↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五時四十五分の黄昏  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/6

第二章 いつもの夜

 三度目の五時四十五分は、椅子の背に体を預けたまま迎えた。

 喉はもう痛まない。手のひらの汗も引いて、あなたの体はどこも無事だ。それでも指は震えていて、机の縁を掴むまでに二度すべった。

 声に従ってみる。いちばん安い賭けだ。見えると言った回は、二回とも死んだ。

 洗面所の鏡の前で顔を作った。焦点をどこにも合わせない。眉を動かさない。声をかけられたら、音のした方へ顔だけ向ける。十分ほどかけて、先週までの自分の顔に戻す。

 壁の隅から白杖を取った。握りのゴムが手に馴染む。部屋の中の歩数は、もう数え直してある。

 二人が帰る前に出る。それだけを決めて、玄関へ向かった。

 廊下は暗い。三和土に立つと、居間の時計の音が背中に届いた。カチ、カチ、カチ。一つずつが、胸の内側を打ってくる。

 ドアスコープに目を寄せる。

 外の踊り場に、二人が立っていた。

 母は買い物袋を提げていない。父はジャンパーの袖を破ったまま、腕を下げている。二人ともドアの正面を向いて動かない。帰ってきたところではなく、ずっとそこにいた人間の立ち方だ。

 息を殺した。レンズの縁に睫毛が触れる。

 父の顎が動いた。口が横に裂けて、歯が並ぶ。笑っている。

 そのままレンズが黒く塞がった。向こう側から、目が一つ、覗き込んでいる。その真ん中が、あなたの高さにぴたりと合っていた。

 喉が鳴りそうになるのを、舌で押さえた。ここで退がれば、見えていると教えることになる。

 鍵を外す。ノブを回す。あなたはドアを開けた。

 踊り場には父と母が立っている。さっきの位置のまま、顔の向きも変わっていない。

 「ちょっと下まで行ってくる」

 返事はなかった。白杖の先で床を二度叩き、二人の間を抜ける。杖が母のサンダルに当たった。当たった場所は確かめない。見えない人間は、そうする。

 背中で衣擦れの音がした。二つ。足音は続かない。

 階段の手すりに手をかける。三段目の継ぎ目が、指の腹に引っかかった。

 背中に、掌が当たる。

 体が前へ投げ出された。手すりが手から抜け、踊り場のコンクリートが視界いっぱいに来て、それきり何も映らなくなる。


    *


 五時四十五分。

 今度は顔も作らずに立った。白杖を掴み、鈴が鳴る前に玄関へ行く。ドアスコープには目を寄せない。寄せなくても、レンズの向こうが暗いのは分かった。

 鍵を外す音に、外の暗がりが応えた。まばたきの音を聞いた気がする。

 ドアを開け、二人の間を抜け、手すりに手をかけた。腕時計の針は五時五十二分。前の回より十分ほど早い。

 掌は、同じ場所に当たった。


    *


 玄関は使えない。

 だとすれば下だ。三号棟は七階建てで、うちは六階。各階にベランダがある。真下の五階は川村さんの部屋だ。

 「終わるのは二時です。帰るのはそのあとになります」

 いつだったか、階段ですれ違ったときに、そう言われた。工場の遅いほうの番で、出るのは夕方だと。六時を過ぎれば、あの部屋は空になる。

 押入れから、あなたはシーツと布団カバーを引き出した。裂いて、捻って、繋ぐ。窓際の金具に回して結ぶ。手を動かしながら、頭のほうは別のことを考えていた。見えないふりを続けたまま、どこまで行けるのか。

 六時半、玄関が開いた。

 包丁の音。換気扇。母の足音が台所とテーブルの間を往復する。

 「今日は腹減ってないから、呼ばなくていい」

 ドア越しにそう言った。

 「分かった。置いとくから、あとで食べな」

 母の声はいつもどおりだ。それを確かめてから、机に上がった。

 窓枠をまたぐ。外の空気は部屋よりも冷たい。

 足の裏を壁につけ、体重を布に預けて、一寸ずつ下りていく。日は落ちきって、空の端にだけ色が残っていた。団地の窓が、下の階から順に灯りはじめている。

 十数メートルの高さにいる。怖くないと言えば嘘になる。それでも、体は軽かった。玄関を通らずに家から出ている、ただそれだけのことで。

 五階のベランダの手すりが、爪先の下に見えてきた。あと一息だ。跨いで、掃き出し窓から入り、玄関から出ればいい。あの部屋には誰もいない。

 視界の下の端で、何かが動く。

 ベランダの奥から腕が出てきた。白い袖。指が布を掴む。

 揺れた。壁を蹴って戻ろうとしたが、足が空を掻く。落ちていく途中、五階の手すりの向こうに顔が見えた。川村さんだ。眉も口も、動いていない。

 砂利の色が下から上がってきて、それきり視界が塞がった。

 ……

 五時四十五分。

 机を叩いた。拳の下で、ペン立てが倒れる音がする。

 「くそ」

 口から出たのは、それだけだった。


    *


 六度目は、何もしないことにした。

 部屋を出ない。ドアノブに触らない。窓も開けない。椅子に座ったまま六時の鈴を聞き、それから三十分待った。

 玄関が開いたのは六時半。今度は、あなたは何にも触っていない。

 その事実を、あなたはしばらく手の中で転がしていた。触れば早く来る。触らなければ、決まった時刻に来る。二人は、あなたがどこで手を伸ばしたかを知っている。

 夕食は三人で食べた。父の前の椀には、この回も手がつかない。

 「直人、明日は燃えるゴミだから」

 「分かった」

 「日曜、布団も干そうか」

 「うん」

 父が茶碗を置いた。

 「ラジオ、まだ聞いてるのか」

 「聞いてる」

 「そうか」

 会話はそこで終わった。箸を置いて、部屋に戻る。

 机の抽斗からラジオを出す。母が昔、番組を録ってくれたカセットが入ったままだ。押すべきボタンの位置は、指が覚えている。

 落語が流れはじめた。枕の部分で、客が笑う。テープの端が伸びているらしく、声がときどき低く垂れる。そこまで含めて、何十回も聞いた通りだった。

 一席目が終わり、二席目に入る。布団の中で膝を抱えた。今日は誰にも見えると言っていない。玄関も窓も使わなかった。それで、まだ生きている。

 三席目の途中で、意識が緩んだ。

 ……

 目を開けると、カーテンの隙間が白かった。

 ラジオは止まっている。テープは終わりまで回りきって、そこで停まったままだ。時計は六時四十分。朝の、六時四十分。

 体を起こす。喉も背中も、痛むところがない。

 シャツに腕を通した。左の袖口が内側に折れていたので、指で伸ばす。布の端が少し毛羽立っている。

 ラジオのボタンを戻し、テープを頭まで巻いて、抽斗に入れた。抽斗を閉める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。