第一章 見えると言った日
まぶたの裏を、細い線が横に走った。線は広がって輪郭になり、橙の色を連れてくる。窓枠。カーテンの折り目。壁の、四角いもの。
見えている。
椅子から腰を浮かせた拍子に、膝が机の裏板にぶつかった。痛みより先に、壁の一枚が目に入る。バスケットボールの選手が片手でボールを持ち上げている、日に灼けたポスター。指で位置だけ覚えていた紙が、いま形を持っていた。
机の上には背表紙が高さを揃えて並び、枕元の花瓶にカーネーションが一本。母が昨日替えたものだ。指で数えるまでもない。色というものが、こんなに一つずつ違うとは知らなかった。
壁紙の継ぎ目。天井の隅の染み。窓ガラスの下のほうに残った、拭き残しの筋。目に入るものを片端から、そのまま持って帰りたい。
頭の奥で、声がした。
――見えると、あいつらに言うな。
部屋には誰もいない。自分の呼吸の音しかしない。長く暗いところにいた人間が、光を浴びてそのまま正気でいられるわけもない。そう片づけて、あなたはもう一度壁を見た。
目覚まし時計の文字盤が読める。針は五時四十五分を指していた。
窓の外は黄昏だ。棟の屋根の向こうに赤い帯が横たわり、その下に灰色の建物が並んでいる。下りていこう、と思う。道を歩く人の顔を見たかった。
部屋の隅に白杖が立てかけてある。黒いゴムの握り、擦り切れて白く毛羽立ったところまで見えた。手を伸ばしかけて、やめる。今日くらいは、あれなしで歩いてみたい。
*
六時の鈴が鳴った。
玄関でドアノブに手をかけたところで、外から先に開いた。
「直人」
母が買い物袋を提げて立っている。その後ろから、父が肩で入ってくる。二人とも、いつもより早い。
「見えるんだ」
言ってしまってから、頭の奥の声を思い出した。袋が床に置かれる音がする。
「見えるって、どこまで」
「時計の針が動いてるのが分かる。母さん、髪短くしたよね」
母の手が自分の襟足へ上がった。父はまだ三和土に立っている。
「直人、見えるのか。そこからでも?」
「見える。父さんのジャンパー、袖のところ破れてる」
父が袖を見た。それから、靴を脱いだ。
その晩の食卓には、この家で出たことのないものが並んだ。揚げ物。煮物。買ってきた刺身のパック。あなたは何年ぶんかの話をした。廊下の電球が切れかけて点滅すること、階段の手すりの三段目に継ぎ目があること、安田さんのラジオが廊下まで聞こえること。普段なら口に出さずに済ませることまで、次々に喋った。
二人は頷いて聞いていた。母が父に大皿を渡しながら言う。
「そこにお願い。座ったまま手が届くところに」
父は言われた場所に置いた。それだけで、その話は終わった。
父の前の椀には、手がついていない。汁の面が最初のままで、湯気もとうに消えている。あなたは箸を止めかけて、結局は別の話をした。
流しの水切りかごで、茶こしが斜めに引っかかっている。網目の細かさまで見えた。
布団に入ってからも、天井の木目を数えていた。眠りに落ちるまで、顔は笑ったままだったと思う。
意識が沈む。長かったのか短かったのか、それも分からない。
目を開けると、机の前の椅子に座っていた。橙の光が机の縁を切っている。
頭の奥で、声。
――見えると、あいつらに言うな。
時計は、五時四十五分。
*
「誰だ」
声に出して訊いた。部屋の空気は動かない。
「さっきも言っただろ。あんた、誰だ」
返事はない。頭の奥は、もう何も鳴らなかった。
壁のポスターを見上げる。選手はボールを両手で抱えていた。さっきは片手だ。片手で持ち上げて、体を捻っていた。背景の観客席も、座り方がどこか違う。
机の本を開いた。行はある。文字の形が崩れて、同じ字が二つ三つ続き、そのあとが白い。めくる。白。また白。十数枚めくってから、ようやく崩れた行が戻ってきた。
窓は閉めてある。それなのに、首筋を冷たいものが撫でていった。カーテンは揺れていない。あなたは襟を立てた。
六時。鈴が鳴る。
今度は玄関へ行かなかった。椅子に座ったまま、秒針の動きを追う。十分が過ぎ、十五分が過ぎる。前の回なら、この時刻にはもう二人は台所にいた。包丁の音もしない。水の音もしない。
立ち上がって、ドアノブへ手を伸ばした。金属が指に触れる。
その手が回しきる前に、外から開いた。
「直人」
母が買い物袋を提げている。後ろに父。時刻は六時二十分を回っていた。それなのに、袋の膨らみは前と同じで、母の髪の乱れ方まで同じだ。
「見えるんだ」
もう一度言った。今度は、言ったあとの二人を見るために言った。
「見えるって、どこまで」
母の声は、前と同じところで区切られた。父が肩で入ってくる。靴を脱ぐ順番も変わらない。
「時計の針が動いてるのが分かる」
あなたは前と同じ答えを返しながら、母の目を見ていた。瞳は動いている。まばたきもする。ただ、あなたが黙っても、母は待たなかった。次の言葉が、決まった間合いで出てくる。
*
夕食は同じだった。揚げ物、煮物、刺身のパック。父の前の椀には、この回も手がつかない。あなたはほとんど喋らず、二人の手元を見ていた。
「直人、食べないのか」
「食べてる」
「冷めるぞ」
父は自分の茶碗に箸を伸ばし、途中で止め、また戻した。その動きが、皿の上を一往復しただけで終わる。
布団に入っても、目は閉じなかった。
団地の外の道を、車が通る。二時間ほど、それを数えていた。窓の外が青黒くなり、向かいの棟の窓がひとつずつ消えていく。最後の一つが消えたあとも、天井を見ていた。
廊下の床が鳴った。
ドアが開く。廊下の明かりを背負って、黒い形が入ってくる。背丈は父にも母にも見えた。
喉に手がかかる。息の通り道が塞がり、爪先が布団を蹴った。天井の木目が遠ざかって、黒がそれを飲んだ。
……
椅子の上で、あなたは肩を跳ね上げた。両手が喉へ行く。押さえて、指を這わせる。皮膚しかない。爪の跡もない。腫れてもいない。
息が整わないまま、机の縁を掴んだ。手のひらは汗で滑る。それも、さっきまでの体にあったものではない。
――見えると、あいつらに言うな。
文字盤の針は、五時四十五分を指している。




