第二十三話 ユキマル
複数の本棚に所狭しと並べられている書籍たち。
エルーナだけでは一日で読める数にも限りがあった。
かつてのこの部屋は、たった一人のページをめくる音だけが世界の全てだった。
けれど、最近では読み手が増えた。手に取ってもらえる本も増えている。絵本だけではなく、伝記物や料理関係など……。
今日もまた、誰かのために読み聞かせをする声が、部屋をふんわり彩っている。
「こうして、お姫様は幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
窓から差し込む光に照らされたマイコールが、本を優しく閉じる。読み終えた本を、また一段積み上げていく。
その高さはマイコールの身長に届きそうなぐらい。ネイチュラにせがまれて、ひたすら読んでいたが、さすがに喉がカラカラだ。
エルーナが、くすりと小さく笑った。
聞き入っていた白いネイチュラは、本棚に足をかけて器用に登っていく。面白そうな絵の表紙を、また探しに行ったのだろう。
エルーナがすっと立ち上がった。
「喉が渇いたでしょう? 紅茶のおかわりを入れてくるわね」
「気が利くなあ。ありがとな」
エルーナは軽い会釈をするとカップを手に持ち、やわらかな足取りで部屋を出ていった。
「きゅいきゅい?」
入れ替わりで、新たな絵本を抱えたネイチュラが戻ってくる。次の一冊をもう選んだことに驚き、マイコールは苦笑した。
「よっぽど楽しいんだなあ」
投げかけた言葉に反応せず、ネイチュラは扉をジッと眺め続ける。
マイコールか、おやっ? とネイチュラを眺めた。
先程までは、すぐに本を差し出してきた。それとは少し様子が違う。
「エルーナなら、紅茶を入れに行ったから、戻ってくるまで少し時間がいるぞ」
最初はエルーナが戻ってくるのを待っているのかと考えたのだが……。
「それとも……、リアを待ってるのか?」
今度はネイチュラが振り返って反応をした。
偶然だろうか?
そう考えるのは容易なことだ。でも、このネイチュラはなんとなく、名前の聞き分けをし始めてるのでは?
そう思える仕草が、増えてる気がする。
「リアはなあ……、ちょっとやることがあってなあ……」
たくさん読み聞かせをしていたリアノン。彼女の姿がここにない。しばらくの間、読み聞かせをしていないので、気になっているのかもしれない。
顔を合わせることはある。ふらっとやってきては、しばらくネイチュラを観察。そうして出ていくため、読書部屋に滞在することが短くなっていた。
色々と準備があって、そちらに手間取っている。
「きゅい……」
ネイチュラのまん丸な瞳から、少しだけ光が薄れたような気がした。
読み聞かせだけでいえば、マイコールもリアノンと同じくらい時間を取ってきた。
だけど、ネイチュラはリアノンの声の方に惹かれている。そんな気がする。
グレイウルフの時もそうだし、今までも似たようなことはあったが、リアノンは魔物と仲良くなりやすいようだ。
トントンと扉を叩く音が響いた。エルーナが紅茶が入れて戻ってきたのかと思ったのだが。
「できたよ」
部屋に入ってきたのは、リアノンだった。
両手で大事そうに一枚の紙を抱えている。
小走りで近寄ってきて、マイコールの側に座る。ネイチュラへと紙を差し出した。
「これを見て」
白くてまん丸の身体から伸びる六本の足。
ハッキリとした黒い瞳と、眼を縁取る夕焼け色が特徴的だ。
斜め前から描かれたその絵には、ネイチュラが色々な絵本に囲まれている様子があった。
木の実を潰して水と混ぜ、生み出された鮮やかな色彩。ところどころ塗り跡がにじんでおり、手放しで上手とは言えないかもしれない。
けれども、一生懸命に描こうとする想いが真っ直ぐに表現されていた。
ネイチュラが両触肢で紙を受け取り、つぶらな瞳で興味深そうに眺めている。
まるで、その絵の中の自分を確かめるように。
そんな様子を、リアノンのとろんとした瞳が見つめている。優しい雰囲気が漂っていた。やがて絵に手を伸ばして、
「ユキマル」
大切な宝箱から取り出して、そっと渡すように四文字の言葉を紡いだ。
「まるっとした身体。雪のような白さ。あなたの名前は、ユキマル」
一度だけリアノンを見つめると、また絵に描かれた自分へ視線を戻す――ユキマル。
理解できたのか、わからない。でも、マイコールにはユキマルが、名前を受け入れたように見えた。
かつてリアノンが、そうであったように。
絵と名前。二つの素敵なプレゼントはどちらもリアノンの発案だった。
ネイチュラが好きなものって何? どんなことに興味を示した? ずっと見続けていたゆえに、思いついたことだった。
マイコールの胸に、ふと遠い日の光景がよみがえった。
リアノンと出会ったばかりの頃。
感情の起伏がほとんどなくて、話しかけても言葉の理解すら曖昧だった。
ご飯は手づかみで食べるし、転んで膝を擦りむいても無関心だった。
放っておけば、死ぬまでその場にたたずんでしまうかもしれない。どこか壊れた人形のような少女だった。
そんな彼女の小さな手を、マイコールはいつだって握り続けた。
けれど、夜になると違った。
眠るたびにうなされ、何かを拒むように暴れる。
どんな酷い悪夢を見ているのだろうか。
声をかけても決して目覚めることのない彼女を前にして、どうすればいいのか頭を悩ませた。
力で押さえつけることは出来ても、もがき続ける彼女に、まったく意味を成さないことなどすぐにわかる。
