第三章 減っていく文字
ドアが開いたのは、抽斗を閉めた直後だった。
母がカーネーションを一本持って入ってくる。枕元の花瓶に手を伸ばし、萎れたほうを抜き、新しいほうを挿した。水は替えない。茎の長さを二度見比べて、向きを直す。
あなたは机の上の、何もない一点を見ている。顔は動かさない。
視界の端に、母の顔がある。手だけが花瓶を扱っていて、顔のほうはこちらを向いたまま動かない。
「花、替えるね。花瓶は動かさないでおくから」
「うん」
母が部屋を出るとき、その手が肩の横を通った。においがした。花でも、台所でもない。薬の、乾いたにおい。母の手からそれが来たことは、これまで一度もなかった。
朝食の席では、父の前にも椀が置かれていた。汁が張られ、湯気も立っている。父は箸を持ち、椀の縁に指を触れ、そのまま茶碗のほうへ手を移した。椀の中身は減らない。
七時半。二人が出かける支度をする。
「行ってくる」
「気をつけて」
食卓に座ったまま、そう言った。背中で鍵の閉まる音がする。
茶碗を流しに運ぼうとして、振り向いた。
二人は玄関の内側に立っていた。靴を履いたまま、こちらを向いている。ドアは閉まっている。鍵も、たしかに外から掛かった音がした。
*
九時。白杖を持って部屋を出た。
二人は止めなかった。道を空けさえする。それから、後ろについてきた。足音はない。
階段を下りる。五階の踊り場、四階の踊り場。どの階にも、扉の前に立つ人がいた。廊下の蛍光灯は半分が切れていて、立っている者の顔は影の中にある。目だけがこちらを追う。杖の先でコンクリートを叩きながら、一段ずつ下りた。
下りるほど、あなたの体の芯が冷えていく。
外は晴れていた。
凪見団地の球技広場には、バスケットのゴールが二つ立っている。輪はとうに歪み、ネットもない。ここで球を突く者はいなくて、代わりに縁のベンチと折りたたみ椅子が、朝から埋まる。
「直人くん。今日はこっちに座るかい。少し詰めるよ」
安田さんが膝の上のラジオをずらした。杖を畳んで、隣に腰を下ろす。
スピーカーからは砂を擦る音が流れていた。その奥で、落語がところどころ途切れる。
「今のところ、よく聞こえなくてね。少し戻せる?」
「いいよ」
ボタンの位置は指が知っている。巻き戻して、同じくだりをもう一度流した。二人とも、同じところで少し笑う。
「この噺、後のほうは私も覚えてないよ。聞けば思い出すんだけどね」
「じゃあ、最後まで流そう」
ベンチの脚元に、殻斗のついた青いドングリが一つ転がっている。靴の先で寄せて、また離した。
木陰には父と母が立っている。同じ棟の住人も並んでいた。折りたたみ椅子の老人たちは喋りながら、ときどきこちらへ顔を向ける。九月の下旬で、日なたにはまだ夏の熱が残っていた。それでも背中のシャツは湿っている。
見られている時間が長くなるほど、あなたが笑う形を保つのは難しくなる。背もたれに体を預け、顎を上げて、雲を見た。
雲だけは、誰の目も気にせずに形を変えていく。
その下で、考えをまとめた。見えていると知られなければ、いまのところ命は続く。だとすれば、次に確かめるのは団地の外へ出る道だ。塀か、門か。
雲の切れ目から、最初の光が落ちてきた。まっすぐ顔に当たる。
手が上がった。目の上に庇を作って、光を遮る。
広場の声が、そこで止んだ。
顔が一斉にこちらを向く。折りたたみ椅子の老人も、木陰の人影も、向きを変えた。膝の上で、ラジオの砂の音だけが鳴っている。
「安田さん、そろそろ戻るよ」
「もう帰るのか。じゃ、また今度にしよう」
安田さんの声は普通だった。杖を伸ばし、来た道を戻る。
*
部屋のドアを閉めて、ようやく息が戻った。
その日はもう何もしなかった。夕食を食べ、二人の話に頷き、布団に入る。昼間のことは、それきりだと思うことにした。疲れのほうが先に来て、眠りも早い。
午前二時。
衣擦れのような音で目が覚める。暗がりで服を着た。袖を通し、ボタンを留めた。空気に、嗅いだことのないにおいが混ざっていた。
鼻の奥がむずついて、くしゃみが出る。
その音に、別の音が重なった。
光が先に来た。それから風が来て、背中を押す。ガラスが割れ、体が窓の外へ出る。
夜の底で、火が枝を伸ばしていた。
*
七度目は、出口を探すことに使った。
団地の外周を、塀に沿って歩く。高さは背丈より少し上。継ぎ目のモルタルが剥がれたところに足をかければ、上まで登れた。塀の上に立つと、向こうにも道があり、電柱があり、バス停の標識が見える。そこへ飛び降りたはずだった。それなのに、次に足がついたのは塀のこちら側で、正門の鉄門には錠が下りたままだった。錠は錆びていない。鍵穴の中まで新しい。
三日目の夜に死んだ。どう死んだかは、もう数えていない。
八度目は、棟を数えた。
一号棟から十二号棟まで。給水塔の足元を通り、南の花園を抜け、東北の花園の手前まで行く。現役の集会所の前も通った。どの棟にも、扉の前に立つ人がいる。うちの棟だけの話ではなかった。四日かけて団地の地図を作り、その地図は頭の中にしか置けないと分かった。紙に書いたものは、次の回には存在しない。
九度目は、同じページを見に戻った。
絵本の四十八ページ。前の回には、そこに三行だけ文字が残っていた。今度は一行になっている。回が戻っても、文字は戻らない。ポスターの観客席も同じだ。人影の数は減り、残ったほうは前と違う座り方をしていた。膝を抱えている者がいる。意味を探しても何も出てこないので、探すのをやめた。
この回がもったのは一週間。最後まで、文字は戻らなかった。
十度目は、自分の足の向きを見た。
これまで一度も行っていない場所がある。七号棟の北。団地の東北の角。
行こうとすると、膝から下が重くなった。理由を探して過去をたどれば、こめかみの奥が痛む。失明した年も、その日のことも、輪郭にすら届かない。体のほうが、思い出すことを拒んでいる。
東北の花園の入口までは行けた。そこから先の小道は砂利で、その向こうに平らな橋がある。橋の下から、水の音がした。浅い池の底の石に当たる、低い音。
足が止まった。止まったところから先へは、この回も進まなかった。
*
十一度目の五時四十五分。
目は開いたが、体が椅子から滑り落ちた。床に膝をつく。額から落ちた汗が、板の上に点を作った。奥歯を噛んで、声が出るのをこらえる。肉の内側に細い竹の先が入って、神経を一本ずつ起こしていく。
痛みがあなたを離すまでに、六時の鈴が鳴るところまでかかった。
机の上の絵本を開く。四十八ページを探した。ページそのものが減っている。表紙から数えて四十八枚目はもう白紙で、その前後も白い。めくる。白。白。白。厚みだけが手に残る。
壁のポスターでは、観客席の人影が三つになっていた。
同じ時刻から始めても、元に戻るのは自分の体だけだ。
白いページを開いたまま、机に置いた。




