第98話 終点
「来ましたわ、会長!」
「あの方が……!」
観客席の一角。
アレン・ハルトシュタイン応援一団。
クラリスは、隣の少女と手をぐっと握りあう。
「ええ、見えていますわ。
やっぱり最後は——アレンさんになりますのね」
「で、でも!」
ざわ、と波が立つ。
「み、皆さま……お静かに」
クラリスが低く告げる。
「声ではなく——想いですわ」
合図が一つ。
小さな布袋が、同時に開かれる。
中から覗く、砕けた陶片。
「さあ——」
「心で、応援いたしますわ」
それぞれが、ぎゅっと握りしめる。
声は出ない。顔だけが、強張る。
周囲の観客が、ひそひそと囁く。
「おい、なんだあれ」
「こわい……」
◇
——もう、仲間は誰も残っていない。
でも。
目の前には、必死の形相の兵士が近づく。
後方に、男が一人だけ。
今なら——
ふいに、アレンは背を向ける。
自陣の旗へと走る。
「え?」
どこからか、間の抜けた声。
それでも、手を伸ばす。
——重い。
指が、閉じない。
それでも、掴む。
——ここから、獲りに行く。
重さが、腕に乗った。
横へ体を切る。ばさりと布が揺れる。
観客席が、次第にざわつく。
「自分で、旗を、持った……?」
「ありなのか……」
審判たちが視線を交わす。
「……禁止、ではない!」
顔を、前に向ける。
ぬかるみを踏む。
足が沈み、土が跳ねる。
「サイドからだ!」
副団長の声が上ずる。
「止めろ!」
だが、軍の影が次々と滑る。
掴みかけた腕は、空を切る。
追いすがる足が、乱れる。
「……踏めてる?」
誰かが漏らした声。
泥が跳ねる中——
アレンの足だけが、沈まない場所を選んでいる。
「団長……!」
後方へ飛ぶ声。
ちぇ、だらしねえ。
ガライアスは横を抜けていく、小さな背中を見た。
「結局、自分で取りに行くとはな」
だが、口元はわずかに緩む。
いいぜ、つきあってやる。
——次の瞬間、そこにはもう、いなかった。
◇
やめろ、やめろ、やめろ……。
オルフェンは、指先で肘掛けを握りしめていた。
「おおっ、また抜けた!」
「ぬかるみを飛び越えたぞ!」
観客席が沸く度に、逆向きの声が出る。
「その、醜いものを、これ以上見せるな」
荒々しい点火。
叩きつけるように打ち込まれる点。
——ズレてる。
輝きが、少しずつ擦れていく。
いびつにゆがんでいく。
「これは魔法ではない」
呟きが漏れる。
隣で見ていたローガンが、ちらりと横顔を伺う。
「どうしました、オルフェン先生」
隣の声にも、目を向けない。
胸のあたりを押さえ、呼吸を押し殺す。
——美しさが、壊れていく。
「……それを、ただ見ていろと言うのか」
ローガンは何も言えず、ただその横顔を見ていた。
◇
ぬかるみを蹴って走るアレン。
その足を、ガライアスは一定の距離で追う。
踏み込む。
着地で、わずかに膝が沈む。
一歩。
肩が上下する。
呼吸が浅くなる。
二歩。
わずかに、間が遅れる。
三歩。
目を細める。
——あと三度だ。
重心のズレ。息の詰まり方。
経験でわかる。
これが続けば、どこか壊れる。
ガライアスが、前へ踏み出す。
一瞬で詰め、腕を伸ばす。
ふっと、アレンの体が横へ抜けた。
ガライアスの腕がかすめ、空を切る。
観客席が、どよめいた。
「かわした! 団長をかわしたぞ!」
口の端をわずかに上げる。
「ちっ……速えな」
——素直に、捕まっとけ。
◇
オルフェンは、黙り込んでいた。
捕まえられそうになる度、アレンは一歩、抜け出す。
「まだ、行くぞ!」
「団長でも捕まえられないのか!」
観客席はさらに盛り上がる。
「早く……終わらせろ」
ローガンが、横目で不思議そうに見る。
——あと二回だ。
ガライアス。
お前も気づいているのだろう?
◇
ガライアスの目の色が変わる。
「もう、遊んでられねえ」
誰にも聞こえない声で呟く。
——しょうがない。
肩を落とし、重心を深く沈める。
タックル姿勢。
——詰める。
先ほどよりもさらに速く、アレンの真後ろへ。
肩がかすり、アレンの体勢がわずかに崩れる。
それでも、旗へ向かう。
観客席が、悲鳴とも歓声ともつかない声を上げる。
「まただ!」
「団長のタックルを、二度も——!」
ガライアスは、心の中で笑った。
おいおい、マジかよ。
「一歩が——強すぎるだろうが」
一瞬、踏み込みを見送る。
「なるほど。
これで旗戦を勝ち上がってきた、ってわけか」
だが——
もう、追い詰めてる。
目の前の、小さな背中を見つめる。
——あいつの限界まで。
◇
旗は——すぐ、そこだ。
アレンの視界が揺れていた。
それでも、前へ。無理やり沈む足を通す。
呼吸が揺れる——
膝の力が抜けかける——
「——おい」
思わず声が出る。
ガライアスがすぐ踏み込む。
同じ瞬間——
「するな」
オルフェンの低い声。
観客席のあちこちで、誰かが息を飲む。
「アレンさん……!」
クラリスは陶片を握りしめ、立ち上がる。
——止まらない。
風が、突き抜ける。
手が届く距離。旗が揺れる。
ガライアスが、猛然と追う。
——来た。
——壊れた。
——獲った。
——届いた。
それが誰の声なのか。
どこから響いたのか。
ひとつに溶けて、空に消えた。




