第四十一撃
ボスのついた深いため息が狭い第三会議室中に染みわたっていくようだった。
目をつむってうなじに手をやり、戸惑いを隠せない様子である。
ボスは常々からため息をつくような人物ではないことは入社してからの一か月でわかっていた。ネガティブな要素とは縁の遠い精力的な人物であることはベスにも感じ取れていた。
そのような人物にそうさせてしまったことについてベスはわずかに恐怖を覚えた。めったに取らない行動をさせるということはそれなりの事由があったわけで、それについて自分がまず間違いなく原因であるというのは恐るべきことである。
この会議室にて二人で話をしたいと言い出したのはベスのほうからだった。
大事な話があるから、そう言って声をかけた。
「いったいどうしてたった一か月で仕事を辞めたい、なんて話になったんだ?」
冷静さを装った様子のボスは、こちらにしっかりと目を向けてくる。腕を組んでいるが、その肩がわずかに持ち上がっているのが気になった。
「君はつらそうにしている様子もなかったし、むしろ仕事を覚えるのを楽しんでいるようすも見受けられた。
新人にしては課題の量が多い、ということもなかったはずだ。君もそう感じていたかどうかはまた別の話ではあるが……」
「向いていないとか向いているとか、そういう話じゃないんです」
自分が想像していたよりもずっとつらい気持ちになってしまいながらも、ベスはボスから目を逸らしそうになりつつも耐えた。言うべきことを言わないと、どうしてここまで持ち込んだのかということになる。
「やりたいことがあるんです」
「その、やりたいこと、っていうのは、うちの仕事じゃなかったのか?
面接ではかなり熱心にうちの会社の仕事に熱意があることを伝えていたというが……」
確かにその気持ちはうそではなかった。
ただ、それ以上にやりたいことがあったというだけの話である。
それを真正面から伝えたとしたらやはり怒鳴られるだろうかという恐怖がベスの口を重くした。
両者の間に流れる空気の音が聞こえかねないくらいに沈黙が降りた。
「まあいい」
何かを諦めるようなボスの口調だった。諦めたのは説得なのか、それとも別のなにかなのか。前者であるのが確かなようだったが、それでも後者の可能性を捨てきれない気がベスにはし、くちびるが震えてしまう。
ボスはやはりこちらをしっかりと見つめて、
「辞めたいというのであればそれをとめないのがうちの社風だからね。
確かに一か月以内に辞めていく人も今までにいないではなかったが、やる気があるのに辞めていくなんてのは初めてだよ」
言いつつ口元に手をやって押さえるような仕草を見せたのは、言い過ぎや嫌味になっていないかを恐れてのことだろうか。
「あ、あ……、ありがとうございました……っ!」
頭を下げた。
頭を上げ際にボスがうなずいた。
「みんなに挨拶をしていきなさい」
会議室を出るときにそう言われ、オフィスの自席に戻るなり深呼吸を三度してからまず隣の席の自分に仕事を教える担当だった人に声をかけた。
「君に仕事を教えた一か月間、互いに無駄な時間だったね」
嫌味を言うような人物でないと思っていた人がそう言う。その意味を考え、用意していた「今まで教えてくれたことはきっと役立ててみせます」という言葉が吹き飛んだ。
たしかにその嫌味はもっともな話ではある。いくらやりたいことがあるとはいえ、このようなことをしてよかったのかと自らに禁じていた後悔をしてしまいたくなる。
「あ、あの」
「挨拶まわりでしょ。
次に行きなさい」
「は、はい……」
「君一人を雇うのに色々な用意をし、かなりの金額がかかっている。
そのことをよく考えるんだね」
言われ、返事ができなかった。
今更ながらに自分の目標のためにいろいろな人に迷惑をかけてしまっていたことを悟ってしまった。
涙が出てきた。
だからといって考え直すつもりはなかった。
むしろここまでした以上、引くことは選択肢から消えた。
それでも涙がおさまらない。
「もう帰りなさい」
挨拶まわりでやさしい性格の人の番になったときにそう言われた。
しかし今回はやさしさからそう言ってくれたのか、それとも疎んじてそう言ったのかは判断がつかない。
荷物をまとめて会社を出た。カバン一つに収まるほどのそれがたかだか一か月分の重みである。
カバンを手に、ローズ・コロニーの〈ZGA〉における最大手のジムであるコリンスンジムを目指す。
これから先のことは両親に内緒で、独りで成し遂げなければならないことだった。




