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五時四十五分の黄昏  作者: 空の異変


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第四章 橋の向こう

 その回は、部屋から出なかった。

 「なあ」

 部屋の真ん中で、声に出して呼んだ。

 「そっちの言う通りにして、それでも十一回だ。言うことは、まだそれだけか」

 ――見えると、あいつらに言うな。

 答えではなく、同じ一文が返ってきただけだった。問いの形を変えても、返るものは変わらない。

 頭の中の地図をなぞり直す。玄関と階段。ベランダと真下の住戸。外周の塀と、錠の下りた鉄門。十二の棟と、南の花園。どれも一度は行って、どれも閉じている。

 残っている空白は一つだけだ。七号棟の北。

 机の絵本は、もう半分より先が白い。ポスターの客席に残る人影は二つになっていた。

 なぜそこを避けてきたのか、理由を取りに行こうとした。失明した日。その前の日。その年。指がかかりそうになるたび、こめかみの奥が痛んで、手を引かされる。思い出せないのではなく、思い出す手前で体が止まる。

 額を押さえた指が、そのまま下りて瞼の上に触れた。

 布があった。

 目の粗いガーゼと、その上から巻かれたものの張り。瞼を押す圧まである。指を離し、机の小さな鏡を覗いた。何も巻かれていない。眉も瞼も、素の皮膚だ。

 もう一度触る。今度は、布のほうがなかった。

 「……なんだ、これ」

 病院、という言葉が浮かびかけて、どこにも繋がらずに消えた。


    *


 翌日の午前九時。杖を持って、東北の花園へ向かった。

 棟を出たときに後ろについたのは十人ほどだった。花園の入口に着く頃には、数えるのをやめている。足音は、あなたの足が下りるのと同じ拍で鳴った。何十という足音が重なって、一つの音になる。最初は遠かった。

 砂利道に入る。端から端まで、二分で渡りきれる距離だ。それなのに、腕時計の針はすでに十五分を刻んでいた。

 一歩ごとに、膝から下が重くなる。前に出した足が、あなたの意思より半拍遅れて着く。息の吸い方が浅くなり、吸っても足りない。

 植込みの下に、素焼きの植木鉢が一つ、伏せて置いてあった。縁が欠けて、土が乾いて白い。またいで、先へ行く。

 足音が近づいていた。背中から十歩ほど。次に測ったときには、五歩。

 顔を上げる。

 凪見教会(なぎみきょうかい)が、砂利道の先に立っていた。ツタが外壁を覆っている。暗い赤の葉が幾重にも重なって、窓は葉の隙間から細く覗くだけだ。扉は開いたままになっている。中は暗い。入口の手前で光が止まって、その先へ進んでいない。

 「あそこはね、昔は集会所だったんだよ」

 いつだったか、ベンチで安田さんがそう言った。住戸が埋まったあと、主屋のほうを小さな教会に貸したのだと。横手の別の入口から先は、いまも管理の事務所に残っているとも。

 橋の下から、水の音がした。前の回に花園の入口で足を止めたとき聞いたものより、はっきりしている。


    *


 あなたの心臓の音が、足音を追い越した。

 振り返らない。

 走った。

 砂利が跳ねる。後ろの拍も走り出す。教会までの距離が縮む。石の橋まで、あと十歩。

 跳ぶように橋板へ上がった。

 足音が、止まった。

 振り返る。人の群れが砂利道の端に立っていた。前列の何人かは、片足を上げかけた形のまま動かない。橋の手前に線が引かれていて、その線を越えられずにいる。父も母も、その列の中にいた。

 「そこまでか」

 声に出してみた。誰も答えない。前列の男の口は半分開いているのに、そこから音は出てこなかった。

 賭けに勝った。

 息を整えて、肩から力を抜く。ここには入ってこられない。ならば、教会そのものが答えの側にある。

 向き直って、扉のほうへ足を出した。

 水の音が、近くなる。

 橋の縁から手が出た。濡れた指が足首を掴み、体が横へ倒れる。

 膝ほどの深さの水に、背中から押さえつけられた。気管に水が入り、もがくほど早く力が抜けていく。

 水面の揺れる光の向こうに、顔がひとつ重なった。


    *


 五時四十五分。

 床に転がったまま、しばらく動けなかった。肺の中に水が残っている。咳をしても出てくるのは空気だけだ。六時の鈴が鳴っても、まだ膝が立たない。

 立たないまま、あなたは分かったことを並べた。

 橋の上に安全はない。群れが止まったのは、彼らがそこまでしか来ないというだけのことで、その先が守られている意味ではなかった。走って抜ける方法は、これで終わりだ。道という道が、十一回で潰れた。

 残っているのは、扉の開いた暗がりだけになる。行きたくない場所が、行く先として残った。

 それから、もう一つ。

 川村さんは勤めに出ない。父と母は鍵を外から掛けて、玄関の内側に立っていた。塀を越えても、こちら側に戻された。別々に見れば別々の異常が、並べると一つのことを指している。

 確かめる方法は、一つしか思いつかなかった。間違っていた場合に何が起きるかは、確かめる前には分からない。

 壁に手をついて立ち上がる。膝が笑っていた。廊下に出て、台所へ入る。

 引き出しの二段目、奥のほう。果物ナイフの柄に指が触れた。刃渡りは指二本ぶん。家にあるだけの、ただの刃物だ。

 柄が手のひらに収まった。正しい持ち方を知らないので、包丁を握るときと同じにする。

 テーブルには、母が朝に出したままの布巾があった。畳み直して、その上に刃を置き、また取り上げる。何をしているのかと自分に訊いても、答えは出てこない。

 「行ってきます」

 誰もいない台所で、そう言った。言ってから、まだどこにも出かけていないことに気づく。

 時計を見た。

 六時十五分。二人が帰ってくるまで、あと十五分ある。

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