第五章 火の中の子ども
六時半、玄関が開いた。
「ただいま」
母の声。買い物袋が床に触れる音。父が靴を脱ぐ音。
あなたは廊下に立っていた。刃は袖の内側にある。口の形を作った。ここ何回かで、いちばんうまくできたと思う。
「おかえり」
迎えに出たあなたを見て、母の足が止まった。父の手も止まる。二人の顔が、初めて予定のない形になった。
その胸に、手を入れた。
母の口が動いた。音は出なかった。父の腕が上がりかけて、途中で落ちた。
布の上に色が出る。赤。それが床へ届く前に、二人の輪郭が崩れはじめた。黒い影になり、縁のほうから灰に変わっていく。灰は、風もないのに横へ流れて、廊下の隅で見えなくなった。
残ったのは買い物袋と、片方だけ脱いだ父の靴。
消えぎわに、二人が笑ったように見えた。何がおかしかったのか、訊く相手はもういない。
ドアを開ける。
踊り場にも階段にも、人が立っていた。真っ直ぐ歩いて、手を前に出す。触れたところから色が抜け、黒くなり、灰になって落ちていく。顔は見ないようにした。何人いたかは数えていない。
階段を下りきる頃には、視界がまた曇りはじめた。近くは見える。少し離れると、輪郭と色の塊に戻る。
広場に出た。折りたたみ椅子の列がこちらを向いている。その間を抜けた。
背後で音がした。
振り返らなくても分かる。壁が粉になって落ちる音だ。歩くほどに、後ろの棟から順に形を失っていく。給水塔が傾いで、そのまま煙になった。
東北の花園に着いたとき、団地はもうなかった。土煙が空を塞いでいる。
立ち止まらなかった。
*
砂利道を渡る。橋を渡る。誰も追ってこない。
教会の扉の前に立った。
靴の中で砂が一粒、足の裏に貼りついている。体重を移すたびに位置が変わる。
刃を見た。これで開けられるのは道までだ。中にあるものは、刺して消せる形をしていない。
入口の脇、石段の上に置く。刃先を壁のほうへ向けた。
扉をくぐった。
二歩で、視界が消えた。曇っていたものが、そのまま黒に落ちる。ずっと慣れていた色だ。見えているときより、こちらのほうが息がしやすい。
足の裏が板を踏む感触だけが続いた。
前方に、光の点が生まれた。
点が広がり、破裂する。世界が白くなった。白の上に黒い線が残り、それが形になっていく。色というものが、どこにもない。白と、黒と、その間の灰だけだ。
*
広間だった。左右に八列ずつ長椅子が並び、正面に講壇がある。その後ろの壁に十字架。
長椅子は埋まっていた。黒い服の牧師が、講壇の上で聖書を読み上げている。声だけが白と黒の空気を渡っていく。誰も咳をしない。
この眺めに覚えがある。どこで覚えたのかは出てこない。見た、という言い方すら正しくない。
背中で、低い衣擦れの音がした。
振り返る。入口の敷居を越えて、ツタが入ってきていた。蔓の先が床を探り、長椅子の脚に巻きつき、壁を上がっていく。
「逃げて」
あなたは叫んだ。
「早く。外に出て」
誰も振り向かない。前列の男の肩を掴もうとして、手が通り抜けた。掌が肩の向こう側に出て、そこに何も触れない。あなたはこの部屋の空気でしかなかった。
葉が震える。縁から、白い光が立った。
そこからは早い。
光が天井まで行き、長椅子が倒れる。牧師が聖書を落とした。出口へ人が流れ、詰まり、押し合う。
一組の夫婦と、その子どもが、人の波に割られた。
「お父さん」
煙の下から、声が上がった。
「お母さん、どこ。返事してよ」
返事はない。大人の背中と背中の間に、小さな手が見えた。すぐに見えなくなる。
咳。何度も。息を吸う音が、吸えていない音に変わる。
「お母さん」
声はだんだん細くなり、最後は言葉の形をしていなかった。
白い光が、その声のあった場所を塞いだ。
頬が冷たい。手で触れると濡れていた。
泣いている。
あの子は誰だ。どうして、聞いたことのある声なんだ。
*
白が一度閉じて、また開く。
校庭だった。砂の色まで白と黒に潰れている。子どもたちが輪になり、真ん中に小さな子が立っていた。手には白い杖。
男の子が前に出て、杖を取り上げた。
杖を失った子は、その場にしゃがんだ。地面に手をついて、円を描くように探す。足が出て、その手の先を蹴った。杖は遠くへ転がっていく。
「返して。お願いだから、返して」
笑い声が高くなり、やがて輪がほどけた。
