝を枕にして、ミナが日向ぼっこを始めた。
カイはそんな妹を視界の端に捉えて苦笑しながら、お茶を入れてくれた。
「なーに、おにいちゃん。じろじろみて……」
「お前なあ。誰よりもごろごろして、どうするんだ……」
「そんなこといってー、じつは、うらやましいんでしょ?」
「……そんなことはない」
そんな二人のやりとりを微笑ましく眺めながら、エルーナはふと気づく。
出会った頃は、支えてあげなければと義務感ばかりだったけれども。
一緒にいる時間が長くなって、二人は少しずつ大きくなって。
――この子たちはいつの間にか、私を支えてくれるようになっていた。
責務でも、使命でもなく、お互いを大事に思い、共に生きていくそんな関係。
胸の奥に言葉にならない想いが満ちていく。
この時間が、この場所が、この穏やかさが。
きっと、続いていく。
そう思ってしまった。
◇
夜は静かだった。
樹齢千年を超えた霊樹は、周囲の木々よりも遥かに高い。
その頂上に近い位置にある巫女の家。
森に住まう虫たちの鳴き声は遥か遠く、夜風で揺れる葉の音が聞こえてくる。
村全体が深い眠りについていた。
床に敷いた簡素な寝具に、エルーナは身体を預けていた。
エルーナにしがみついて放さないミナ。
昼間のピクニックではしゃぎすぎたのか、家に戻ると早々に眠りについてしまった。
そして、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てるカイ。
綺麗な仰向けで、いびきをかくこともなく、規則正しく胸を上下させている。
三人で寄り添いながら一夜を過ごすのは久しぶりだ。
いつもはミナと二人きりで夜を過ごすことが多い。
カイを誘っても照れた様子で、断られてしまうのだった。
けれど今日は珍しく、カイが「わかりました」と頷いてくれた。枕を持ったカイを寝室に招き入れて、川の字になって眠る。
……もしかすると、昼間のやり取りが切っ掛けだったのかもしれない。
明日も一緒に眠れたらいいのに。
そう思った。
――遠くで、何かが割れる音がした。
虫たちの鳴き声も風の音も、いつのまにか止んでいて、耳が痛いほどに静かだった。
「っ……!」
寝具から跳ねるように飛び起きたのはカイだ。わずかに遅れて、遠くから聞こえてはならない音が届けられる。
――悲鳴だ。
天狐族よりも優れた聴覚を持つ賢狼族。
聞き間違えではないと確信したのは、カイの両耳がしきりに動き、表情に緊張が走ったからだ。
エルーナの耳に届いたのは、遠くで上がった最初の叫び声だけだ。それも夢の中の音かと錯覚するほどの微かなもの。
だが、カイにはそれ以上に何かが届いているようだった。
「……ミナ、起きろ」
低く切迫した声。
カイに肩を揺さぶられ、ミナは眠気まなこをこすりながら身体を起こす。
「エルーナ様、外に出る準備をお願いします」
「何が……、聞こえたのかしら」
「敵が、来ています」
敵という言葉が、重く胸におちる。
村が襲われている?
誰が? どんな目的で?
答えの導き出せない疑問が、次々と浮かんでは消えていく。
「まだ時間はありそうです。慌てずに、建物の外へ移動しましょう」
カイはそう言うと、まだぼんやりとしたミナを背負い、エルーナの手を取った。
迷いのない動きで外へと導いてくれる。
その途中でカイが立ち止まる。
視線の先にあるのは、天の巫女の外套。
瞳を閉じる。呼吸にして三つほど。
カイは、そこにあり続けた。
そして外套へと手を伸ばす。
「これ、は……」
扉を開いた瞬間だった。
エルーナの鼻腔を突いたのは、森にあってはならないもの。何かが燃える臭い。
「……火?」
森が不自然に明るい。霊樹の下方を覗き見る。そこに並ぶ家々に、赤く揺らめくものがあった。
建物の中にいた時には聞こえなかった音が、一気に押し寄せてくる。
悲鳴。何かが割れる音。怒号。
「天の巫女を捕らえろ!」
はっきりとした男の叫び声に、ミナの身体がびくりと跳ねた。
その瞬間、エルーナは悟った。カイは、これら全てが聞こえていたのだ。
「なに? なにがおきてるの?」
カイの背中にいるミナは声を震わせていた。
「ルナ、つかまっちゃうの? ミナたち、どうなっちゃうの? ねえ、おにいちゃんっ!」
エルーナですら未だに整理がつかないのだから、ミナが混乱するのも無理はない。
瞳いっぱいに不安を浮かべるミナが、しがみついている手に力を込める。
深呼吸をしてから、カイがミナの耳元に顔を寄せた。
「……ミナ。誓いを、思い出すんだ。昔、僕と一緒に考えたことだ」
そう言った。
不思議なことに、その一言でミナはハッとして、呼吸が整い始める。
小さく息を吸い、強く頷いた。
カイの背中から降りると、ミナは地面にしっかりと足をつけた。幼い顔立ちながら、眼差しには迷いのない光が浮かんでいた。
「エルーナ様。敵が何者かはわかりません。しかし、狙いは明らかです」
「私を探している……、ということね」
エルーナの胸がきゅっと締め付けられた。
炎に照らされる村。響き続ける叫び声。
この争いを終わらせる方法はないのだろうか。そうして一つの考えが浮かぶ。
「私が、出ていけば……」
投降すれば、この争いも終わるのではないだろうか。
しかし、カイは首を横に振る。
「それは、ダメです」
「どうして?」
「敵がどのような乱暴を働くか分かりません。それに……」
わずかな間があった。この言葉を伝えていいのかと、迷っているようだった。
カイはエルーナから手を離し、少し距離をとった。
背中越しにカイは冷たく告げる。
「天の巫女様を失えば、この国は荒れるでしょう。僕みたいに家族を失う人たちが増えてしまいます」
エルーナは言葉を返せなかった。
カイは天の巫女として、国全体のことを考えろ。
使命を忘れるなと言っているに等しい。
否定できる言葉など、あるはずもなかった。
「だから……、どうか逃げてください。お城の方へ逃げれば、きっと大丈夫です」
カイはミナの肩に手を置いた。
「ミナ。……できるな?」
短い問いかけに、ミナは力強くうなずいた。
そんなやりとりを見て、エルーナはようやく気づく。
「……カイは? 一緒に来てくれるんでしょう?」
エルーナは願った。もちろんだと言って欲しかった。
だけれども、答えはもうわかっていた。
「僕は、行けません」
カイは静かに言う。
「そんなっ!」
エルーナが一歩を踏み出す。しかし、ミナがエルーナの手を力強く掴んだ。
ミナは何も言わず、そこに立ち続けた。
「敵の人数がわかりません。ですが、これだけの村を襲うのなら、それなりの数がいるはずです。エルーナ様がお城に向かうために、少しでも敵を引きつけて時間を稼がなければなりません」
カイは手に持っていた天の巫女の外套を羽織る。
「この外套は天の巫女様のものとして、多くに周知されています。これがあれば……、きっと時間は稼げます」
「そんな危険なことっ、させられないわっ!」
だけれども、カイの意思は揺るがなかった。
「エルーナ様、もう時間がありません。……行ってください」
「でも……、カイ……」
「……大丈夫です」
カイが小さく、けれど確かな笑みを浮かべる。
「僕は必ず、生きて会いに行きますから」