何もしてあげられない自分が、ひどく惨めに感じて、泣きたい気持ちになったこともある。だけど、涙を流して何になるというのか。
ふとよぎったのは、かーちゃんのこと。
自分が小さかった頃、怖い夢を見たときには、必ず抱きしめてくれたことを思い出した。
手を伸ばしてリアノンを抱きしめた。モフモフの毛で包み込むようにした瞬間。
リアノンは憑き物が落ちたかのように静まった。
その夜が、リアが初めて安心して眠れた夜だったのかもしれない。
それからの日々は少しずつ良い方向へと進んでいった。
彼女に色々なものに触れてもらうため、あちこちの旅を続けた。
少しずつ感情らしいものが見え始め、笑ったり、口を尖らせたりするようになった。意思疎通のための言葉を覚え、スプーンを使って食事を楽しむようになり……。
マイコールも胸が熱くなったものだ。
そして今となっては、かつてマイコールがリアノンという名前を考えたように。
リアノンが想いを込めて名前を贈っている。
その様子を、しばらく黙って見つめていた。
「でっかくなったなあ……、リア……」
リアノンとネイチュラを眺めながら、マイコールはそっと呟いた。
◇
夕食を終えたテーブルには、ほのかに湯気がたちのぼる紅茶がある。
火の精霊の協力で、舌がやけどしない適温が保たれていた。
その隣にあるのはリアノンがつくった、花の蜜を練り込んだビスケット。
「むぅ……、ちょっと難しかった」
テーブルに頬をくっつけ、ちょっと不満げなリアノン。
エルーナと一生懸命に取り組んだのだが、形が少し崩れてしまったらしい。
端の方が少しだけ焦げているのもある。
リアノンはふにゃりと姿勢を崩していた。
しかし、マイコールが口を開けると、リアノンがビスケットを口元へ運んでくれて――ぱくり。
「もぐもぐもぐ……、ちゃんと美味しいぞ。もぐもぐ」
「だけど、本当はもっと美味しくなるはず」
「にゃはは、そういう気持ちがあれば、次はもっと期待できるなあ」
「明日もルナと作る」
リアノンが小さな手で握りこぶしをつくり、ふんすっと気合を入れていた。
「あら、マイコールさん。……ビスケットのかけらが口元についてるわよ」
「んにゃ? ほんとかあ? どこだ?」
慌てて口の周りを手で探る。毛の間に入り込んでいるのか、手探りをしてもよくわからない。
「とれないなあ。どこについてるんだ?」
手こずっていると、エルーナの手がすっと伸びてきた。
細く白い指先が、頬ヒゲの根元あたりにそっと触れる。
「ほら、ここにあったでしょう?」
エルーナの指に摘まれているビスケットの欠片。
マイコールは彼女の指先を見つめて――ぱくり。
「え?」
エルーナが小さく声を上げた。
「取ってくれて、ありがとな」
マイコールは無邪気な笑顔でそう言った。
「リアが作ったんだ。ひと欠片もムダにできないからな」
「嬉しい。……でも、行儀が悪い。ルナがビックリしてる」
エルーナへと視線を向けると、確かに彼女は固まっていた。余程、驚いたのだろう。
「わ、わるいっ! ちゃんと食べていいか、聞くべきだったっ!」
「……ふふっ、まさか指まで食べられちゃうなんて。初めてよ?」
「うにゃあ……。なにか拭くものを……」
「気にしないで。大丈夫よ」
エルーナはそう言って、紅茶カップへ口をつけた。
失敗したなあと、マイコールは耳の裏をかいた。
直前まで、リアノンがビスケットを口に運んでくれてたから、つい……。
エルーナの表情をちらっと眺めてみる。
穏やかな雰囲気で紅茶を楽しんでいる。視線が触れ合うと、わずかばかり目元が緩んだように見えた。
悪いことをしたはずなのに、そんな気配もなかった。
ぽりぽりとビスケットを、今度は自分で頬張る。
そのとき、マイコールの耳が、かすかな音を拾った。
カサ……という音。姿の見えないバルカンのたてる物音ではない。反射的に振り返ると、そこには――
「……ユキマル?」
廊下へ続く通路。その陰に白い毛並みと足がちらりと見えていた。
マイコールの言葉にビクリとして、さっと隠れてしまう。……が、今度は黒い瞳の片方でこちらの様子を覗き込んできた。
みんなの視線がそちらへと向く。
ユキマルが読書部屋から出てきた。
思わず歓声をあげたいところを、グッと押さえ込む。
慌ててはいけない。せっかくここまで来たのだから、あともう少しだ。
椅子を引いて、立ち上がる気配。
リアノンだった。
ゆっくりと、一本ずつ近づいていく。だが、あと二歩というところで立ち止まった。しゃがみ込み、そっと手を差し出した。
そして、待つ。
「おいで、ユキマル」
抱きしめには、行かなかった。
ユキマルの黒い瞳が、わずかに揺れていた。リアノンの手を見つめている。
頑張れ……。
マイコールは心で呟く。
バルカンも、エルーナも、一言も話さない。きっと同じ気持ちを胸に抱いている。そんな雰囲気がある。
ユキマルの前足が、震えている。
一歩……、控えめに踏み出した。そして、また一歩。
どうしてだろう。
糸はないはずなのに、絡まっているものを一本ずつ解きほどいてるようだった。
そして、リアノンの手にユキマルが触れた。
小さな震えが、ようやく止まった。
「頑張ったね」
リアノンがユキマルを優しく抱きしめた。
ずずっと、鼻をすする音。バルカンだった。
マイコールはリアノンを見つめ、それからエルーナと視線を交わした。
「また少し、家が賑やかになるなあ」
「嬉しいことだわ」
エルーナが温かく微笑み、マイコールの尻尾はゆらりと揺れた。
夜の静けさが深まる中、ほんわかとした温もりが居間を満たしていった。