小さな子は砂の上に座っていた。日が傾いても、そのままだ。校舎の窓が一つずつ暗くなっても、誰も来ない。
拳を握っていることに、あなたは気づいた。爪が手のひらに食い込んでいる。
あの子を知っている。名前まで知っている。
*
場面が変わった。
今度は迷わない。壁紙の継ぎ目の位置も、天井の隅の染みも知っている。自分の部屋だ。ずっと小さかったころの。
母が筒を抱えて入ってくる。中から出てきたのは、ポスターだった。壁に貼り、母はその前に座る。
「直人。いま貼ったところ、教えるね。選手が片手でボールを持ち上げてる。右手。左の腕はこっちに伸びてて、体が斜めになってる」
ベッドの上の子どもは、顔を向けない。
「後ろが客席。たくさん人が座ってて、前のほうの人は立ち上がりかけてる」
子どもがベッドから下りた。壁まで歩き、紙の端を探り当てて、引く。
音がした。二度、三度。床に切れ端が落ちる。母は止めなかった。座ったまま、破れていく音を聞いていた。
別の夜。父が絵本を持って、ベッドの横に座る。
「読むぞ。この前の続きから」
同じ行を二度読み、声色を変えようとして失敗する。それでも毎晩来た。
ある晩、子どもの手が本を払った。本は壁に当たって、床に落ちる。
父は拾い、埃を払って、机に置いた。
「わかった。もう読まない。本は置いておくぞ」
ドアが閉まり、廊下の足音が遠ざかる。
朝。母が早いうちに出かけて、花を一本持って帰る。子どもが起きる前に挿して、部屋を出た。匂いに気づいた子どもが、窓を開ける。
言葉も出てきた。あの家で自分が言ったことを、あなたはもう一度聞かされる。
「連れていったのは、そっちだろ。手を離したのも」
「目、返してよ」
父と母は黙っていた。二人とも何か言いかけて、言わずに終わる。
その子は大きくなった。外へ出なくなり、やがて父とも母とも喋らなくなる。隅にうずくまって、時間が過ぎるのを待つ。外から見れば、ただ座っているだけだ。
頭の中では、別の家が組み上がっていた。
毎晩六時半に帰ってくる父がいる。皿の位置を直しながら、話は食べながら聞くと言う母がいる。階段で勤めの時間を教えてくれる下の階の人がいて、広場のベンチには、同じ噺を何度でも一緒に聞く老人がいた。その家でも目は見えない。それでも、そこは明るかった。
外の明るさのほうが危ない。そこには嘲る声があって、砂の上で誰も来なかった時間がある。
だからその子は自分に新しい身分をこしらえて、前のぶんを閉じた。
見えるようになることを、いつからか恐れるようになっていた。
*
白が閉じて、開く。
病室だった。ベッドの上に、病衣の母が座っている。膝に毛布。腕に細い管。髪が短くなっていた。
あなたは椅子に腰かけている。手に、飲みかけの紙コップ。大人の手だ。
「母さん。父さんは」
「長いほうの便で、高速を下りたところだったって。相手の方のことも、会社の人が全部説明してくれた」
母はそこで一度切って、膝の毛布を直した。
「お父さんの保険金は、治療のあとに暮らす分も残してあるから。直人の負担の分と、それから、しばらくの生活の分」
「そんな話、今しなくていい」
「今しておくの。あとで探すのは大変だから」
母は引き出しから封筒を出して、ベッド脇の台に置いた。置く場所まで決めてある。
「そこ。座ったまま手が届くところに置いとくからね」
封筒の角を、母の指が二度直した。
その手から、乾いたにおいがした。替えたばかりのカーネーションに残っていたのと、同じにおい。
*
白が閉じた。
次に開いたとき、いくつかの季節が抜けていた。
葬儀は終わっている。壁のカレンダーは、めくられないまま二枚ぶんずれていた。
机の向こうで、医師が紙を一枚こちらへ向ける。提供の確認が取れたこと。日程が決まったこと。母の名前が、書類の上のほうにあった。
「三浦さん。手術の開始は、午後五時四十五分の予定です」
あなたはその数字を、二度声に出して確かめた。
手術室は明るかった。台の上で、天井の丸い照明を見上げる。肩に手が触れて、数を数えるように言われた。
三まで数えた覚えがある。
白が、黒になった。
黒の底で、あなたはまた立っていた。教会の広間だ。長椅子はもうない。火もない。講壇の向こうの壁も溶けている。
足の裏が、板を踏んでいる。




