第二章 いつもの夜
三度目の五時四十五分は、椅子の背に体を預けたまま迎えた。
喉はもう痛まない。手のひらの汗も引いて、あなたの体はどこも無事だ。それでも指は震えていて、机の縁を掴むまでに二度すべった。
声に従ってみる。いちばん安い賭けだ。見えると言った回は、二回とも死んだ。
洗面所の鏡の前で顔を作った。焦点をどこにも合わせない。眉を動かさない。声をかけられたら、音のした方へ顔だけ向ける。十分ほどかけて、先週までの自分の顔に戻す。
壁の隅から白杖を取った。握りのゴムが手に馴染む。部屋の中の歩数は、もう数え直してある。
二人が帰る前に出る。それだけを決めて、玄関へ向かった。
廊下は暗い。三和土に立つと、居間の時計の音が背中に届いた。カチ、カチ、カチ。一つずつが、胸の内側を打ってくる。
ドアスコープに目を寄せる。
外の踊り場に、二人が立っていた。
母は買い物袋を提げていない。父はジャンパーの袖を破ったまま、腕を下げている。二人ともドアの正面を向いて動かない。帰ってきたところではなく、ずっとそこにいた人間の立ち方だ。
息を殺した。レンズの縁に睫毛が触れる。
父の顎が動いた。口が横に裂けて、歯が並ぶ。笑っている。
そのままレンズが黒く塞がった。向こう側から、目が一つ、覗き込んでいる。その真ん中が、あなたの高さにぴたりと合っていた。
喉が鳴りそうになるのを、舌で押さえた。ここで退がれば、見えていると教えることになる。
鍵を外す。ノブを回す。あなたはドアを開けた。
踊り場には父と母が立っている。さっきの位置のまま、顔の向きも変わっていない。
「ちょっと下まで行ってくる」
返事はなかった。白杖の先で床を二度叩き、二人の間を抜ける。杖が母のサンダルに当たった。当たった場所は確かめない。見えない人間は、そうする。
背中で衣擦れの音がした。二つ。足音は続かない。
階段の手すりに手をかける。三段目の継ぎ目が、指の腹に引っかかった。
背中に、掌が当たる。
体が前へ投げ出された。手すりが手から抜け、踊り場のコンクリートが視界いっぱいに来て、それきり何も映らなくなる。
*
五時四十五分。
今度は顔も作らずに立った。白杖を掴み、鈴が鳴る前に玄関へ行く。ドアスコープには目を寄せない。寄せなくても、レンズの向こうが暗いのは分かった。
鍵を外す音に、外の暗がりが応えた。まばたきの音を聞いた気がする。
ドアを開け、二人の間を抜け、手すりに手をかけた。腕時計の針は五時五十二分。前の回より十分ほど早い。
掌は、同じ場所に当たった。
*
玄関は使えない。
だとすれば下だ。三号棟は七階建てで、うちは六階。各階にベランダがある。真下の五階は川村さんの部屋だ。
「終わるのは二時です。帰るのはそのあとになります」
いつだったか、階段ですれ違ったときに、そう言われた。工場の遅いほうの番で、出るのは夕方だと。六時を過ぎれば、あの部屋は空になる。
押入れから、あなたはシーツと布団カバーを引き出した。裂いて、捻って、繋ぐ。窓際の金具に回して結ぶ。手を動かしながら、頭のほうは別のことを考えていた。見えないふりを続けたまま、どこまで行けるのか。
六時半、玄関が開いた。
包丁の音。換気扇。母の足音が台所とテーブルの間を往復する。
「今日は腹減ってないから、呼ばなくていい」
ドア越しにそう言った。
「分かった。置いとくから、あとで食べな」
母の声はいつもどおりだ。それを確かめてから、机に上がった。
窓枠をまたぐ。外の空気は部屋よりも冷たい。
足の裏を壁につけ、体重を布に預けて、一寸ずつ下りていく。日は落ちきって、空の端にだけ色が残っていた。団地の窓が、下の階から順に灯りはじめている。
十数メートルの高さにいる。怖くないと言えば嘘になる。それでも、体は軽かった。玄関を通らずに家から出ている、ただそれだけのことで。
五階のベランダの手すりが、爪先の下に見えてきた。あと一息だ。跨いで、掃き出し窓から入り、玄関から出ればいい。あの部屋には誰もいない。
視界の下の端で、何かが動く。
ベランダの奥から腕が出てきた。白い袖。指が布を掴む。
揺れた。壁を蹴って戻ろうとしたが、足が空を掻く。落ちていく途中、五階の手すりの向こうに顔が見えた。川村さんだ。眉も口も、動いていない。
砂利の色が下から上がってきて、それきり視界が塞がった。
……
五時四十五分。
机を叩いた。拳の下で、ペン立てが倒れる音がする。
「くそ」
口から出たのは、それだけだった。
*
六度目は、何もしないことにした。
部屋を出ない。ドアノブに触らない。窓も開けない。椅子に座ったまま六時の鈴を聞き、それから三十分待った。
玄関が開いたのは六時半。今度は、あなたは何にも触っていない。
その事実を、あなたはしばらく手の中で転がしていた。触れば早く来る。触らなければ、決まった時刻に来る。二人は、あなたがどこで手を伸ばしたかを知っている。
夕食は三人で食べた。父の前の椀には、この回も手がつかない。
「直人、明日は燃えるゴミだから」
「分かった」
「日曜、布団も干そうか」
「うん」
父が茶碗を置いた。
「ラジオ、まだ聞いてるのか」
「聞いてる」
「そうか」
会話はそこで終わった。箸を置いて、部屋に戻る。
机の抽斗からラジオを出す。母が昔、番組を録ってくれたカセットが入ったままだ。押すべきボタンの位置は、指が覚えている。
落語が流れはじめた。枕の部分で、客が笑う。テープの端が伸びているらしく、声がときどき低く垂れる。そこまで含めて、何十回も聞いた通りだった。
一席目が終わり、二席目に入る。布団の中で膝を抱えた。今日は誰にも見えると言っていない。玄関も窓も使わなかった。それで、まだ生きている。
三席目の途中で、意識が緩んだ。
……
目を開けると、カーテンの隙間が白かった。
ラジオは止まっている。テープは終わりまで回りきって、そこで停まったままだ。時計は六時四十分。朝の、六時四十分。
体を起こす。喉も背中も、痛むところがない。
シャツに腕を通した。左の袖口が内側に折れていたので、指で伸ばす。布の端が少し毛羽立っている。
ラジオのボタンを戻し、テープを頭まで巻いて、抽斗に入れた。抽斗を閉める。




