第六章 引き出しのラジオ
喉が渇いている。舌が上顎に貼りついて、離れない。
目の上に重さがあった。布だ。押してくるのではなく、ただ載っている重さ。その下で、瞼が動くぶんの隙間がある。
指を動かしてみる。動いた。シーツの目が指の腹を擦る。僕は右手を上げて、顔の前まで持っていった。
「三浦さん、声は聞こえますか。返事はうなずくだけで大丈夫ですよ」
うなずいた。それだけで喉がひりついた。
「三浦さん、手術は終わりました。今は病室です」
別の声が、もう少し遠くから言った。男とも女ともつかない、落ち着いた言い方だった。
「起きる前に呼んでください。ここにボタンがあります」
手を取られて、コードの先の丸いものに触れさせられた。親指で押せる位置にある。それを確かめてから、手を下ろした。
時間が経っていく。何日かは、あとで教えてもらった。
診察室で、目のガーゼとテープを外された。糊のついた端が、皮膚を少しだけ引く。看護師がそれを丸めて、受け皿に落とした。
明るさが来る。輪郭より先に、明るさだけが。
「今、どのあたりまで見分けられますか」
「窓。カーテンの色。……先生の白衣のボタンは、数までは分かりません」
「無理に合わせなくて大丈夫です。視力がどこまで戻るかは、経過を見て判断します」
医師はそれ以上のことを言わなかった。僕も訊かなかった。訊きたいことは別にあって、それはこの人の仕事の範囲ではない。
病室に戻った。ベッドの向かいの壁に、丸い時計がかかっている。文字盤の数字が読める。長針と短針の角度も分かる。
五時四十五分。
しばらく、それを見ていた。何も起きない。廊下でワゴンの車輪が鳴り、隣の部屋のテレビが音量を上げ、誰かが笑った。夕食の盆が運ばれてくる時間だ。
僕は目を逸らして、枕の位置を直した。
*
退院の許可が出た日、病院の前からタクシーに乗った。汐枝市の外れにある共同墓地まで、乗り継ぐより早い。
座席のカバーは白いレース地で、指を這わせると織りの目が粗かった。爪の先が、糸の一本ずつに引っかかる。
白杖は膝の上に置いてある。見えるようになっても、歩く道の全部が分かるわけではない。段差の高さは、まだ目より杖のほうが確かだ。
着くまでに一時間以上かかった。山のほうへ入って、ひとつ峠を越える。窓の外を、知らない町が流れていった。
墓地は斜面に段を作って並んでいる。教えられた区画の番号を数えながら上がった。
二つの名前が、同じ石に彫ってあった。父の日付と、母の日付。間は一年と少し。
草を抜いて、桶の水をかける。それから、しばらく立っていた。
何も言わなかった。言おうとした言葉は、どれも途中で形を失う。謝るにしても、礼を言うにしても、こちらの都合で済ませる言い方しか出てこない。石は返事をしない。返事がないぶんだけ、何を言っても軽くなる。
風が来て、線香の煙が横に流れた。それを見ている。
帰りのタクシーで、運転手が今年の残暑の話をした。僕は相槌を打った。
*
凪見団地の正門は開いていた。
鉄の扉は片側だけ壁に寄せてある。蝶番のところに蜘蛛の巣が張っていて、錠はどこにも下りていない。人が出て、人が入る。自転車が横を抜けていった。
三号棟の階段を上がる。五階の踊り場で、川村さんとすれ違った。
「三浦さん。退院されたんですね」
「はい。先週です」
「これから出るところで。……またそのうち」
彼女は下りていった。その足音が下の階に消えるまで、僕は手すりに手を置いて立っていた。扉の前には、誰も立っていない。
鍵を回す。
家の中は暗く、空気が動いていなかった。玄関に父の靴はない。流しの水切りかごは空だ。
廊下を歩いて、自分の部屋のドアを開けた。
西の窓から、黄昏の光が入っている。床に長い四角を作って、その中で埃が上がったり下りたりしていた。
壁のポスター。
選手は片手でボールを持ち上げている。右手。左の腕はこちらに伸びて、体が斜めになっている。紙は黄ばみ、縦に三本、テープの跡が走っていた。裏からも当ててあるらしく、表の継ぎ目が少しずれている。破れた端を一枚ずつ合わせてある。角の合っていないところもあった。
指で触れた。テープはもう乾いていて、爪を立てると端が浮く。
机の上に絵本が並んでいた。全巻ある。背が少し反って、小口が波打っている。何度も開かれた本の形だ。一冊取って開くと、紙は白くなかった。文字がある。行が最後まで続いている。埃を吹いて表紙を見ると、そこだけは新しかった。汚さないようにしていた手つきが、紙の上に残っている。
枕元の花瓶。
カーネーションが一本、挿したままになっていた。茎が茶色く、花びらは縁から丸まっている。水は乾いて、瓶の内側に線が一本残っていた。
替える人がいなくなってから、そのままだ。
手を伸ばして、やめた。
*
机の前に座る。椅子の高さは、最後に座ったときのままだった。
抽斗を引く。
ラジオが入っていた。電池の蓋が少し浮いていて、押すと収まる。カセットも入ったままだ。ラベルに母の字で、番組の名前と日付が書いてある。日付は、僕が病院に入る前の年のもの。
テープは、頭まで巻き戻してあった。
ボタンの位置は指が覚えている。押した。
間があって、スピーカーが鳴りはじめた。砂を擦る音。その奥から、声が出てくる。
「……ええ、お運びで、ありがとうございます」
客席が少しざわついて、それから静かになった。テープの伸びたところで、声が低く垂れる。何十回も聞いた通りだ。
窓の外の光が、机の縁まで下りてきている。
僕は音量のつまみに指をかけて、少しだけ右へ回した。
(了)




