第六話 寄り添う
ぐう、と鳴った――生田の身体は、その大半が一日三食の妻の愛情でできている。それを突然奪われ、腹は悲しげに鳴いた。腹をなだめようと、天井から時おり滴る水を溜めたもので口を湿らせた。
ああ、おかしいな。妻の作ったハンバーグを食べるつもりでいたのに――なのに今は、岩肌を伝った得体の知れない水をありがたがって啜っている……もう、こんな時間か。食べ損ねてしまった――そもそも、妻は夕飯を作ったのだろうか。
生田は、この日最後に受け取った妻の愛情を思い出した。
オムライス、ミートボール、ブロッコリーにプチトマト。名前も知らない冷凍食品が入っていた。初めて見るやつだった――ミートボールにはパンダのピックが刺さっていた。恥ずかしいからやめてほしい、爪楊枝でいいからと言っているのに。だが、毎日早起きして作ってもらっている身としては、まあ、あまり強くは言えない。
暖かい記憶と冷たい現実の落差に、胃のあたりへ不快な熱が溜まった。人差し指の関節に歯を立ててみる。闇の中でそれは、ゴムのような肉に感じられ、塩気が舌先に滲にじんだ気がした。
ぐう、とまた鳴った――だが、生田はもう、なだめようとはしなかった。鳴かせたいままに鳴かせることにした。現実を忘れてしまおうと体を丸くする。
次に目が覚めるなら助かったときがいい――そう思っていたのに。
「生田さん、大丈夫ですか?」
志島は変わらず、向かいの壁から生田を見守り続けていた。生田が体を丸くしたのが気になり声をかけた。
「……なにが?」
返ってきた声色の冷たさに志島は唇を結んだ。志島は生田という人間を少しずつ分かり始めていた。もしも生田が苦痛に身を固くしているのだとしたら――ここで引いてはいけない。自分にできることなんて、たかが知れてるが。
「具合が悪いのかと思いまして……いえ、こんな状況でいいわけがないのは分かっているのですが」
そう言いながら、志島はスマートフォンのライトをつけた。何も見えないのは不安だろう――彼の気遣いだった。光が生田の目に障らないよう細心の注意を払っていた。
生田から志島の顔が見えた――志島が俺を見ている。眉をひそめて不安げだ。それが俺の有様なんだ。どうして現実に引き戻すんだ。
――もう、やめてくれよ。
「分かっている……? 痛くて寒くて、腹減ってんのがお前に分かんのかよ?」
「……分かりません」
「……もういい、消してくれ」
生田は志島に背を向けた。
「はい……すみません」
志島は少し声を落としてそう言い、明かりを消した。
「それでも、何かあれば声をかけてください」
そう付け加えると、志島は気配ごと闇に溶け込んだ。
生田は見えるはずもない岩壁をぼんやり見ていた。
……まただ。またやってしまった。
志島にしてしまったことも、してもらったことも忘れてなんかいない。ただ、自分を制御し、まともに応える余裕がなく、胸に積もっていくばかりだ。
もう、すべて忘れてしまおう――生田は目を固くつぶった。
……何も聞こえない。本当に一人になってしまった。
「もっと、素直になればいいのにね」
聞こえるはずのない妻の声が脳裏によみがえった。
妻と言い合いになったことがある。原因は忘れるほどにくだらないことだったが、自分に非があったのを覚えている。妻が口を聞いてくれなくなり、気まずさに痺れを切らして先に折れた――。
「おい、悪かったよ」
「……ほんとに悪いと思ってる?」
「……思ってるよ」
「じゃあ、何が悪かったのか言ってみなさいよ!」
「いや……」
「ほらね」
「でも、悪いとは思ってんだよ」
「ほんと、そういうところ」
どこかで水滴が落ち、生田の回顧はそこで途切れた。
志島は、それでもまだ俺を見てくれているのだろうか――。
今、俺がしようとしていることは、突き放しておきながら虫がよすぎる。でも、志島には世話になりっぱなしだ。俺はそこまで恩知らずな人間じゃない。
生田は小さく息を吸った。
「……さむいな。はらもへったし」
きっかけをつかもうと、独り言を吐いた。
志島がかすかに身じろぐ音がした。
「その……カリカリしちまって」
「……いえ。この状況では仕方がありません」
志島の声色は優し気に聞こえた。だが、その感情までは分からない。
「寒い、ですか……」
「あ、ああ」
志島は寒さについて、生田は次の言葉について、それぞれ思案した。
「……もう少しどうにかできるかもしれません」
背中越しに、志島が近づいてくる音がした。
「鬱陶しいかもしれませんが、もうこれぐらいしか思いつかなくて」
志島のその言葉に、なにが起こるのかと生田は身構えた。
「失礼します」
志島がそう言ったあと、生田は背中に沸いた熱のせいで目を閉じることができなかった。
「嫌ですか?」
耳元で志島がささやく。人の声とは違う余韻が残る。
「……いや」
生田は背中に冷たい風を感じてハッとした。
「あ、いやっていうのは、そういうのじゃ……」
また、熱が背中に沸いた。
「嫌ではない、ということでいいでしょうか」
生田は返事をせず、背を向けたままだった。
それでも、志島には何となく分かっていた。本当に嫌なら、彼は少なからずそう示すはずだと。




